「もしもし。――俺」
「俺じゃわかりません」
「・・・僕」
「ジョー?」
「・・・。何で俺っていうとわからないんだよ」
「だってわからないもの」
「フランソワーズ」
「はいはい、本当はわかってました!だって、迷子の子猫ちゃんだもの」
「――その着メロ、やめろって言っただろ」
「いいじゃない、わかりやすくて」
「・・・ヒトのまで設定するんじゃねーよ」
「あら、そんな言葉遣いをする知り合いなんて私にはいませんことよ」
「・・・メンドクサイなあもう」
「ジョー。聞こえてるわよ?いいじゃない。どうせあなたはいつも着信はブルブルにしてるんでしょ」
「・・・そうだけど」
「だったら別に構わないでしょう?」

ジョーの携帯電話のフランソワーズの着信メロディ。それは、勝手にフランソワーズが設定した「森のくまさん」なのだった。

「――なんで森のくまさんなんだ」
「くまさんと会うからに決まってるでしょ」
「誰が」
「私」
「お嬢さんっていうのがフランソワーズ?」
「ええそうよ。だから、くまさんはジョーなの」
「・・・・」

ちなみに、フランソワーズがジョーの携帯をいじったのは後にも先にもこれだけであった。ジョーが人物ごとに着メロ設定をしていないと知り、せめて自分だけでもと設定したのだ。が、ジョーは基本的に音を消しているので、着信は常に振動音であり、フランソワーズからだろうが誰からだろうが、着信メロディーが鳴ることは殆どなかった。

ジョーはしばし、どうして自分がくまさんなのか考えた。
先刻から、どうにも話が変な方向へ転がり、なかなか本題に入れない。

「ジョー?どうかした?」
「・・・いや。別に」
「で、何か用事があったんでしょう?」
「え。あ。――うん」
「何かしら」
「・・・うん」
「あ。今日って確か予選よね。頑張ってね」
「うん」
「――ほどほどに」
「なんだよ、ほどほど、って」
「だって無理してクラッシュしたら嫌だもの」
「こら。誰に向かって言ってる」
「去年のワールドチャンピオンだけど?」
「・・・」
「音速の騎士さん。――レースが終わったら、日本に帰ってこれるんでしょう?」
「うん」
「好きなもの、たっくさん用意して待ってるから」
「うん。楽しみにしてるよ」
「――で、ジョーの用事は?」
「え。・・・うん。その」
「はい」
「来週だけど」
「・・・ジョーのお誕生日ね」
「うん。その年一回のイベントだけど」
「大丈夫よ。一緒にいられるわ」
「うん。――そうだけど、その」
「なあに?」
「・・・去年と同じがいい」
「――去年と?」
「うん」
「それでいいの?」
「うん。それが、いい」

 

ともかく、自分の意志は伝えたぞ――とジョーはほっとした。

自分の誕生日というもの自体に全く興味がなかったしどうでも良かったけれど、実は昨年からちょっとだけ楽しみになった。今までの自分からは想像もできない。自分の誕生日が楽しみ、などと。
けれども、ちょっとだけ楽しみになっているのは事実だったから、その楽しみを確保しなければと電話をしたのだった。

昨年の誕生日祝いと同じものを得るために。

とはいえ。
電話した目的はそれだけではなく、――実はその用件さえもどうでもいいといえばどうでもよかった、いやそうでもないか――のだが、真の目的は、フランソワーズの声を聞くこと、ただそれだけであった。だから、話の内容なぞどうでも良くて、できるだけ会話を続けること、フランソワーズにたくさん喋ってもらうこと、たくさん名前を呼んでもらうことだけが望みだった。

これから予選である。

ジョーはフランソワーズの笑い声と自分の名を呼ぶ声音を思い出し、口元に笑みを浮かべた。
これで、戦える。胸にフランソワーズがいるならば。

 

 


 

5月10日

 

「去年と同じ、――って」

電話を切ってから後も、フランソワーズはそれを持って見つめたままだった。軽く眉間にシワが寄る。

「もうっ・・・事あるごとにこれなんだからっ」

昨年のジョーの誕生日以来、何かにつけて彼は「同じもの」がいいと言う。クリスマスも、バレンタインデーも。
確かに、年数回しか彼が公然とプレゼントを要求できるイベントなどありはしなかったし、それでも今まではそんな要求すらなかったのだから、本当ならこれは喜ばしい進歩と考えても良いことではあった。
しかし、ひとつのことに固執するというのはいいことなのかどうか、それについてはわからない。しかも、そもそものきっかけが自分にあった場合には。
もちろん、それによって彼の中にあった「誕生日」に対する嫌悪は多少なりとも減ったのだろうとは思う。自ら「次の」誕生日には、と口にするくらいには。だからきっと、これは彼にとってはマイナスにはなっていないはず――そう思いたかった。

 

***

 

「何が不満なの?いいじゃない、仲良しで」

レッスン後のいつもの喫茶店でいつものように、フランソワーズと友人たちが他愛もない話を展開する。
今回は、「ハリケーン・ジョー」の誕生日が近いので――自然にその話になった。

「嫌よ。もう騙されないわ」

アイスコーヒーのストローを弄びながら、フランソワーズがつんと顔を背ける。

「まあ、怒りなさんな。いいでしょうが。おかげで楽しく熱いバースデーを過ごせたんだからさ」
「楽しく熱い、って・・・」
「だってそうだったんでしょう?」
「・・・言わない」

