「上機嫌」

 

フランソワーズの鼻歌が聞こえてきて、ジョーは笑みを浮かべた。

「フランソワーズ。ご機嫌だね」
「ええ、そうよ」
「その様子じゃうまくいってるようだね。その…パートナーと」
「ええ!相性ぴったりなの!」
「そうか。よかったね」

フランソワーズは今、バレエの公演を控えて猛レッスン中だった。
連日レッスンで忙しく、こうしてジョーと話す時間もなかなかとれない。だから、珍しく一緒にゆっくりお茶を飲む時間がとれて嬉しかった。
上機嫌なのはバレエのレッスンがうまくいっているからではなく、こうしてジョーと一緒に過ごすことができるからなのだけど、生憎相手はそういう心の機微に疎い御仁だった。

紅茶を載せたトレイをテーブルに置くと、フランソワーズはジョーの隣に腰掛けた。
ふたりの膝がくっつきそうな距離である。

「ジョーは見に来てくれるのよね?もちろん」
「うん。行くよ。今から楽しみだなぁ」
「寝ちゃ駄目よ?」
「う、うん…がんばるよ」
「ステージからだってあなたのことはすぐわかるんですからね」

前科があるジョーは黙って頭を掻くくらいしかできない。
そのままカップを口につける。

「――で?ミシェルだっけ?…紹介してくれるっていうのは」
「ええ、そうよ。是非会って欲しいの」
「ふうん…」
「彼もジョーに御挨拶したいんですって」
「へぇ…」

何故?

という言葉をジョーは飲み込んだ。

フランソワーズのバレエのパートナーであるミシェル。
彼とフランソワーズは仲の良い友人であり、相性も良いバレエのパートナーである。という以上でも以下でもない。

…と、ジョーはフランソワーズから聞いている。

とはいえ、異性である。

だからジョーは思うのだ。
フランソワーズが相手で何も思わない奴などいない、と。
しかしそれが全くわかっていないフランソワーズであったから、実は少し前にふたりの間にひと悶着あったのだった。(注1)
少し強引な手を使ったジョーとしては、ここで敢えてそれを蒸し返したくはなかった。

だから話題を変えることにした。

「そうそう、チケットだけど」

言いながらカップを置き、フランソワーズに向き直る。

「チケット?」

フランソワーズはきょとんと首を傾げた。

「渡してあるでしょう。ジョーのぶん」
「うん。それなんだけどさ。もう一枚なんとかならないかな」
「もう一枚?」
「ああ。仕事先でバレエに興味を持っている人がいてね、誘ったらきっと喜ぶと思うんだ」
「まあ、そうなの?――ちょっと待ってね」

フランソワーズは立ち上がるとリビングを出て二階に行った。
そして戻ってきたときには、手にチケットを握り締めていた。

「ジョー、あったわ。ちょうど一枚だけ残っていたの」

はいどうぞ、とフランソワーズがチケットを差し出した。

「ありがとう。いやあ、良かったよ。ほら、フランソワーズも知ってるだろう?以前、お世話になった野上さん。彼女、どうやらバレエに興味があるみたいでさ。僕がちらっとそんな話をしたら一緒に行きたいって言ってて」
「――え?」
「この前のイベントのあと、フランソワーズのことが気に入ったみたいであれこれ訊いてくるんだよ。で、彼女はバレリーナで今度公演もあるんだって言ったら観に行きたいって言ってくれてさ」

言いながら、ジョーはフランソワーズの差し出すチケットを受け取った。

受け取ろうとした。

しかし。

「フランソワーズ?」

チケットの端を握ったままフランソワーズは手を離そうとしない。

「破けちゃうよ。ほら」

ジョーに優しく言われてもフランソワーズは微動だにしない。
が、数秒後にゆっくりと手を離した。

「良かった。きっと喜ぶよ」

笑顔で言うジョーはフランソワーズの様子に気付いていなかった。

「…一緒に来るのね…?」
「うん。一緒に行くから」

さらりと答えるジョーに他意はないはずだ。

しかし。

「そう…楽しみ、ね」

楽しいはずのジョーとの時間が、なんだか苦いものに変わってゆくようだった。

フランソワーズは軽く頭を振ると、再びジョーの隣に腰掛けた。
今度は膝がぴったりくっついた。

そのまま彼にもたれてみた。

「うん?どうかした、フランソワーズ」
「ううん、なんでもないの」
「ふうん?」


甘えたいだけ。

一緒にいたいだけ。

でもジョーはそんな気持ちにはきっと気付いてくれないだろう。
そういうところは鈍いひとだから。

そう思って小さく息をついた。


でもいいわ。

こうして寄り沿うことを許してくれるのだから。


そっと目を瞑ってみた。ジョーの肩と腕が温かい。
ずっとこうしていられたらいいのにとフランソワーズが思った時、ジョーの腕と肩を通して彼の声が響いてきた。


「――きみと他の男の話を聞いたときの僕の気持ちがわかったかい?」


――えっ?


フランソワーズは思わず体を起こしてまじまじとジョーを見つめた。

「うん?どうかした、フランソワーズ」

悪びれないジョーの笑顔。

「…ううん。なんでもない、わ…」

空耳?

気のせい?


――でも。


「…なんだか機嫌がいいのね、ジョー」
「そうかな」
「ええ。どうしてかしら」
「さあ。どうしてだろうね?」

 

 

(注1)みなっち様のお話です。野上さん・ミシェル氏はいずれもそのお話の作中人物。