「棺の姫」
その時の僕は、彼女が死んでいるなんてちっとも思えなかったんだ。 でも。 そのガラスの棺の中に横たわっていたのは、薔薇色の頬に紅い唇の美しい姫だったんだ。 僕はその姿に釘付けになった。 『誰だお前』 小人が明らかな敵意を剥き出しにする。背後にある棺をかばって、殺気をみなぎらせる。 「僕は遠い国の第二王子、ジョーだ」 僕は唇を噛んだ。 「美しい…」 思わず口をついて出た言葉に小人たちがわあわあと反応する。 『死に化粧をしてるんだ、当たり前だろ』 僕は小人をかきわけ、棺に手をかけるとガラスの蓋を外した。 『馬鹿王子、何をするっ』 構わず、姫の頬に指で触れた。冷たくはなかった。 「おい。姫の死因はなんだ」 僕は姫の上半身を抱え、肩に姫の顔がもたれるようにした。 『あわわ、何をするっ』 すると、咳と供に姫の意識が戻った。 『フランソワーズ姫っ』 ハイムリッヒ法を使っただけなんだけど…まぁ、いいか。 「あの、わたし…」 瞳はグリーンだった。森のような、あるいは海のような。 「あなたは命の恩人?」 仮死状態だったとは言わない方がいいだろう。実際、実質的な脳への酸素供給途絶時間はどのくらいなのかわかっていない。今後、その影響がどの程度現れるのかわからないのだ。いたずらに不安を煽ることもあるまい。 「そう…」 そして姫は、僕の腕のなかにいることに気付き身じろぎした。が、簡単に離す気にはならなかった。 『姫っ、こやつは危険ですぞ』 「変態?」 きょとんと僕を見る。 数秒後。 派手なビンタをくらった。なんとも元気な姫だった。 ぱかぱかとのどかな蹄の音だけが響く森の道。 「姫。そんな顔をしていると面白すぎて手綱を持つ手が震えてしまう」 言葉の全てにトゲがあるような姫の声。とはいえ、なんて耳に心地良いんだ。きっと一生聞いていても飽きないぞ。ああ。僕はこのフランソワーズ姫に心を奪われてしまったんだなぁ…… 「まったくもう。戦利品のように連れて行かれるなんて納得いかないわ」 小人によれば、姫は継母にとてつもなく嫌われており生きていることがわかればまた命を狙われるのだという。もうこの国に姫の居場所は無いのだ。 「だけど、納得いかないわ」 それは。 「――遠くて説明してもわからない国さ」 王妃――に、なりたいのか。 その可憐な容貌とは裏腹に姫は権力に興味があるようで、僕は若干の失望を抱いた。 「――5位だ」 父(現王)の弟が三人。そして僕の兄。で、僕の順だ。 「まあ」 フランソワーズ姫がこちらを肩越しに振り返る。 そんなんじゃ話にならないわ、帰ります そんな言葉が胸に突き刺さるであろうことを予想して心の準備をする。 「よかった」 ほら、がっかりした顔をして自分はとんだ貧乏くじを引いた、って―― ――えっ? あ、あれ? 「王妃になるとか言われたらどうしようかと思ったわ」 え、な、なん―― 「あら、不思議?」 うん。 フランソワーズ姫は半身になってこちらをじっと見つめたから、僕は思わず彼女の顔を見てしまった。 「だって、興味がないんだもの」 たったひとりの世継ぎだろ?帝王学とかいろいろ叩き込まれてるはずだろ?だったら治世に興味がないわけがないし、国をよくするためにあれこれ―― 「実を言うとね、お城の生活も好きじゃないの。物凄く退屈なんだもの」 この姫はもしかしたらちょっと問題があるのか……? 「あら、おかしい?」 それは――こうして姫に出会うためでは?おとぎ話によくある王子の行動だと…思うのだが。 「ねえ、ジョー。だったらこのままどこかへ行ってしまわない?」 え? 「二人で」 姫の言葉に僕の世界は止まった。 森の中。 僕とフランソワーズ姫はふたりっきりだった。 「行くって……どこへ」 僕はあまりのことに絶句した。あまりに姫らしからぬ言葉である。 しばし見つめ合ったまま時が流れる。 …………。 想像できない。 そもそもフランソワーズ姫に獣を料理するなんてことができるわけがない。きっと今までだって小人にやってもらっていたに違いないし。かといって、僕が料理をできるはずもない。ということは、遠からず二人は飢えてしまうわけで二人での生活も破綻する。 無理だ。 