探るように顔を覗きこまれるのを、首を左右に振って除けながら、

「もう!私たちのことはいいでしょう。他の話をしましょうよ」
「あらら。だって音速の騎士の誕生日だよ?フランソワーズが興味なくても、私たちにはあるの」

ねーっとフランソワーズを覗く全員が顔を見合わせ大きく頷き合う。

「・・・関係ないじゃない」
「あ。言ったわね。ファンを大事にしなくちゃダメでしょうが」
「・・・本当にファンならね」

あなたたち、私をからかって遊びたいだけでしょう――とフランソワーズはじっとりと睨みつける。が、誰も彼女の視線を受け止めず、ケーキを食べることに専念している。

「問題です。島村ジョーの今日のレースのスターティンググリッドは何番でしょう?」

むっつりとフランソワーズが質問を投げる。昨夜の予選をちゃんと見ていれば当然答えられる問題である。
本当に「ファン」ならば。

「そんなの、知らないわよ」
「予選は観ない派なの」
「録画したからこれから観るわ」
「ええと、3番だったっけ?」

口々に返ってくる答えにフランソワーズはため息をついた。

「もうっ・・・全然、ファンじゃないじゃない!」
「ファンだってば。本戦はちゃーんと観るし」
「予選じゃあんまりアップにならないもの」
「本戦だってアップになんかなりません」
「あら、そうだったっけ?」

それでも、日本に彼のファンが多いのは確かであり――しかも女性――放送時には前後に彼のアップのインタビューが盛り込まれているのが常だった。

「ちゃんと見てないのはフランスソワーズでしょう?本戦ではたくさんインタビューされてるのに」
「いいの。見慣れてるから」
「うっひゃー、ごちそうさまっ」

すまして言って、ケーキを口に運ぶ。
確かにみんなの言う通り、インタビューが放送される時間は長い。そのどれもが彼のアップであり、しかも角度の違う映像もあるということはいったい何台のカメラが彼に用意されているのか。

・・・まあ、確かにカッコイイけど。

声には出さず胸の裡で言って、ケーキと一緒に飲み込む。
見慣れているとは言っても、レーサーをしている時の彼を見慣れているのかというとそうでもないのだ。
いくら普段の彼や防護服姿の彼を見慣れているといっても、レーサーとなると違うのだった。
実際に現場で観るときもそうだが、画面越しに観るときもつい・・・見惚れてしまう。けれどもそれを他人に言うのは悔しかったから自分の胸にだけしまっておく。まさか、テレビを観ながら胸の前で手を組み合わせぼうっと見惚れているなと言えやしない。
しかもジョーは、それも仕事のうちだから仕方ないといえば仕方ないのであるが、常に満面の笑みというわけではなく、厳しく真剣な横顔を見せた後に、涼やかに微笑むのだ。それも、ほんの一瞬、唇が緩む程度の。
まるで計算されていると思えてしまうその笑みは、それでも「営業スマイル」とはほど遠い。そして、彼はそういう「営業スマイル」などできるひとではないのだ。だからそれは、カメラを通して彼を応援しているひとたち全てに向けられている彼の本心から表れた笑みであり――そう思うと、ちょっとだけ寂しくなる。それも常だった。
レーサーの彼は素敵だけど、素敵すぎて遠いひとのように思えて寂しい。そんなこと、とてもジョーには言えないけれど。

「・・・グリッドは2番。フロントローなんだから、今晩ちゃんと見てください」

憮然としながら言うフランソワーズ。その顔を見つめ、友人たちは笑いを堪えながら真面目に頷いてみせるのだった。

――まったく、フランソワーズってからかいがいがあるんだから・・・。

 

***

 

「えっ、ジョー?何で・・・何やってるのよ」

帰宅したフランソワーズを待っていたかのように鳴った携帯電話。その着信メロディーはジョーだったから、まさかと思いつつ出たのだけれど。

「何って、電話してるけど?」
「そうじゃなくてっ・・・そろそろレースでしょう?」
「うん。もうすぐだね」
「電話してる暇があったら」
「なんで」
「なんで、って・・・」

どうしてレース前の貴重な時間を電話なんかで消費するの。

「さあ。なんででしょう?」

笑みを含んだ楽しげな声。

「そんなの知らないわよ。・・・もうっ、切るわよ?」
「いいけど、今切ったらまたすぐかけるよ」
「ええっ?」
「なんで電話したと思う?」
「そんなの、わかるわけないでしょう」
「そう?」
「そ・・・」

そうよ、と言いかけ止まってしまう。
今までの経緯で、そういえば――会いたいのを我慢するとか、声が聞きたいのに我慢するとか、諸々の我慢するというのをやめることにしたのであった。

それで――電話?

「あの、ジョー?」
「ん?」
「その、・・・」
「――うん。そうだよ」

フランソワーズの頬が熱くなる。本当は、レース直前とも言える時間に私事で時間を遣うなど褒められることではないでしょうと怒るべきなのだろうが、何も言えなくなった。

「もう我慢しないことにしたんだ。だからさ、――言ってよ。いつもみたいに」
「いつも、って・・・」

レースの前に言うことはいつも決まっていた。

「早く。それを聞かないと行けない」

急かすように言われる。

――いつもみたいに。

「・・・誰よりも早く帰ってきてね」

私のもとに。

 

 


 

5月11日

 

「ただいま」
「お帰りなさい。――速かったわね?」
「うん」

電話での会話である。
フランソワーズが深夜、彼のレースを観終わった直後にかかってきたのだった。その相手はいま優勝を決めたひと。

「――フランソワーズがここにいないのが悔しいな」
「あら、どうして?」
「久しぶりの優勝を見せたかったのに」
「見てたわよ」
「テレビだろ」
「ええ」
「――そうじゃなくて、さ」

フランソワーズにはフランソワーズの生活のリズムがあって、予定があって――と、わかってはいても、つい思ってしまう。いつも彼女が隣にいてくれたら、と。
他のチームの選手がガールフレンドやステディな彼女を連れているのを見ると、わけもなくイライラしたりする。
これは自分勝手な思いではあるけれど。心の中で「フン。フランソワーズのほうがもっともっとキレイで可愛いぞ」なんて思ってみたりしてやっと溜飲を下げる始末。

