「キスだけが知っている秘密」
〜恋心はチョコレート気分〜

 

 

ドアを開けると、ちりりんっと可愛らしい音がした。

そういう音に迎えられるのに慣れていないジョーは、一瞬戸口で立ち止まったものの「いらっしゃいませ」という耳に心地よい声と笑顔に勇気づけられ、店内へ踏み出した。

「あの、・・・まだいいですか?」

声をかけてくれた女性におずおずと質問する。
こういう店が何時まで営業しているのか知らないが、午後7時を過ぎている今は、もしかしたら閉店間近なのかもしれなかった。
その女性はジョーの顔を見ると、驚いたように目を丸くした。

「――島村っち??」
「え?」

島村「っち」??

自分は「島村」に間違いなかったけれど、そんな風に呼ばれたことはなかった。
しかも、この女性とは面識がない――はずである。

「・・・あの、」

曖昧に笑みを浮かべ、ジョーはもう一度口を開いた。

「ここは何時まで――」

そのジョーをぽかんと見つめたのは一瞬。すぐに元の笑顔に戻り、その女性は優しく言った。

「まだ大丈夫ですよ。こちらでお召し上がりですか?」
「・・・はい」

ほっとして大きく息をつくと、ジョーは携帯を取り出した。

「あの、先に持ち帰り用に――お願いしてもいいですか?」
「はい、どうぞ」

そうして改めて携帯画面を見つつ、目の前のショーケースを見つめて。

「えぇと・・・『午後の甘い口付け・クッキーセット』と・・・た、たべ、・・・『食べ頃のキミはぼくのもの』??ん??」
「マカロンのセットですね」
「あ、そうなのか・・・ええ、はい。で、それから・・・・え!?」

なんだよこれは。

携帯画面を見つめ、ジョーはパニックに襲われた。
フランソワーズからのメールには、とても素面では言えないような言葉が並んでいる。

・・・これっ・・・本当にケーキの名前なのか??

 

***

 

「あのね、お願いがあるの」

甘えたような声で言われたのは昨夜のことだった。

「ん、なに?」
「――実はもうすぐ公演があるの」
「へぇ・・・初耳だな」
「うん。ジョーのレースが終わってから言おうと思っていたから」

一瞬、間を置いて。

「――それでね、明日レッスンがあるんだけど」
「うん?」
「教室のあるビルの正面にカフェがあるの知ってる?」
「――あったかな?」
「あるのよ」
「僕は行ったことないよね」
「ええ。ジョーがいない時に行ってるから」
「なんだよそれ」
「いいの。女同士で行くところなの」
「ふうん・・・で、それで?」
「――そこのケーキをジョーと一緒に食べたいなぁ、って」
「ケーキ?」
「そうよ。すっごく美味しいんだから!ただね、そこの閉店前にレッスンが終わるかどうかちょっとわからないの」

公演前だけに、レッスンが長引く可能性があるらしい。

「だけど、どうしてもそこのケーキを食べたいの。だから、お店が終わる前に、」
「・・・ケーキを買っておけ、と?」
「・・・・・だめ?」
「んー・・・」

困ったように唸りながら、ちらりとフランソワーズを見つめる。
不安そうな蒼い瞳が揺れて――ジョーはあっさりと折れた。

「いいよ。でも、何がいいのかわからないよ?」
「ありがとうっ。大丈夫、メールするからっ」

そうしてフランソワーズに抱きつかれ、ジョーはちょっとしたパニックに陥った。

 

***

 

ケーキの名前がメールされたのは今朝だった。
が、あれこれあって、ジョーはその中身を確認できずにおり――今に至るのだった。

これ・・・全部、フルで言わなくてはいけないのだろうか?

