「始めの一歩」

 


―1―

 

「短冊にね、おひめさまになりたいって書いてあったのよ」


可愛いでしょうとにこにこ話すフランソワーズ。
近所の幼稚園の庭に七夕飾りが準備してあったのだという。

「叶うといいわね」
「そうだね」
「お星様にお願いかぁ……ね、ジョーは何をお願いするの?」
「別に」
「あるでしょう、願い事」
「無いよ」
「うそうそ。正直に言っちゃっていいのよ?私は聞かなかったことにするから」
「……言ったら叶わないから言わない」
「え。そうなの?」
「そうなの」

ふうん……となにやら考え込むのを見ながら、ジョーはごちそうさまと箸を置いた。
今日の夕ごはんも美味しかった。
もっともフランソワーズの作るごはんならなんでも美味しいと思うジョーなのだけれども。


「きみは――きみもおひめさまになりたいのかい?」
「えっ?おひめさま?」
「ウン。なんだかそんな感じ」
「別になりたくないわよ?」
「そう?」
「今の私でじゅうぶん。おひめさまになったらここでこうしてジョーと一緒にいられないじゃない。いやよそんなの」
「……あ、そう……」
「そうよ」

なんだか背中がむずむずしてきて、ジョーは立ち上がった。照れ隠しなのは言うまでも無い。

 

二人がブラックゴーストとの闘いを終えてから数年になる。
イワンのちからでなんとか助かったジョーが回復するのにそのくらいかかったのだ。
その間、ジョーの世話をかいがいしくやいていたフランソワーズと彼との間で決めたことがあった。
それは、サイボーグであることを忘れひっそり暮らすこと。
レーサーだったジョーはそれをやめ、世間から忘れ去られるよう努力する。
バレリーナだったフランソワーズもそれをやめ、ひっそり暮らすようにする。
互いに未練はなかった。
かけがえのない存在を失うことにくらべたら、それらは優先順位がずっとずっと低いのだ。
もしかしたら命がなかったかもしれないことに比べたら、レースなどどうでもよかった。
ただ、ジョーとしてはフランソワーズにバレエを続けてもらいたかった。
しかし彼女はそれを断り、ジョーのそばにいることを約束した。
もう二度とあんな思いでそらを見上げることはしたくないのだと静かに語った。
ジョーはそれがどんな思いなのか知ることはできなかったから納得するしかなかった。

そうしてふたりがギルモア邸を出て数ヶ月になる。
小さな町の築数十年の二階建てアパート。その一室に身をよせあうようにして住んでいる。
ジョーは小さな車修理工場に就職した。毎日機械油まみれである。
フランソワーズはその近くにあるパン屋にアルバイト店員として勤めた。お互いに目の届く距離だった。

 

――星に願い事、か……

この部屋から見える空は明るくて、星なんて全然見えない。願いを託せる星などありはしないのだ。
それに。
自分は今のままでじゅうぶん幸せだった。こうしてフランソワーズと一緒にいられるのだから。

毎日、仕事が楽しくてごはんが美味しくて。フランソワーズと一緒に過ごすのが嬉しくて。
これ以上何を求めることがある?

「無い、な」

しかしいつの間にか隣で同じように空を見ていた同居人が、星に向かってなにやら祈っているのには驚いた。

「え。フランソワーズ」
「しっ。集中してるんだから話しかけないで」
「え、でも」
「しーっ」

 

 

フランソワーズには願う事があるらしい。しばしジョーは無言のまま待った。
彼女はいったい何を願っているのだろう。それは自分に叶えられる内容なのだろうか。
だったら星に願うより、自分に願ってくれたほうが実現する確率はかなり高いのに。

「……毎日、お祈りすることに決めたの」
「そんな習慣なかっただろ」
「今日決めたの」

満足げだが、ジョーには気になることがあった。

「あのさ」
「ダメよ、教えないわよ」
「いや、そうじゃなくてさ」
「僕にお願いすればいいっていうのもダメよ」
「いや、そうじゃなくてさ」
「じゃあ、なあに?」
「……七夕のお願いって短冊に書くものなんだけど」
「し。知ってるわ」
「それに。七夕のお願い、だろ?それって七夕当日限定なんだけど……」

だから毎日星にお祈りしても意味はないんだよ――と言外に滲ませた。
みるみるフランソワーズの頬が染まっていく。

「もうっ、早く言ってよジョーのばか!」


今日も平和だった。