「・・・ジョーったら。もうすぐ会えるのに」

――そうだけど。

「それに、次はモナコでしょう?一緒に行くの、忘れたの?」

忘れてなどいない。
毎年必ずモナコグランプリにはフランソワーズも一緒に行くのだから。

「・・・フランソワーズが楽しみにしているのはショッピングのほうだろう?」

毎年、店ごと買うくらいの買い物をしているのだ。

「あ。酷いわ、ジョー。あなたと一緒にいるのが楽しみなのよ?」
「ふん。どうだかな」
「ひっどーい。もう、知らないっ」

くすくす笑うジョーの声。電話越しのそんな声がくすぐったくて嬉しくて愛おしい。

「ね。いつ帰ってくるの?」
「うん。すぐ帰るよ」
「待ってるわ」
「うん。――ねえフランソワーズ?」
「え?」
「誕生日のプレゼント、本当に・・・」

楽しみにしてるから。

「やっ、もうっ、ジョーったらそればっかり!」
「え。だって去年からずっとこの日を待ってたのに」
「待たなくてもいいじゃない。私はいつでも・・・」

あなたのものなのに。

「一日限定っていうのがいいんだ、って言ってたのは誰だい?」
「・・・そんな事言ってないわ」
「言ってたよ。それは昨日の話でしょうって」
「・・・よく憶えてるのね」
「記憶力いいから」

嘘ばっかり!
とは声にしないで胸の裡で思うだけにする。何しろ今日は勝者なのだし、もうすぐ誕生日のひとなのだから。

「――で、フランソワーズ」

急に改まった真面目な声に一瞬びくんとする。けれどもすぐに携帯電話を握り直し、頬を引き締めて返事をする。
なにか――起こったのかもしれない。

「はい」
「――その件だけど」
「その件、って・・・?」
「――誕生日の」
「・・・ああ」

別に事件とかそういうのではないんだ?
ほっとして緊張を解いたものの、だったらどうして急にジョーは真面目な声音になったのだろうと思う。
だから首をちょこっと傾げて彼の言葉を待った。

「僕としては、その・・・」
「・・・蒼いリボンでしょう?」

ジョーはずうっと大事にとってあるのだ。

「いや、それはそう・・・なんだけど」
「なあに?」
「・・・その、マンションの方に行くだろう?」
「ええ。そうね」

その日は二人きりで過ごす。これも毎年決まっていること。

「・・・その時に、さ」
「?」
「ええとその、前みたいなの、って・・・」
「前みたいなの?」
「――うん。できれば、ちゃんとした仕様のを見てみたい、なあ・・・って」
「いいわよ。お誕生日だし」
「ほんとっ!?」
「ええ。優勝もしたし。重ねてお祝いしてあげる」

ジョーは無言でガッツポーズをとった。フランソワーズには見えないのでちょうど良かった。

「ディナーのフルコースでしょう?頑張るわ」
「――え?」
「え?・・・そうでしょう?何?違う話?」
「――あ、いや・・・。そのだな」
「ん?」

ジョーの頭の中にはその姿が乱舞しているのに、それをどう言えばいいのかすっかり混乱してしまっていた。
ストレートに言うのも憚られるし、かといってこのままではフランソワーズは気付いてもくれないかもしれない。
まさかわかっていてわからないフリをしているとも思えなかった。

「・・・ええと」

さて、何て言おう?

 


 

5月12日

 

フランソワーズは甚だ疑問だった。自分自身に。
もう何十回、自問自答しただろう?
目の前の商品をためつすがめつ見つめ、裏地を吟味し自分の肩にあてて。そうしてまた同じ質問を自分にするのだ。

――私、どうしてこんなことしてるのかしら?

手元には既に何着もの「候補」がある。が、いずれも決め手に欠けるような気がして決められない。

――しかも、「決め手」って何なのよ。

小さくため息をつく。
そうして今度は心の隅に押し遣った「答え」を仕方なく引っ張ってくるのだった。

・・・でも、最初にしたのは私だし。――そうよ。するなら徹底的に、よ。うん。それにお誕生日だもの。去年と同じがいいって言われてもすっきりしないわ。だったらバージョンアップするしかないじゃない。たぶん・・・たぶん、ジョーもそう言っていた――そう、そうよ!ジョーもソレを指していたに違いないわ。だって、ちゃんとした仕様って言ってたし。

うん。

ひとつ納得したところで、再び手元のソレに意識を移す。改めて数枚を肩にあて、うーんと唸る。
鏡の中の自分は、フランソワーズの目には自分だけでなく隣に立つジョーも一緒に見えるのだ。だから、彼の隣にいる自分が可愛いかどうかが凄く気になった。ジョーの目に可愛く映らなければ意味がないのだ。
だから、真剣に吟味しているのだった。

・・・決められない。

やっぱり、いつもの友人たちを連れてくれば良かったかしら?

がしかし、すぐにその考えを打ち消した。

ダメダメ、絶対、どうして買うの、どうして迷うの、って散々言われるに違いないもの。
そんなの、――そんなの、答えられるわけないのに。

やっぱり自分ひとりで選ばなくては。と気合をいれる。
そう、これは自分ひとりの戦いでもあるのだ。

 

***

 

――これはレースがヒラヒラしてて可愛いけど・・・新婚さんみたいね、ふふっ・・・じゃなくて、そう、ちょっと「いかにも」よね?