彼女からのメールの冒頭には「全部ちゃーんと言わないと売ってもらえないから気をつけてね」と書いてある。

「――以上でよろしいですか?」
「あ、ちょっと待ってください」

ええい。仕方ない。

「『キスの甘さを味わうムース』、『キスだけが知ってる秘密』もお願いします。1個ずつで」

棒読みで一気に言ってしまう。
そう、こういうのは変に考えるから照れるのであって――そういうものだと思ってさらりと言ってしまえば、案外平気なものなのである。現に、目の前の女性店員は全く動じてないではないか。
笑みさえ浮かべて言い切ると、ジョーは心のなかでガッツポーズをとった。
それらが包まれるのを待っていると、注文していないケーキがふたつばかり追加されているのに気がついた。

「あのっ、それは――」
「ああ、いいのよ。気にしないで」
「気にしないで、って・・・」
「いつもそうしてるの。今日はカレシの島村くんが買いにきてくれたからサービス」

そう言って、鮮やかにウインク。

「・・・・カレシの島村くん・・・・?」
「あら。あなたフランソワーズのカレシでしょう?」

・・・・・・・・・え?

「不思議そうね?でも、フランソワーズのカレシは島村くんって決まっているのよ。――ね?」

彼女が同意を求めた相手を目で追うと、そこにはカフェエプロンを身につけた男性が立っていた。
このカフェのスタッフらしい。さっきからずっとそこに居たらしいが、ジョーは全く気付いていなかった。
そのくらい、その男性はここの空気によくなじんでいた。

「ええ、フランソワーズさんのカレシはしまむ」
「――フランソワーズ、さん?」

ジョーの瞳がすうっと細くなった。

「どうしてきみがフランソワーズの名前を」
「ジョー、お待たせっ」

地を這うような低温でジョーが言うのと、店内へ息を弾ませ駆け込んできたフランソワーズが彼の腕に巻きつくのが同時だった。

「ケーキ買えた?」

蒼い瞳がジョーを射る。

「え、あ。うん。買った」
「うふっ、ありがとう」

嬉しそうに頬を染め、ケーキの箱を受け取る。そうして、帰りましょうとジョーの腕を引く――が、びくとも動かない。

「ジョー?どうしたの?」

覗き込んだその赤褐色の瞳は危険な色を宿しており――

「ジョー!?いったいどうし」
「――きみはどうして彼女の名前を知ってるんだ」

カフェのスタッフらしき男性はおどおどと目を左右に泳がせるばかりで、口を開いても何を言っているのかさっぱり聞こえない。

「きみはまさかフランソワーズを」
「ち、違いますっ」

ジョーが何かを言おうとした瞬間、先刻までただもじもじしていた男性は意を決したように顔を上げ大音量で叫ぶように言い放った。

「違います、違いますっ!!ただのお客さんで、僕はただの店員で、それ以上でも以下でもないですっっっっ」

 

***

***

 

「――全く。アンタって子は」

数十分後。
赤褐色の瞳を持つ「島村っち」と金髪のフランソワーズが帰った後。
すっかり落ち込んでカウンターに突っ伏しているこのカフェの看板男・大地を優しく見遣り、姉である萌子はその頭をそうっと撫でた。

「いい加減、告白しちゃえばいいじゃない。僕はフランソワーズさんが好きなんですーって」
「・・・・・・そんなこと、いえるわけないじゃないか」
「あら、どうしてよ?」
「・・・・・・言ったらもう来てくれなくなる」

萌子はやれやれとため息をついた。

「全く。玉砕する覚悟もないっていうの?」
「だって」

大地はがばりと顔を上げるとひたっと萌子を見つめた。顔が真っ赤である。

「相手は島村っちなんだよ!?勝てるわけないじゃないかっ」
「・・・だから泣いてるの?」
「泣いてないよっ!!」

萌子は、はいはい泣いてない泣いてないとあやしながら、先刻の「島村っち」によく似た赤褐色の瞳の「島村」を思い出していた。

――そうね。「島村っち」が相手なら勝ち目はないかもしれないけど、さっきの島村くんなら、あるいは・・・

 

 


2012/8/26 up