「ハインリヒの誕生日」

 

 

パン屋は夕方五時を過ぎると途端に忙しくなる。
仕事帰りのお客さんが増えるからだ。

だから今日もフランソワーズは忙しく仕事をしていたのだけれど。


「――この店にあるパンを全部くれ」


レジで空のトレイを差し出されると共にこう言われ驚いた。

「あの。お客様……」

顔を上げると、そこにはプラチナブロンドの異国の青年が佇んでいた。

「無理か?」
「――ハインリヒ!」
「よお。元気そうだな」
「ええ。あなたも」
「ちょっと日本に来たから寄ってみた。ったく、二人で暮らすって出て行ったきり連絡も寄越さねえなんてどんな了見だ?」
「……ごめんなさい」
「まぁ、積もる話は後だな」

自分の後ろに列ができているのを気にしてハインリヒが場所を空けた。

「ともかく、全部買うから準備してくれ」
「持って帰るの?」
「まさか。ギルモア邸へ配送だ」

 

***

 

ハインリヒが店内のパンを全て買い上げたので、閉店となった。


「ね。うちに寄っていって」
「うち?――ああ、ジョーと住んでいる部屋か」

その言い方はまるで夫婦だなと言うのをフランソワーズは受け流し、更に誘ってみた。が、ちょっと寄っただけだから帰るよとそっけなく言われてしまった。

「ジョーに会わなくていいの?」
「さっき工場をちらっと覗いた。元気そうに仕事してたな」
「声はかけなかったの」
「ああ。――まぁ、特に用もないしな」

じゃあ私には用があるのねと訊くのにハインリヒはパンを買いたかったからなと答えた。

「でもあんなにたくさん。どうするの」
「どうするって食うに決まってるだろ。パンってそういうもんだ」
「そうだけど……」

博士とイワンとハインリヒと。他に誰がいるというのだろう。

「他に誰か日本に来ているの?」
「いや。俺だけだ。メンテナンスの時期でな」
「じゃあ、一週間くらい滞在するのね?」
「そ。そういうわけで、大量の食いモンが必要ってわけだ」
「だったら一度にあんなに買わなくても毎日来ればいいのに」
「そんな暇ねーだろ。いったんメンテナンスに入っちまったら、俺は外に出られないし博士に至っては食事も忘れる」
「……そうね」
「だから、大量に買って冷凍しておくんだ。そうすりゃいつでも食えるしな」


メンテナンスのことを思い、フランソワーズは少し暗い気持ちになった。
いくらジョーとふたりで「サイボーグであることを忘れて暮らす」と決めたって、これだけは一生ついて回るのだ。精巧であればあるほど、メンテナンスなしでは生きてはいけない。

そこまで考えて、あっと思い出した。


「ハインリヒ。――お誕生日!」


そうだった。
メンテナンスは各々の誕生日にすることに決まっているのだった。そうすれば忘れることはない。


「いやだわ、私ったら!」

確か昨日だったわよね。わあプレゼント!お祝い!と急に騒がしくなったフランソワーズにハインリヒはやれやれと微笑み、

「――お前さんの元気な姿を見れたことが、俺にとってはプレゼントみたいなもんさ」

と言った。

「え、でも……」
「普通の女の子みたいに働いていたし、な」

エプロンに三角巾で働いていたフランソワーズは戦場で見る姿よりもずっとずっと似合っていた。
そして生き生きとしていた。

初めは、サイボーグであることを忘れて暮らすだなんて夢物語もいいところだと思っていた。
そんなことはできっこない。俺たちは一生この十字架を背負って生きていくしかないんだ、と。
しかもジョーも一緒に行くだなどと、お前たちは理想の国の王子と王女かと呆れた。

できっこない。
すぐに破綻する。俺たちに普通の居場所なんてないんだ。

苦々しく思っていた。


それが。


目の前にいるのは、あまりにも普通の女の子だったのだ。
そして、それはおそらく――ジョーがそばにいるということもあるのだろう。

若い二人である。

自分には叶えられなかったものも、あるいはこの二人なら。


「……ハインリヒ?」
「いや……」


普通の女の子みたいに、じゃなくて……普通の女の子、だ。


「――良かったな」


ジョーと二人で。

幸せそうで。


でもそう直接言うのはできなかったので、代わりにこう言った。


「パンが全部売れて」


フランソワーズは一瞬、きょとんとし――笑顔になった。


「ええ。おかげさまで」