ベビーピンクにレースがついたソレを却下する。

それから、これ・・・は。やっぱり柄物は難しいかしら。お花の方がいいかしら。・・・アヒルはないわね。

黄色地にアヒルが散っているのも却下する。

そうするとやっぱりシンプルなの?でも――地味じゃないかしら。あ、それともワンポイントとか。・・・ドレスっぽいのもいいかもしれない。アリスちゃんがしていたようなの。

それだったらちょっと得意だった。何しろ兄に小さい時から「アリスちゃんと似てる」と言われているのだ。
しかも、あれだったらフランソワーズもそんなに恥ずかしくはなく、それでもジョーの望む条件を満たしているような気もする。

そうね。・・・そうしようかしら。

 

 


 

5月13日

 

ジョーが帰国した。
レースが終わってから、なぜ帰ってくるまで時間がかかったのかというと、あれこれマシンの設定をスタッフと詰めていたからだった。
本当はまだまだ続く予定だった。が、昨年のことがあったから、スタッフとしても安全策をとるつもりでジョーを帰した。
それを特例ととるかどうか。
ともかくジョーは今日、ギルモア邸に着いたのだった。

「お帰りなさい」

いると思っていなかった人物に出迎えられ、ジョーは目を丸くした。

「あれ?フランソワーズ?」

確か、バレエのレッスンが始まっているはずではなかったか。

「今日はお休みなの」
「ふうん・・・」
「・・・ジョー?」

靴を脱いで上がったジョーを引きとめ、下からじっと褐色の瞳を凝視する蒼い双眸。

「・・・なんだい?」
「ううん。――なんでもないわ」

今年は――大丈夫なようだった。
毎年、誕生日が近付くとジョーはどこか不機嫌そうな具合が悪そうな、自分で自分の感情の収拾がつかないようなそんな症状に襲われる。そんな時は目を見ればすぐわかるので、フランソワーズは必ず彼の瞳をじっと見つめることにしていた。

――うん。大丈夫ね?ジョー。

 

***

 

夕食後の後片付けを終えたフランソワーズは、ジョーが珍しくウッドデッキに出ているのに目を留めた。
真っ暗な海に向かって前庭に作られているデッキ。リビングの照明が微かに届いてはいるものの、それは手すりにもたれて向こうを見ているジョーの背中を微かに浮かび上がらせる程度だった。後は闇に包まれている。

「・・・ジョー?」

ジョーは自分には暗闇が合っている――と勝手に思っている。けれども、フランソワーズはそうは思わない。ジョーには暗闇が似合うのではなく、彼が頑なにそこから出て来ないだけなのだ。
だから、いつも彼がそこにわだかまっているのを手を引いて連れ出す。それが彼女の役目だった。

しかし。

今回は闇から引っ張り出すのではなく、一緒に闇に溶けた。

「・・・何を見てるの?」
「――海」

ジョーの隣に立って、同じ方向を見つめ。そうして放った質問だった。が、あまりにも予想通りの返答に微かに眉間にシワが寄る。

「それはわかっているわ。何が見えるの、っていう意味よ」
「――別に。何も見えないよ。・・・僕には」

最後の「僕には」が気になった。

「・・・何を考えてたの?」
「いや・・・何でもないよ」

一拍間を置いて、フランソワーズは頷いた。

「・・・そう」

それ以上追求しない。
ジョーが何も言いたくないなら、それでいいのだ。別に――どうしても知りたいというわけではなく、元々は彼の隣にいるためのきっかけの問いだったのだから。
だから。
答えなど、なんでもいい。

しばらく無言で何も見えないような漆黒の海のほうを眺める。
並んで立っているのに、隣には誰がいるのかわからないくらい暗かった。

ふと――不安になった。
いま、隣にいるのはいったい誰なのだろう?
本当に、自分のよく知っている人物なのだろうか。

「・・・ふ」

フランソワーズ。とか細い声で言いかけた。
が、そこへ妙に明るい声が被さった。

「ふふん。ジョーの負けね!」
「・・・えっ?」
「先に寂しくなったジョーの負けよ」
「負け、って」
「――寂しくなっちゃったんでしょう?」
「別に寂しくなんか」
「――いいから。そうだよ、って言っちゃいなさい」

そうしてフランソワーズはジョーの腕に自分の腕を絡ませる。頬をぴったりと肩に寄せて。

「他には誰も聞いてないわ」
「・・・」
「小さい声なら、私にしか聞こえないから」
「・・・うん」

 


 

5月14日

 

「ダメっ。入って来ないで!」

フランソワーズの部屋をノックし、返事があったのでドアを開けて一歩踏み込もうとしたジョーは、部屋の主の怒声に押され、踏み込もうと片足を上げたまま固まった。

「え。いまいいよって返事したじゃないか」
「だって、ジョーだと思わなかったもの」
「何だよそれ。僕はダメってことかい」
「そうよ」

ジョーは片足立ちのままぐらりと揺れた。

「ひっ酷いなあ。おっとっと」
「何よ、おっとっと、って・・・」

ジョーが入って来た途端にベッドの上に身を伏せて何かを彼の視界から遮っていたフランソワーズは、ジョーの不可思議な声に振り返った。そうして片足立ちのジョーを見つけ目を丸くした。

「・・・なにしてるの」
「何って」
「フラミンゴの練習?」
「うん、そう。――って、そんなわけないだろ!」

ジョーは上げていた足を下ろすと憤然と胸を張った。

「どうして僕は入ったらダメなんだよ」
「どうしても、よ。もうっ、入って来ないで、ったら!」
「ふん」

ジョーは鼻を鳴らすとフランソワーズの静止に構わず、ずかずかと入ってきた。

「ちょっと、ダメよ!」

フランソワーズは胸の前に掻き抱くようにしてジョーから何かを隠し、再びベッドに伏せた。
その隣にジョーがベッドを軋ませて腰掛ける。

「何、隠したの」

フランソワーズの背中を指先でつつく。

「いいの、ジョーには関係ないから」
「・・・ふうん?」
「もうっ、早く出て行って!」
「いやだね」
「ジョー!」
「・・・何を隠してるのか気になる」

そう言うと、ジョーはフランソワーズの顔を覗きこむように身を屈めた。

「ね。何隠したの」
「教えません」
「ねえ」
「・・・もうっ!お誕生日まで待てるでしょう?」
「――誕生日」
「そうよ。そのプレゼントなんだから」
「・・・プレゼント」

