「記憶」
「えっ……憶えてない、の?」 「いや…」
フランソワーズが問いかけるとジョーはこっくりと頷いた。
「嘘でしょう」
どうやら本当らしいのだ。彼の表情からすると。
「――信じられない」
フランソワーズはただ呆然とジョーを見つめることしかできなかった。
「――ミッションになると思い出すんだ。自分が何者なのか、って」 「何?」 コップもないわ。 そう思ったら、ジョーはすっくと立ち上がりキッチンの蛇口を捻った。 全てを忘れるとはこういうことではないはずだ。 ジョーはきょとんとしてちょこっと首をかしげたあと、罰が悪そうな顔になった。 「…ある、けど」 コップに注いで飲まないの? フランソワーズの無言の問いに答えるように、ジョーは頭を掻くとあさってのほうを向いた。 「洗うのメンドクサイし」 これで「洗うのがメンドクサイ」ですって!? つまり、これはジョーの性格的な問題であり彼がサイボーグであろうとなかろうと変わらないものである。 ――記憶喪失となんにも関係ないじゃない! 部屋に適当な家具がないのは、彼が自分が何者なのかわからず「とりあえずの生活」をしているせいではない。ただ、片付けるのが面倒で置いてないだけなのだ。 あるいは。 それらをいちいち説明するのも面倒だから、記憶喪失ということにしているのかもしれない。 フランソワーズはシンクの縁をぎゅっと握り締めた。 記憶喪失なんて嘘でしょう? 言いたいけれど、声にならなかった。 ……あれ? 変、だ。 ジョーはともかく、自分が彼のことを忘れるわけがない。 でも――だったらなぜ、ジョーの性格や考え方などの情報が出てこなかったのだろう。 それをいえば、そう、このジョーの棲家だっておそらく何度も来ているはずなのだ。 「え…」 フランソワーズはぎゅっと目をつむった。 眩暈がする。 何、を?
ぽつりと言うジョーにフランソワーズは小さく頷いた。
ジョーの部屋である。
高校生――というには過ぎた立地の豪奢なマンション。けれどもその部屋のなかは殺風景で一見しただけではひとが住んでいるとは誰も思わないだろう。
生活感が無いという表現は綺麗なほうだろう。そうではなく、ただ――何も、無い。
ここにひとが住んでいれば当然必要とされるような家具や雑貨が何も無いのだ。
あるのは必要最低限の、「彼」が必要と思うものだけであった。
それはおよそ一般的なものではない。
いわゆる「武器」のようなもの――その材料や資料。そんなものばかりである。
それもテーブルに広げる、などではなくただ床に散らばっている。
――お茶とか飲まないのかしら。
フランソワーズはごくごくシンプルな事を考えていた。
なにしろ、キッチンにはそれこそ何も無かったのだから。
鍋やフライパンはともかく、食器も無い。
「ねぇ、ジョー」
ジョーと呼ばれるのがくすぐったいのか、彼の顔がほんのり染まった。
「喉が渇いたときはどうしてるの」
「水を飲んでる」
「でも…」
そしておもむろに屈みこんで――直接、水を飲んだ。
フランソワーズは声もなかった。
お行儀とかそういう以前になんなのだろう、これは。
いくらなんでもひどすぎる。
彼にだって、人間として普通の生活をする権利はあるはずだ。
「ジョー」
自分で思っていたよりもずっと険しい声が出た。
「え?」
「コップはないの?」
「え」
「え、じゃないでしょう」
「あるの!?」
「……ウン」
「だったら、どうして」
し…信じられない!
先刻まではジョーの「状況」に同情し思いを馳せていたが、今やそれは全てふっとんでしまった。
大体、彼の言うところの「記憶喪失」だって怪しいものだ。
彼が自分でそう言ってるだけなのだから。
再会してこの状況を楽しんでいるのかもしれないし、もっと悪ければただフランソワーズをからかっているだけとも考えられる。
遠慮して一瞥しただけで触れなかったキッチンにずかずか進むと、シンクの引き出しを開けてみた。
食器洗浄機があった。
そして隣の引き出しには食器類はもちろん、その隣には調理道具が山ほど詰まっていた。
ただ怠け者なだけじゃない!
あるいは、買いにいくのが面倒だとかそういう理由なのかもしれない。
ジョーはそのシンクに寄りかかり、悪びれずフランソワーズを観察していた。
「…ジョー」
「ん、なんだい」
「あなた、…」
最初の衝撃と続くそのあとの事態の収拾に於いて、ジョーを心配し気遣った時間が恨めしい。
それこそ、彼がこういうひとだったということをいったいどうして自分は忘れていたのだろう?
自分は記憶の処理なんて受けていないはずなのに。
そう――憶えているではないか。だから再会してすぐにわかった。
恋しくて仕方なかった相手なのだ。他の誰を忘れても忘れるわけがない。
なのにどうして初めて来たような感覚なのだろう?
「フランソワーズ、どうかした?」
心配そうな顔のジョー。
高校生――の、ふりをしている009。
でも今はとても高校生とは見えない。自分と同じか少し上の年頃の――ふつうの青年だ。
なんだかおかしい。
「――思い、出した…?」
ジョーがそうっとフランソワーズを抱き締めた。
――思い出した、って私が?
次のミッションが始まるまで会わない。 しかし、恋人同士のふたりには無理な相談だった。 彼女の記憶の一部が封印された。 そうしなければ、彼女は彼と離れようとしなかったし、泣く彼女を置いては彼もまたどこにも行けなかったのだ。 会えないのなら、会えなくても平気にしてくれ。 そうイワンに頼んだ。 自分は――いい。 そのくらいの辛さがあったほうが、たぶん――
それはゼロゼロナンバーサイボーグにとっての不文律であった。
だから誰も否やを唱えたりはしない。
特に女性のフランソワーズにとっては。
だから。
普段の生活を送るのに支障のない部分だけ。
009――島村ジョーに関する細かい記憶だけ。
もちろん、顔や名前は憶えている。が、それ以外の記憶は「再会と同時に解かれる」ように。
ジョーにとってフランソワーズの存在は絶対だった。
だから、彼女が悲しい思いを抱えたままふつうの生活を送るなど我慢できなかった。
『君は?君にも同じ処置をするかい?』
その問いには首を振った。
「思い出した、って何を?」 「ま。やっと?」 辛いのは僕だけでいい。
フランソワーズにそう聞き返され、ジョーは抱き締める腕に力をこめた。
口が滑ってしまったのをとりなすように。
「うん。思い出したんだ、君が僕の」
大事なひとだ、ってね。
「うん。やっと」
「酷いわ」
「うん。ごめん」