「繋いだ手」

 

 

僕は逃げていた。

あてもなくひたすらに。暗い世界の中を。

どこにも出口がないのはわかっている。が、それでも逃げずにはいられない。
背後には確実に追手が迫っているだろう。しかしそれを確かめるために振り返ることすら僕にはできなかった。
そんなわかりきっていることを確認するために費やす時間さえ今の僕には惜しいのだ。

とにかく逃げる。あてなんかないけれど。

それでも逃げる。ただひたすらに。


追手は僕のことをよく知っている。どんな時に何をどんな風に考えどんな手を打つのか。思考の流れさえ把握されているに違いない。
だからどこに隠れたって無駄なことだ。
だったら、最も古典的な方法を取るしかない。ひたすら走って逃げるという。
追手から距離を置く。それだけが僕にできるたったひとつのことだった。

加速装置を使うわけにはいかなかった。
どんなに恐怖に襲われても。どんなにピンチに陥っても。
それだけは。
僕は胸に誓ったんだ。絶対に使わないと。


「フランソワーズ、大丈夫?」

振り返らず声だけで訊く。今は握り締めた手だけが頼りだった。

「ええ。だいじょう……ぶ」

相当に息が切れている。当然だろう。僕は手加減して走っていないから、フランソワーズは全力疾走のはずだ。
そう、フランソワーズを伴っているから僕は加速装置を使えないでいるのだった。
でもだからといってフランソワーズを置いて逃げるという選択肢は、僕のなかには無い。
最初は抱き上げて走っていた。そのほうが早いからだ。がしかし、すぐにフランソワーズは自分も走ると言った。
このままでは僕の体力が尽きたときが全てが終わる時だとわかったのだろう。僕の体力は無尽蔵だといくらいっても聞いてくれない。
こういう時、フランソワーズって本当に頑固だと思う。

「ジョー、なにか言った?」

声に出して言ってないのに聞こえたのだろうか?(本当はテレパスなのかもしれない)

「言ってない」
「そう?」
「うん」

ともかく走る。
走って走って走って――僕たちはどこまで逃げればいいのだろう?

地の果てまで?

永遠に?

それもいいかもしれない。ふたり一緒なら。

数年前までは思いもしなかった強い思いに僕は笑ってしまった。そんな場合ではないのに。
でも
平和な世界に居ても先が見えなかった。真っ暗闇の僕の世界。その先に何があるのかも興味がなかった。
きっとどこかで野垂れ死ぬのだろうと漠然と思っていた。
数年前までは。

今は
こうして先が見えないのは一緒でも、平和な世界ではなくても、でも――ふたり一緒にいればなんとかなるような気がしている。
いつか世界が開けるのではないかと期待さえしている。

僕は握り締めた手を確かめるように力をこめた。

応えるように握り返された。


今は走る。

ただそれだけだった。

 

 

 

 

指先が空を掴む。

その空虚さに僕は自分の手を見た。

何も掴んでいなかった。

そんな馬鹿な。

フランソワーズは。彼女はどこに行った。
だってさっきまで、ほんの一瞬前まで手を握り締めていたのに。
確かにここに居たのに。

今は、ただ闇がいるだけだった。

信じられず、僕は立ち止まった。
闇のなかに独りきり。
追手はすぐに追い付き僕をみつけるだろう。が、すぐ近くにいたはずのその影さえ感じない。
左右前後、上下のどこにも生きるものの気配は無かった。
ただ暗い闇が続いているだけ。

僕は。

僕は、どこに向かって走っていた?

いったい何から逃げていた?

何に追われていた?


