引っ越してきた人

 


―1―

 

「蕎麦なんて珍しいね」


帰宅したジョーは、フランソワーズがキッチンで麺を茹でているのを覗き込んだ。

「うふ。そろそろ帰ってくる頃かしらって茹で始めたんだけど、予想ぴったりね」
「……」
「あら、何よその目。失礼ね、視てません」
「僕は何も言ってないよ」
「ジョーの目はいろんな事を語るのよ」

どうせ言うなら、凄いね愛の力だねくらい言って頂戴とフランソワーズがぶつぶつ言うのに耳を貸さず、ジョーは蕎麦が入っていた袋をためすすがめつ眺めている。

「作り方、わかる?」
「書いてあるとおりにすれば大丈夫でしょ?」
「うん。まあね。……誰か引っ越してきたのかな」

そうジョーがぽつりと言うと、フランソワーズがぱっとジョーを見た。

「凄いわ!どうしてわかったの」
「引っ越し蕎麦かなって思ったから」

フランソワーズが自発的に蕎麦を買うとは思いにくい(蕎麦は蕎麦屋で食べるものと考えているふしがある)。
そして、帰宅した時、空き部屋だった部屋に明かりがともっていたのを見つけたのだ。
それらから類推される答えはひとつ。

「あのね、ひとつ先のお部屋に男の子が越してきたのよ」
「男の子?」
「10月から近くの専門学校に通うんですって」
「ふうん」

このアパートは基本的に独り住まいの男性が多い。
風呂がついてないのと今時オートロックと無縁だから、女性には敬遠されがちなのだろう。
ただ利点はある。家賃が安いという。
ジョーとフランソワーズのふたりがここを気に入っているのは、家賃が安いのもさることながら、保証人不要だったことと、何より流行を追っていない雰囲気だった。
周囲から忘れ去られたように景色に溶け込んだ建物。
二人が目指す「誰からも注意を集めずひっそり暮らす」にぴったりなのだ。住人も男子学生が殆んどで、それも入れ替わりが早いと大家が言っていた。卒業して出ていく者、バイトして金をためて引っ越していく者。ふたりの部屋の隣にはおじいさんが独りで住んでいたが、先週老人ホームに行ってしまった。更にその隣はずっと空き部屋であり、そこに入居したようであった。

「外国の人が住んでるなんて知らなかった、って驚いてたわ」
「ふうん」
「日本語上手ですねって言われちゃった」
「まぁ、……驚くだろうな。ふつう」
「ハーフなんですかって訊かれたから違いますって答えたらちょっと首をかしげていたけど」

それはそうだろう。何しろ、表札には「島村」としか書いていない。ノックしてまさかフランス人女性が出てくるとは思っていなかっただろう。

「よろしくお願いしますって、お辞儀されちゃった。礼儀正しい子だったわ」
「それは日本人ならふつうだよ」
「そうなの?」
「うん」
「一人暮らしは初めてなんですって。自炊とかできないしって言ってたから、私は近くのパン屋さんで働いていてお惣菜パンとかたくさんあるから是非来てねって宣伝しちゃった」
「――え」

フランソワーズは時間を確かめ、茹でていた麺をざるに上げた。そして用意していた冷水に浸ける。

「フランソワーズ」
「なあに?」
「そういう個人情報をむやみに話したらダメだよ」
「個人情報?」
「ああ。働いているパン屋を教えるなんて」
「だって宣伝になるじゃない。行ってみますって嬉しそうに言ってたし」
「それは……そうだけど」

ジョーは腕組みをしてちょっと考え込んだ。
その間にフランソワーズはてきぱきと麺を冷水から上げ、水気を切って皿に移した。
今日はざるそばらしい。傍らには掻揚げもある。

フランソワーズは純然たる「パン屋の売り上げに貢献」したつもりで嬉しそうである。

が、しかし。

日本人の若い男性が、思いがけず綺麗なフランスの女性に出会い会話もそこそこ弾んで、終いに働いているパン屋に来てねと誘われるというのはどういう状況を醸し出すだろうか。

――考えすぎだろうか。

単なる隣人(といっても隣に住んでいるわけではないが)の社交辞令にすぎないといえばそうかもしれない。
自分はフランソワーズをとりまくあれこれに少し過敏になりすぎているのかもしれない。

うん。きっとそうだ。

たぶん、何も起きない。会えば挨拶をするくらいの、そんな隣人ってことだろう。


ジョーは自分の心配性を反省し、ゆうごはんの準備ができたわというフランソワーズに応えた。
初めて作ったにしては、蕎麦の茹で具合はちょうどよかった。

 