頬を染めたままベッドに伏せているフランソワーズ。その顔を屈んで覗き込んでいるジョー。
ジョーの前髪の隙間から見える褐色の瞳がすうっと笑んだ。

「――なんだ。だったらそう言えばいいのに。そうしたら、僕だって強引に見ようとはしないさ」
「・・・本当かしら」
「本当だ、って」

言うと立ち上がってくるりとフランソワーズに背を向けた。

「ふうん・・・そうか」
「そうよ。これから試着するんだから」
「・・・試着?」

眉間にシワを寄せ、思わずフランソワーズを振り向こうとしたが何とか意志の力で堪えた。
お誕生日のお楽しみ、とフランソワーズが言ったのだ。だったらあと数日、どうにか待つくらいできるだろう。
いったい何をどう試着するんだろうなと頭のなかであれこれ楽しい想像をめぐらせ、ジョーは上機嫌で部屋を出て行った。
残されたフランソワーズはほっと息をつくとそうっと身を起こした。

「・・・もう。ジョーのせいでしわくちゃになっちゃったわ」

あとでアイロンをかけなくちゃ。
そう思いながら広げてみる。
ジョーには試着と言ったけれど、果たして試着なんか必要なのだろうかとちょっと考えながら。

でも――恥ずかしいのは私だもの。ちゃんとチェックしておかなくちゃ。

大きく頷くと立ち上がった。

 


 

5月15日

 

とりあえず、部屋の鍵をかけて――ジョーにまた邪魔されないように――更にそれだけでは安心できず、チェストを動かしてドアの前に置いた。
これでヨシ。
もしも誰かがいきなりドアを蹴破っても、ともかくチェストが盾にはなってくれるはずだ。そのチェストが破壊されるまで数秒しか保たないとしても、それでもその数秒が自分を守ってくれる。

・・・この邸は危険がいっぱいだわ。

胸の裡で言ってから、いざ。と試着を始めた。

 

***

 

「・・・・」

鏡の前でフランソワーズは無言だった。
確かに試着して良かったとは思う。が、やっぱりしなかったほうが幸せだったかもしれない――とも思うのだ。

シンプルなアイボリー。
そんなにひらひらしてはおらず、デザインも至ってシンプルであった。
だから、もちろん普通の用途にも使えるはずであり、その場合には「けっこうカワイイ」部類に入るのかもしれないとも思えるのではあったが。
いかんせん。
思っていたよりも丈が短かったのだ。
もちろん、そんなに短いわけではない。が、それでもフランソワーズが想像していたよりはじゅうぶんに短かったのだ。
前回試したものより、ほんの数センチではあるけれど、――あの時と今回は違うのだ。
何しろ、前回は丈など考慮にいれなくてもすんでいた。が、今回は。

――ちゃんとした仕様。

なのだから。

もちろん、今は試着段階なのでズルをしている。
が、それでもじゅうぶんにこの姿は恥ずかしかったし――やはり、どうあっても丈が短いというのは大問題だった。

ともかく、後ろもチェックしてみる。

心配な部分はなかった。
問題は、やはり丈のようだった。

ちょっと屈んでみる。
前屈みになると、ちょっとだけ丈が上がった。うしろから見れば、・・・
フランソワーズはぱっとまっすぐ立つと、今度は腰を降ろしてみた。座るぶんには何ら問題もなかった。が、やはり丈が気になった。

・・・もう。これってやっぱり元の設定に無理があるんだわ。

それに――微かに寒い。
今日の気温が低めだからとはいえ、やはりこの姿ではかなり寒いものがある。長時間は難しそうだった。
が。
そもそも長時間この姿のままでいること自体、有り得ないだろうとは思うのではあるが。

 

 


 

5月16日

 

それは朝食の席だった。
いつものように寝坊して他の者よりだいぶ遅く食卓についたジョー。それと入れ違いに既に食べ終わって席を立ってゆく面々。そのうちのひとり、ハインリヒがひとつ咳払いをするとジョーのそばに立った。

「あ。おはよう、ハインリヒ。・・・何か用?」
「ああ。まあな」

ジョーの正面に座るフランソワーズも不審そうに見つめる。
二組のネツレツな視線を受け、いっしゅん言葉に詰まったものの、ハインリヒは頑張った。内心、昨夜のくじ引きを恨んでいたのだが、それは既に過去のこと。ともかく、くじ引きで決まったことなのだから、役目を果たさなくてはならなかった。

「――その、お前ら、この後は」
「うん。お昼前には向こうに行くけど?」
「ええ。・・・ふたりっきりで過ごすのよ。ねーっ」

首を傾けてにっこり笑い合う二人に回れ右をしそうになりながらも、ハインリヒは頑張った。

「そう・・・だよな、うん。それは結構。で、そのだな」
「あらダメよ。連れて行かないわよ。二人っきりなんだから!」
「・・・誰も連れて行けなんて言わないさ」

冗談じゃない。もし連行されたら、それは限りなく罰ゲームに近いぞ――とハインリヒは心の中で言ってから勇気を奮い起こした。

「そうじゃなくてだな。つまり、今日はジョーの誕生日だろう?」
「ええ、そうよ?」

にっこりフランソワーズが言うのと正反対に、ジョーは眉間にシワを寄せ興味を失ったように食事を再開した。

「で――俺らからジョーに」
「プレゼント!?」

フランソワーズの目が驚きに真ん丸くなる。何しろ、今までそういうものはなかったのだ。
ジョーの誕生日は本人の複雑な思いから、お祝いなどしないのが常だった。それが数年前から少しずつ軟化して、フランソワーズとふたりならば小さなお祝い事のような雰囲気も受け容れるようになったのだった。
だから、彼女以外からのプレゼントなどジョーにとっては晴天の霹靂、豚に真珠、猫に小判、暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に念仏・・・というわけのわからない驚天動地の事態であった。

