「けんか」
部屋が狭くて何が困るって、それは同居人の顔を見たくない時だ。 最初は、部屋がふたつあって小さなキッチンがついていればじゅうぶんだと思った。 しかし、それも仲良し限定の広さだった。 夜中だから、どこも開いてない。 仕方無い。 ジョーはアパートの階段に座り込んだ。ひとが来たら通してやればいいだけのことだ。
―1―
住むのは二人なのだし、むしろ広いくらいだと。
居心地の悪い空気にいたたまれず、ジョーは部屋を出た。
とはいえ、行くあてはもちろん無い。
近くのコンビニに行ってもいいけれど、いつまでもいるわけにもいかない。
「ジョーのばか。嫌いっ」 嫌い。 その言葉は矢のようにジョーの胸を射抜いた。 ばか――と言われるのは慣れている。 「嫌い」が付くと話は違う。 この言葉は幾らジョーでも早々耳にはしない。それこそ、余程のことでもない限り――余程のことをやらかした場合でない限り、無い。 ジョーはひとごとのようにそう思った。 とはいえ。 実際にフランソワーズは怒っている。ジョーに対して。 そんなわけで、今ジョーは部屋の外、アパートの階段に座っているのであった。
―2―
否。
串刺さった。
引き抜こうと試みる気力さえ奪っていった。だからジョーはその矢を受け止め、ただなすすべもなくそこに立ち尽くし、第二矢が引き絞られるのを待つしかなかった。
フランソワーズが自分のことをそう表現するのはよくあることだ。
それは、彼が彼女に対して困らせるようなことを言ったりしたりするからだ。
しかしそれは愛情表現の一環であり、実際、彼女が口にする「ばか」は優しいものだった。
だからきっと、今はその「余程のことをやらかした場合」なのだろう。
そんなぼんやりした態度が更に気に障ったのだろう、フランソワーズは早々に第二矢を放ってきた。
「どうしてそんなことするの!ジョーのばかっ。嫌いっ」
さっきよりも若干セリフが長くなった。
嫌いと言われるその理由に全く心当たりのないジョーだから、「どうしてそんなことするの」という言葉は新たな手がかりである。
さて、「そんなこと」とはいったいなんだろうか。
それは、ジョーに何ら心当たりが無いにしてもジョーが悪いということなのだろう。そして彼が無言でいればいるほど、フランソワーズの怒りは増してゆく。ならばいま、ゆっくりと「そんなこと」を考察している場合ではない。
とりあえず彼女の怒りを鎮めるのが先決である。そして、それにはにはただひとこと言うだけで良いはずだ。
例え棒読みだったとしても。
「……ごめん」
「何よ、ソレっ。全然、反省の色が見えないわっ」
棒読みではダメだったようだ。
「え。でも、僕には全く……」
「覚えがないっていうの!?嘘ばっかり!だったらこれはどうなのよっ」
証拠の品を掲げられた――が、
「それが、何?」
と答えたものだから、
「いい加減にして!いつもいつもっ……もうっ!」
「いつも……って」
「これが続くなら、もうジョーと一緒に住めないっ。出てくっ」
「え、ちょっと待って、その格好じゃ」
慌てた。
こんな夜中にフランソワーズを外に出すわけにはいかない。自分のことが嫌いで一緒にいたくないというのなら、自分が出て行くしかないだろう。
今日は晴天だった。 ジョーは空を見ながら、フランソワーズがなぜ怒っているのかを考えていた。既に「どうしてそんなことするの」の「そんなこと」はわかっている。証拠の品を見たからだ。 ジョーはじっと自分の手を見た。 悪いとすれば、この手だ。 もっと言うなら、この手の力加減だ。 もっともっと言うなら。 「……僕が、サイボーグだから……」 サイボーグでなかったら、きっとこんなことにはならなかった。 「……くそっ」 本末転倒だった。 ということはつまり。 二人が一緒にいるその場所は、闘いの場でしかないのだろうか。 結局、ジョーはそのまま眠ってしまった。 目が覚めたのは、背中をつつかれたからだった。 「う。フランソワーズ、それっ……」 ちゃんと反省しなさいねと重ねて言われ、ジョーは朝から目の遣り場に困った。 「修理できないんだから」 どんな馬鹿力よと言われ、ジョーはじっと自分の手を見た。 「手のせいじゃないでしょう」 あなたの自制心の無さがそうさせるのよと厳しい言葉がジョーを刺す。 「食べる前に誓って。僕はもう壊しませんって」 フランソワーズの目は真剣だった。ふざけて言っているのでも何でもない。 「自制心……」 その我慢ができるのなら、こうはなってないと思う――とは、言わないほうがいいのだろう。 しかし、 「ジョーの理性が私は好きよ」 そこまで言われたら、 「……誓います……」 と言うしかなかった。 「まったくもう」 無言でごはんを食べるジョーを見つめ、フランソワーズはため息をついた。 「あのぅ……フランソワーズ?」 嫌い? 「……ばかね」 まあ、仕方がない。 「嫌いなわけないでしょう」
―3―
だから星が綺麗に見える。
「……そんなに怒ることかなぁ……」
そこなのだ。
何に怒っているのかわかっても、なぜ怒っているのかわからない。
しかもジョーにはなんにもぴんとこないのだ。従って、悪いことをしたとも思っていない。
だから謝るのは不本意だった。
「別にいいじゃないか」
そんなことくらいで怒るなんて、フランソワーズも狭量だなぁなどと思ってみる。
大体、そんなに重要なことだろうか。
サイボーグであることを忘れて生きようと一緒に始めた生活であったはずなのに。
なのに、一緒にいることによってこうも簡単にサイボーグであることを思い出してしまうとは。
やはり自分とフランソワーズは一緒にいてはいけないのではないだろうか――そんなことまで思ってしまう。
深いため息が出た。
一緒にいたいのに、ふたりの運命がそうはさせてくれないのか。
―4―
一晩じゅう誰もアパートの階段を使わなかったらしい。
振り返ると、エプロン姿のフランソワーズがいた。
「……反省した?」
「……ウン」
「もうしない?」
「…………ウン」
自信は無い。
「じゃあいいわ。入っても」
「……ウン。お腹すいた」
「そうでしょうとも」
部屋に入ると既に朝食の用意ができていた。
そして、タタミには証拠の品がずらりと並んでいた。
「あなたの悪事の数々よ」
色とりどりの証拠の品。最新のは昨夜彼がやらかしたものだ。
ジョーが返す言葉もなく無言でタタミに座り、いただきますと箸を持つとフランソワーズがそっとその手を押さえた。
「えっ……今?」
「そう。今」
「でも、そんな約束」
「できるわよね?自制心を働かせれば」
「できるわよね?ほんのちょっと我慢すればいいんだから」
大体、可愛すぎるフランソワーズが悪い。そう、もとはといえばフランソワーズにも非があるのではなかろうか。
きちんとホックを外されず、ばりっと力任せに引き剥がされた下着の数々。生地が裂けたり、ホックが壊れたり、肩紐がちぎれたり――被害は様々だったが、再起不能なのは一緒だった。
おそらく愛されてなければこういうことだって起きないのだろう。だから、そんなに怒る必要もないわけではあるのだが、下着代だってばかにはならない。
次回からは気をつけてくれるだろう。少しの間は。
「なあに?」
「まだ――」
ふたりっきりで住んでいる限り、こういうことは起こってしまうのだろう。大好き同士なのだから。
ただ、もう少し丁寧に脱がせてくれれば、ね。