「キッチンでの出来事」

 

 

「あらジョー、おはよう」


朝八時。
キッチンにふらりと現れたジョーにフランソワーズはふんわり微笑んだ。
彼が自分から起きてくるのは珍しい。
お腹が空いたのだろうか。

「いまスープを温めるから、ちょっと待ってね」
「うん……」

ジョーはまだ眠いのか、ぼんやりとどうでもよさそうに答えるとそのままフランソワーズのそばにやってきた。

「フランソワーズ」
「なあに?」
「ちょっとその……お願いがあるんだけど」
「なにかしら」

くるりと振り返ったフランソワーズは、思いのほか近くにいたジョーに驚いた。

「ジョー、あの」

近くで見ると、ジョーの目が赤かった。
まるで一晩眠っていないみたいに。

「……寝てないの?」
「え。あ」

そのつもりで見れば、何か思い悩んでいるようにも感じられる。
微かに見える眉間の皺。
引き結んだ口許。

「どうしたの」

思わず勢い込んでしまう。
ジョーがこんな顔をするなんてタダゴトではないのだ。

「ね。何があったの」

両手を彼の腕にかけ、顔を覗き込む。

「う、うん……その、フランソワーズにしかできないことなんだけど」
「わかったわ」
「他のひとじゃダメなんだ」

その一言にフランソワーズは緊張した。
他の誰かではダメで、自分にしかできない――それは、目と耳を遣う任務に違いない。

「何でも言って」
「うん。――あ、でも、嫌ならちゃんとそう言って欲しいんだ。我慢とかしないで」

思いつめたように言うから、フランソワーズは更に気を引き締めた。
ジョーがそこまで言うからには、きっとかなり厳しい任務なのだろう。
そしておそらく、そのことを考えて彼は一晩眠らなかった。
そのくらい彼を悩ませるような厳しい任務とは一体……?

「わかったわ」
「嫌ならちゃんとそう言うんだよ。いい?」
「ええ」
「我慢しないで」
「約束するわ」

ジョーは真剣な瞳でフランソワーズを見た。

フランソワーズも負けずに真剣な瞳でジョーを見た。

キッチンに緊張が走った。

ミネラルウォーターを求めてやって来たピュンマも中に入れない。


「フランソワーズ」
「はい」

 

「僕の女になってくれ」

 


スープのぐつぐついう音が響く。

 

ジョーの瞳は真剣だ。

 

フランソワーズが答えようと息を吸い込んだ時。

 

スープが鍋から吹きこぼれた。

 

 

***

 

 

ピュンマがミネラルウォーターを手にリビングにやってきた。


「よお、どうした」

ニヤニヤしているのを見逃すハインリヒではない。

「ああ、いやあちょっとね」
「キッチンで何かあったか」
「スープが吹きこぼれて大騒ぎさ」
「そうか」

 

もちろん、それだけではなかったのだけど。

 

 


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