「んもう。ジョーったら、大袈裟ね」

箸をつけたままの形で固まったジョーをよそにフランソワーズはハインリヒの差し出した包みに目を向けた。

「・・・なあに、これ」

包みとはいっても薄いセロハン紙に包まれリボンがかけられただけの簡素なラッピングだったから、中身は丸見えだった。(ちなみにラッピングしたのはジェロニモである)
フランソワーズが問うまでもなく、それはDVDだと誰が見ても明らかだった。

「・・・DVD?」
「ああ。みんなから、だ」

受け取れ。とハインリヒはジョーの腕に押し付ける。
自失していたジョーは漸う意識を取り戻すと、ぎこちなくそれを受け取った。

「・・・ありがとう」
「いや。――まぁ、お楽しみに、ってトコロだ」
「なんのDVD?」

どう見ても市販されている仕様ではない。

「え――ああ。そうだな。ま、・・・ジョーひとりで見ろ」
「・・・ひとりで」
「そうだ。――できれば、ひっそりと、な」
「・・・」

ジョーはどこか思うところがあったのか、暫くしてこくんと頷いた。
ハインリヒはそんなジョーの様子を確認して満足そうにこちらも頷いた。

「もー。ふたりしてなんなの」

ジョーとハインリヒを交互に見つめ、フランソワーズが頬を膨らませる。

「ねえ、もしかしてエッチなのじゃないわよね?」
「えっ?」
「ああ?」
「だって、そんなの――どうしてジョーに渡すのよっ」

まなじりを決するフランソワーズにハインリヒは思わず噴き出した。

「違うよ、なんだったら一緒に観ればいい。が、ある意味――エッチなの、って言えばエッチなのかもしれないが」
「何よ、それっ。やあよ、そんなの」
「仕方ないよ。何しろ主演女優が」
「主演女優?」

やっぱりエッチなのじゃない!!
フランソワーズは席を立つとジョーからそれを奪おうとにじり寄った。が、ジョーは大事そうに抱えたまま隙を見せない。

「もうっ、ジョー。そんなエッチなの、観なくてもいいでしょっ」
「ヤダ。これは僕の」
「嫌よ。どうしてそんな事言うの」
「だってさ、・・・主演女優が」

ちら、と確認するかのようにハインリヒを見る。ハインリヒは肯定するように頷いた。

「・・・主演女優が凄いんだから」
「凄い、って何よ!」
「凄いから凄いんだよ」
「見た事ないくせに」
「あるよ。この女優のファンだから、みんなが僕にくれたんだ」
「エッチなのの女優のファンだっていうの!?」
「そうだよ?」
「そんなのってひどいわ」
「ひどくないよ、別に。僕にとっては当たり前で――う。わっ」

ジョーは中身を撒き散らしながら飛んできた醤油差しをマトモに胸に受けた。

「フランソワーズ!また醤油を無駄にしてっ――」
「知らないっ。ジョーのばか!」

そして飛んできたのは、ふたを外してあるソース。こちらはジョーの脳天にヒットした。

「あ、こらっ、フランソワーズ」
「知らないっ!ジョーのばか!エッチ!」
「エッチ、って男は誰だって――」

ケチャップの赤が視界を覆い、ジョーは戦意を喪失した。
それでも汚れないようにDVDをひしと胸に抱えていたのはさすが009と言うべきか。
しかし、その姿は更に003の怒りを買っただけだった。

「ジョーのばか!もう知らない!」

そのままダイニングを駆け出して行ってしまった。

「・・・あーあ」

ソースと醤油とケチャップにまみれたジョーをハインリヒが気の毒そうに見つめる。彼はさすがの無傷だった。
ジョーは慣れているのか、ひとつため息をついただけで食事を再開した。

「・・・お前ら」
本当に仲がいいよな――

放っておけば、明日も来月も来年も同じ光景が繰り返されそうな。そんな平和な空間だった。
でも、それでいい。
そんな二人がいるからこそ、自分たちにも普通の日常があるのだと――普通に日々を過ごすこともできるのだと――信じられるし、思い出すことができる。

でも、そう真面目に彼らに言うのは躊躇われたから、代わりにハインリヒはこう言った。

「本当にバカップルだよな」

ジョーは無言でこっくりと頷いた。

 


 

 

朝からケチャップやらソースやら醤油まみれになったジョーは、それでも上機嫌だった。何しろ腕には複数枚のDVD。それも主演女優は彼の最愛のひとであるフランソワーズなのだから。
自分の撮ったのはもちろん、一番可愛く綺麗に撮れているのに間違いないのだけれど、では他の者が撮影した彼女はどんな感じなのか、他の男の目から見たフランソワーズは。・・・と思いは尽きない。できれば、いますぐ自宅マンションに飛んで帰って、じっくりゆっくり観てみたかった。が、もちろん、そんな事ができるはずもない。
フランソワーズの機嫌が悪いのだ。
彼女はどうやら、ジョーが他のメンバーから「エッチなDVD」を貰ったものだと信じているようなのである。
ジョーとしては不本意極まりないのだが、かといってこれは全部きみだよと言ってみたところで結果は同じのような気がして言えなかった。つまり、エッチなDVDなら早晩取り上げられるだろうし、もしも全部フランソワーズの映像なのだとしても恥ずかしいわとか何とか言われて取り上げられてしまうだろう。
だったら、とりあえずは何も言わず、そう、夜中にこっそりひとりで見てみたほうがずっといい。あるいは遠征先に持って行ってしまってもいい。ともかく「今」ならまだ、フランソワーズの意識はDVDよりも別な方へ向いているのだから。