答えはない。


僕は手を握り締めた。
この指の先にいた存在が全ての答えを知っていたはずだ。
彼女自体が答えだった。

でも、ここにはいない。

 

 

 

 

「ジョー、私を置いて逃げて」


彼女は何度もそう言った。だけど僕は聞かなかった。

「大丈夫よ。すぐに追い付くわ」

そんなの嘘だと誰が聞いてもそう思うだろう。

「私がいないほうが楽よ」

絶対にそんなことはない。
僕が何も答えないでいると、フランソワーズは溜め息をついたようだった。どうやっても僕を説得できないと悟ったらしい。
当然だ。わからないほうがどうかしている。僕がフランソワーズを置いていくなど天地が裂けても有り得ないのだ。
なのに彼女はきかなかった。執拗に何度も同じことを口にした。

「ジョー、私を置いて逃げて」

そんなことしない。

できない。

できるわけがない。

何度そう答えても繰り返して言う。


「私がいないほうが楽よ」


違う。そんなこと一度だって思ったことはない。
想像すらしていない。

だって

考えたら。

想像したら。


僕は、なんのために生きている?


独りぼっちでこの世界に居る意味なんて無いのだ。

 

 

 

 

真っ暗な闇のなかに僕は独りきりだった。

何も見えない。
暗視機能のある目も全く意味がなかった。
じっと佇んでいるうちに空間の感覚さえ危うくなった。
いま僕が立っているのはどこなのか。地なのか天なのか。あるいはそう思っているだけで本当は浮かんでいるのかもしれない。
世界がぐるぐる回る。でもそれも感覚だけで実際には静止しているのかもしれない。
全ては黒い闇に包まれていて何も見えない。自分の指先さえ見えない。だから、もしかしたら僕はここに存在していないのかもしれない。
こうして思考している意識だけの存在なのかもしれない。容器の無い、ただの意識だけがここに浮遊しているのだとしたら。
だったら。
ここにフランソワーズがいないのも当たり前なのかもしれない。
だって、僕が今まで感じていた指先の感触。それはただの妄想で、本当は僕は存在していないモノなのだとしたら。
フランソワーズは僕の意識のなかにしかいないことになる。手を繋いでいた――なんて、僕の勝手な妄想だ。
何かから逃げていたことさえ、笑っちゃうような妄想の世界だ。
こうしてただ独り暗い世界に意識だけ漂っているから、そんな妄想をしてしまったのだろう。作家になったほうがいいのかもしれない。

僕の存在は何だ。

僕はなぜここにいる。

意識だけの存在なのだとしたら。

――なぜ、覚醒した。

妄想でもいい、果てぬ夢を見て漂っていれば良かったのに。そうしていたなら、ここに――孤独だということに気付くこともなかったのに。

いや、待て。

ちょっと変だ。

全てが僕の妄想世界だったのなら、もっと――楽しくてもいいはずじゃないのか。
フランソワーズと何かから逃げている。それはいい。でも。途中でフランソワーズがいなくなるなんて展開は何にも面白くない。
それに、フランソワーズが「私を置いて逃げて」と言うなんて有り得なくないだろうか。いくら僕の妄想だとしても。
いや、僕の妄想だからこそ――変だろう。もしも僕自身の楽しい妄想世界だったら、きっとこう言わせるだろう。

「ジョー、私と一緒にいて。ずっとずっと永遠に」

それが生でも死でも。
それこそが僕の理想の世界であり、僕が思う彼女との理想の展開だ。

なのに

「ジョー、私を置いて逃げて」?

フランソワーズはそんなことを言わない。いや、普通に考えれば言いそうなのだろう。彼女は優しいから、自己犠牲の精神に満ち溢れている。
だが。それは彼女のことをよく知らないからだ。

彼女は絶対にそんなことは言わない。
何故なら。
僕が本当にそうしたら、僕がその瞬間から未来永劫、ずっと罪の意識に苛まれるとわかっているから。
優しい彼女のことだ。そんなことをするわけがないのだ。彼女は僕が苦しむと知っていてそんな選択はしない。
もし、――本当に置いて逃げろと願うなら、こうするだろうから。

