引っ越してきた人
「蕎麦なんて珍しいね」
「うふ。そろそろ帰ってくる頃かしらって茹で始めたんだけど、予想ぴったりね」 どうせ言うなら、凄いね愛の力だねくらい言って頂戴とフランソワーズがぶつぶつ言うのに耳を貸さず、ジョーは蕎麦が入っていた袋をためすすがめつ眺めている。 「作り方、わかる?」 そうジョーがぽつりと言うと、フランソワーズがぱっとジョーを見た。 「凄いわ!どうしてわかったの」 フランソワーズが自発的に蕎麦を買うとは思いにくい(蕎麦は蕎麦屋で食べるものと考えているふしがある)。 「あのね、ひとつ先のお部屋に男の子が越してきたのよ」 このアパートは基本的に独り住まいの男性が多い。 「外国の人が住んでるなんて知らなかった、って驚いてたわ」 それはそうだろう。何しろ、表札には「島村」としか書いていない。ノックしてまさかフランス人女性が出てくるとは思っていなかっただろう。 「よろしくお願いしますって、お辞儀されちゃった。礼儀正しい子だったわ」 フランソワーズは時間を確かめ、茹でていた麺をざるに上げた。そして用意していた冷水に浸ける。 「フランソワーズ」 ジョーは腕組みをしてちょっと考え込んだ。 フランソワーズは純然たる「パン屋の売り上げに貢献」したつもりで嬉しそうである。 が、しかし。 日本人の若い男性が、思いがけず綺麗なフランスの女性に出会い会話もそこそこ弾んで、終いに働いているパン屋に来てねと誘われるというのはどういう状況を醸し出すだろうか。 ――考えすぎだろうか。 単なる隣人(といっても隣に住んでいるわけではないが)の社交辞令にすぎないといえばそうかもしれない。 うん。きっとそうだ。 たぶん、何も起きない。会えば挨拶をするくらいの、そんな隣人ってことだろう。
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翌日の夕方。
「この間の男の子?」 肩をすくめるフランソワーズに、いや彼にとっては同義だろうよとジョーは思った。 「でもね、たくさん買ってくれたのよ。日持ちしないから、今日中に食べてもらいたいんだけど大丈夫って訊いたら、僕は大食いなんであっという間ですよなんて言って。美味しかったらまた来ますって」 わかっていないようだ。 「だから私、言ったのよ。美味しいに決まってるから、きっと毎日買いにくることになりますねって」
これは、どう考えたらいいのだろうか。 が。 言われた側の男子はそうはいくまい。 ……いや。 ちょっと待てよ。
どうかした?と心配そうに顔を覗き込むフランソワーズに、なんでもないよと笑ってみせる。 どうもいけない。自分はフランソワーズしか見えないから、世界じゅうの男が彼女を好きになるんじゃないかとはらはらしてしまう。でもそんなことを言っていたら、これから先ふつうの生活なんてできやしない。 心配しすぎだ。
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今日はジョーの帰宅がいつもより早かったので、ゆうごはんの前に風呂に行こうということになった。 「出かける時、自転車置き場で何が捜しているひとがいたのよ」 ジョーは今夜のごはんクイズはひとまず頭の片隅に追い遣った。なんだか適当に聞き流していい話ではないような妙な予感がするのだ。 「凄く困っているみたいだったから、よかったらお手伝いしますって言ったのよ。ほら、私、そういうの見つけるのって得意でしょう」 フランソワーズはくすくす笑った。 「なんと鍵は、彼の上着のポケットに入ってたの。だから私、もしかして一番近いところにあるんじゃないって言ったの」
彼は――奴は、フランソワーズが部屋を出る時間を計って、偶然を装ったのではないだろうか。 ジョーが小さく唸ったところで、銭湯に着いた。 「ジョー?」 フランソワーズがジョーの眉間に指で触れる。 「怖い顔してると幸せが逃げちゃうわよ?」 頭を振ってフランソワーズの指先を除けると、ジョーは銭湯の引き戸を引いた。 「ジョー。待って」 ジョーがさっさと男湯の暖簾をくぐろうとすると、フランソワーズが彼のシャツの裾を引いた。 「ん?」 振り返ると、フランソワーズの笑顔が目の前にあった。 「クイズの答えは?」 忘れてた。 というか、それどころではなかった。 「え、と」
お楽しみにと言い残して。
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特典は次回に繰り越しとなった。
どうも彼女はガードが甘い。日本は治安がいいからと安心しきっているのだろうか。 それとも。
そう、それに。
――ま、優しいというのも問題だけどなぁ……
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ともかく、かの「男の子」に一度会っておかなくては。
しかし、そう決意したものの生活時間帯が違うのか、中々会う機会に恵まれなかった。 本当に引っ越してきたのか?とジョーが疑い始めた頃、やっとその機会は訪れた。 どんな容貌なのか、そういえば訊いてなかったな――と一瞬後悔した。フランソワーズから散々話を聞いてはいたけれど、彼女は彼がどんな見てくれなのか全く言及していなかったのだ。
指差すと、一瞬えっと驚いた顔になった。 「あ、すみません。ええと、僕は先週引っ越してきた……」
階段を上りながら、ジョーは心中穏やかではなかった。
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「えっ?そうなの?」 ジョーが苦い顔で言うと、フランソワーズはふうんと納得したのかしてないのか曖昧な返事をした。 「それに、僕も住んでるって言ってなかったのかい」 そう、今回のことで色々と抜けていたことが明らかになった。
それに腕組み、と腕をつつかれた。 「新しい癖ね」 そう言うと組んでいた腕を解いた。 腕を解いたら手持ち無沙汰になったので、フランソワーズを抱き締めることにした。 「ねぇ、ジョー」 彼のことは若く見積もったくせに、女性のほうは間違えないんだなと思ったがそれは指摘しないでおいた。 「てことは……彼女なのかしら」 じゃあ彼女なんじゃないのとジョーは適当に答えた。
数日後。 帰りが遅くなったジョーは、フランソワーズが言っていた女性はおそらく彼の恋人なのだろうと確信した。 「フランソワーズ」 部屋のなかにいた彼女には何も聞こえていなかったらしい。ということは、外に洩れるのだけ気をつければいいということか。 自分たちは今まで以上に気をつけよう――と心に誓うジョーであった。
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