「好きと言ったら負け」
好きと言ったら負けなのよ、勝負しない?とフランソワーズに言われ、いつもながら突然だなぁとジョーは内心苦笑した。かといって彼女が勝負する気まんまんなのだからのらないわけにはいかない。 それはともかく、 ――好きと言ったら負け、か…… ジョーはテーブルを挟んで目の前に座るフランソワーズをじっと見た。 ジョーは目を逸らすと窓外を見た。 ふたりのいるこのカフェはフランソワーズのお気に入りの場所だ。 ――まだ桜の時期じゃないよなぁ などと当然の感想を抱く。もちろん、ジョーとてそれを期待していたわけではない。ただ目の遣り場に困って外を見ただけである。なにしろフランソワーズはじっとこちらを見たままなのだ。微動だにせず注視している。 ……いったい、何事なんだ? そう、ジョーが外を見たかったのは考える時間を稼ぐためだったのだ。フランソワーズがこういう勝負をもちかけるのはよくあることではあるのだけれど、毎回それには必ず理由があった。だから今回も、ジョーにとっては唐突であっても何か深遠な理由があってのことなのだろう。その深遠な理由とは何なのかをジョーは知りたかった。 ……さっきまで何を話してたんだっけ……? 彼女がこの勝負を口にする数分前の記憶を手繰る。 ――違う、今はそんなことを考えている場合じゃない。 咳払いをすると傍らのコーヒーに口をつけた。 ――う。しまった。 心の準備が。 それを言うなら、まだ「真の答え」も見つかっていない。 が、ジョーの戸惑いをよそにフランソワーズはにっこり笑うと「じゃあ今から24時間ね」と勝手にスタートを切ってしまった。 ならば、負けたら何がどうなるのか。 勝ったら何かが変わるのか。 ということは、 本から顔を上げたフランソワーズと目が合った。 「僕の負けだ」 これで勝負は終いだと言うように、ジョーはコーヒーを飲み干した。 「出るよ」 そのまままっすぐレジに向かう後ろ姿を呆然と見つめ、フランソワーズは本を閉じた。 「まったくもう……勝手に負けるなんて、ずるいわ、ジョー」 でもまだ勝負はこれからよ、とフランソワーズも立ち上がった。 負ける気はしなかった。 *** 「ジョー。好きよ」 ……
それにこういうギャンブル性(?)のある勝負事が実は好きだったりする。おそらくフランソワーズも彼のそういう性分を熟知した上で持ちかけてくるのだろう。
まったく彼女には全てにおいて勝てる気がしない。
彼女は両肘をテーブルについて指を組み合わせ、その上に頤を乗せこちらを観察している。
その目は、いつ始める?と語っている。
フロアの席数は20くらいか。小さくも大きくもない、ごく普通の規模のカフェである。メニューも特に凝ったものはなく、フランソワーズはカフェオレを頼み、ジョーはコーヒーを飲んでいた。店内は白木がメインでテーブルも椅子も白い。壁は小さな花柄プリントで目にうるさくもないがインパクトもない。
では何が彼女の気を惹いたのかというと、それは景色であった。
実はこのカフェは桜の樹に囲まれているのである。場所取りを気にせず花見をしながらお茶を飲みたいというのがオーナーの長年の夢であったという。そんな店であるから、花見の時期には行列ができるほどである。が、事前の予約はいっさい受け付けないという徹底ぶりだった。だから空いている時間帯は好きなだけ桜を見て過ごすことが可能である。
が、今はまだ花見の季節には程遠い。
むしろ無数の樹がわびしく感じられる時期でもある。もちろんそれを指摘するほどジョーは野暮ではない。
(「葉桜の時は毛虫が凄そうだな」と言ってフランソワーズに口をきいてもらえなくなった過去がある)
ともかく、なぜいまこの時期にこのカフェに好んで来るのかジョーには皆目わからない。もしかしたらジョーにはわからない他の理由があるのかもしれないが、ジョーにとってはどうでもいいことでもあった。
フランソワーズがここが好きで行きたいと言うのなら、彼が否と言うわけはないのだから。
目を逸らし横を向いたものの、その頬にフランソワーズの視線を痛いほど感じる。
以前は、勝負しましょうと言われいいよと安易に返事をし、その結果、痛い敗北を喫してきた。
否、勝負に勝って人生に負けたというべきか。
大袈裟かもしれないが、ジョーにとってはフランソワーズからのこういう無理難題はそういう意味を持っている。
つまり、彼女が「なぜ」そういう勝負を挑むのか、彼女が「真に望む答え」はなんなのか。
それを知らなければ、こんな勝負をしても意味がないのだ。
が、うまくいかなかった。
なにしろ彼女は手元にある小説をずっと読んでいたのだから。
昨夜からずっと本の虫なのだ。続きが気になってしょうがないらしく少しの時間も惜しんで本を開いている。
普通なら、一緒にいるのに本ばかりかよとジョーは怒ってもいいシーンなのかもしれないが、ジョーにそんな気はおきなかった。真剣に本を読んでいるフランソワーズを見るのは彼にとって好ましいもの以外の何者でもなかったのだ。そんな数分前のフランソワーズを思い出し、ちょっと頬が緩んだ。
ふと視線を店内に戻し、フランソワーズの視線に捕まった。
「ジョー?」
「う、何かな」
「始めてもいい?」
「何を」
「だから。好きって言ったら負けの勝負」
「あ。え。まだ」
好きと言ったら負け。
――いや。待て。
何かがジョーの心に引っかかった。
好きと言ったら負けということは、つまり……
フランソワーズをちらりと見た。
さっきまで彼を注視していたフランソワーズは勝負を始めてからはこちらを見ず、読書を再開している。そのきっぱりとした姿は絶対に負けないわという意思表示であろうか。しかし、勝ちにこだわっている――ようには見えない。
――勝ち負けはどうでもいいってことか?
だったらどうしてこんな勝負をもちかけるのか甚だ疑問ではある。
が。
ジョーの心は決まった。
「……フランソワーズ」
「ん?」
「好きって言ったら負けなんだよね?」
「ええそうよ」
「じゃあ、好きだ」
飲み干したついでに立ち上がり、伝票を手にした。
「えっ?ええ……」
あと約24時間残っている。
ここから先、どちらがたくさん「好き」と言葉にするかで勝負は決まる。
ジョーが先に好きと言い勝手に負けることによってこの勝負の方向性が決定した。即ち、たくさん好きと言って負けたほうが勝ちになる。
「えっ、なんだ急に」
「ほら、同点」
「え。――クソっ、好きだよ。ほら僕が一歩リードだ」
「好きよ、ジョー」
「ええいっ、好きだ」
「好きよ」
「好きだ」
「好き」
「好きだ」
「好き」