「おやすみのキス・その2」

 

 

「――オヤスミ」


そう言って頬にキスされた時は、びっくりした。
だって、今まで「オヤスミのキス」はおでこだったのに。


「ん?どうかした?」


私の顎に手をかけたまま、優しく見つめ返す褐色の瞳。


――慣れてるのかな。こういうの。


だって、全くいつもの通りのすました顔の009。
私だけが、彼の一挙手一投足にどぎまぎしている。今だってきっと、顔が赤いだろう。

それがなんだか悔しくて、私は心を引き締め動揺を押さえ込んだ。
私だって、こんなのどうってことないわ。慣れてるんだから――

 

 

いつも指で触れてわかっているつもりだったのに、その感覚の違いに僕は動揺していた。
指で触れるのより柔らかく感じた。甘い香りと温かな肌。唇に感じた頬の弾力は想像以上だった。
だから僕は、頬にキスするだけに止めるなどという拷問を自らに課したことを後悔した。
いつも「オヤスミのキス」は額だった。額の次は、唇で良かったのに。
普段、再会して挨拶がわりに軽く唇を触れ合わせることは多い。
これは、彼女の国では当たり前であり、海外遠征の多い僕も慣れている。
だから、どうってことなかった。

――でも。

やっぱり僕は間違った。

 

 

「ジョー。離して」

小さく訴えてみる。だってジョーは、私の顎に手をかけたまま外そうとしない。

「――ああ、ゴメン」

でも、あっさり離してくれる彼が少し憎らしい。

もうちょっと名残惜しそうにしてもいいんじゃない?
だって本当はイヤじゃないのよ私。

今は、急なことで驚いているけれど、いつ唇にちゃんとした「恋人のキス」をくれるのか待っているのに。
それがおやすみのキスでもいい――と、思っているのに。

行き場を失ったジョーの手は、肩の上の私の髪をもてあそんでいる。
指先にくるくる巻きつけたり、解いたり。
なんだか落ち着きがない彼は初めてみるひとみたいだった。

 

 

離せと言われるまで、自分が彼女の顔を上向けたままだったことを忘れていた。

蒼い瞳が美しいきみ。

その蒼に呑み込まれそうだった。

慌てて離したものの、そのまま離れてしまうのは耐えられないので彼女の髪を指に巻いた。
このくらい近くにいると安心する。

いつもは「オヤスミのキス」をしたら彼女が部屋へ入るのを見届けて、自分も帰る。
今日だって当然そのつもりだった。

だけど今日は何故か離れがたかった。いつもと同じ夜なのに。

 

 

「・・・フランソワーズ。その、・・・」
「なあに?ジョー」

まっすぐに見つめられてジョーは言葉が続かなかった。
蒼い瞳に見据えられ、動けない。

「ジョー?どうかしたの?」
「・・・いや」
「――オヤスミナサイ」

ちょっと背伸びして、フランソワーズもジョーのしたのと同じように彼の頬にキスを送る。

「じゃ・・・また今度、ね?」

今にもアパルトマンへの扉を開いて行ってしまいそうな様子にジョーは心を決めた。

「・・・フランソワーズ!」

彼女の腕を掴んで引き寄せ、そうして――唇を重ねていた。

 

 

ジョーの脳裏に最前までのふたりの会話がリピートされる。

『じゃあね、ジョー。次は・・・三ヶ月後になるかしら』
『そうだね』

三ヶ月だって?そんなの、耐えられるわけがない!

『僕もミーティングや今季のレギュレーションを見ないといけないから、そのくらいかな?』
『・・・忙しいのね』

少し俯いた彼女の声に、残念そうな響きがあったように思うのは僕の願望だろうか?

いつもこんな会話の繰り返しだった。
でも、――本当は繰り返したくなどなかった。

 


フランソワーズの目尻に涙が滲んだ。その瞼の裏に映るふたりの姿。

『オフっていっても、バケーションじゃないからね。色々あるさ』
『・・・そう』

オフなんだから、もうちょっと会う時間を作ってくれてもいいのにと思うのは贅沢なの?

『私も次の公演に向けてのレッスンが始まるから、忙しくなるわ』
『そうか』

嘘よ。あなたが忙しいって言うから、真似してみただけ。

『お互い忙しいな』
『そうね』

素直に、もっと一緒にいたいって言ってしまえばいいのかしら。
でも・・・それを言うとジョーは困る。彼には彼の生活があるのだから。

ずうっとそばにいてほしいなんて、言ってはいけない。

 

 

「――フランソワーズ」

ジョーが唇を離し、低く掠れた声で彼女の名を呼んだ。
掴んだ両腕は緩めない。

「・・・ジョー?」

訝しげに見上げると、ジョーはフランソワーズの上唇、下唇、唇の右側、左側・・・とついばむようなキスを重ねた。

「ジョー?どうし・・・」
「・・・オヤスミのキスで終われそうにない」
「えっ?」

辛そうに微笑んだ褐色の瞳が閉じられて、そして再び唇が重なった。

「――ジョー?」

「黙って」

 

初めての「恋人同士のキス」は、パリの――アパルトマンの前だった。