「噂」


噂@


午後からフランソワーズのレッスンだったので、ふたりはシャワーを浴びたり、朝食を食べたり、あれこれしたり――と慌しく、あっという間に時間は過ぎていった。なにしろ、のんびりしているわけにはいかないのだ。ジョーはジョーで、事務所に行かなければならなかった。

「送っていくよ」

鍵を閉めたあと、ジョーがそう言ったのを聞いてフランソワーズは足を止めた。

「いいわよ。ここからなら近いもの。電車ですぐよ?」
「ダメだよ。電車だろ?」
「そうよ?」
「送っていくよ」

そのままぐいっと手首を掴んでエレベーターに乗り込み、有無を言わせず駐車場まで降りてしまう。

「待ってよ、だって――大丈夫よ?」
「だめ」
「だって、車ないでしょう?」
「――え?」

無いのだった。
駐車スペースは空だった。2台とも。

「――なんで」
「忘れたの?この前、ギルモア邸に乗ってきてそのままにしてたでしょ?」
「・・・それはストレンジャーだよね?」
「ええそう」
「・・・フェラーリがない」
「貸したじゃない。ジェットに」
「ジェット!?」
「ええ。――向こうで乗るからちょうどいい、って」
「向こう?」
「アメリカ」
「アメリカ!?」

そんなの許可するわけがなかった。大体、車をジェットに貸すなんてことがある訳も無く、そもそもジェットは自分の車を売るほど持っているのだから。

「絶対、壊される。もう戻ってこない・・・・」

ブツブツと言うジョーを呆れて見つめ、フランソワーズは彼の手を引いた。

「いいじゃない。どっちにしろ、目立つ車よ。あっという間にね」
「・・・俺の車」
「また買えばいいでしょ?」
「・・・・チューンしたばかりだったのに」

どんなチューンを施したのかは怖くて訊けなかった。

「今度は目立たない車にしたら?国産の軽とか。それだったら私だってひとりで」
「だめだ」
「どうしてよ」
「ひとりで乗るなんて危ない」
「危ない、って・・・」
「俺がいない時に車に乗るなんてダメだ」

――もう。そんな事言ったら、どこにもいけないじゃない。アナタがいないと。

「それより、きみの方は大丈夫?」
「何が?」
「その、・・・記者とか」
「――あぁ、それね。・・・大丈夫よ。」
「ごめん」
「あら。反省してるの」
「・・・少し」
「そうよねぇ。全国放送ならまだしも、国際映像でひとの名前を叫ぶんだもんねー」
「・・・別に悪いことじゃないだろ」
「お兄ちゃんに怒られなかった?」

フランスグランプリの後に二人は会っているはずだった。

「・・・爆笑された」
「爆笑??」
「叫ぶだけじゃ足りねーよ、って」
「何よそれ」
「アピール度が低いって言われた」
「・・・・もー。お兄ちゃんたら、ジョーに何を吹き込んでいるのよ」

しかも、ジョーは全然反省している風には見えないのだった。本気で「次の表彰台ではどうしようかな」と考えているようだった。

「それに、ワイドショーでは『ね?フランソワーズ』のとこばっかりよ?」
「ふぅん」

決めセリフだったはずの『彼女は僕のなんですから』は、幸か不幸かすっかりスルーされているのだ。
今は、『ね?フランソワーズ』の「フランソワーズ」の部分に自分の恋人の名前を入れて言うのが流行ってきており、早くも今年の流行語大賞になるのではないかと言われていた。

「ふーん、って、ひとごとじゃないでしょ?」
「ひどごとだよ。俺の名前じゃないし」
「もー!!」

知らない、っとジョーの手を離し、すたすたと早足で行ってしまう。
ちょうど駅へ向かう分かれ道なのだった。

「――フランソワーズ!帰り、迎えに行くから!」
「名前を呼ばないで!!」

振り返り、イーっとジョーに顔をしかめて見せて、改札に消えた。
ジョーはその姿を見送ってから――特に変装するでもなくごくごく普通に、歩き出した。
F1レーサーで、しかも先日優勝したばかりでニュースにでまくりとはいっても、普通にこの辺を歩いているなんて誰も思わないし、もし思うひとがいても「似てるなー」という認識程度であるということをジョーは知っていた。

