「おやすみのキス・その2」
「――オヤスミ」 それがなんだか悔しくて、私は心を引き締め動揺を押さえ込んだ。 いつも指で触れてわかっているつもりだったのに、その感覚の違いに僕は動揺していた。 ――でも。 やっぱり僕は間違った。 「ジョー。離して」 小さく訴えてみる。だってジョーは、私の顎に手をかけたまま外そうとしない。 「――ああ、ゴメン」 でも、あっさり離してくれる彼が少し憎らしい。 もうちょっと名残惜しそうにしてもいいんじゃない? 今は、急なことで驚いているけれど、いつ唇にちゃんとした「恋人のキス」をくれるのか待っているのに。 行き場を失ったジョーの手は、肩の上の私の髪をもてあそんでいる。 離せと言われるまで、自分が彼女の顔を上向けたままだったことを忘れていた。 蒼い瞳が美しいきみ。 その蒼に呑み込まれそうだった。 慌てて離したものの、そのまま離れてしまうのは耐えられないので彼女の髪を指に巻いた。 いつもは「オヤスミのキス」をしたら彼女が部屋へ入るのを見届けて、自分も帰る。 だけど今日は何故か離れがたかった。いつもと同じ夜なのに。 「・・・フランソワーズ。その、・・・」 まっすぐに見つめられてジョーは言葉が続かなかった。 「ジョー?どうかしたの?」 ちょっと背伸びして、フランソワーズもジョーのしたのと同じように彼の頬にキスを送る。 「じゃ・・・また今度、ね?」 今にもアパルトマンへの扉を開いて行ってしまいそうな様子にジョーは心を決めた。 「・・・フランソワーズ!」 彼女の腕を掴んで引き寄せ、そうして――唇を重ねていた。 ジョーの脳裏に最前までのふたりの会話がリピートされる。 『じゃあね、ジョー。次は・・・三ヶ月後になるかしら』 三ヶ月だって?そんなの、耐えられるわけがない! 『僕もミーティングや今季のレギュレーションを見ないといけないから、そのくらいかな?』 少し俯いた彼女の声に、残念そうな響きがあったように思うのは僕の願望だろうか? いつもこんな会話の繰り返しだった。 『オフっていっても、バケーションじゃないからね。色々あるさ』 オフなんだから、もうちょっと会う時間を作ってくれてもいいのにと思うのは贅沢なの? 『私も次の公演に向けてのレッスンが始まるから、忙しくなるわ』 嘘よ。あなたが忙しいって言うから、真似してみただけ。 『お互い忙しいな』 素直に、もっと一緒にいたいって言ってしまえばいいのかしら。 ずうっとそばにいてほしいなんて、言ってはいけない。 「――フランソワーズ」 ジョーが唇を離し、低く掠れた声で彼女の名を呼んだ。 「・・・ジョー?」 訝しげに見上げると、ジョーはフランソワーズの上唇、下唇、唇の右側、左側・・・とついばむようなキスを重ねた。 「ジョー?どうし・・・」 辛そうに微笑んだ褐色の瞳が閉じられて、そして再び唇が重なった。 「――ジョー?」 「黙って」 初めての「恋人同士のキス」は、パリの――アパルトマンの前だった。
そう言って頬にキスされた時は、びっくりした。
だって、今まで「オヤスミのキス」はおでこだったのに。
「ん?どうかした?」
私の顎に手をかけたまま、優しく見つめ返す褐色の瞳。
――慣れてるのかな。こういうの。
だって、全くいつもの通りのすました顔の009。
私だけが、彼の一挙手一投足にどぎまぎしている。今だってきっと、顔が赤いだろう。
私だって、こんなのどうってことないわ。慣れてるんだから――
指で触れるのより柔らかく感じた。甘い香りと温かな肌。唇に感じた頬の弾力は想像以上だった。
だから僕は、頬にキスするだけに止めるなどという拷問を自らに課したことを後悔した。
いつも「オヤスミのキス」は額だった。額の次は、唇で良かったのに。
普段、再会して挨拶がわりに軽く唇を触れ合わせることは多い。
これは、彼女の国では当たり前であり、海外遠征の多い僕も慣れている。
だから、どうってことなかった。
だって本当はイヤじゃないのよ私。
それがおやすみのキスでもいい――と、思っているのに。
指先にくるくる巻きつけたり、解いたり。
なんだか落ち着きがない彼は初めてみるひとみたいだった。
このくらい近くにいると安心する。
今日だって当然そのつもりだった。
「なあに?ジョー」
蒼い瞳に見据えられ、動けない。
「・・・いや」
「――オヤスミナサイ」
『そうだね』
『・・・忙しいのね』
でも、――本当は繰り返したくなどなかった。
フランソワーズの目尻に涙が滲んだ。その瞼の裏に映るふたりの姿。
『・・・そう』
『そうか』
『そうね』
でも・・・それを言うとジョーは困る。彼には彼の生活があるのだから。
掴んだ両腕は緩めない。
「・・・オヤスミのキスで終われそうにない」
「えっ?」