「ココア」

キッチンからどんがらがっしゃんという賑やかな音とともに、うわあという男の悲鳴がした。

先刻から落ち着きなくそちらのほうを窺っていたフランソワーズは、はっと腰を浮かしたがひとつ深呼吸をすると椅子に深く座りなおした。

こんなことばかり数回繰り返している。なんとも居心地が悪い。が、満面の笑みでキッチンに消えたひととの約束があるから仕方がない。


「絶対に覗くなよ」

恩返しに来た鶴のようなセリフを言ってキッチンに入ったジョー。
「目」を使うなという意味も含まれているその言葉に律儀に頷いたフランソワーズだったが、30分過ぎて、そんな自分をそろそろ悔やんできていた。

いったい彼はキッチンで何をしているのだろうか。

 

…私のキッチンなのに。


もちろん、厳密には「フランソワーズの」キッチンではない。がしかし、ギルモア邸のキッチンに博士はイワンのミルクを作る時しか入らないし、
ジョーに至ってはキッチンに用があるわけではなくキッチンに置いてある冷蔵庫に用がある時だけ訪れる場所であった。
だからやはり「フランソワーズのキッチン」と言ってしまっても過言ではないだろう。
そのフランソワーズのキッチンでいまいったい何が起こっているのか。否、何が起ころうとしているのか。

「…お湯を沸かすのしかできないくせに」

たぶんジョーはお茶を淹れてくれるつもりなのだろう。会話の流れからいってもそのはずであった。
けれども、30分以上かかって淹れるお茶ってどんなものなのかフランソワーズにはわからなかったし大体、派手な破壊音をたてなければならない理由も思いつかなかった。

そうしてまんじりともせず一時間が過ぎた。

言いつけ通りに大人しくリビングで待っていたフランソワーズは、ジョーが入って来ると顔を上げた。

「ジョー、いったい何を」

何をしていたの?という問いは発せられずに終わった。なんとなれば、一目瞭然、ジョーがにこにこしながらトレイを手にやって来たのだから。
トレイにはカップが一つ載っている。フランソワーズのカップである。
湯気のたっているそれをジョーが慎重な手つきでテーブルに置いた。

「どうぞ」

それは、ココアだった。

たぶんココアであろう。香りがそう物語っている。
が、見た目は得体の知れない茶色く濁った液体だった。

「…ありがとう」

しかも、カップを持つと異様に熱い。見れば、中身はぐつぐついっているような気もする。これに口をつけたら火傷を負うのは確実だろう。
フランソワーズはいったんカップを置こうと思ったけれど、にこにことこちらを見ているジョーに気付いてやめた。
彼は、フランソワーズが口をつけるのをじっと待っているのだ。そして味の感想を聞きたがっている。たぶん。
仕方がないので、フランソワーズは一回二回とふうっと息をかけた。が、そんなに簡単に冷めるようなシロモノではなかった。

「あの、ジョー、これ」
「あ。ちょっと熱いかな」

ちょっとどころではない。

「…もう少し冷めてからでもいい?」
「うん」

そんなわけで、フランソワーズはカップを置いた。そうして改めてジョーを見つめ口を開いた。

「あの、これはココアよね?」
「うん」
「ジョーにココアが作れるなんて知らなかったわ」
「うん。初めて作った」
「…どうして急に?」
「フランソワーズが好きかなーって思ってさ」

照れたように言ってから、それだけでは言葉が足りないと思ったのか口早に続けた。

「この前、テレビのナントカ特集でやってたんだよ。で、これなら僕にも作れそうだな、って」
「材料とかどうしたの」
「それもテレビで言ってたから、僕の補助脳が活躍してくれた」
「…補助脳使って暗記したの」
「じゃないと忘れそうだったし」

そうまでしてココアをご馳走したくなった理由は何なんだろうか。
あるいは、ただ単に作ってみたかっただけなのか。

「ココアってフランス語でショコラって言うんだろ?」
「え、ええ…チョコレートの飲み物よ」

にこにこしているジョー。

「だから、ちょっとね」

だから、ちょっとね…?

フランソワーズは首を傾げた。傾げたまま目の前のカップを見つめた。まだ湯気が立ち上っている。

「ねぇ、どうやって作ったの」
「うん?えーっと、ミルクを沸かして」
「沸かす!?」

ちょっと待って、とフランソワーズはジョーの顔をひたと見た。

「ミルクを沸かしたの?」
「うん。最初、やかんにいれて沸かそうとしたんだけど何だかうまくいかなくてさ」

やかん!??

「変な匂いがしてきたから、これは鍋で沸かすのかと思って捜したら、小さなのが見つかって。あれってミルク用だよね」
「…ええ。たぶん…」

フランソワーズは顔をしかめながら、嫌な予感とともに目のスイッチをいれた。
そして飛び込んできた映像に気絶しそうになった。

――私のミルクパンがっ…。

焦げ付いたミルクパンと、ガス台と床には吹き零れたと思しきミルク。
流しにはおそらく駄目になったであろうやかんと鍋が散乱し、何故か床にはココアパウダーが散乱していた。

――いったい、何をどうしたらこうなるの。

カップ一杯のココアなんて、カップにミルクを入れてレンジで温め、しかるがのちにココアパウダーを溶かせば出来る。
せいぜいスプーン一個を使うくらいだ。時間だって一分かかるかかからないかくらい。
もちろん、本格的に作ろうとすればもう少し時間がかかるだろう。しかし、ジョーがそんな本格的なものを作ろうと思うはずがない。いくら補助脳を使ったとしても、ミルクを沸かすと言った時点で有り得ない。

…私のキッチン。

その惨状に涙が出そうになったけれども、目の前のジョーに全く悪気がないのはわかっているからどうしようもない。
しかも好意でしてくれたことなのだ。

「ジョー、あの、いったいどうして急に」
「えっ?いやあ、その、ほら。もうすぐ…だし」
「え?」

ごにょごにょしていて肝心の部分が聞き取れなかった。

「ええとその、…まあ、いいじゃないか!うん!」
「…いいけど…」

 

 

その答えがわかったのはしばらくしてからだった。

照れているジョーが可愛くて、なんとなく構っていたらそのままいちゃいちゃしてしまって。
放置されているカップに気付いたら、なんと中身が固まってチョコレートになっていたというオチ。


つまりこれって…


バレンタインのチョコレート。


の、つもり?

 

 

その後、ジョーにはキッチン立ち入り禁止が言い渡された。