―2―

 

翌日の夕方。


「今日ね、この間の男の子がお店に来てくれたの」


ジョーが帰るなりフランソワーズは嬉しそうに話し出した。

「この間の男の子?」
「ほら、お蕎麦をくれた」
「……ああ、ひとつ隣の」
「ええ。どれがお勧めですかって言うから、はりきっちゃった」
「ふうん」
「別に私が作ってるんじゃないんだけどね」

肩をすくめるフランソワーズに、いや彼にとっては同義だろうよとジョーは思った。
おそらく「フランソワーズが働いている店」というのが重要なのだろう。だから、正しくは「フランソワーズに会いにパン屋に行って」みたのだろう。
そのあたり、フランソワーズはわかっているのだろうか。

「でもね、たくさん買ってくれたのよ。日持ちしないから、今日中に食べてもらいたいんだけど大丈夫って訊いたら、僕は大食いなんであっという間ですよなんて言って。美味しかったらまた来ますって」

わかっていないようだ。

「だから私、言ったのよ。美味しいに決まってるから、きっと毎日買いにくることになりますねって」


ジョーは無言で腕を組んだ。

これは、どう考えたらいいのだろうか。
フランソワーズは単純に、店の宣伝をし客を確保できたことが嬉しいらしい。
それはわかる。
そして、それ以外に他意はないこともわかる。

が。

言われた側の男子はそうはいくまい。
毎日来るようになるわねなんて、毎日来てねと言われたようなものだ。
更には、誘われたようにも受け取れる。
フランソワーズにこんな風に言われ、心が動かない男はいないだろう。彼女はもしかして自分に好意を持っているのではと勘違いもするかもしれない。

……いや。

ちょっと待てよ。


ジョーは軽く頭を振り、己の思考を止めた。


……考えすぎだ。
僕自身がフランソワーズを好きだから、そういう風に考えてしまうだけだ。普通の男子はもっと世間慣れしているし、そう、フランソワーズより若くて可愛い子なんてたくさんいるに違いない。
学生ならなおさらだ。


「ジョー?」

どうかした?と心配そうに顔を覗き込むフランソワーズに、なんでもないよと笑ってみせる。

どうもいけない。自分はフランソワーズしか見えないから、世界じゅうの男が彼女を好きになるんじゃないかとはらはらしてしまう。でもそんなことを言っていたら、これから先ふつうの生活なんてできやしない。
自分たちが選択したこの世界には、警戒しなければならないことなんて何もないのだ。フランソワーズが拐われたり、彼女に害をなす者だっていない。

心配しすぎだ。


ジョーはフランソワーズの髪にキスするとそうっと抱き寄せた。
微かにメープルシロップの香りがした。

 


―3―

 

今日はジョーの帰宅がいつもより早かったので、ゆうごはんの前に風呂に行こうということになった。
並んで歩きながら、日が暮れるのが早くなっただの今日のゆうごはんは何でしょうクイズなど他愛もないことを話す。ジョーが真剣に今夜のごはんを考えていると、フランソワーズがそういえば今朝こんなことがあったのと話し出した。

「出かける時、自転車置き場で何が捜しているひとがいたのよ」
「ふうん」
「どうかしましたかって声をかけたら、この間引っ越してきた彼だったわ」
「……ふうん」
「自転車の鍵をなくしちゃったみたいで、どこかに落としたのかもって」

ジョーは今夜のごはんクイズはひとまず頭の片隅に追い遣った。なんだか適当に聞き流していい話ではないような妙な予感がするのだ。

「凄く困っているみたいだったから、よかったらお手伝いしますって言ったのよ。ほら、私、そういうの見つけるのって得意でしょう」
「……まぁな」
「でね。しばらく辺りを捜すふりしてあちこち視てみたの。そしたらね」

フランソワーズはくすくす笑った。

「なんと鍵は、彼の上着のポケットに入ってたの。だから私、もしかして一番近いところにあるんじゃないって言ったの」
「……で?」
「でも部屋のなかもかばんのなかも探したから、あとはどこかに落としたとしか思えないって言うのよ。だから、でももう一回調べてみたら出てくることってあるわよ。例えばポケットの中はどうかしらって言ってみたの」
「……うん」
「そうしたら、あったでしょう。鍵。もうね、真っ赤になっちゃって。どうしてわかったんですかって」
「……ふうん」
「かっこ悪いなあって恐縮していたわ。うふふ、そういうことってよくありますよねって言ったら、そうですよねって」