二人でこのままどこかへ行ってしまいましょうなんて何も知らないお姫様だからこそ言えるのだ。自分は何もできなくても周りの者がやってくれる。そんな生活に慣れているお姫様にしかあるいはできない発言なのだ。夢のような。 僕は深く息を吐くと、改めて姫を見た。 「無理ですよ。姫」 お城暮らしが嫌いだといっても、そこでしか暮らせないのなら仕方がない。 「あら、黙り込んで得た結論がそれ?」 姫は値踏みするように僕をじっと見た。その不思議な蒼い瞳にはいったい僕の何が映っているのだろうか。 「ジョー。あなた、自信がないのね?」 だって、それはそうだろう。 「二人だけで過ごすとなると、やることがたくさんあるわ。それをこなす自信がないのね」 姫はいま幾つだろうか。七年なんて尋常ではない。それならば帝王学などの諸々は受けていない――だろう。だからこんなユニークな発想をするのか。 「用心に用心をしてきた七年だったのよ。なのにうっかりリンゴをかじって気絶するなんてみっともないったら。しかも、小人たちに死んだって思われたのよ。葬式するなんて慌て者よねみんな。でも……」 突然、姫はすっと手を伸ばすと僕の頬に指先で触れた。 「ジョー。あなたが来て助けてくれた」 姫は僕の上着を引っ張り自分のほうへ引き寄せた。顔が近い。 「生きている女性のほうが興味がある?」 そう言うと姫は僕にくちづけた。 なぜならば。 頭のなかがぐるぐるする。 そりゃ僕だって、キスの経験が無いわけじゃない。 はじめてだ。 いや、改めて言おう。いくら王位継承権が低位の僕だってまがりなりにも王子なのだ。他国の姫との縁はある。だから、所謂「姫」とキスしたことがないわけではない。そうでなければ、おとぎの国でなにかというと「キスで解決」なんてお約束はありえない。 ありえないのだけれど。 その、こういうキスは本当に好きになった相手とだけするもんじゃないのか? だから―― これはいったいどう解釈すればいいのか、僕は困惑していた。 で……どうしたらいいのだろう。 否、どうもしようがないのはわかっている。なにしろ、ここは寝所ではなく馬上なのだ(きっとジュスランも戸惑っている事だろう)。こ、困ったな。心得ではこういうキスをした場合は次の段階に移るのが礼儀となっている。が、これでは次の段階も何もない。 フランソワーズ姫とのキスはとても気持ちがいい。それは確かなことである。が。 教わったのか?誰に?――小人から、か? フランソワーズ姫とのキスが気持ちよくてやめたくはないから、余計に黒い炎が渦巻いていく。 「――はぁっ……」 姫が唇を離した。唇から唾液の糸が引く。僕はとても残念な思いでお互いの唇をつなぐ糸を眺めた。 「あ、やだ……」 すると姫は恥ずかしそうにうつむいて唇をそっと拭った。そして僕の唇にそっとひとさしゆびを当てると小さく言ったのだ。 「あの。……好きな殿方にキスするのって初めてだったのだけど、これで合ってたかしら……」 「――は?」 合ってるかどうか、って……そんなの、知らないよ。 「え…と。その――」 僕はこほんと咳払いをして姫の肩に手をかけようとした。が。その右手は姫の肩に到達することなく空中を抱いた。何故ならば、突然姫が顔を上げたからだ。 「しっ。黙って」 妙に真剣な顔をしているから、先程までのどこか甘い空気は霧散した。 「姫?」 いったい何が、と言い掛けたら 「ジョー」 姫が真剣な瞳で僕を見据えた。 「こちらに向かってくる者がいるわ。それも大勢」 フランソワーズ姫がそう言い終らないうちに、僕は姫を正面を見るよう向きなおさせジュスランを駆けさせていた。 「フランソワーズっ、頭を低くしてしっかりつかまって」 何者がやってくるのかわからないが、もしも敵か何かだとしたらここでおとなしく待っている道理はない。 敵。 ――そうだ。 僕はジュスランを最高速度で駆けるよう操作した。ジュスランは暴れん坊だが、僕のいう事はよく聞く。そして本気で走ると風のように速い。頭を低くして風の抵抗を受けないようにしながら、僕の目の前で同じように頭を低くしている姫の様子を探る。ユニークな姫といっても王女様だ。