 

***

 

ジョーの自宅マンションに揃ってやって来たのは昼過ぎだった。
途中で食材等の買い物もすませてある。
ジョーのマンションへ向かう、となってからずっと、フランソワーズはハイテンションだった。すっかり朝のDVDの件も忘れてしまっている。彼女には、それより何より、もっと大きなイベントが控えているのだった。

「ジョー。今年のプレゼントはちょっと違うわよ」
「え。――なんだろう」
「後のお楽しみ」

そんな事を話しながら、笑い合って。

「――そうだ。蒼いリボン、要るよね?」

それは昨年のジョーの誕生日に「プレゼントは私」とフランソワーズが首に巻いていたものだった。ジョーはそれを大事にとってあるのだ。フランソワーズは何度も捨てろと言ったのだけど、これを巻いたらいつでもきみは僕のもの、と適当なコトを言ってジョーは決して捨てさせなかった。
そのリボンは、マンションの部屋に着いて早々にジョーが持ち出してリビングのテーブルの上に置いてある。

キッチンで食材を冷蔵庫に納め終わったフランソワーズは、そのリボンを見つけてため息をついた。

「ジョー。今年はこれは使わないのよ」
「どうして」
「だって、・・・言ったでしょう。今年のプレゼントはちょっと違うわよ、って」
「違うって・・・どんな」
「あなたがリクエストしたんじゃない」
「リクエスト?」
「ほら。この前電話で。・・・ちゃんとした仕様の、って。――忘れちゃったの!?」
「え。う。いや・・・覚えてるよ。うん」
「――アヤシイ」

睨む蒼い瞳から目を逸らし、ジョーはともかく蒼いリボンを自分の手に巻きつけて――放置しておけば捨てられてしまう――灰皿を手にベランダに逃げた。

 

***

 

――ちゃんとした仕様、って何だろう・・・?

一雨きそうなグレイの空にぷかりと煙の輪を吐き出して。

まさか、あれじゃないよな・・・?

確かに、前回電話で何かリクエストしたのは覚えている。が、それは――フランソワーズのとんちんかんな答えで諦めたはずではなかったか。いや、それとも――彼女に真意が伝わったのだったか。
ジョーは低く唸ると髪をかきあげ、空を見つめた。
グレイの空は好きではなかった。

――なんだか、今日は・・・

気分が塞いでくる。と言ったらフランソワーズは怒るだろうか?

かといって、ひとり部屋にこもってDVDを観ていたら何て言われるのかわかったものではない。ともかく、締め出されたフランソワーズはごねてごねて天を呪いジョーを呪い世界中を呪うだろう。
可愛いフランソワーズの映像を――自分の撮ったぶん以外はどんなのかわからないが、たぶん可愛いのは間違いない――見尽くして堪能して、今日という日を過ごすのも悪くは無い。ひとりだったら。
でも。
実物がそばにいるのに映像を観るというのも変な話である。

――結局。

自分はフランソワーズが一番なんだなあと思うのだった。

 

***

***

 

プレゼントのタイミングはどうしたらいいのだろう?

フランソワーズはずっと考え込んでいた。頭のなかでは何度も何度もシミュレーションを重ねているが、どれもこれも納得がいかなかった。

ジョーにいったん外出してもらおうかしら。そして、出迎えて――

いやいや、それでは前回と同じ演出で面白くない。それに、玄関先でどうこう・・・というのもできれば避けたかった。
もしもそういう感じに雪崩れ込むことになるのなら。

いちばん不自然じゃない時といえば、それは当然の如く食事の時である。が、せっかく作った数々の料理を――今日のためにレパートリーも増やして練習してきたのだ――食べる代わりに自分が食べられてしまうのはいただけない。
彼にはちゃんと全部食べてもらわなくては。

でも――だったら、いつがいい?

うかうかしていると今日という日が終わってしまう。
だったら。

 

***

 

ジョーは煙草を一本吸い終わって、灰皿を手に部屋へ戻った。
否。戻ろうとした。
ベランダからリビングへ入ろうとサッシに手をかけ、一歩室内に踏み出して――固まった。

「・・・フランソワーズ?」

目の前にフランソワーズが立っていた。笑みを浮かべ、頬を紅潮させて。

「――ええと。・・・どうしたんだい?」

我ながら変な質問だと思う。どうしたも何もないだろう。ここにフランソワーズがいるのは何の問題もないのだから。
しかし。

「別にどうもしないわよ、ジョー」

恥ずかしそうにもじもじと両手の指先を合わせながら、

「でも、私としては、その・・・、ジョーがエッチなDVDを観るのは納得いかないというか、あ、観てもいいのよ、別に。ええ。どうぞ、観て頂戴。でも、そっちに集中されてしまうのは悲しいというか、何というか・・・で。だから、その」
「――だから?」
「だから・・・そのう」
「・・・何?」

険しいジョーの顔に、フランソワーズは一歩退いた。
――怒ってる。の、だろうか。

ジョーは無言で灰皿をテーブルの上に置くと、あっという間にフランソワーズの目の前に到達していた。

「だから――何?フランソワーズ」
「だ、だから」

肩の上に流れている髪をひと房掴み、ジョーはそれをそうっと彼女の背中に払い除けた。
途端に露わになる白い肩。
そして、その肩に指先を這わせ――ゆっくりと背中に回した。

