例えば君がいなくなったら

 

 

いつものように目が覚めた。

いつものような時間。

いつものような部屋の空気。

いつものような――君の寝顔がない。

昨夜確かに腕に抱き締めて眠りについたのに。

――先に起きたのだろうか。

ぼんやりそう思って時計を見ると、既に午前8時を過ぎていた。

ほら、やっぱり。
彼女はとうに起きている時間だ。
今頃はリビングでお茶を飲んでいるか、キッチンにいるはずで――もうすぐ僕を起こしに来る。

唇に笑みを浮かべ、再びシーツにくるまって目を閉じた。
彼女の足音がするのを心待ちにしながら。

 

 

が。

20分待っても30分待っても――彼女の足音はしなかった。

いつもなら、9時を過ぎる前に起こしにやって来るのに。

――出掛けるって言ってたっけ?

首を傾げつつ身体を起こし、僕は服を着ると部屋を出た。

 

 

***

 

 

「フランソワーズ?」

キッチンを覗く。

いない。

「フランソワーズ?」

リビングを覗く。――いない。

 

異様に静かな邸内。
みんな出掛けるって言ってたかな?

テーブルにはラップで包まれた朝食があった。僕の分。

 

庭に出てみた。
ピュンマが花に水をやっていた。

「ああ、ジョー、起きたのか」
「ウン・・・みんなは?」
「出掛けた。――お前も早くメシ食っちまえよ。片付かないからな」

いつもフランソワーズが言うようなセリフを言う。

「今日の当番はピュンマだったっけ?」
「ああ。ともかくお前が食わないと片付かないし、僕はこのあと出かけなくちゃならないんだ」
「じゃあ、食べたら片付けておくよ」
「そうか?――なら、いいけどな」

そう言うと、僕から目を逸らせて花の水遣りに集中した。

「・・・あのさ。ピュンマ」
「なに?」
「フランソワーズの姿が見えないんだけど、どこに行ったか知ってる?」
「――誰だって?」
「だからフランソワーズだよ」
「ふらん・・・なんだって?」

ピュンマ?

「何を言ってるのかわからないな」
「えっ、だから、フランソワーズだけど」
「――女性の名前だな。お前のガールフレンドか何かか?」
「何か、って・・・」

呆然とする僕を振り返り、ピュンマは気遣わしげに眉を寄せた。

「お前、大丈夫か?」
「大丈夫か、って・・・それはこっちのセリフだよ。――どうしてフランソワーズがわからないんだ。
彼女は003だ。僕らの仲間だぞ?」
「003?」
「ああそうだ。ずっと一緒に戦ってきたじゃないか」
「――お前、寝ぼけてるのか?003は――男じゃないか」

男?

「ピュンマ。いい加減にしないと怒るよ?僕をからかってるつもりなら後悔することになるよ」
「からかってない。変なことを言ってるのはお前のほうだろう?003が女性だって?――寝ぼけるのもいい加減にしろ」

一歩も譲らないどころか、僕の方がおかしいという。
だって――003が男だって?バカも休み休み言え。

「――もういいっ。他の奴に訊いてみるよ。そして、ピュンマが変だと教えてやる」

ピュンマを庭に残し、僕は邸内を片端から歩いた。
誰か見つかれば残らず訊いてやる。
003が男かどうか。――フランソワーズはどこへ行ったのか。

ランドリールームでアルベルトに会った。

「やっと起きたか」

僕の顔を見てにやりと嗤う。

「ピュンマが気にしてたぞ。朝メシ食わないと片付かないってさ」
「そのピュンマなんだけど・・・」
「ん?」
「変なこと言うんだよ」
「変なこと?」
「――003が男だって」
「別に変じゃないだろ」
「だって、003はフランソワーズだろう?」
「・・・フランソワーズ?」

眉間に皺を寄せるアルベルト。

「フランソワーズって誰だ」
「003じゃないか」
「・・・お前、寝ぼけてるのか」

だって。

003はフランソワーズじゃないか。

「――もういいっ」

 

