「きっかけは」

 

 

その日、フランソワーズ――委員長はひとり居残り練習をしていた。
土曜日の午後であった。

扉と窓を開け放した体育館に落下音が響く。


「・・・ダメだわ」


委員長は取りこぼしたクラブを拾い集めるとため息をついた。
彼女の唯一の不得意がクラブであった。
しかも、今季はその手具が4種の中に入っているのだ。
今季の種目は、リボン・ボール・フープ・クラブ(棍棒)であった。

「・・・女王なんて言われたって、そんなの」

2年連続インターハイで優勝した。それ以降「女王」と言われている。
がしかし、それは種目にクラブが入っていなかったからだった。
委員長自身がいちばん良くわかっている。もしもクラブが入っていたら優勝などできはしなかったということを。
そして、今季からクラブが入っているということは来季もそうだということだ。
5種の手具のうち4種が選ばれる。そして、その改定は2年毎なのだった。

委員長はクラブを構えると、再び演技を試みた。
が、既に集中力がなくなっていたのか、あっさりとそれは手を離れ落下し――体育館の隅に転がった。

立ち上がるとゆっくりとそちらに向かっていく。先ほど扉を全開にしておいたため、危うく手具が落下するところだ。ぎりぎり落下せずその境目に留まっている。

委員長が近付いてゆくと――その開け放した扉の外をドーナツ状の煙が漂っていった。

「・・・?」

そうっと近付いて、クラブを拾うために屈み、扉から顔を覗かせるとそこにはひとりの男子生徒がいた。


――覗き?


瞬間、緊張する。
新体操の世界では盗撮や覗きといった被害が相次いでいる。
男性にファンが多い競技ではあるが、それが純粋にスポーツとして見てくれている者とそうではなく性的な対象としてみている者がいるのは残念ながら事実であった。


――生徒会が一掃したはずだったのに。


委員長は頬を引き締めると声をかけた。


「ちょっとそこのあなた。いったいここで何をしているの?」


委員長と言われる所以である、風紀委員さながらの厳しい声で問う。


「――あ?」


物憂げに答えてこちらを見たのは――


「・・・島村くん」


不良と名高い島村ジョーであった。
長い前髪に顔を半分隠し、その表情は全く読めない。ただひとつ覗く褐色の瞳だけが鋭く光る。その眼光が気に入らないと校内でも校外でも彼の周りではケンカが絶えないという。そして、彼はそれらの闘争に必ず勝つのだ。相手が何人いようが何を武器として携えていようが全く関係ない。
それが彼を有名人にしている伝説であった。

その彼が、体育館裏で煙草をすっていた。
地面に座り、片膝を立て片方の足は投げ出している。体育館の壁を背にして、その瞳はどこを見つめていたのか。


「――別に」


ぼそりと一言言うと、興味を失ったように委員長から目を逸らし空を見る。
ため息のようにその唇から煙が吐き出されてゆく。


「煙草、」
「うるせーな。説教かよ」
「・・・一本ちょうだい」
「えっ!?」

驚いたようにこちらを見るジョーに委員長は手を伸ばした。

「いや、でも・・・」
「いいじゃない。私だって吸いたくなることもあるのよ」

そう言うと体育館から外に飛び降り、ジョーの隣に座り込んだ。両手で両膝を抱えるようにして。

「・・・汚れるぞ」
「平気」

練習の時はレオタードではなくジャージだった。

「本当にすうのか」
「ええ」

ジョーは無言でたばこを差し出した。
委員長は一本抜くと、ジョーがつけたライターにそれを近付け、そして

「・・・点かないわ」

と言った。
ジョーは目をすがめると委員長の手から煙草を抜き取った。そして自分の唇に咥えると火を近付けた。
煙草に火がつくとそれを委員長に差し出した。

「ほら」
「ん・・・ありがとう」
「・・・お前、すったことないだろ」
「えっ、そんなことないわよ」
「ふん。嘘をつくならもうちょっと上手くやるんだな」
「嘘じゃないもの」

