「昨夜は素敵だったわ。ありがとう」


そんな声が聞こえてきて、ジョーはドアノブに手をかけたまま凝固した。
声の主の顔は見えないが、どんな表情をしているのかなんとなくわかる。
きっと微笑んでいるだろう。もしかしたら、素敵な夜を思い出しうっとりしているかもしれない。

そう――確かに昨夜は会っていない。

彼女がここへやってきたのは10分前なのだ。
空港から直行したと言ってはいたが、果たしてそれが事実なのかどうかジョーにはわからない。
一日早く到着し、誰かと会っていたかもしれないのだ。

――誰かと。

誰かって……誰、だ?


「あらジョー、どうしたの」


フランソワーズがドアを開けたので、ドアノブを握ったままのジョーとまともに鉢合わせした。
気まずい。立ち聞きしていたと誤解されたらたまらない。否、実際はしていたのだから誤解ではないのだが、あくまでも不可抗力である。
ドアを開けようとしたら通話が聞こえてきたのだから。

「え、と……」

言い訳を試みる。が、頭の中に誰かと素敵な夜を過ごしたらしいフランソワーズがちらついて考えがまとまらない。
そもそも自分は何しにここへ来たのだったか。

「あ。もしかして、ジョー」
「う。何」

立ち聞きなんかしてないよと釈明しようと口を開いたが、声を発したのはフランソワーズの方が早かった。

「卵はひとつでじゅうぶんよ」

は?

卵?

いったい何を言い出すんだとジョーが唖然としていると、フランソワーズが彼の左手を指差した。

「卵が幾つ必要なのか訊きに来たんでしょう?」
「え」

卵。

見れば左手には生卵が握られていた。何故だろう。ジョーにはギルモア邸の中をを卵片手に散策する趣味などない。

「ひとつでいいのよ。普通のホットケーキなんだから」

ホットケーキ。

――そうだった。

お腹が空いたと言ったら、ホットケーキを作ってあげるわとフランソワーズが言ったので、ジョーは冷蔵庫に卵があるか確認していたのだ。
そしてその報告をしようとしたらフランソワーズの姿がなかったから、捜しに出たというわけだ。
部屋着に着替えると言っていたから、自分の部屋だろうとそこへ向かい、ドアノブに手をかけ声をかけようとしたところで、
彼女の通話を耳にしたというわけだった。ホットケーキのことなどすっかり忘れてしまっていた。

フランソワーズはぼうっと突っ立っているジョーを不思議そうに見つめ、彼の手から卵を受け取った。

「ジョー?どうかしたの」
「え。あ。いや」
「お腹空いたんでしょう」
「う。うん……」

それもすっかり忘れていた。

「あの、フランソワーズ」
「なあに」
「その、」

今の電話って。

 


素敵な夜をありがとう
〜平ゼロの場合・「誰?」

 

 

蒼い瞳が問うようにじっと見る。

ジョーは、何も悪いことをしていないのに何故か責められているような気持ちになった。
別に聞きたくて聞いてしまったわけではない、彼女のプライベートな通話。むしろできれば知らないでいたかった。


「そういえば、昨夜ね」


そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、フランソワーズは楽しげに語りだした。


「飛行機でバレエが上映されていたの。昔のなんだけど……懐かしくて」


昔の。
それは――彼女の時代の、ということだろうか。

ジョーはどう返事をしていいかわからず、黙っているしかできなかった。


「隣に座っていたご婦人がね、あら懐かしいわ私観に行ったのよって話してて、すっかり盛り上がっちゃって連絡先を交換し合ったの。
それで、さっき電話がかかってきて無事に目的地に着きましたって――そういう話」
「そう……」

彼女が「ご婦人」と言うことは、おそらく年配の女性なのだろう。
フランソワーズは――楽しかった。の、だろうか。辛くはなかっただろうか。だとしたら――

――いや。楽しかったのだろう。そうでなければ連絡先を交換しあったりなどしない。
それに、言っていたではないか。昨夜は素敵だったわと。


「ジョー?」
「え。あっ……うん。安心した」
「安心?」

思わず口に出して言ってしまった。

「やあね。何か誤解したの?」
「いや――」

改めて、困ってしまった。この状況に。
じっと見つめられ、何か言わねばと焦る。が、変な汗が出るばかりで何も思い浮かばない。
だからジョーは頭を掻いて、自分の足の爪先を見て、絨毯を見て、そしてフランソワーズを見た。

そして。

そうっとフランソワーズを抱き締めた。

お腹が鳴った。

「もうっ……ジョーったら」

お腹のほうがお喋りね。とフランソワーズがくすくす笑う。
素敵な夜はこれからだった。

 

end

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