森での生活が長いとはいえ、このような速度で馬を駆けさせるなど経験はないだろう。 「ジュスランは速い。追手はおいつきませんよ。大丈夫です」 姫は頷くとしっかりとジュスランにつかまった。ごうごうという風の音が僕達を包む。周りの景色が飛ぶように後方へ流れてゆく。 「僕は馬の速駆けでは負けたことがありません」 そう、小さい頃からいつも大差をつけて勝ってきた。走るのでも、馬を駆るのでも、馬車を操るのでも。 すると、姫がちらりとこちらを見た。 「もうすぐ藪の密集した場所があります。その先に段差のある隠れるのにちょうどよいところが」 なるほど。考えている事は一緒か。 「――わかった」 伊達に森で生活してきたわけではないということか。 藪の先の段差のある場所とは、岩が張り出しておりちょっとした洞窟のようになっている場所だった。 「――行ったようだな」 僕がそっと頭を出そうとすると物凄い力で引き戻された。 「待って」 僕の口を両手で塞ぎ、姫はじっと耳をすませた。 ――いや。 違うのか。 僕と姫は息を潜め、ただじっとしていた。 数分。 突然、鳥の声が復活した。姫が大きく息をつく。 「――行ったみたい。もうだいじょうぶよ」 僕は剣から手を離した。大きく伸びをする。 「よくわかるね」 立ち上がり、潜んでいた岩の下から出る。ジュスランはへばっていないだろうかと藪に向かうと既にそこに姿は無かった。 「まあ、大変。どこかへ行っちゃったのかしら」 どこかへ水を飲みに行ったのだろう。 「この辺に川はないか」 本当に小さな川だった。川辺に無数の黄色い花が咲いている。 「暴れ馬だけど頭がいいんだ」 お疲れ様、とジュスランの首を撫でると当然だと言わんばかりに満足そうな顔をした。 「――ねぇ、ジョー」 金色の髪が陽に輝く。 「やっぱり、一刻も早くこの国を出るべきだわ。国境を過ぎてしまえば追手も諦めると思うの」 まったく。何を言い出すのかと思えば。 僕はじっとフランソワーズ姫を見た。 ならば。 二人でどこかへ云々というのは戯れに言っただけだったのかもしれない。 ――ハズレ、か。 まあそうなのだろう。 ――そんな王子の伴侶になるのは誰だって嫌だろう。 だから僕は国を去った。 ハズレの王子。 要らない王子。 そうして旅をしてきた。 「ジョー?どうしたの」 フランソワーズ姫が僕の頬を両手で包んで心配そうに見上げている。 「――別に。そうだな。姫の言う通りだ」 僕は姫から離れるときっぱりと言い切った。 「ここで別れたほうがよさそうだ」 さようなら、フランソワーズ姫と言おうと改めて姫を見ると、姫はなぜか酷く驚いた顔をしていた。 「えっ……」 姫? なぜ泣くんだ? 泣きたいのはこっちのほうだ。 命を救ったにも拘らずビンタされて。それでもおとぎ話の定石通りに姫と一緒に行動することにして。 僕に落ち度はないと思うんだけど。 だから僕は――王子にあるまじき行為だけれど――姫を放っておいた。 僕は目の前で涙をこぼすフランソワーズ姫をただじっと見下ろしていた。 「――どうして、そんなことを言うの、ジョー」 ひどい? 「ここで別れるなんて……」 いや、だから。 「私と一緒にいるのがそんなに嫌?」 だから。 「そこは、『あなたを独りになんてするわけにはいきません』って言うところでしょう?」 ――はい? 「王子は王女を見つけたら、敵から守って優しくするきまりでしょう。知らないの?」 知っている。が。 「それがなんなの。はいそうですね別れましょうって。私をひとりぼっちにするつもり?」 ――ん? 「ははん。わかったわ。私を守る自信がないのね?」 ……あれ。なんだか急に……メンドクサクなってきたぞ。色々と。 「私のことなんて、戯れに助けただけなんでしょ。そうよね。小人たちに囲まれたガラスの棺で眠る王女なんて珍しかったわよね。でも、助けたものの七年も森で育ったせいで王女のくせにガサツだしこの通り言葉は悪いし乱暴だしいいとこないなって思ったのでしょ。だから、こんなお荷物な王女なんてさっさとお別れして別の素敵な姫を捜したいんでしょ……」 自分で言って自分で涙ぐむなんて器用だなあ。 