そうだろうか。

彼は――奴は、フランソワーズが部屋を出る時間を計って、偶然を装ったのではないだろうか。
そして咄嗟に鍵をなくした話をでっち上げ自然な出会いを演出した。
大体、ポケットに鍵なんて忘れようがないではないか。
おそらくフランソワーズがそう指摘したから驚いて赤くなったのだろう。そうじゃなければ、頃合を見計らってわざとポケットから鍵を落とし、さもいま見つけたかのように振舞うかあるいは、いやあこんなところにあったよと白々しくポケットから出してみせるか。

ジョーが小さく唸ったところで、銭湯に着いた。

「ジョー?」
「ん。なに?」
「また腕組みして難しい顔してる。最近、癖になったの?」
「えっ?」
「ほら。ここに皺」

フランソワーズがジョーの眉間に指で触れる。

「怖い顔してると幸せが逃げちゃうわよ?」
「別に。――腹が減ってるせいだよきっと」

頭を振ってフランソワーズの指先を除けると、ジョーは銭湯の引き戸を引いた。
どうもいけない。最近、自分のペースが乱されている感じがする。
さっきまでの考えにしたって、そういう風にも考えられるというだけで証拠は無いのだ。どうも変なほう変なほうに考え過ぎてしまう。おそらく引っ越してきた彼は、相当のうっかりさんなのだろう。それだけのことだ。

「ジョー。待って」

ジョーがさっさと男湯の暖簾をくぐろうとすると、フランソワーズが彼のシャツの裾を引いた。

「ん?」

振り返ると、フランソワーズの笑顔が目の前にあった。

「クイズの答えは?」
「――クイズ?」
「もうっ。今日のゆうごはんはなんでしょう、よ」
「あ……」

忘れてた。

というか、それどころではなかった。

「え、と」
「もうっ。難しい顔してるからそれを考えてるのかと思ったのに」
「――風呂に入って考えてくる」
「ふふ、のぼせないでね?」
「了解」
「正解したら特典がありますからね」


え?


特典って、いったい――と質問しようとしたジョーをすり抜け、フランソワーズは女湯の暖簾のむこうに消えてしまった。

お楽しみにと言い残して。

 

***

***

 

特典は次回に繰り越しとなった。
ジョーがゆうごはんはなんでしょうクイズに正解しなかったからだ。そこで特典を教えてしまうほどフランソワーズは甘くない。いくら愛するジョーが相手でも。


真夜中にフランソワーズの寝顔を観察しながら、ジョーはあれこれ考えていた。

どうも彼女はガードが甘い。日本は治安がいいからと安心しきっているのだろうか。
確かに他国と比べれば格段に治安は良いだろう。が、だからといって犯罪が起きてないわけではないのだ。
こうしている今でさえ、あらゆるところで色々なことが起こっている。なくなったわけではない。
だから、フランソワーズがいつかどこかでそういう事件に遭遇しないとも限らない。
そのへん、彼女はほんとうにわかっているのだろうか。

それとも。


――考えすぎなのだろうか。


たかが新しい人物が引っ越してきたからといって。それがフランソワーズを気に入っているような印象を受けたからって。
フランソワーズに近付く全ての人物を排除するなんてことは、できっこないのだ。
それにそんなことをしたら、他でもない彼女に嫌われる。

そう、それに。


――相手は子供だ。


そうなのだ。専門学校に通う男の子――と、フランソワーズは言っていた。男の子と言うくらいなのだから、高校を卒業したばかりなのかもしれない。数年経っているとしても、まだ二十歳前だ。じゅうぶん子供である。
だからジョーがあれこれ心配するような事態はおきっこない。きっとフランソワーズも、年上ならではの感情でつい構ってしまうのだろう。そうに違いない。なにしろフランソワーズは優しいのだから。

――ま、優しいというのも問題だけどなぁ……


ものには限度というものがある。
特に彼女の「優しさ」だけは自分だけに向けていて欲しいと思ってしまうジョーであった。

 


―4―

 

ともかく、かの「男の子」に一度会っておかなくては。


ジョーはそう決意した。
どんな人物なのかわからないから心配してしまうのだ。会って話してみれば、案外どうってことないかもしれない。フランソワーズが話す通りのちょっとおっちょこちょいな男子かもしれない。

しかし、そう決意したものの生活時間帯が違うのか、中々会う機会に恵まれなかった。
フランソワーズなどは毎朝会うというのに。

本当に引っ越してきたのか?とジョーが疑い始めた頃、やっとその機会は訪れた。
ジョーが帰宅した時、自転車置き場でかの人物らしい人影を見つけたのだ。

どんな容貌なのか、そういえば訊いてなかったな――と一瞬後悔した。フランソワーズから散々話を聞いてはいたけれど、彼女は彼がどんな見てくれなのか全く言及していなかったのだ。
迂闊といえば迂闊だった。
内心舌打ちをしながら、ジョーはそっと近付いた。
日本人同士、会えば挨拶くらいするのはふつうのことである。


「――こんばんは」


声をかけるとその人影は顔を上げた。
その途端、ジョーは全身の血が逆流するかと思った。


――なっ……!どういうことだ、フランソワーズっ……!


