「ささやき」
「ねえ…もっと好きになってもいい?あなたのこと」 「な…」 首に投げかけられた腕。耳元に寄せられた唇。 けれどもジョーはそのどれをも避けることはなく、ただ疾走していた。彼女を腕に抱きつつ。 いま、ジョーがするべきことは彼女を無事に研究所まで送り届けること。 それだけなのだから。 *** 「フランソワーズ。ジョーたちが到着するまであとどのくらいかわかる」 ピュンマに問いかけられて、フランソワーズが気遣わしそうに答えた。 「――そろそろ見えるんじゃないか」 研究所の前面に目を凝らす。が、彼の瞳にはただ荒涼とした地しか見えない。 「…いいえ。まだ何も」 「先刻のジョーからの連絡では、無事に脱出できたということだったけど」 ジョーはジェットと一緒に行動しており、ジェットは上空から、ジョーは地上からアプローチすることになっていた。 「大丈夫よ。ジェットがちゃんと援護してくれるでしょうし」 前方を見つめたままのフランソワーズにピュンマはちょっと笑った。 「一番の心配性は僕じゃないと思うけどな」 今回の班割りに皆納得しているものの、ジョーがフランソワーズと一緒ではないのを不満に思っているのは誰が見ても明らかだった。最も、ジョー本人も周りの者もそれを敢えて言いはしなかったが。 ふと視線がピュンマに向けられた。 「――なんでもない。そうだな。僕は今回ちょっと心配しすぎだったかもしれない」 ジョーに何度も念押しされたし、それに――そう、もしもフランソワーズに何かあったりしたら――もちろん自分だって彼女を守る自信はあるしそれを第一に考えているけれど――ジョーに会った時、己の身が危ない。 ――フランソワーズが絡むと我を忘れるからなあ、アイツ。 そんなんで大丈夫なのかと心配してしまうくらい、ジョーの我の忘れ方は酷かった。 「頼りにしてるよ、003」 ジョーが我を忘れたとき。 *** *** 「あら。ここにも口紅が」 ジョーの損傷箇所をチェックするべく仔細を検分していたフランソワーズは、何故か楽しそうだった。 傍らのベッドを見るが、ジェットは満面の笑みで言う。 「ああ、こっちはこっちでやってるからご心配なく」 彼のチェックはピュンマが行っていた。 「そうそう、お構いなく」 ピュンマがにっこり笑う。その微笑にジョーは渋面を作った。 「…まぁ、衿のところにも口紅。これで幾つ目だったかしら」 楽しげなフランソワーズ。ジョーのマフラーを取り去って、彼の防護服の衿に指をかける。 「…こんな内側につくなんて、いったいどんなことがあったのかしら」 ジョーは無言を貫いた。 「まあ。耳の後ろまで!」 ジョーが慌てて耳を押さえると、 「なあんてね。嘘でした」 くすくす笑うフランソワーズの声。 「…フランソワーズ」 地を這う暗い声。 「なあに?」 対するのは明るい声。 「いい加減、ひとで遊ぶのはやめてくれないかな」 俺たちにそれを訊くか? 急に話を振られたふたりは、きらきらの笑顔のフランソワーズに背筋をまっすぐに伸ばした。 「ど、どうって…なあ?」 そうしてどちらからともなく部屋を出て行ってしまった。 「…香水の匂いも凄いわ」 フランソワーズが鼻に皺を寄せた。 「――もてるのね」 ポツリとひとこと。 「いまさら、だけど」 ジョーはがっくりとうなだれると、深く深く息をついた。 「――もっと好きになってもいいか、って言われたんだ」 フランソワーズは記録版を置くと、ジョーの隣に腰掛けた。 「でもちょっとドキドキしたでしょう」 フランソワーズはジョーを見た。 ジョーもフランソワーズを見る。 「…言うわけないでしょう。やあね、ジョーったら」 せがむような瞳に明るく言って、フランソワーズは立ち上がった。 たまには意地悪もしてみたくなる。 ジョーの思いに気付かないふり。 「先に向こうに行ってるわ。ジョーも着替えたら来てね」 立ち去ろうとする気配にジョーは慌ててフランソワーズの腕を掴んだ。 「あの、」 すがるような瞳。 しばらくフランソワーズはその瞳を見つめていたのだけど。