「そんなこと言ってませんよ」 僕はフランソワーズの頬を指先で拭うと額にキスをした。 「僕は、……僕のほうこそ、あなたに見限られたのだと思ったのです」 だったら。 「だったらどうしてここで別れたほうがいいなんて言ったんです?」 ちょっと意地悪だろうか。 「それは……言ったでしょう、最初に」 フランソワーズはちょっと怒ったように頬を染めた。 「……好きな殿方にキスするのは、初めてだ、って……」 うん?答えになってない。 実は僕もフランソワーズのことをどうこう言えた義理じゃないのだ。 「ジョー。あなたは私のことをどう思ってらっしゃるの」 それはもちろん。 「好きですよ」 するとフランソワーズはちょっと不思議そうな顔をした。 「そんなこと言われたの、初めてだわ。それって好きっていう理由になるのかしら」 さて、どうだろう。 「では姫は僕のどこが好ましいのですか」 小人たち。いったいフランソワーズに何を教えるんだ。 「僕も喰うかもしれませんよ」 わからない。 「それって……喰われても構わないという意味?」 僕はフランソワーズを抱き締めると、強引に唇を重ねた。 それがおとぎの国の鉄則なのだから。 フランソワーズがドレスの裾をそっと直しているのを僕はぼんやりと見ていた。 「もうっ、ジョーったらこっち見ないで」 つんと向こうを向いたが、どちらにしろ僕の腕のなかだ。僕はフランソワーズの髪に鼻を埋めた。 「――小人たちの言っている意味がわかったわ。確かに、王子を見かけたら逃げなくちゃダメね」 さあ、知らない。 「そういえば……」 ずっと気になっていることがあったんだった。 「きみのキスだけど。いったいどこで覚えたんだい」 いきなり突き飛ばすなんて酷いと思う。さっき、あんなに優しくした僕に。 「そんなの……見よう見まねよ」 僕は突き飛ばされたまま仰向けに寝転んだ。空が見える。 うとうとしてきた。フランソワーズが僕の胸にのしかかってきたので、腕を回して抱き締める。 しかし。 首筋を舐められ、ぎょっとして目を開けた。いったいなんだ。 「今度は私の番よ」 何が? 何を? いやだって、きみ、初めてだったはず―― 僕、そんなに体力余ってないんだけど?
―1―
確かに棺に入っていた。
周りには小人たちがいて、皆嘆き悲しんでいた。
だから、ああ葬式なんだとは認識していたように思う。
今にも目を開けて動き出しそうだった。
『王子がここで何をしている』
「旅をしている」
『ふん。供もつけずにか』
第二王子とはいえ、妾腹の僕はいてもいなくてもいい存在なのだ。供などつけてもらえるはずもない。
もっとも、ひとりのほうが身軽でいいという利点もあるが。
とはいえ、そんな事情を小人に話して聞かせる義理はない。
僕は馬から降りると棺に近寄った。
『そんなことも知らんのか、王子って馬鹿だなぁ』
『フランソワーズ姫は生きてた時は数十倍綺麗だったぞ』
『今などそのほんの一部に過ぎないわい』
『美しいだけじゃなく知性もあるし優しいんだぞ』
姫は死んでいない。たぶん。
『林檎の毒にやられたんだ』
「毒?」
『ひとくち食べて死んでしまった』
「ひとくち…」
そして、姫の肩胛骨の間を思いきり叩打した。
『ひ、ひめっ』
『生き返った』
『奇跡だっ!』
「別に奇跡じゃないさ」
小人たちは聞く耳もたないようで、飛んだり跳ねたり忙しい。
「ごきげんよう、姫」
「いいえ。ただ、あなたの眠りの邪魔をしただけです」
グリーンの瞳に僕は魂を奪われていたのだ。
『変態の馬鹿王子ですぞ』
ったく、小人たちめ。僕は別に死体を愛でる趣味はないし、死姦趣味もないぞ。
それを証明するために、僕はフランソワーズ姫にくちづけた。
―2―
二人乗りなんて慣れてないから、ジュスラン(馬の名前だ)は大丈夫だろうか…と僕は頭の隅で考えていた。
小人から事情を聞いて姫を連れて行くことにしたんだけど、早まっただろうか。それに何より。
姫は物凄く不機嫌だった。明らかに膨れっ面をしている。
まあ、そんな顔も可愛らしいんだけど。
「あなたが下手くそなだけでしょう」
「ジュスランは暴れ馬で有名なんだぞ。乗りこなせるのは僕しかいない」
「あらそう」
「そうは言ってもこのままここにいては命が危ないのでは」
