「疑惑」

 


―1―

 

実際、そういう服ってどうかと思うよ?

というのが顔に出ていたのか、あるいは僕の心を読んだのか(時に彼女はテレパスになる)
フランソワーズは僕を軽く睨むと頬を膨らませた。

「しょうがないじゃない。帰ってから気が付いたんだもの」
「きみ、買い物の時はいつだって慎重じゃないか」

やれサイズがどうの素材がどうのと細かくチェックするのが常だ。

「……サマーバーゲンだったのよ」
「それが?」
「女の子ってね。バーゲンの時は変なテンションになるものなの」
「そうなの?」
「そうなの!」

僕はううむと唸ると最後のボタンを留めた。
フランソワーズの背中には七つのボタン。
そこしか開閉しないワンピースって、絶対ひとりじゃ着られないだろ。
そんな難しい服、普通なら買ったりしないはずだから、これは買い物ミステイク。
なんだけど。
フランソワーズは悔しいのか、中々それを認めない。

「いいの。ジョーに手伝ってもらうから」
「それは、まぁ……」

フランソワーズの着替えを手伝うのは光栄なことだ。

「でも僕の帰りが遅かったらどうするんだい?」
「帰るまで待ってるわ」
「他のひとに頼んだり……」
「しないわよ、やあねもう!」

そう言って僕の脇腹をつねった。

だから僕は信じていたんだ。

 

ある日の夜、帰宅したフランソワーズの背中のボタンが掛け違えてあるのを見るまでは。

 


―2―

 

ひとりでは着脱が難しいワンピース。
けれどもフランソワーズのお気に入りだ。僕は、間違って買ってしまったのが悔しいからそう言っているだけだろうと思っていたが、どうもそうではないらしい。本当に色とデザインが好きなのだと言う。
まぁ確かに、気に入らなければそもそも購入しないだろうから、そうなんだろうな。
ともかく、そのワンピースはフランソワーズのお気に入りで、僕は背中のボタンを留めたり外したりする係になっていたのだけど。

掛け違えていたボタン。

朝、僕はちゃんときれいに留めた。
そして、彼女が出かけた先は着替えなどとは無縁の場所だ。
アルバイト先なのだから。
せいぜい、エプロンをつけるくらいのものだ。

では。

だとしたら。

いったいこれはどういうことだ?

僕は心が波立つのを抑えこんだ。

落ち着け。

落ち着くんだ。

フランソワーズがどこかで服を脱いだり着たりする必要性など、考えればいくらでも理由はあるじゃないか。
そう、帰りに服を買いに行って試着したとか(でも着脱の難しい服を着ている時にわざわざ行くだろうか)
どこかのプールで泳いできたとか(でも髪は濡れていない)
先に風呂に入ったとか(いや銭湯は一緒に行くと決めている)

「ジョー?どうかしたの」
「え。あ、いや……」

怪訝そうな瞳。しかし屈託の色は無い。
今日も綺麗な蒼だった。

「暑かったわ。ね、外してくれる?」

くるりと背を向ける。
僕の目の前には掛け違えたボタン。今朝、僕が留めたのとは全然違う雑な仕事だ。

僕は平静を装い、手を伸ばした。
順番にボタンを外してゆく。
フランソワーズの白いうなじから続く白い背中。滑らかな肌。それが露わになってゆく。
今朝、僕がボタンを留めてそれらを隠し送り出した大事なフランソワーズ。

今日いったい何があった?

「フランソワーズ。今日、」

なにかあったのかい?

と、聞くつもりだった。

が、喉が詰まった。
よっつ目のボタンを外したその素肌に、引っ掻いたような小さな傷が見えたのだ。
今朝はなかったその小さな傷に、僕はそれがそこにあるべき理由を見付ける事ができなかった。

 


―3―

 

「フランソワーズ、」

この傷は何?

