例えば君がいなくなったら
いつものように目が覚めた。 いつものような時間。 いつものような部屋の空気。 いつものような――君の寝顔がない。 昨夜確かに腕に抱き締めて眠りについたのに。 ――先に起きたのだろうか。 ぼんやりそう思って時計を見ると、既に午前8時を過ぎていた。 ほら、やっぱり。 唇に笑みを浮かべ、再びシーツにくるまって目を閉じた。
が。 20分待っても30分待っても――彼女の足音はしなかった。 いつもなら、9時を過ぎる前に起こしにやって来るのに。 ――出掛けるって言ってたっけ? 首を傾げつつ身体を起こし、僕は服を着ると部屋を出た。
***
「フランソワーズ?」 キッチンを覗く。 いない。 「フランソワーズ?」 リビングを覗く。――いない。
異様に静かな邸内。 テーブルにはラップで包まれた朝食があった。僕の分。
庭に出てみた。 「ああ、ジョー、起きたのか」 いつもフランソワーズが言うようなセリフを言う。 「今日の当番はピュンマだったっけ?」 そう言うと、僕から目を逸らせて花の水遣りに集中した。 「・・・あのさ。ピュンマ」 ピュンマ? 「何を言ってるのかわからないな」 呆然とする僕を振り返り、ピュンマは気遣わしげに眉を寄せた。 「お前、大丈夫か?」 男? 「ピュンマ。いい加減にしないと怒るよ?僕をからかってるつもりなら後悔することになるよ」 一歩も譲らないどころか、僕の方がおかしいという。 「――もういいっ。他の奴に訊いてみるよ。そして、ピュンマが変だと教えてやる」 ピュンマを庭に残し、僕は邸内を片端から歩いた。 ランドリールームでアルベルトに会った。 「やっと起きたか」 僕の顔を見てにやりと嗤う。 「ピュンマが気にしてたぞ。朝メシ食わないと片付かないってさ」 眉間に皺を寄せるアルベルト。 「フランソワーズって誰だ」 だって。 003はフランソワーズじゃないか。 「――もういいっ」
僕はランドリールームを飛び出して、フランソワーズの部屋へ向かった。 「フランソワーズっ」 ドアを壊すような勢いで入る。 ――が。 そこには、見慣れた家具や小物は全くなくて、僕の知らない誰かの――男の部屋だった。 「・・・えっ?」 ここはフランソワーズの部屋のはずだ。 しかし。 やはりそこは――フランソワーズの部屋のはずだった。本来ならば。
フランソワーズがいない。
その存在すら危うくなっている。
そんなバカな話があってたまるか。 だってフランソワーズは昨夜まで確かに僕のこの腕の中にいたのに。
玄関に行って、靴箱を全部開ける。 無い。 フランソワーズの靴が無い。
バスルームへ行って脱衣所の棚を全て開ける。 ――無い。 フランソワーズのバスタオルも、お気に入りのシャンプーも、ボディソープも、アヒルのおもちゃも。 何も無い。
キッチンへ行く。 途中で行き会ったジェロニモが驚いたように僕を見る。 「ジョー、慌ててどうした」 そうだ。ジェロニモなら。 「・・・フランソワーズを見なかった?」 「――もういいっ」 首を傾げているジェロニモを置いて、僕はキッチンに飛び込んだ。 いつも彼女がつけている、ピンクの花模様のエプロンがあるはずだ。いや、それがなくても、料理をする時に使っている彼女の髪をまとめるクリップがあるはずだ。それに、彼女のお気に入りのマグカップや、手書きのレシピが冷蔵庫に貼り付けてあるはずだ。 「フランソワーズ!!」 しかし、ガスコンロの前で振り向いたのは―― 「やぁ、ジョー。どうしたアルネ」 丸々とした身体をこちらに向ける張々湖。フランソワーズとは似ても似つかない。 「・・・フランソワーズを見なかったかい?」 フランソワーズはいない。 消えてしまった。 この邸から。 「ジョー、どうしたアル」 僕はキッチンを後にして、身体を引き摺るように自分の部屋に戻った。 ――どうしてだ。 みんながきみの事を知らないと言う。 きみは確かにここに居たのに。 確かに存在しているのに。 きみは003だ。僕らの仲間で、僕の大事な――
――本当にそうだろうか? もしかしたら、僕が勝手にきみという存在を作り出していただけということは無いだろうか? 本当は、003は男で、「フランソワーズ」という名の女性は存在しなくて。 僕は、現実と空想の境界を見誤ってしまったのだろうか。 本当は――「フランソワーズ」はいない。実在する人物ではない。 それが正解なのではないだろうか?
しばし自失していた。 ただ部屋の真ん中に立ち尽くして。 ・・・僕は。
――いや。
違う。 違う違う違うッ
違うッ
フランソワーズは、僕の想像の産物なんかではない。 僕の大事な――僕の、フランソワーズだ。 だって、その証拠に――その証拠に、
ほら!!
僕は勝ち誇ったように、シーツの上の一本の長い髪を拾い上げた。
「イワンっ!!全部わかってるんだぞ!!出て来い!!」
僕は天井に向かって叫んだ。
*** ***
*** ***
「イワンの奴、ミスったな」 指差された先のモニター画面をそこにいた全員が覗き込む。 「・・・大丈夫なようだな」
*** ***
「フランソワーズっ・・・・」 ぎゅうぎゅうと抱き締められ続けて、私は苦笑しながらジョーを押し戻した。 「ジョー、・・・壊れちゃうわ」 それでも、うわごとのように私の名前を繰り返すだけで腕は緩まない。 大体、私は反対したのよ。最後まで。 「ウイリアム・アイリッシュの小説みたいなのが実際に起こったらたまげるよな」 全員がニヤリと笑って――話が決まった。 朝食の席である。 「違うよフランソワーズ。僕たちはジョーをいじめるつもりなんかないよ」 そんな訳で――
私はジョーの背中を優しく撫ぜた。 「ジョーったら。・・・どこにも行かないから、大丈夫よ」 それでも離してくれない。
みんなは、ジョーをからかって遊んだだけ――と思っているかもしれないけれど。 怖かった。 これはもしかしたら、ジョーへの罰ゲームじゃなくて私に対してなんじゃないかと疑うくらい。
だから。
「・・・ありがとう」
「――えっ、何が?」 「何でもないわ」 「だけど」 「いいの。――ね、ジョー。私が本当はこの世にいない存在じゃないのかって思わなかった?」 「思わないね」 「どうして?」 するとジョーは私の身体を離して、まじまじと顔を見つめた。 「きみがいなかったら、僕が生きてるわけないだろ?生きてるということは、即ちきみもどこかで生きているということだ」
「・・・ねぇ、ジョー?私ね」 ジョーの頬にキスしながら言う。 「あなたを起こしに行くの、実は好きなのよ」 みんなわかってないけど、ね。
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