「それは…そうなんだけど」
「なぜ」
「だって…アナタ、第二王子なんでしょう。王位継承権は何位なの?」
「えっ……」
「こんな森の中をたったひとりでふらふらしているなんて、本当に王子なのか怪しいもんだわ」
「ぐ……」
「遠い国っていったいどこなのよ?」
それは、おとぎ話でよくある表現じゃないか。そこを突っ込むか?
「ふうん……で?何位なの」
「どうしてそれが気になるかな」
「だって、こうしてその遠い国に連れて行こうっていうんでしょう。しかも、この状況から見ればおそらく私はあなたの妃になるのだろうし。だったら、将来は王妃になるのかどうか知りたいわ」
しかし、姫とはそういうものなのかもしれない。全てのおとぎ話が姫のサクセスストーリーであるように。王子と出会ってその国の王妃になり、幸せに暮らしました。というテンプレを進むのがセオリーなのだろう。そう考えれば、姫の言っていることは至極当然のことかもしれない。
僕は覚悟を決めて言った。
僕は視線を合わせるのが辛くて、前方に目をやったまま。
フランソワーズ姫がこの国の王位継承者であることは小人から聞いた。だから、本来ならば姫はこのままここにいたほうがいいのは間違いない。
僕と一緒に来ても――たぶん、王妃にはなれないのだから。サクセスストーリーからは大きく外れてしまう。王女の生活水準などきっと維持できない。
「う、」
ああ、やっぱり可愛くて美しくて――すごく、好みだ。
ジュスラン(馬だ)の足が止まる。
「い、いやそんな馬鹿な」
「いや、しかし」
「小人たちと山小屋で過ごすのは楽しかったわあ」
「…………」
「い、いや」
「それを言うなら、ジョー。あなただってじゅうぶんおかしいと思いますけど?」
「えっ」
「言ったでしょ。ひとりでふらふら森の中を行くなんて。いったいどこからどこに向かっていたっていうの」
「う……」
―3―
「どこでもいいわ」
森の中。
たったふたり(いや、ジュスランもいるけど)。もしもこのままここで……暮らすとしたら。
小さな山小屋での生活。僕は森で狩りをして。フランソワーズはそれを料理するために僕の帰りを待っているのだ。
「はい」
「ふうん……」
「――は?」
「こんな森の中で二人っきりで過ごすなんてできないって思っているのでしょ」
「……はあ」
「……僕ができることは限られているから」
「もう。だから王子様ってイヤよ」
「えっ……」
「もしかして狩りもできないの?王子のたしなみじゃないの、それって」
「いや狩りはできる……」
「あらそう。だったら大丈夫じゃない。飢えて死ぬなんてこともないわ」
「しかし、獲った獣の料理は」
「もしかして私には無理だって思ってる?」
「ええ、まあ」
「まあ。見くびられたものね。私だって伊達に森で生活していたわけじゃないのよ」
「それは小人がいたから……」
「あの小人たちはね。ものすごーくスパルタ教育だったの。何もできない奴に食わせるものはないって言われてたわ。だからなんでもやったし、なんでもできるようになった。私、七年間森で過ごしてきたのよ」
「七年……」
「別に――通りかかっただけだ」
「死体にキスしようだなんていう変態王子様で良かったわ」
「変態じゃない」
「そう?だったら……」
「――もちろんだ」
「そう。よかった」
姫からそういうことをすることもあるのかと僕は内心動揺した。
舌を入れてくるなんて聞いてない。
―4―
お妃候補はそれなりにたくさんいる(ちなみに皆一様に積極的だ)。だけど。
まさか――王女が。
姫が。
自らこのようなキスをしてくるなんて、そんなの……
少なくとも僕はそうだ。初心な奴と言われようがこれだけは譲れないところだ。だから。
もちろん、こういうキスは大歓迎ではある。が。この姫は誰とでもこのようにキスをするのかと思うと胸の奥が痛んだ。僕にとってはひとつの線引きであり、滅多にはしないと心に誓ったキスなのだ。
つまりは、初めてだということだ。こんな風に――舌を絡めるキスというのは。
それに――ある意味、黒い炎が胸の奥に渦巻き始めていたのだ。
姫はいったいどこでこのようなキスを覚えたのだ?