 



噂A


「あ。来た来た、――フランソワーズ、ちょっと!」

レッスン室に入ると、ちょうど対角線上の隅っこのほうに人が集まっていた。
フランソワーズは軽く首を傾げ――みんな練習しなくちゃダメじゃない。とひとこと言ってやろうと歩を進めた。

「みんな何してるの?もうすぐ本番なのに。ちゃんと練習しなく」
「いいから!!見てよ!」

先日と同じようにワンセグを目の前に突きつけられる。

「もう――何なの?」

レッスン室には携帯持込禁止なのに、いったい誰が持ってきたのだろう?
そう思いつつも、仕方なく画面を見る。

『ハリケーン・ジョー、二股!?』『女王とバレリーナ、本命はどっちだ!』

画面の右下のほうに赤い文字で書かれた言葉が眼に入った。
そして、画面中央には――キャサリン女王とジョーのツーショット写真。

「・・・これがどうかしたかしら」

出てきた声は我ながら氷のように冷たかった。

「――え」
一瞬、その場は凍りついたものの――それも、すぐに氷解した。

「どうかしたかしら、なんて気取って言っている場合じゃないでしょ!?二股だよ?どうなのよ、本当だったら、あの生チュー男絶対ただじゃおかないからね!」

そうよそうよと周りからも声が上がる。

「・・・二股なんて。そんなの、ないわ」

ほうっと息を吐き、フランソワーズが答える。

「そんなわけないもの。この写真は――彼女はジョーのチームのスポンサーだから。それで、よ」
「でも・・・仲良いんでしょ?」

ワンセグ画面の中ではワイドショーの芸能レポーターが、ジョーと女王がいかに親密なのかを得々と語っている。

「・・・アンタの形勢不利だって言ってるよ」
「言わせておけばいいわよ、そんなの」
「でも」
「いいの」
「悔しくないの?」
「どうして?」
「どうして、って・・・」

屈託のないフランソワーズに、かける言葉を失う。

「だって、本当に女王とは何でもないもの。――知ってるから、大丈夫」
「そ。そうだよねー。だって、生ちゅーのバラのひとだし」
「そうだよ。『ね?フランソワーズ』って言ってたじゃん」
そうよそうよ、誰が二股なんて言い出したのよ全く・・・とみんな口々に呟き、三々五々バーへ散っていった。

「・・・まったく」

息をつくと、フランソワーズもバーレッスンに就いた。

――ジョーに二股なんて器用な真似ができるわけないじゃない。彼女とはとっくの昔に終わってるのよ。
今は私だけ。・・・そうよね?ジョー。僕のだ、って言ってくれたのは嘘じゃないでしょう?

全く不安になる要素なぞひとつもなかったけれど、そんな「噂」が存在しているだけでもなんだか胸の奥がモヤモヤしてくるのだった。

こんな噂をジョーが知ったら、絶対に傷つくもの。いったい誰よ、こんなこと言い出したのは。
テレビのひとかしら?

直接、苦情の電話でもかけてしまおうか――と考えるのだった。

ジョーを傷つけるひとなんてこの世にいてはダメなのよ。
絶対、許さない。
この私を怒らせたら怖いのよ?

 



噂B


「ちょっと待った!」

瞬時にジョーは手を伸ばし、彼女の体を捉まえた。

「どうして止めるのよ」
「落ち着け、って」
「だって」
「いいから。ちょっとこっちに」

引き摺るようにしてその場から引き離す。
何事かと見つめる周囲の視線から避けるように、自販機の影に入り込んだ。
そうしてから、やっとジョーは深くため息をついた。心から。

「・・・ったく。いったいどうしたっていうんだ」
「だって」

未だにジョーに腕を掴まれたままのフランソワーズは、頬を紅潮させ彼を睨みつけた。

「だって――ひどいじゃない!・・・訂正しないと、誤解されたままなのよ?」
「いいよ別に」
「ダメよ!」
「僕は気にしてないよ」
「だって」
「いいから」
「嫌よ。私が気になるの!!」
「・・・フランソワーズ」