僕の手を無理矢理振り払い、

「ジョー、一緒にいるから私も逃げなくちゃいけないのよ。狙われているのはあなただから、勝手に独りで逃げたら?」

そうして立ち止まるだろう。もしかしたら、そうして背後から僕をレイガンで撃つかもしれない。自分も敵なのだと知らせるかもしれない。
そうやって僕を逃がす。
フランソワーズはそういう優しくて強い子だ。だから。

だから。

「ジョー、私を置いて逃げて」

「私がいないほうが楽よ」

手を繋いだままこんな甘えたことを言うような彼女は偽者だ。

こんな――妄想世界は嘘だ。

僕は空を切った指先を疑わず、もう一度握り締めた。感覚はないけれど、でもきっとそこには彼女の手を握っていると確信して。

 

 

 

 

「ジョー!大丈夫?」


至近距離でフランソワーズの声がして、僕ははっとした。
いつの間にかフランソワーズが併走している。心配そうな顔。

「走る速度が落ちているわ。それに凄い汗」

繋いだ手もじっとりと汗ばんでいた。

「あ。ああ、……だいじょうぶ……」

――大丈夫だ。

「そんなにゆっくり走っていたら捕まっちゃうわよ?」

わかっていたはずだ。追手は僕のことをよく知っている。
どんな時に何をどんな風に考えどんな手を打つのか。思考の流れさえ把握されているに違いない、と。
僕はぎゅっと目を瞑ると偽者の妄想世界を頭から追い出した。
押し付けられた安易な意識世界。僕はそんなものには負けない。繋いだ手の先に確かな存在がある限り。

「――そうだな。ついて来れるか?」
「いまさら何言ってるの?」

僕の目とフランソワーズの目が合う。

どちらからともなく少し笑った。

 

 

***

***

 

 

「いやあ――参ったな」

ジェットとハインリヒが両手を挙げて降参のポーズをしている。滅多に見ることのないその光景を僕はしみじみと見つめ堪能していた。

「誰だよ。電脳肝試しなんて思いついたのは」

ハインリヒが苦虫を噛み潰したような顔をして言う(苦虫を噛み潰したことがないから実際にそんな顔になるのかわからないが)

「きっついわ、全く」

ジェットの額には大量の汗。

「お前、よく平然としているな。フランソワーズと一緒だったくせに」

本当はひとりずつの予定だった。が、主催側の要望で僕とフランソワーズは二人一組となったのだ。

「いやあ……」

結構がんばったよと言う前に、直接脳に通信が入った。

『文句言わない。自分の弱点を探るためのシステムだ。ゲームじゃないよ』

イワンだ。ちょっと怒っている。電脳肝試しなんて勝手に言っているのは我々だけで、実はきちんとしたテストなのだ。

「でもさぁ。あんなえげつない方法使うかなぁ」
『精神攻撃のこと?――フン。これからそういう敵も出てくるかもしれないって言ったのはジェットだよ』
「言ったけどよお」
『足りないならもう一回やるかい?』

それだけは勘弁してくれ――と逃げ腰のジェットを横目に、僕は隣にいるフランソワーズを見た。

「大丈夫?」
「ええ」

にっこり笑うフランソワーズ。こちらは汗だくなのに、いたって変わらず涼しい顔。みんなが汗だくなのは精神的な弱点を攻撃されたせいなのだ。
が、しかし。だったらどうしてフランソワーズは涼しい顔をしているのだろう。

「……フランソワーズ?」
「なあに、ジョー」

きみは、どんな悪夢を見せられた?

「いや……」

訊いたところでどうしようというのだ。

「……早くシャワー浴びたいね」
「うふ、そうね」

花のように笑うフランソワーズ。
きっと彼女はここにいる野郎どもの誰よりも強い人なのだろう。

そんな彼女がなんだか遠い存在に思えた。

だから僕は、繋いだままだった手をほんの少し引き寄せた。
ちょっとでも僕と彼女が近くなるように。

 

 

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