それとも……七年間、森で育ったと言っていた。森には色々な人間がやってくる。例えば狩人とか。
狩人。
狩人からそのような手ほどきを受けたとか?――まさか。いや、しかし。ならばこういう挨拶ではないキスをどこでどうやって知ったのか。
いったいどこの誰に教わったのか。きみはどんな男ともこのようなキスをするというのか。だったら、今まで何人とキスをしてきた?
―5―
僕が黙ったままぽかんと姫を見つめていたら、それをどう解釈したのか姫はうつむいて真っ赤に染まり合ってるわよね?それとも間違えたかしらと小さくブツブツ呟き始めた。
僕からキスした時はビンタしたくせに、今は自分からキスしてきて好きな男にキスするのがどうのって悩んでいる。――なんとも不思議な姫ではある。いったい僕とどうなりたいのか、いまひとつ真意が掴めない。ただ、言えることは。こうしてうつむいて真っ赤になってひとりあれこれ思い悩んでいるその様子は物凄く可愛いということだ。
僕は右手を手綱に戻し、姫の言う通り黙った。姫はゆっくりと四方に視線を飛ばし、次に静かに耳をすませていた。いったいなんだというのだろう。
「え」
「騎乗していると思う……早いわ。このままここにいたら囲まれる」
「えっ…」
「喋ると舌を噛むぞ」
「あっ…はい」
フランソワーズ姫は命を狙われていると言っていた。だから毒リンゴを食べさせられたのだった。その姫が生きていることを姫の命を狙う何者かが知ったとしたら。すぐさま追手を差し向け、亡き者にしようと企むだろう。
怖がっているだろうか。あるいは泣いているかもしれない。
僕は庇うように姫の上に覆いかぶさり、その耳元に安心させるよう声をかけた。
だから、逃げる速度に関しては心配していなかった。誰ひとり僕に追いつくことはできない。
ただ問題は。ジュスランの持久力である。二人乗りでの最高速度は経験が無い。どこまでもつか。それが問題だった。どこか――どこか、隠れて遣り過ごす場所があれば。
しかしこの森の地理に不慣れな僕にそんな場所がわかるはずもない。
何か言いたそうだ。僕が耳を近付けると、
―6―
僕と姫はそこへ潜り込み、ジュスランは少し先の藪に潜ませた。草を食むのにちょうど良いようでジュスランは大人しく従った。
しばらくして、騎乗した一団が駆け抜けて行った。うまく行ったようだ。
「いったい何――」
「しっ」
あたりは何も音がしない。もう脅威は去ったのではないか。
鳥の声がしない。
何も聞こえないということは――鳥達が警戒しているということだ。
誰かがいる。このあたりに。
いざとなったら僕がこの剣で姫を守らねばならない。僕は静かに剣の柄に手をかけた。
「そう?ふつうよ」
「いや。さっきもそうだが……目と耳がいいんだね」
「ふふん。伊達に森で育ってないわ」
「そうだな」
「それよりジョー。あなた逃げ足が速いのね」
「逃げ足って…ひどいなあ」
「ふふ。嘘よ。私、馬であんなに速く走るひとは初めて見たわ。ふつうはあそこまで速いと馬に振り落とされるわ」
「昔から得意なんだ」
「ジュスランもいい馬ね」
「そうだ、水をやらないと」
「いや…奴ならきっと」
「あるわ。この先に。小さいけれど」
「なら、ジュスランはそこだな」
そしてそこにジュスランはいた。予想通り水を飲みに来たというわけだ。
「うん?」
「私、思ったのだけど」
「そうだな」
「だから……ここでお別れね」
「――は?」
「だって、私と一緒にいたらあなたたちまで命を狙われてしまう。――私ひとりで動けばあなたたちは無事に国に戻れるわ」
さっきは二人でどこかへ行きましょうなんて言ってたくせに。あれは戯れだったというのか。