ジョーはやれやれと二度目のため息をついた。

「僕は気にしてないから。フランソワーズがちゃんとわかってくれてればそれでいいんだよ」
「イヤ」
「フランソワーズ」
「イヤよ。だって、あなたが悪く言われてるのよ?」
「だから、僕は平気だって」
「だって」

一瞬、炎が燈ったようだった双眸が揺らぎ、怒りは鎮静化された――かのように、見えたのだが。

「イヤよ。何よ、『フタマタ野郎』って!!」

 

***

 

迎えに来なくていいと言ったはずだったのに、ジョーが待っているのを見つけてフランソワーズは大層驚いたのだった。
レッスン後、ビルを出るとすぐ――彼の姿を見つけた。朝、別れた時と全く変わっていない。本当に事務所に行って用を済ませてきたのか疑うほどだった。

まさか、朝からずっとこの辺にいたんじゃないでしょうね?

ちらりと疑惑の目を向けるものの、ジョーは全く悪びれずにニコニコしていた。

・・・子犬みたい。

彼に尻尾があるなら、いままさにそれは振り切れんばかりに振られていることだろう。

褐色の瞳のわんちゃん。名前はジョー。

勝手に心のなかで犬になった彼を思い描いてみる。

性格は甘えんぼ。でも、飼い主を守るためならどこだって行くの。勇敢なのよ。

思わずくすりと笑みが洩れてしまった。

「――ん、なに?どうかした?」
「ううん。なんでもない」
「機嫌がいいね。何かいいことあった?」
「うふ。あのね。・・・『お手』」
「へ?」
「『お手』ってば」
「・・・?」

訳がわからなかった。が、言われるままに手を差し出してみる。

「はい。よくできましたっ」

笑顔とともに言われ、そのまま腕に巻きつかれる。

「・・・フランソワーズ?」
「なあに?」
「・・・これ、そういう意味?」
「そーよ」

あ、そ・・・とジョーは軽く首を傾げつつ、それでも彼女に腕を貸したまま駅へ向かった。
そして、今の今まで機嫌の良かった彼女が豹変したのは、駅の売店を通り過ぎたあとだった。

駅のホームに着いて、あと5分で電車がくるねと話していた。
が。
「・・・・っ」
フランソワーズの、鋭く息を吸い込む音がしてジョーは驚いて傍らの彼女を見つめた。
戦場以外でこんな表情をしているのを見た事は滅多になかった。

「フランソワーズ。ど」
「・・・ひどいわっ」

ひとこと言うと、あっけなくジョーの腕を解放し、先刻通り過ぎた売店前へ歩き出した。大変な早足で。
その姿に不穏なものを感じたジョーは、彼女が売店前の大学生と思しき集団に到達する前に彼女の体を捕獲したのだった。

彼と彼女の姿を目にした彼らは、いままさに自分たちが噂していた当人が現れ、ただ呆然と突っ立っていた。
売店で買ったスポーツ新聞の一面を見ながら、『コイツ、フタマタだったんだぜ』『いいよなー、レーサーってさ。よりどりみどりじゃん』『もっと他にもいるんじゃね?』『いいかぁ?俺はがっかりしたよ。ただのフタマタ野郎ってさ』と、さんざん言いたい放題だったのだから。

フランソワーズがこの会話を耳にしたのは、別に能力を使ったわけではない。
彼らの声は甲高く、空いているホーム中に響き渡っていたのだから。
当然の如く、当のジョーも聞いていた。
が、フランソワーズと違って反応しなかったのは――全く気にしていないからだった。

 

***

 

「ひどいわ。どうしてジョーは怒らないのよ」
「だから、気にしてないから。本当に」
「どうして平気なのよ」
「事実じゃないから」
「だけど」
「ふーん?じゃあフランソワーズは本当だと思ってるんだ?」
「思ってないわよ」
「だったらいいじゃないか」

膨れたままのフランソワーズの手を引き、ホームに滑り込んできた電車に乗る。

「夕ごはん、何にしようか」
「・・・・」
「どこがいいかなぁ。どこか行きたい所とかある?」
「・・・・」
「言わないと勝手に決めるよ?」
「・・・・」
「んー・・・じゃあ、張」
「イヤ」

