「あとは勇気だけだ」
きっとこういうのは、タイミングが大事なんだろうと思う。 けれども僕は、毎日タイミングを逃すかあるいは勇気が足りないかしてなかなかうまくいかなかった。 だってずうっと考えていたんだ。 朝食後、フランソワーズはいつものようにリビングに寄ると、行ってきますとにっこり笑った。 よし、今だ。 僕はソファから腰を浮かす。 「おう、フランソワーズ。これからレッスンかい?」 絶妙のタイミングで僕の声はかき消されてしまった。 「ハインリヒ。ええ、そうよ。毎日そう言ってるでしょう?」 くすくす笑い合いながら、リビングを出ていってしまう。 僕はただ二人の後ろ姿を見ているしかできなかった。 ふと、ハインリヒが振り返った。 「スマンな」 運転しながら、ハインリヒは隣のフランソワーズをちらりと見た。 「送るって言うの、そんなに難しいことかしら」 フランソワーズは手元に視線を落とし、トートバッグの持ち手を落ち着かなくにぎったり開いたりした。 「なあに?」 ――きっと明日は大丈夫だろう。 先刻の、気落ちした顔を隠そうともしなかった青年。 ――まったく、世話の焼ける坊やだ。 けれども、おそらく・・・きっかけとしてはじゅうぶんだったはずだ。
タイミングと・・・あとは、ちょっとした勇気。
でも、今日こそは。
「フランソワーズ、あの」
「そうだったな。車を出すから送ってやるよ」
「あら、どういう風の吹き回し?」
「なに、本屋に行くついでだ」
「そうだと思った」
・・・先を越された。
にやりと笑う。
『もう少し頑張れ』
唇だけで言う。
僕は、見透かされていたのと、目の前であっさりそれを実行に移されたのとで、恥ずかしいのか情けないのか不思議な感情に支配された。
たぶん、両方だろう。
・・・明日こそは、必ず。
「あら、いいのよ。いつまでたっても何にも言わないんだもの、ジョーは」
「さあな」
少し膨れた頬に、ハインリヒは小さく笑った。
「いや、なんでもないさ」
しかし次の瞬間には挑むようにこちらを見ていた。
自分はこんなに世話焼きではなかったんだがな、とハインリヒは心の中で亡き恋人に疑問を投げた。
面影は少し笑ったようだった。