訊いたっていいだろう。
同居している親しいひとが背中に傷をつけて帰ってきたのだ。心配しないほうがおかしい。

しかし、僕の心配は不発に終わった。

傷のことを訊く前の「フランソワーズ」と呼び掛けた声がどこか不自然だったのだろう。
僕が質問する前にフランソワーズは素早く身を捻って僕のほうを見たのだ。

「あのね、ジョー」

頬が赤い。

「あの、なんでもないの」

なんでもない、って、何が。僕はまだ何も訊いていない。

「えと、その」

フランソワーズは少しもじもじしたかと思うと、そっと僕から離れた。

「半分外してくれたから、あとは自分でできるわ」
「…そう?」
「ええ。何度も着てるんだもん、ちょっとは慣れてきたのよ?」

そうなのか?
そんなの、初めて聞いたけど。

僕は突然空虚になった目の前の空間を見つめ、そして数歩前方に逃れたフランソワーズを見た。

半分だけ見えている背中。

小さな傷。

「ジョー、向こうむいてて」
「あ。うん」

そしてフランソワーズは僕から隠すように背中を反対側に向けた。
つまり、僕とフランソワーズは対面する向きだ。

「ジョー?」

はいはい。

僕は名残惜しかったけれど彼女に背を向けた。
同居しているからといって彼女の裸が見放題というわけではないのだ。

しかし。

それにしても。

いつもなら全部のボタンを僕が外す。前回もその前もそうだった。彼女の言うところの「慣れてきた」なら、もうとっくに僕の出番はなくなっているはずだ。
いや、いつかはそうなったとしても、それはこんな風に突然くるものなのだろうか。
普通は少しの前兆があるんじゃないだろうか。
例えば、半分自分で留めてみたものの、残りが届かなくて四苦八苦する姿とか。自分で着るからと宣言したものの、30分くらい格闘して結局「ジョー、手伝って」と鼻にかかった声で言ってくるとか。
残念ながら、僕はそのどちらとも遭遇していない。
なぜ、今日突然なんだ。
しかも僕が傷に気付いたのと同じタイミングで。

まるで、隠すように。

だから僕は、背を向けたままそもそも最初にしてしかるべきだった質問をした。


「フランソワーズ。今日、どこかで着替えたのかい?」


着替えをしているフランソワーズの動きが止まった。

 


―4―

 

「え。どうして?」


声がいつもより動揺しているように聞こえたのは気のせいだろうか。

「いや……だって、さ」

ボタンが掛け違っていたから。

何度も言うが、今朝は僕が留めたんだ。きれいに七つのボタンを全部。
毎回、僕が朝着せて夜に脱がせる。その際、フランソワーズの背中のボタンが朝と同じ状態になっているのを確認する。今日もフランソワーズには誰も指いっぽん触れていないと安心しながら。
それがどうだ。こんな雑な留め方をした誰かがこの世界に居る。
存在している。
そしてボタンを下手くそに留めるという行為の示すところはつまり、

いったん脱いだ

ということだ。
そして僕は、今日のフランソワーズがどこかで服を脱ぐような理由を思いつかないのだ。どんなに頑張っても。頑張っても思いつかない理由以外となると、あまり考えたくない理由しか残っていない。
でもそれを考えるのは嫌だ。物凄く嫌だ。全身全霊で魂が拒絶する。考えようとするのを。
だから僕は考えない。考えたくない。

考えたくないんだ。フランソワーズ。

両手を耳にあて、わあわあ言って聞こえなくしてしまおうかなどと子供じみたことを考えた。質問したのは僕だけど、聞きたくない答えなら聞きたくない。助けてくれ。


いや、待て。


待て待て待て。

ちょっと待て。


不自然だ。


そうだ、不自然だ。

だってそうだろう?もしも考えたくない理由だったなら、果たしてフランソワーズは僕に「ボタンを外して」と背中を向けるだろうか。明らかに僕以外の誰かの手によるボタン留めが行われたというのに。

そんな証拠を目の前に差し出すわけがない。


うん。

そうだ。

だから、これは僕の想像外の怪しい理由などでは有り得ないのだ。


と、安心しかけたのだが。


いやちょっと待て。

違うぞ。


フランソワーズはボタンの掛け違えに気付いていなかった可能性は無いか。
なにしろ、僕はいつもきれいに留めている。だから、きれいに留めて当たり前と思っていないだろうか。
だからボタンが掛け違えられていることに気付いていなかった。

あるいは。

誰かがわざと掛け違えてみせた。

僕に対する宣戦布告のように。


そうだ、そうに違いない。


「……ジョーには全部ばれちゃうのね」


そう、ばれたのだ。

ばれ……


えええっ!?


ほ、本当に?

僕の嫌な想像が全部当たりだったのか!?