姫の瞳はまっすぐで――真剣だった。
――そうだよな。王位継承権があるといっても低位の僕と一緒に行動したいと思う訳がない。
普通に考えたらそうだ。なにしろ彼女は姫なのだから。一国の王になる見込みがない王子など興味はないのだろう。むしろ、森で無理矢理眠りを覚ました僕の事をハズレだったと見做してもおかしくはない。
だからこうしてここで別れたほうがいいと言うのだろう。あなたはハズレだったからサヨウナラなどと言えはしない。
つまりこれは、優しい姫の心づくしなのだ。
今まで散々言われてきた。母は、父が側室にさえ召し上げなかった女性。僕は顔も知らない。おそらく身分の卑しい者なのだろう。たまたま産まれた僕が男だったから、父は宮廷に連れていった。母がどうなったのか誰も知らない。生きているのか亡くなっているのか。その話をするのはタブーだったから。
夜毎開かれる舞踏会で僕と踊らされる女性が気の毒だったからだ。義務で踊っているのがありありとわかる。僕だって踊るのは義理以外の何者でもなかったし、そもそも王位に興味なんてまったくなかったのだ。そして――国を去った僕に、追手はこなかった。誰も捜そうともしなかったのだ。
独りでいい。あとはジュスランがいれば。
そう思っていた矢先に――小人たちに囲まれたガラスの棺を見つけたのだった。
ただの好奇心で近寄った。それだけのはずだったのに。
僕はフランソワーズ姫に心を奪われてしまった。
外見が好みだというだけではなく。その言動のユニークさもそうだし、仕草も可愛い。何より、一緒にいて飽きない。このまま一緒に旅ができたらどんなにいいだろう。二人で一緒にどこかへ行ってしまいましょうと言われた時だって、本当は気持ちが弾んだ。そんなことを言ってくれたひとは初めてだったし、凄く嬉しかった。
でも。
だからこそ一緒には行けないと己を律した。僕となんか一緒にいても姫は幸せになれない。
僕はハズレだから。要らない王子だから。だから――
―7―
最初は文句を言われたけれど、このままどこかへ行ってしまわない?と提案されキスされた。追手をうまいこと遣り過ごし、さあこれからって時に――別行動したほうがいいわと言われたのだ。
明らかに首尾一貫していない。
あるとすれば、ハズレの王子であるということだけ…だけど。やっぱり王位継承権が第五位というのがネックだったのかなあ。
それとも、気が変わりやすい姫だったのだろうか。
ともかく。泣く権利があるのは僕のほうだ。姫が泣く理由などない。断じて無い。
泣きたいなら勝手に泣いたらいい。僕は知らない。
金色の髪が陽に輝いてとても綺麗だった。
「……は?」
「ひどいわ」
ひどいのはきみのほうだろ。僕を要らないと言ったのだから。
ここで別れたほうがいいわねって言ったのはきみのほうだし、僕は――きみがそうしたいならいいか、って思って。それで、そうだねって同意したんだ。
見切りをつけられたのは僕だろ?ひどいのは誰が見てもきみじゃないか。大体、あんなキスをしてきたくせに。思わせぶりにもほどがある。
それとも何か?こうして男を手玉にとって遊ぶのが趣味なのか?男の純情をなんだと思ってるんだ。
ああもう、まったく。こんなことなら小人たちが嘆いていても足を止めるんじゃなかった。
そもそも、あのルートは行く予定じゃなかったんだ。もっと別の道だった。それをジュスランが勝手にルートを変更して……じゃあ、諸悪の根源はジュスランじゃないか。
僕は愛馬をきっと睨みつけた。が、当然のことながらそんな僕を意に介さず、ジュスランはのんびり草を食んでいる。
「いや、嫌とかじゃなくてだな」
最初にここで別れたほうがいいと言ったのはフランソワーズ、きみのほうだろ?