委員長は頬を膨らませると、手にした煙草を唇に近付けすうっと吸った。
途端。
思い切りむせた。
とにかく煙くて咳が止まらない。目に涙が滲む。

「なっ・・・何よ、これっ・・・」

そんな彼女に目もくれず、ジョーは黙々と煙草をすう。

「よくこんなもの、すえるわねっ・・・・」

ジョーは何も言わない。
委員長は彼の隣でしばらくぜいぜい言っていた。そして、呼吸が整うとちらりと隣を見つめ、自分の両膝を両手で抱き締めた。


しばし無言の時が流れる。


雑草が伸び放題の体育館裏に徐々に夕暮れが迫ってくる。


ジョーが何本目かの煙草に火をつけて煙を吐き出したあとぽつりと言った。


「・・・もう帰れば」
「イヤ」
「・・・あっそ」

そのまま無言で煙の輪を作ってゆく。

「・・・島村くんは帰らないの」
「帰ったってここにいたって同じだからね」
「だってもうすぐ夕ごはんの時間じゃない。おうちのひとが」
「いない。誰も」
「えっ?」

委員長が身体を起こして彼の横顔を見つめる。

「ごめんなさい、私、知らなくて」
「いいよ別に、そんなの」

本当にどうでもよさそうに言うのだった。

「――あのさ」

委員長が何か言いかけた時、ジョーがそれを遮るようにこちらを向いた。褐色の瞳が光る。

――何かに飢えたような目なのよ。

いつかどこかで聞いたフレーズが委員長の頭をよぎる。

「何か落ち込んでんの?」
「・・・え」

――飢えたような目?・・・どこが?

意外にも普通の目の彼に驚きながら答える。

「どうし・・・」
「さっきから、がっこんがっこんうるさかったから」

クラブの落下音の事だろう。
委員長が唇を噛み締める。

「・・・いつから聞いてたの」
「さあね」

委員長は目を伏せ息を吐き出した。

「――ちっとも上手くならないのよ。これ」

傍らに置いていたクラブを差し出す。ジョーはそれを手に取ると、ためつすがめつ見つめた。

「ふうん」
「・・・苦手なの。ずっと前から。だから練習してたんだけど」
「うまくいかない?」
「・・・ええ」

それで落ち込んでいるのか、とジョーは呟いてからクラブを委員長に返した。

「・・・女王って言われるけど、それは過去二年間これが種目に入ってなかったからよ。でも、今年はダメだわ。どんなに練習してもうまくいかない」
「だから煙草?」

小さく頷く彼女に目をやり、ジョーは煙草を地面に押し付けた。

「スポーツ選手はやらないほうがいいんじゃないのか」
「――そうよ。でも」
「ヤケになってるんだ」
「だって、全然上手くできないんだもの!」

傍らの草をむしり、投げる。

「どんなに練習したって、どうせ私は」
「――どうせ、なんて言うんだ」

委員長らしくないな、とポツリと言ってジョーは立ち上がった。
そうして唇を噛み締めたままの委員長を見下ろす。

「バッカじゃねーの」
「――え」

耳を疑う。
いま何を言われたのか理解するのに数瞬を必要とした。

「何よ、バカって」
「だってそうだろ。下手でもなんでもないくせに、贅沢な悩みだよな」
「贅沢?」
「そうさ。――あーあ、バカらしい。委員長って言われてるけど、こんなにバカだとは思わなかった」

委員長は怒りに身を震わせて立ち上がった。

「あなたにそんなこと言われる筋合いは」
「難度の高いものを最初から完璧にできるわけないだろーが」

ジョーの瞳が一瞬光る。睨むように。

「それを下手、だって?バカにするのもいい加減にしろ」
「だって下手だもの」
「・・・なるほど。だから誰にも愚痴れないってわけか」

そりゃストレス溜まるだろうな――と欠伸混じりに言って、ジョーは大きく伸びをした。

「だから俺なんかに言うんだ。どうせ新体操のことなんてわかんねーしな」
「・・・そんなわけじゃ」
「あのさ。まだその技の練習を始めたばかりなのか?」
「えっ?・・・ええ。そう、だけど・・・」
「それでもう投げ出すんだ」
「・・・・」
「とんでもないバカだな」

うなだれたままの委員長の頭のてっぺんを見つめ、ジョーは続ける。

「そんなヤツを委員長なんて呼ぶ気にはなれないな。――フランソワーズ」

フランソワーズの肩がびくんと揺れる。
親友のフローラでさえ、あまりその名を呼ばず委員長と呼ぶ。
だから、校内で彼女の名を呼ぶ者はいない。
完璧な人物は一目おかれ――その距離は他人が思っているより遠いのだ。


「お前がバカじゃなくなったら、委員長って呼んでやるよ」


じゃあな、と手を挙げ背を向ける。
フランソワーズは呆然とたちつくしていた。

――バカにされた。不良のジョーなんかに。

でも・・・どうして新体操の難易度なんて知ってたんだろう?

フランソワーズは唇を噛むと、クラブを持って体育館に戻った。

アイツなんかにバカにされたくない。――軽蔑されたくない。
見返してやる。

そうして練習を再開した。