僕はランドリールームを飛び出して、フランソワーズの部屋へ向かった。
フランソワーズの部屋があれば、部屋を見れば――フランソワーズが存在しているという証明になる。

「フランソワーズっ」

ドアを壊すような勢いで入る。

――が。

そこには、見慣れた家具や小物は全くなくて、僕の知らない誰かの――男の部屋だった。

「・・・えっ?」

ここはフランソワーズの部屋のはずだ。
廊下に戻り、順番に数えていく。もしかしたら僕は間違えて誰かの部屋を開けてしまったのだろう――と。

しかし。

やはりそこは――フランソワーズの部屋のはずだった。本来ならば。

 

 

フランソワーズがいない。

 

その存在すら危うくなっている。

 

そんなバカな話があってたまるか。

だってフランソワーズは昨夜まで確かに僕のこの腕の中にいたのに。

 

玄関に行って、靴箱を全部開ける。

無い。

フランソワーズの靴が無い。

 

バスルームへ行って脱衣所の棚を全て開ける。

――無い。

フランソワーズのバスタオルも、お気に入りのシャンプーも、ボディソープも、アヒルのおもちゃも。

何も無い。

 

キッチンへ行く。

途中で行き会ったジェロニモが驚いたように僕を見る。

「ジョー、慌ててどうした」

そうだ。ジェロニモなら。

「・・・フランソワーズを見なかった?」
「ふらん・・・誰だって?」

「――もういいっ」

首を傾げているジェロニモを置いて、僕はキッチンに飛び込んだ。

いつも彼女がつけている、ピンクの花模様のエプロンがあるはずだ。いや、それがなくても、料理をする時に使っている彼女の髪をまとめるクリップがあるはずだ。それに、彼女のお気に入りのマグカップや、手書きのレシピが冷蔵庫に貼り付けてあるはずだ。
フランソワーズはここに居るのが好きで、いつも「ジョーったら。邪魔しないで」と言って可愛く睨んだ。
可愛いフランソワーズ。
君はここにいるよね?
いつものように、「もうっジョーったらびっくりするじゃない」と言って・・・・

「フランソワーズ!!」

しかし、ガスコンロの前で振り向いたのは――

「やぁ、ジョー。どうしたアルネ」

丸々とした身体をこちらに向ける張々湖。フランソワーズとは似ても似つかない。

「・・・フランソワーズを見なかったかい?」
「誰だって?」
「だから、ふらん・・・」

フランソワーズはいない。

消えてしまった。

この邸から。

「ジョー、どうしたアル」
「・・・なんでもないよ」

僕はキッチンを後にして、身体を引き摺るように自分の部屋に戻った。

――どうしてだ。

みんながきみの事を知らないと言う。
きみが居た痕跡もなくなっている。

きみは確かにここに居たのに。

確かに存在しているのに。

きみは003だ。僕らの仲間で、僕の大事な――

 

 

 

 

――本当にそうだろうか?

もしかしたら、僕が勝手にきみという存在を作り出していただけということは無いだろうか?

本当は、003は男で、「フランソワーズ」という名の女性は存在しなくて。
寂しい僕の脳が勝手に作り出した幻影ということはないだろうか。
そして、いつの間にか僕の妄想が暴走して――幻影に過ぎないきみが実在すると思い込んでしまったとしたら?

僕は、現実と空想の境界を見誤ってしまったのだろうか。

本当は――「フランソワーズ」はいない。実在する人物ではない。

それが正解なのではないだろうか?

 

 

しばし自失していた。

ただ部屋の真ん中に立ち尽くして。

・・・僕は。

 

 

 

――いや。

 

 

違う。

違う違う違うッ

 

違うッ

 

フランソワーズは、僕の想像の産物なんかではない。
実際にこの世界に存在するかけがえのない大事な女の子だ。

僕の大事な――僕の、フランソワーズだ。

だって、その証拠に――その証拠に、

 

ほら!!