そう耳元で囁かれジョーは目を瞠った。
吐息がかかる首筋。
――避けることなんて、できないのだ。
「ええと…予定ではあと30分ってところね」
隣でフランソワーズも前方を見る。
「そうか」
三手に分かれてのミッションだった。
先発隊のフランソワーズとピュンマは研究所で仲間たちが集まってくるのを今か今かと待っているところであった。
そして、地上からのジョーが要救助者である被検体の女性を救い出しこちらの研究所に連れてくることになった。
交通手段は無い。上空からの場合はジェットが、地上からの場合はジョーが連れてくる手筈である。
いずれも加速装置は使えないが、体力的に長距離を任せられるのはこの二名しかいなかった。
「…そうだな」
「心配性ね、ピュンマは」
「そうかな」
「そうよ」
ジョーはフランソワーズのそばにいられないのが嫌なのである。
それは恋愛感情を差し引いても有り余るものであり、彼は自分がそばにいないときに彼女に何かあったらとそれが気になるようだった。
以前、フランソワーズの兄に誓ったのだという。どんなことがあってもフランソワーズを守り抜くと。
もちろん、兄ジャンとてそれが叶えられる場合とそうでない場合があることはじゅうぶんわかっているだろう。だから例えできなくてもジョーを責めたりはしないだろう。そう思うものの、それでもジョーは彼自身の心に誓ったのだった。
なにがあってもフランソワーズを守り抜く。自身の命を懸けることになっても。
だから、彼女のそばにいられないミッションというのは不安要素ばかりが大きかった。
「一番の心配性?」
ピュンマはきょとんとした様子のフランソワーズに苦笑すると、その肩に手を置いた。
ジョーと本気で喧嘩なんて考えるだに恐ろしい。
「任せて、008」
頼りになるのはフランソワーズしかいないのだ。
危険な脱出行を経て、ジェットとジョーが研究所に着いてから数時間後。
要救助者である女性がジョーと離れたがらず愁嘆場を演じ、それを引き剥がすべく借り出された研究員とあれこれあって――やっとジョーは解放された。
今は医務室を借りて応急処置をしているところだった。
いっぽうのジョーは仏頂面を崩さない。
「うるさいな。そんなのどうでもいいから、早くすませてくれ。ジェットだって待ってるんだから」
「そんなの、記録しなくていい」
「あらそう?」
「うん」
「でも今までの最高記録になりそうよ?」
「!!」
「あら、遊んでなんかいないわよ。人聞きの悪いこと言わないで」
「…だったら」
「だって凄いんだもの。首のあたりに集中してるのよ。口紅の痕が。これって普通じゃつかないわよね?」
「…」
「ね?そうでしょう?」
「…」
「どう思う?ジェット?ピュンマ?」
「俺に話を振るなって、ええと…そうだなぁ、そりゃ災難としか…」
「ジェット、きみのチェックは終わった。そろそろドルフィン号も着くだろうし向こうで到着を待たないか?」
「お、そうしよう、そうしよう」
後には笑顔のフランソワーズと仏頂面のジョーが残された。
「あら」
「出会ってまだ数時間しか経ってないのにだぜ?そんなこと、いきなり言われたって」
「ジョーはなんて答えたの?」
「答えられるわけがないだろ」
「…なるほどね。それでこの口紅攻撃ってわけ」
「…」
「しないよ」
「そう?」
「ああ。――フランソワーズに言われるならともかく」
「私?」
「うん」
ジョーの気持ちもわからなくもないけれど、時々、そこまで甘やかさなくてもいいでしょうとも思うのは事実だった。
ミッションの後、フランソワーズと離れていた場合は特に甘えたがるジョー。
今まではそのケアもちゃんと忘れずしていたけれど。
期待されている答えが全くわからないふり。
「えっ、フランソワーズ」
「なあに?」
「…」
――まったく、もう。
小さく息をつくと、腰をかがめてジョーの耳元に唇をつけた。
「…これ以上好きになれないの、知ってるでしょう?」
囁くと、耳たぶにキスをひとつ落とした。