「そばにいて」

 

 

 

「この休暇が終わったら、ヨーロッパグランプリね」
「休暇じゃなく、バカンスと言ってくれ」
「バケーション?」
「バカンス」
「もうっ…どっちでもいいじゃない」


くすくす笑うフランソワーズ。
ジョーは、腕枕の彼女の髪をくるくる指に巻き付けたりほどいたり。

先刻までの真夜中の濃密な時間は過ぎ、今は穏やかな時間だった。


「……フランソワーズも一緒に来る?」

わざと軽く言ってみる。いま思い付いたみたいに。

「今、君も夏休み中だろう?」


フランソワーズは無言だった。
ただジョーの声を聞いているだけ。


「フランスに帰るみたいに、さ。軽い気持ちで」

反応の無いフランソワーズにジョーは少し戸惑った。

「無理なら、いいんだ。別にどうしてもってわけじゃないし」

うん、そうだよな、フランソワーズにも予定があるだろうし、と続ける。

そうして、語彙が尽きたのか黙った。


波の音が響く。


室内は暗い。
カーテンを開けた窓の向こうには海が広がっている。
海辺のホテルに二人は居た。

しばらく波の音を聞いていたジョーだったが、待っても待ってもフランソワーズの声は聞けなかった。


「……眠ったのか」


吐息と共に呟く。


「……起きてるわ」


フランソワーズの声。


「ジョー。本気で誘っているの?」
「えっ?」
「レースのこと。…私がいたら、あなたの」

いったん言葉を切る。

「……あなたの、大事な人に誤解されるわ。……あ、誤解じゃないわね。……悲しませるわ、きっと」

だから、行かない。と小さく付け加える。

「………大事な人?」


フランソワーズは答えない。

「誰だよ、それ。フランソワーズ以外にいないよ、そんなの」
「いいの。知ってるから」

ジョーのレースに必ず姿を見せる彼女。
スタッフパスを下げて、チームスタッフと一緒にいる。ジョーが勝てば、真っ先に駆け寄って。
テレビでもWebでも、ジョーのステディだと言っていた。

ジョーには他にも親しい女の子がいる。私だけじゃない。
そんなの、ずっと前から知っている。

だから…平気。


「えっ……誰?」

ジョーの眉間に皺が寄る。

「………内緒なのね」

吐息と共に言うと、フランソワーズは体を起こした。

「シャワー使うわね」
「駄目だ」

ジョーの手が伸びてフランソワーズの腕を掴み、ベッドに沈めた。

「ジョー?」
「まだ汗をかく予定だろう?」
「ううん。もう気分じゃないの」
「いや、駄目だ」
「ジョー?」
「君が僕を不実だと言うなら、そうじゃないことをわからせなくてはいけない」
「えっ?」
「僕にはフランソワーズしかいないのに、どうしてそんな酷い事を言うんだい?」
「……だって」

知ってるもの。

悲しく目を伏せるフランソワーズにジョーは半ば強引に唇を重ねていた。

「……フランソワーズ、君は」

君はいったい、僕を何だと思ってるんだ。
バカンスの相手が他にいると言ったり、他に恋人がいるだろうと言ったり。

だったら、君はどうなんだい?

君にとって、僕は?

僕には君だけだと言うのは迷惑なのか?
君のほうが、むしろ……僕以外にも誰か、が。


「ジョー」

押さえつけられた手首が痛い。けれどもジョーはそれに気付かないようだった。
およそいつもの彼らしくない。

「ジョー、」

執拗なキスの合間に名を呼ぶが、ジョーは答えない。

「ジョー、はなし」

こんなのはイヤ。
こんな風に誤魔化すなんて、こんなの……

フランソワーズの目から涙がこぼれた。

「……フランソワーズ?」

ジョーが息をついて唇を離した。
驚いたような褐色の瞳。

「フランソワーズ」

蒼い瞳。

「どうして泣く」
「……こんなのはイヤ」
「こんなの、って」
「もうイヤなの。あなたの事で不安になるのが」
「不安?」
「……何を信じたらいいのかわからない」
「何を、って…」
「…あなたに幾人も恋人がいる、って。知りたくないのに」
「あれは」
「私もその中のひとりなんでしょう?今まで、それでもいいって思ってきたけれど、でももうダメなの」

ジョーは溜め息をつくと体を起こした。フランソワーズに背を向ける。

「…………君はわかってくれていると思っていたんだ」

フランソワーズも身を起こす。

「……あれは。君を守るための、嘘の情報で……だって、仕方ないじゃないか。メディアに君を出したくないのに、そばにいればどうしても……」


操作された情報。

わざと流した噂。

そのどれをもフランソワーズは知らない。知る必要はないと思っていた。


「僕には君だけだ、って誰もが知っているよ。僕のチームスタッフなんか君のファンクラブを結成しそうな勢いなんだぜ」

苦笑が混じる。

「…そんな状態だから、君と一緒にいると格好の的になってしまう。今まではそれもいいかと気にしていなかったけど最近の加熱ぶりを見るとね……怖くなった」

最近、他のチームの事実無根のゴシップ記事が週刊誌に掲載されたばかりだった。

「僕だけならともかく、フランソワーズにそれが及ぶのは」
「ジョー」

フランソワーズの手がジョーの背中に触れる。

「なのに、一緒に来るかなんて、自分でも矛盾していると思うけど。――だけど」

ジョーの背中が揺れる。

「――だけど」
「ジョー」

言わないで、と小さく言ってフランソワーズがジョーを抱き締める。

「……ジョー」
「フランソワーズ」

ジョーが振り向いて、フランソワーズをその胸の中に抱き締めた。

「――そばに」
「そばにいたいの」

フランソワーズの方が数瞬、早かった。
えっ?と見つめるジョーの褐色の瞳を見つめ返し、フランソワーズは微笑んだ。

「そばにいたいの。……駄目?」
「フランソワーズ」
「だって私、」

ジョーの恋人だもの――ただひとりの。

「うん――」


何度同じことを繰り返しても。それでもやっぱり不安になってしまう。

彼には他にいい人がいるんじゃないかと。
彼女には他に誰かがいるんじゃないかと。

何度も何度も、違うよ、いないわ、と確かめ合っても、それでも――離れると不安になってしまう。

毎日、電話できるわけではないから。
毎日、メールをするわけではないから。

お互いが大事だけど、大事だからこそ束縛したくない。
常に監視していなければ不安なんて、そんな関係ではないはずだから。

それでも――そう思っていても、ほんのちょっとの情報で不安は簡単に呼び起こされてしまう。


「一緒に行ってもいい?レースに」
「うん」
「もしも誰かとっても仲のいいオトモダチがいても、私は空気を読まないわ。それでもいい?」
「…空気を読まない、って?」
「身を引かないってことよ。それでもいいの?」

ジョーは堪らず笑い出していた。

「もうっ、何よ笑わないで」
「…だってさ。身を引かないだって?そんなの」


当たり前だよ――