 

僕は勝ち誇ったように、シーツの上の一本の長い髪を拾い上げた。
この色は、この長さは、他の誰のものでもない、フランソワーズの髪の毛だ。
僕のベッドの上で見つけたのだから、間違いがない。この僕が間違えるわけがない。
これは僕の大事なフランソワーズの・・・

 

「イワンっ!!全部わかってるんだぞ!!出て来い!!」

 

僕は天井に向かって叫んだ。

 

***

***

 

***

***

 

「イワンの奴、ミスったな」
「ったく。髪の毛一本忘れただけだっつーのに、奴には十分だったってわけか」
「そりゃ十分だろうよ。それより後が大変だぞ」
「だいじょーぶだって。見てみろよ」

指差された先のモニター画面をそこにいた全員が覗き込む。

「・・・大丈夫なようだな」
「でもさ、しばらくは俺達と口利いてくれないだろうなぁ」

 

***

***

 

「フランソワーズっ・・・・」

ぎゅうぎゅうと抱き締められ続けて、私は苦笑しながらジョーを押し戻した。

「ジョー、・・・壊れちゃうわ」

それでも、うわごとのように私の名前を繰り返すだけで腕は緩まない。
私は諦めて、ため息をひとつ。
もういいわ・・・ジョーの気が済むまで付き合うしかない。

大体、私は反対したのよ。最後まで。
なのに、イワンがやろうやろうって面白がって。次にノったのがピュンマだったからタチが悪い。普段マジメな彼がそう言えば、もともと悪ふざけのきっかけが欲しいだけのジェットやジェロニモは二つ返事で追従したし、常識的なアルベルトでさえ「たまにはいいんじゃないか」なんて言い出す始末。

「ウイリアム・アイリッシュの小説みたいなのが実際に起こったらたまげるよな」
「自分が信じられなくなるよな」
「誰かそれに打ち克つ自信のある奴はいるか?」
「・・・やるなら、ここにいない奴がいいんじゃないか。いつもフランソワーズに手間をかけさせているし」
「そうだな」

全員がニヤリと笑って――話が決まった。

朝食の席である。
食後のお茶を飲みながら、みんなの視線がたったひとつ空いている席に向けられたのが事の発端。
いつも起こしに行かないと起きないジョー。それも、他の人が行くと暴れて手に負えないから、私が起こしに行かないといけない。私が行かないと起きないジョー。
それがみんなの癇に障った――と、いうよりも。それを理由に面白いネタの実験台に選ばれてしまったと言った方が正しいだろう。

「違うよフランソワーズ。僕たちはジョーをいじめるつもりなんかないよ」
「そうだ。いい加減、ひとりで起きろといいたいわけだ」
「たまには全員揃って朝飯を食ってもいいんじゃないか?」
「お前さんも起こしに行く手間が省けていいだろう」

そんな訳で――

 

 

私はジョーの背中を優しく撫ぜた。

「ジョーったら。・・・どこにも行かないから、大丈夫よ」

それでも離してくれない。

 

 

みんなは、ジョーをからかって遊んだだけ――と思っているかもしれないけれど。
もし――「もしも」よ。
ジョーが私の存在をあっさり否定してしまって、実在してなかったんだなんて言い出したらどうしよう――って、気が気じゃなかった。

怖かった。

これはもしかしたら、ジョーへの罰ゲームじゃなくて私に対してなんじゃないかと疑うくらい。

 

だから。

 

「・・・ありがとう」

 

 

「――えっ、何が?」

「何でもないわ」

「だけど」

「いいの。――ね、ジョー。私が本当はこの世にいない存在じゃないのかって思わなかった?」

「思わないね」

「どうして?」

するとジョーは私の身体を離して、まじまじと顔を見つめた。

「きみがいなかったら、僕が生きてるわけないだろ?生きてるということは、即ちきみもどこかで生きているということだ」
だから、簡単だったよ――と続けたけれど、私はそんなの聞いてはいなかった。実際、ジョーは最後まで喋れなかった。
何故なら私が彼の唇を塞いでしまったから。

 

「・・・ねぇ、ジョー?私ね」

ジョーの頬にキスしながら言う。

「あなたを起こしに行くの、実は好きなのよ」

みんなわかってないけど、ね。