 


―5―

 

「ふ、フランソワーズっ」


僕は思わず振り返った。
目の前には着替え中のフランソワーズ。背中のボタンを外すのに苦労しているのが映った。

「ヤダ、ジョーったら。むこう向いててって言ったのに」
「手伝うよ」
「いいの」
「でも外せないだろ」
「いいのっ」

なんだよ、どうして手伝ったらダメなんだよ。
そうか、他のどこかの誰かにせっかく留めてもらったから僕なんかに触れられるのはイヤか。

「じゃ、いいよ」
「そうよ、むこう向いてて」

頬を膨らませ怒っているフランソワーズ。
怒るのはこっちだ。
僕はタタミにでんと座った。胡坐をかいて僕は怒っているんだぞとアピールする。背後のフランソワーズはまだ着替えに手間取っている。でも知るもんか。頼まれたって手伝ったりするものか。脱げないならどこかの誰かに頼めばいいさ。僕の知らないどこかの誰かにね。

すると、がりっとどこかを引っかくような音がした。
続いて小さく「いたっ。もうっ、またやっちゃったわ」という声。


またやっちゃった?


そうっと振り返る。
不自然な格好で背中のボタンと格闘しているフランソワーズ。背中を見ようと首を伸ばしているので僕の姿は彼女の死角になっている。僕はそうっと立ち上がると、すっと彼女の背中側に回った。

「あ。ジョーったらまだ着替えの途中よ?」
「いいから」

背中を見ると、そこにはひとすじの小さな傷があった。できたてほやほやの。
僕はそこをそっと指でなぞった。

「いたっ。ちょっとジョー、なにするの」
「これ。さっきの傷と同じ」
「ああもう、やっぱりさっき見たのね」
「ウン」
「恥ずかしいから隠したかったのに」
「だったらどうして僕に頼んだの」
「つい、いつもの癖で……途中で気がついたのよ」
「……フウン」

つまり。
整理すると、こうだ。
フランソワーズは背中のボタンに四苦八苦した結果、自分の爪で背中を引っかいてしまった。
さっき僕が見たのはそうしてできた傷である。
ということは、フランソワーズ自身が背中のボタンを留めたり外したりしたということになる。下手くそに留めたてあったのも頷ける。そして、それに気付いていなかったのも。

ちょっと安心した。

が、疑問は残る。

いったいいつどこで脱いだのかということだ。
その必要性は、今もってやっぱりわからない。

「で……いつどこで着替えたの」
「え」

この期に及んでまだ隠そうとするのか。フランソワーズの目が泳ぐ。

「フランソワーズ」

僕は彼女の顔をこちらに向かせるとじっと目を見つめた。

「……あの」

フランソワーズが俯く。

「……バレエ教室があったの。だから……」

消え入りそうな声。


「レッスン、してみたくなって」

 


―6―

 

僕たちはサイボーグであることを隠し普通の人間として生きることを決めた。
僕はレーサーをやめて、フランソワーズもバレエをやめて。ひとめにつかないようにしようと約束した。
そしてギルモア邸を出てアパートを借り、小さな町でひっそり暮らし始めた。
僕は個人経営の自動車修理の工場で働き、フランソワーズはパン屋でアルバイト。
収入は以前と比べ物にならないが、でもそれ以上の価値があった。
二人一緒ならじゅうぶんだった。

僕は元々車に触れていれば満足な男だったから、自動車修理工というのは性に合っていた。
それしかできないと言われたら身も蓋もないのだが。
ともかく、好きなことを仕事にしているのだから楽しいのは当たり前だ。
しかし、フランソワーズは違ったらしい。
彼女にとってバレエは単なる趣味ではない。
だからそれを取り上げられた生活というのはさぞ辛かったことだろう。
でも僕と「レースに出ない、バレエをしない」という約束をしたから我慢していた。
やっぱり踊りたいとは言い出せなかったらしい。

まったく、バカだよなぁ。

僕は大きく息をついた。

――バカは僕かもしれない。


「隠すことじゃないだろ?」
「だって、約束したのに」
「うん……あの約束はずるかったね。ゴメン」

フランソワーズがバレエをやめることなんてないのだ。

僕はフランソワーズをそうっと抱き締めた。

「バレエ教室、楽しかったかい?」
「ええ」
「そうか。……続けろよ」
「いいの?」
「もちろん」

踊るフランソワーズはそれはそれは可愛いんだ。

「でも、今度からレッスンの時は違うのを着ていったほうがいいな」
「そうね。今日はたいへんだったわ」

背中に傷を作っちゃうしと笑う。
僕はその背中を指でそっとなぞるとぎゅうっと抱き締めた。

「ウン。このボタンを留める係は僕なんだから」
「あら、私が自分でやるのもダメなの」
「ダメだ」
「ジョーったら。本当にこのワンピースが好きね?」
「そうかな」
「絶対そうよ。お気に入りなんでしょう」


そんな疑惑のマナザシで見ないでくれ。

たぶん、当たっているから。