「ジタンの香り」

 

 

ジタンの煙が目に滲みる・・・か。

 

ジョーは紫煙の立ち上る様を目で追った。


――確かどこかで聴いた・・・歌謡曲?だったかな。


それは、待ち合わせしているはずの恋人がなかなか現れず、だったら誰かと踊っちゃうぞ、酔っちゃうぞ、と女の子が可愛く思っている歌だった。
が、いまはその逆であり、恋人が現れるのを待っているのは男性であるジョーのほうだった。

パーティ会場で待ち合わせなんていう事態になってしまったのはジョーの仕事関係で仕方なかったから、こういう状況に陥ったのも自業自得と言えないこともない。が、ジョーとしてはまさかフランソワーズがこんなに遅れるとは思ってもいなかったのだ。


会場のフランス窓からバルコニーに抜けて、携帯電話を耳にあてた。
しかし、聞こえてくるのは相手は電波の届かないところにいるという無情なものだった。

小さく息をついて、タキシードの内ポケットからタバコを取り出した。
ジャン兄が送ってくれた「ジタン」。
ジョーは煙草の銘柄にはこだわらなかったから、貰ったものは何でも良かった。このジタンも単に今これしか手持ちがなかったから持って来ただけのものであり、それ以上の意味はない。


何度目かの煙を吐き出しつつ、そっと背後に目を遣る。


ハリケーンジョーが来ているというのはあっという間に知れ渡り、ジョーが出たあとのフランス窓には既に女性たちが陣取っていた。
こちらに向けられる秋波に気付かないふりをして、ジョーは再び手すりにもたれた。

眼下の庭園を見るともなく見遣り――息が止まった。


――フランソワーズ?なんでそんなところに。


「・・・ふ」


フランソワーズ、と呼ぼうとして不自然に止まる。
眼下のフランソワーズは独りではなかったのだ。

彼女の背後から現れたのは――


「――!」


白くて滑らかなデコルテを強調するかのようなドレス姿のフランソワーズ。
大きく開いた彼女の背中にエスコートするように手が伸ばされた瞬間、ジョーは音もなくバルコニーを飛び降りていた。
背後から女性たちの悲鳴が聞こえるが知ったことではない。


「ジョー!?」


目の前に降り立った栗色の髪の持ち主に蒼い瞳が丸くなる。


「フランソワーズに触るな」


低い低い声。


「――勝手にひとの女に触るなっ」
「ひ、ひとの女、って・・・ジョー!」

背後のフランソワーズが彼の背中をばかばか恥ずかしいでしょうと叩くけれど構わない。

「――失せろ」
「もうっ、ジョー!?聞いてるの!?」

目の前の輩が去ってゆくのを微動だにせず見届けるジョー。
彼が振り返ったのはしばらくしてからだった。
しかし、その瞳は険しいままだった。


「・・・フランソワーズ。僕を待たせて男と来るなんてどういうつもり」
「ちょっとそこで会っただけよ」
「携帯電話も通じなかった」
「あ。・・・電源オフにしてたから」
「・・・いい度胸だね?」

その口調にフランソワーズは眉間に皺を寄せた。

「ジョー?何をそんなに怒ってるのよ」
「別に」
「別にって顔じゃないわ。――時間通りに来たのに、ジョーったらいないんだもの」
「時間通り?何分遅れて来たと思ってるんだ」
「時間通りよ?変な言い掛かりは止めて頂戴」
「冗談だろ。時間は7時って言ったじゃないか」
「・・・8時って聞いたわ」
「誰に」
「ジョーに」


二人の視線が絡まった。


「・・・え?」
「もうっ。僕はエントランスで待ってるからなんて言ってたくせに、いないんだもの!」
「えっ、だって僕は」
「知らないわよ。勝手に一時間も早く来たんでしょ?」
「いや、だってさ」
「ジョーがいなくて私がどんな気持ちになったと思う?」
「・・・」
「心細いったらなかったわ。そんな中、知り合いの顔を見つけてほっとしたところだったのよ」
「・・・それにしたって」
「ジョー?」

蒼い瞳がひたと見据える。


「・・・ごめん」


フランソワーズの瞳がふっと優しく揺れた。

「――もう。ばかね。・・・あなたも心細かったんでしょう?」

白い手がそうっとジョーの頬を包む。

「どうしてわかるのか不思議?そんなの、さっきのあなたの顔を見ればすぐわかるわよ」

そうしてフランソワーズはジョーの胸に身を寄せ、彼を静かに抱き締めた。

「・・・誰かと踊ったりしてない?」
「してないよ」
「誰かと酔ったりしなかった?」
「うん。してない」
「――ん。ならヨロシイ」


くすりと笑って――そして声に険が混じった。

「・・・煙草くさい」
「え。あ、・・・ちょっと手持ち無沙汰で」
「吸ってたの?」
「うん――でも、一本だけだよ?」
「・・・お兄ちゃんの煙草」
「へ?」
「お兄ちゃんの好きな銘柄だわ。こっちでは滅多に売ってないはずなのに、どうして?」
「どうして、って」

それは。

「ジョーは煙草にコダワリなんてないでしょう?なのにどうしてわざわざ――」


ジャン兄から送られた煙草。
しかしそれは、男同士の秘密であった。フランソワーズに知られるわけにはいかない。
何しろ彼女は、ジョーと兄の男ふたりに対し禁煙活動を行って久しいのだ。
察しの良い彼女ならすぐに男性ふたりの密通に気付くだろう。しかし、そういうわけにはいかない。
自分だけならまだしも、ジャン兄まで咎が及んでしまう。


「ええと、それはつまり」

ジョーは早口で遮った。

「その、パッケージが」
「パッケージ?」
「うん。・・・ほら、フランソワーズの目の色と同じだろう?だから、つい――」

取り出した煙草の箱。
その蒼い色を見つめ、フランソワーズは小さく頷いた。

「・・・ふうん・・・そういうこと」
「うん。だからつい、ね」
「――ばかね」
「うん」

咄嗟に繰り出した言い訳ではあったけれど、パッケージの色を見た時にフランソワーズの色だなと思ったのは本当だった。

「じゃあ・・・今日だけは許してあげる」

 

ジタンの香りが鼻腔をくすぐった。