「こんばんは。……あの、こちらにお住まいの方ですか」
「はい。島村です。二階の角部屋の」

指差すと、一瞬えっと驚いた顔になった。

「あ、すみません。ええと、僕は先週引っ越してきた……」


名前は日本人に多いごく一般的な苗字だった。そういえば名前も訊いてなかったなとジョーはぼんやり考えた。思えばフランソワーズの話には足りない情報のほうが多かった。


「お蕎麦、ごちそうさまでした。わざわざ御丁寧に」
「いえ、お口に合ったようで何よりです」


これからどうぞよろしくと互いに会釈した。風呂がないのが不便だけど近くに銭湯があるからいいですねとか、壁が薄いからテレビの音は気をつけましょうとか他愛のない話を少ししてから別れた。

階段を上りながら、ジョーは心中穏やかではなかった。


――外国人から見れば東洋人は幼く見えるというが、それにしても……


フランソワーズが言っていた「男の子」は、ジョーからみればどこをどう見ても成人した20代後半の青年であった。

 


―5―

 

「えっ?そうなの?」
「そうなのじゃないよ。……まったく」
「だって、高校生くらいかと思ったのよ?」
「日本人は若く見えるんだよ」

ジョーが苦い顔で言うと、フランソワーズはふうんと納得したのかしてないのか曖昧な返事をした。

「それに、僕も住んでるって言ってなかったのかい」
「えっ?」
「驚いてたぞ」

そう、今回のことで色々と抜けていたことが明らかになった。
誰かが訪ねてきてフランソワーズが応対したら、女性の一人暮らしなのだと思ってしまうだろう。なにしろこのアパートは狭いのだ。大人二人が住んでいるとは思いにくい。
表札にふたりの名前を書くべきなのだろうかとジョーは悩んだ。かといって、フランソワーズと書くのは気が引ける。外国人が住んでいるとアピールする必要は全く無いのだ。(とはいえ、ジョーと書いても外国人と思われる可能性は高い)
ドアのあたりに見るからに男物と思うような靴とか傘とか何か置いておけばいいのだろうか。
いや、一人で居るときに誰かが訪ねてきても出るなとフランソワーズに言うか。
いやいや、それはあまりに酷いだろう。彼女を軟禁しているわけではないのだから。


「ジョーったら。また難しい顔してる」

それに腕組み、と腕をつつかれた。

「新しい癖ね」
「別に。癖じゃないよ」

そう言うと組んでいた腕を解いた。
確かにフランソワーズの言う通り、最近は何か考える時につい腕組みをしてしまっている。

腕を解いたら手持ち無沙汰になったので、フランソワーズを抱き締めることにした。

「ねぇ、ジョー」
「うん?」
「引っ越してきた彼、おねえさんがいるのよ」
「ふうん。見たの」
「ええ。でも……彼より年上に見えたから、てっきりおねえさんかと思ったんだけど、ジョーの言う通り20代後半だとしたら同じ年くらいのひとよね」
「そうだね」

彼のことは若く見積もったくせに、女性のほうは間違えないんだなと思ったがそれは指摘しないでおいた。
女性同士は互いの年齢も素早く見抜くという都市伝説を聞いたことがある。

「てことは……彼女なのかしら」
「さあね」
「一緒に部屋に入っていったもの」

じゃあ彼女なんじゃないのとジョーは適当に答えた。
腕のなかにフランソワーズがいて、ジョーに体重を預けるみたいに安心しきっているこの状況では他の男の話などどうでもよかった。

 

 

数日後。

帰りが遅くなったジョーは、フランソワーズが言っていた女性はおそらく彼の恋人なのだろうと確信した。
部屋のあかりは消えているのに、明らかに不在ではない気配がしたからだ。これは自分の耳がいいからではないだろう――とジョーは思いながら、階段を上りただいまとドアを開けた。

「フランソワーズ」
「ん?なあに?」
「いや……」

部屋のなかにいた彼女には何も聞こえていなかったらしい。ということは、外に洩れるのだけ気をつければいいということか。

自分たちは今まで以上に気をつけよう――と心に誓うジョーであった。