僕は黙り込んだ。こんなの、話にならない。
するとフランソワーズは手の甲でぐいっと乱暴に涙を拭った。そして顔を上げて僕を睨むように見つめてきた。
「いや……」
「いや、そんなことは」
「だったらどうしてはいそうですねって言ったのよ」
瞳に再び涙の粒が盛り上がり、頬を伝った。
――なんだかなあ。気が強いのか泣き虫なのか、よくわからない。おそらく両方なのだろう。
そしてたぶん……好意の示し方が物凄く下手だ。
継母王妃に疎まれた結果、森に隠れて過ごしてきたと言っていた。だから甘え方を知らないのだろう。
小人たちがいたとしても、所詮は下僕だ。親愛の情は生まれても対等にはなり得ない。
「えっ?まさか」
「僕は王位継承権だって低位だし、国を出ても誰も捜しにこない王子です。フランソワーズから見ればハズレの王子だ。だから、他の王子を待ったほうがいいとそう思われても仕方がない」
「えっ、そんなこと思ってないわ」
いや――なっている。の、か……?
ひとの――特に異性からの愛情とかそういう諸々のことは豪く苦手なのだ。
つまり、さっぱりわからない。というか、全然ぴんとこないのだ。小さい頃からひとに好かれるということが無かったせいかもしれない。
「え……」
「好き?嫌い?」
「どこが?顔?金色の髪が珍しい?それとも王女という地位がついてくるから?」
「面白いところが」
「面白い?」
「一緒にいて飽きないので」
ともかく一緒に居て嫌ではないのは確かだし、姿かたちや声も仕草も大好きだ。
「どこって……一緒にいたいって思ったのは、ジョーが初めてなんだけど」
「それは他の王子に会ったことがないからでは」
「ううん。あるわよ?でも……」
「でも?」
「小人たちに言われていたの。もしも森で王子を見かけたら、隠れるか全力で逃げろって。見つかったら攫われて喰われてしまうぞって」
いや、しかし。これだけ見た目が綺麗で可愛かったら――確かにいつ喰われてもおかしくはない…かもしれない。
「あら、ジョーは大丈夫よ。だって好きだもの」
つまり――本当は一緒にいたいけれど自信がなかったからここで別れた方がいいわなんて強がりを言ってみた。暗に僕が否定することを望んで。
「え……」
だって、それしかないだろう?事がややこしくなった時、王子は姫にキスするのが正しい。それで万事解決するんだ。
―8―
「いやだね」
「喰われるから?」
「こんなに手が早いなんて知らなかったのよ」
「それはまあ……王子だし?」
「そんなの理由になるのかしら」
でも王子にタブーが無いのは確かだ。何をしたって咎められる事はない。それを考えれば、フランソワーズに王子に会ったら逃げろと教えてきた小人たちに僕は感謝すべきだろう。
「えっ……」
「誰かとしたのか」
「いいえ」
「――まさか小人と」
「そんなわけないでしょ!」
「見よう見まねって……誰かのを見たのか」
「ううん。ただ、本当に好きな殿方ができたら、いつもの挨拶のようなキスではダメって教わったから」
「ふうん……」
森の中の茂みの中に僕とフランソワーズはふたりっきりだった。
僕はじっと目を閉じ、先程までの二人の親密さを思い出していた。可愛かったなあ。フランソワーズ。おっかなびっくりな感じも初々しかったし、泣きそうな顔もなかなかだった。肌はすごく綺麗ですべすべしてて気持ちが良かったし、なにより僕を受け容れたあの感じ……
あまりの心地良さに二回続けてしまったけれど、フランソワーズを傷つけてはいないと思う。そのへんは自信があった。しかし、やはり二回というのは性急だっただろうか。ともすれば甘く疼く下半身をなだめ、今日はもうダメだと自分に言い聞かせた。なにしろフランソワーズは初めてだったのだから。こういうことは徐々に深めるものだ。
きっとフランソワーズも眠いのだろう。一緒に少し眠ったほうがいい。
夜になったら国境を越えて、誰も知らない土地へ行くのだから。