――最後にひとめだけ、009の姿を見たい。
話ができなくてもいい。ただ、無事な姿さえ見られればそれで――いい。


そう強く願ったせいだろうか。
目の前の医師に組み敷かれそうになった刹那、私にはこのラボ全体の様子が手に取るようにわかった。

それは見取り図なんて生易しいものではなく、建物全体及びそれに付属する施設という全体像はもちろん、各フロアのそれぞれの部屋やそこにどんな器具があって何人のどんな人がいるのかまでわかった。
まるで――そう、空からこの建物を見ているかのよう。

…幽体離脱みたいなものだろうか。

自分の尊厳の危機に陥って、自身の感情とか魂がすっぽり抜けて逃亡を図ったのだろうか。

――だったら、いい。心の入っていない私の身体など、どうでもいいモノに違いない。どんな目に遭ったって、そこには魂が宿っていないのだから、それこそただの機械に違いない。

それより、009だ。
彼はどこにいるのだろう。

こうして建物全体が透けるように見渡せるなんて、なんて便利なのだろう。
このままずっと幽体離脱していてもいいかもしれない。


――009はどこ?


私はただそれだけに意識を絞った。
彼の気配だけでもあればすぐにそれとわかる自信がある。009ほどのひとを捕まえておくなら、それなりの戒めをしているであろうから、きっと表面から見ただけでは彼とわからないかもしれないのだ。
でも今の私なら、彼がどんな姿をしていても絶対にわかるし見つけだせる。

お願い。

ひとめだけでいいから、彼に会わせて。

009は――どこにいる?

 

――009は――

 

――……

 

 

………!?

 

―――いない?

 


 

 

私は無言で医師の腹を蹴った。
思い切り、渾身のちからをこめて。手加減なんてしなかった。する必要もないのだから。
彼は私が抵抗しないと思っていたのだろう、それこそあっけなく――3メートルは吹っ飛んだだろうか。
そして身体をくの字に折って胃液を吐いた。

「ふ、ふらんそわーずっ、何をっ…」

何を、ですって?

「きみが抵抗したら009は」

――サイボーグを舐めるな。

私は自分のなかにこんな怒りが生まれる日が来ようとは思いもしなかった。
いまの私の目は燃えるように光っていることだろう。視線でひとを殺せるくらいに。

――殺してもいいかもしれない。

だって私は兵器なんだし。サイボーグなんだし。

醒めた思いが支配する。

私はまっすぐ医師の方に向かった。医師はまだ倒れたままだ。その腹を蹴る。さらに二度三度。そのくらいしなければ気がすまない。殺すのと比べたらましだろう。
と、思ったけれどやめた。

そんなことをしている場合ではないのだ。
いま私がすべきことは。

ここから無事に逃げること。

それが、敵に攫われたときの私の鉄則。


「フランソワーズ、きみは――まさか」

医師が顔を上げて私を見る。その瞳は期待に満ちていた。

「まさか、もう…?」

だから私は逃げる前にちょっとだけ笑ってみせた。

「ええ。ありがとう先生。この機能、助かります」
「ちょっと待て」

私は、今や全て見渡すことのできる建物から脱出するべく部屋のドアに手をかけた。今までどうやっても見つけることのできなかった、白い部屋のドアに。

「待て、003っ。いまどう見えているのか、教えてくれっ」

医師の声が聞こえるが私は振り返らなかった。
そのままドアの外に出るとしっかりと閉めた。

もう声は聞こえない。

 

 

 

009はどこにもいなかった。
もちろん、博士もいなければ他の仲間もいない。誰ひとり、いなかった。

誰もつかまってなどいなかったのだ。

全て私を実験に協力させるための嘘。
私をただの被検体にするための卑怯な嘘だった。


私は手に取るようにわかる建物のなかを自由に歩いていた。
なにしろ全部見えるのだ。どこに誰が居て、どこにどんな仕掛けや監視カメラがあるのかも。
それらを全て避けることは簡単だった。

――あんなに何も見えなかったのに。

シールドが解かれたわけではない。そうではなくて、私はそんなものにはごまかされない目の持ち主になっていたのだった。
彼らが私に施した手術。
それはあらゆる手段を用いて行われるめくらましを見破ることができる機能だった。だから、術後少ししてから――白い部屋に入ってくるヒトの姿がわかるようになっていた。
私はてっきり白い長衣を着なくなったのだろうと思っていたけれど、実はそうではなく彼らは常に着用していたのだった。ただ、私の目の機能が亢進したせいで「見える」ようになっただけのことだった。
あの時既にテストは始まっていたのだ。

皮肉なものだ。
私に施した手術の効果が表れたせいで私を逃がすことになろうとは。
見るがいい。今の私にはどんな目くらましも通用しない。そこに敵がいようと楽に裏をかいて通ることができる。それも安全に。


そして私はあっさりと建物の外に出た。
高を括っていたらしく警報すら鳴らなかった。あの白い部屋から出る時は、実験に協力する被検体としての意志しかもたない003のはずだったのだろう。私が逃げた時の対策など施されていないようだった。

私は外に出ると深呼吸した。


――帰らなくちゃ。

みんなの元に。

 

建物は意外にも普通の住宅地のなかにあった。
外観からは一般的なビルにしか見えない。中でどんなことが起こっているのか、誰も知らないだろう。
否――あるいは、そこに建物があるようにすら見えていないのかもしれない。他の人々には。

私は住宅地を抜けて公園に出ていた。
電話ボックスが見える。

――電話をしよう。そして無事を伝えて、それから…

硬貨もカードも持っていないから、迎えに来てもらわないと私は帰ることができなかった。けれど電話だけはかけることができる。ずうっと昔、ジョーに教わったのだ。タダで電話をかける方法を。

――繋がった。


「――もしもし?」


受話器を持つ手が震える。

電話の向こうで歓声が上がっていた。
それを聞きながら私は座り込んでいた。

あのラボをどうするか――もう目くらましは私には通用しないから攻撃するのは容易だ――は、みんなに任せる。

今は考えたくない。

何も。

 

受話器を通じて聞こえてくる懐かしい声に耳を傾けながら、私は遠い空を見つめていた。

震える身体を抱き締めながら。

 

 


end