「遠距離恋愛」

 

 

「しばらくはこのケーキともお別れね」

テイクアウトした「Audrey」のケーキをフランソワーズは悲しげに見つめた。

「次の公演はウィーンだったよね」
「ええ。それに備えて来週からレッスンに入るわ」
「と、いう事は・・・今週末から向こうに帰るということか」
「そうね」

シーズンオフの今は、レースがあるから自分もそちらへ行くという口実は使えない。

しばし無言でケーキを食べる。

「――演目は何だった?」
「『ジゼル』よ」
「『ジゼル』かぁ・・・。前に観た君のジゼルは可愛かったな」
「可愛いだけじゃダメなのよ。その中に哀しさと強さがないと」
「・・・なるほど」
「ただの純愛という話じゃないから、難しいわ」
「フタマタをかけられてたと知って、悲しみのあまり死んでしまう・・・んだったっけ」
「ええ。そうよ」

ちらり。と蒼い瞳がジョーを見つめる。

「アナタは大丈夫?」
「僕?」
「ええ。――私が死んでからじゃ遅いのよ?」
「それって僕がフタマタかけてるってこと?」
「かもしれない、って事よ」
「信用ないなぁ。僕が君以外のひとを見るわけないじゃないか」

にっこり笑ってフランソワーズを見つめる。

「いつでもそうだ、って知ってるだろう?」

けれども、目の前にいるフランソワーズの表情は晴れない。
先刻から、どこか思いつめたようにただケーキを見つめている。
そのケーキも、彼女が好きな種類なのに、少しつついただけで手が止まっている。
いつもは、あっという間に食べてしまって、ジョーの分もねだるのに。

「・・・あれ?フランソワーズ、返事は?」
「・・・・・・・そうね」
「んっ?何か変だな。――どうかした?」
「ううん、どうもしないわ。・・・美味しいわね、ケーキ」
「フランソワーズ」

思い出したようにとってつけた空元気と共にケーキを口に運ぶフランソワーズにジョーは眉を寄せた。
フォークを置いて、じっとフランソワーズを見つめる。

「一体、どうしたんだ?」

ジョーの心配そうな声にも答えず、フランソワーズはただ黙って首を横に振った。

「ごめんなさい。・・・なんでもないの」
「でも」
「――大丈夫よ。信じてるから」

そう言って、そっと伸ばされたフランソワーズの手。細くて白い指がジョーの指と重なる――寸前、ジョーは彼女の手を避けるように手を引いた。

「フランソワーズ。いったい、何を我慢してる?」
「我慢なんかしてないわ」
「嘘だ。僕にはわかる。その顔は何か隠してる」
「・・・・・」

所在なげに両手を握り合わせ、フランソワーズは手元に視線を落としたまま無言だった。

「フランソワーズ。答えて」
「・・・・・」

ジョーと視線を合わせようとしない。

「フランソワーズ」

それでも何も言わない彼女に小さく息をつくと、ジョーはゆっくりと背もたれによりかかった。

「バカだなぁ。――寂しいのは僕も一緒だよ」
「――えっ?」

びっくりして丸くなった蒼い瞳に苦笑する。

「そんなに驚かなくてもいいじゃないか。僕もそうだっていうの、変?」
「・・・だって」
あなたはいつも何も言わないじゃない。

「――うん。・・・シーズンオフだからさ。レースにかこつけて会いに行く――っていうのができないから」

レースという口実がないと会いに行けないわけではなかったが、それを言うと歯止めがきかなくなりそうだからやめた。

「どうしようかなぁって考えてる」
「・・・考えなくてはいけないことなの?」
「えっ?」
「そんなの、・・・」

自分に会いに来るのに口実がないとダメなんだと知らされるのは辛かった。

「――違うよ、フランソワーズ。・・・またそんな顔して。勝手に勘違いしないでくれよ」
「えっ、私何も言ってないわ」
「顔を見ればわかるって言ったろ?」

またそんな都合のいいことばかり言って、というフランソワーズには取り合わず、ジョーは続けた。

「もし、一緒に行ったら、君の邪魔をしてしまうのがわかっているから、ね」
「一緒に、って・・・」

呆然としているフランソワーズに笑みを浮かべたまま続ける。

「だって困るだろう?一日中君を抱き締めてレッスンにも行かせなかったら」
「・・・それは」
困る。

「それに、レースがないから、僕は一日中君を抱き締めていることができる。何にも邪魔するものがない。――危険だろう?」
「危険、って・・・」
「だから、――我慢するさ。公演の日まで」
会えなくても。

それっきり黙ってしまったジョー。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、じっとフランソワーズを見つめている。

「・・・そうね。電話もメールもあるし。元々、こうして一緒に居るほうが珍しいんだし。きっとすぐ慣れるわ――」
――あなたがいなくても。

またお互いがいない日常が返ってくるだけだ。
それだけのことだった。
何度も繰り返している日々。
パリと日本に離れて。たまに会って。でもすぐ別れて。その繰り返し。

そう、今は一緒に居過ぎてしまったから、離れるのが寂しく思えるだけで――いつものように離れてしまえば、それはそれで何とかやっていけるだろう。
今までもそうしてきたのだから。

「――すぐ慣れる?」

ジョーの微笑みが消える。

「すぐ慣れる、だって?」
「ええ。だって、今までだってそうしてきたんだし、きっと・・・」
「――本当にそう思ってるのか」
「えっ?」
「――君はすぐ慣れるんだね。・・・僕がいなくても」
「そんなこと言ってな」
言ってない。と最後まで言う前にジョーの言葉が追いかける。

「僕がどんなに我慢しているか、全然わかってないんだ」
「そんなことないわ。私だって我慢してるのよ?」
「ふん。怪しいもんだな」

自分が止めたら、彼女の夢を邪魔することになってしまう。だから、いつも「行くな」の3文字を飲み込んできた。代わりに「またね」と言って。

「ジョー。私があなたに会いたいと思わないわけないじゃない」
「僕がいなくても、すぐ慣れるんだろ」
「――ひどいわ」

「そばにいて」と言う言葉をいつも我慢している。それを言ってしまったら、ジョーは自分のそばから離れることができなくなってしまうから。だから、いつも笑顔で何も言わずにその背中を見送っている。F1レーサーであることは、彼の大事な夢だったから。

「ひどいのは君のほうだ」
「あなたじゃない」

じっと見つめ合う顔と顔。
蒼い瞳と褐色の瞳。

お互いに、何をどう我慢しているのかなど伝えたことはなかったし、これからも言う気はない。
だから、黙り込む。

「――ごめん」

先に折れたのはジョーだった。

「ケンカするつもりじゃなかった。ただ僕は――」

フランソワーズを見つめ、手元を見つめ。そうしてもう一度フランソワーズを見つめて。

「――慣れないから。何度やっても」