「・・・フランソワーズ」
「何かしら」
「・・・これって」
「なあに?」
「もしかして――」

フランソワーズはジョーが耳元で囁いた途端に真っ赤に染まった。

「だ、だって、前にジョーがっ・・・」
「――うん。そうだね」
「だから、それに電話で言ってたし、だから・・・」
「――うん。憶えてるよ」
「嘘。さっきは忘れたって言ってたじゃない」
「まさか。忘れるわけないじゃないか。――期待していたんだから」
「・・・ほんと?」
「うん。――この白いの、見たことないけど、可愛いね」
「ほんと?」
「うん。似合うよ」
「良かった。・・・選ぶの、悩んだのよ。とっても」
「――そうなんだ」
「だって、透けたら恥ずかしいし」
「僕はそれでも構わなかったけれど」
「ばか。・・・だって、やっぱりそれなりに品があるほうがいい、し」
「・・・フランソワーズらしいね」

フランソワーズを抱き締め、髪を撫で背中を撫で――あちこち撫でていたジョーはちょっと身体を離した。

「――うん。いいね。可愛い」
「ほんと?」
「うん。・・・ちょっと後ろ向いてみて」
「え。――こう?」
「うん・・・ふうん。なるほど」
「なるほど、って・・・何が?」
「いや――」

振り向いたフランソワーズはくすくす笑うジョーを認め、怒ったほうがいいのか照れたほうがいいのか、判断に困った。何しろ笑われている――の、だから。

「何か変?」
「いや。――これってつまり、僕のってことだよね」
「・・・そうね」
「今年のプレゼントはちょっと違うって、つまりこういうことだったのか」

触れもせずただ上機嫌で微笑むジョーの視線が絡みついて、フランソワーズは落ち着かなかった。

で――このあと、どうすればいいのだろう?

まさかこのままキッチンでお料理とかそんなことはないだろう。それはいくら何でも。

「で・・・どうしようか」
「どう、って・・・」
「――うん。せっかくだから、映像に残す、とか」
「えっ、イヤよ、ジョーったら!」
「嘘だよっ・・・」

言うと、ジョーは真っ赤になって顔を覆っているフランソワーズを抱き上げた。

「もったいないけど、もらうよ。プレゼント。それに、いつまでもそんな格好じゃ寒いだろ」

白いエプロン一枚しか身につけていないフランソワーズは、ジョーの腕のなかで小さく頷いた。

 

***

 

去年があれで今年がこれで。
で――来年は、いったいどんなプレゼントが待っているのだろう。

目を閉じてジョーの胸にぴったり寄り沿っているフランソワーズを見つめ、その腕に体温を感じながらジョーは考えていた。
もちろん、こういうことではなくても、フランソワーズが用意してくれるものなら何でも良かった。が、やっぱり、一番欲しいものといえばフランソワーズ自身だったから――身体だけではなく、彼女の心も何もかも全て――来年もその次もこういうのがいいなと思った。

そうして、そんな自分にふっと笑みが洩れる。

――今までは、誕生日プレゼントなど要らないと思っていたのに。

こんな幸せな気持ちになるなんて思ってもいなかった少年時代。
誰かに生まれてきた事を祝ってもらって、何度も抱き締めてもらって、そして――誕生日という日が嫌でなくなる日がくるなんて。

「・・・フランソワーズ」

 

 


 

5月17日

 

コーヒーの香りに誘われて、ジョーはベッドから抜け出しふらふらとキッチンへ向かった。
そこにはアイボリーのエプロンと金色の髪――の、後ろ姿。

「――おはよう。あ、」
「あらジョー。もう起きたの」

続けて何か言おうとしたジョーを遮るように、エプロン姿のフランソワーズがくるりと振り返る。

「うん。あの、それ」
「ん?これ?」

ジョーが指差すのを追ってつまみあげたのはアイボリーのエプロンの裾。

「だって、本来はこういう用途だもの。新品だし。使うわよ?」
「え。いや、そうだけどその、」

口の中でごにょごにょ呟くジョーに構わず、フランソワーズはマグカップにコーヒーを注ぐとジョーに差し出した。

「あ、――ありがとう」

差し出されるままに受け取って、ジョーはコーヒーをひとくち飲んだ。
そんなジョーを微笑みをたたえてじっと見つめ――フランソワーズは明るく言った。

「駄目よ」
「えっ」
「これはエプロンなんだから、使うの。とっておくだなんて勿体無いわ」
「えっ、でも」
「ん?なあに?聞こえないわ」

ジョーはむうと黙って再びカップに口をつけた。

「・・・別にそんな事言ってないじゃないか」

小さく言ってコーヒーと一緒に飲み込む。

「聞こえてるわよ、ジョー」
「・・・」

カップ越しに見つめる褐色の瞳。それをじいっと蒼い瞳が追い詰める。

「もう。毎年そうやってコレクションしても仕方ないでしょう?そういう趣味のひとかと思われちゃうわよ?」
「・・・お互いさまだろ」
「私は別にそういう趣味じゃないもの」
「僕だって無理にそういうカッコしてくれとは言ってない」
「あらそう」
「うん」
「じゃあ、――今年で終わり、ね?」
「え」

ジョーは慌ててカップを傍らに置くと、フランソワーズを抱き寄せた。
甘えるように鼻をフランソワーズの首筋に押し付ける。

「フランソワーズ。そんなの、」
「だってジョーったら素直じゃないんだもの」
「・・・」

ジョーは無言でフランソワーズに擦り寄るばかり。

「――ま、いいわ。――お誕生日だし。ね?あ、こら、今日はもうお誕生日じゃないでしょっ、駄目だったら――」