瞬殺だった。

「たまには張大人の中華を食べたいなぁ」
「イヤ。絶対、あなたの噂のこと、根掘り葉掘り聞こうとするもの」
「大人はそんなことしないよ」
「するひとがひとりいるでしょう?」

それっきり、つんと横を向いたままひとことも喋らない。

あーあ。グレートは信用がないんだなぁ・・・。

彼の脚本による舞台『雪の女王』の中のセリフを、フランソワーズは未だに根に持っているのだった。

 

***

 

電車を降りて、途中でテイクアウトの惣菜を買って、ジョーのマンションに入ってからも、フランソワーズはずうっと無言だった。ジョーが顔を覗き込んでも、目を逸らせたまま合わそうとしない。そのままだったら、いくらジョーでもお手上げだったが、フランソワーズはそれでも繋いだ手はずっと離さなかったので――大丈夫かと思いきや、部屋に入ってからも、彼女の不機嫌は直らなかった。

「フランソワーズ。とりあえず、ごはんにしようよ」

上着を脱いでネクタイを緩める。

「ホラ。さっきから一体どうしたんだよ」
「だって」

覗き込むジョーの視線を避けるようにして。

「だって・・・テレビや新聞で面白がってあんなふうに言われて、それを見たり読んだりしたひとがみーんなジョーの事をそう思ってるのよ。・・・そんなの、酷い」
「僕は平気だって言っただろう?本当に気にしてないから」
「だって」
「フランソワーズがちゃんとわかってくれてるからいいんだよ。それとも信じてないの。僕のこと」
「そんなわけないでしょう?」
「でもさ。そんな顔されると、ああ僕って信用ないんだな・・・って思ったりして」
「違うわっ。そうじゃないの。そんなんじゃないのよ」

そのまま俯いて。

「そうじゃなくて。・・・あなたが悪口を言われるのがイヤなの。何にも悪いコトしてないのに」
「悪口なんて慣れてるよ」
「そんな事言わないで」
「だって、慣れてるから」
「イヤ。慣れないで、そんなの」

彼が少年期にどういう日々を送っていたのかは想像するだけで、実際に彼の口から聞いたことはなかった。
いくら彼がさらりと「鑑別所時代にね――」と会話の中で言ったとしても、いくら彼が「本当にもう気にしてない」事だとしても、それでも、そういう日々の片鱗を思い出させるような事は言って欲しくなかったし、思い出して欲しくもなかった。
辛い記憶であるならば。
ジョー自身も、フランソワーズがその事を気遣ってくれているのはわかっていた。が、本当に平気なのだといくら言葉を尽くしてもそれがきちんと彼女に伝わることはないであろうことも知っていた。

「・・・ほんとに大丈夫だから」

そういった彼の目をじっと見つめる蒼い瞳。

「・・・本当に?」
「うん」
「・・・泣いたり、しない?」
「しないよ。僕をいくつだと思ってるんだい?」

だって、泣くくせに。と思いつつ、とりあえず――笑顔を作った。ジョーが困っているのがわかったので。

「・・・ジョーは、本命とか、選ぶとかじゃないのよね?」
「何が?」
「・・・私のこと」
「うん」
「私しか、いない?」
「うん」
「一番目は?」
「そんなの。・・・膨れっ面しているフランソワーズだよ」
「なによそれ。――ひどいわ」

そのまま、ジョーの胸に寄り添った。

――テレビも新聞も、なにもかも間違っている。ジョーはちゃんと言ってるのに。私のこと。

「告白」を受けた女の子は強いのだった。

 


 

噂C

 

ジョーの腕に抱き締められながら、その胸に頬を寄せてフランソワーズは考えていた。
今回のこの「フタマタ」騒動が何故起こったのかを。
何故か?――ジョーがフランスグランプリで優勝したから。
それは、わかっている。ともかく、優勝すれば世界的にも国内的にも一時的とはいえ「時の人」になる。
そして、ジョーは表彰台で自分の名前を叫び、更には空港でのインタビューでも自分のことを「恋人」であると認めた。
そこまでは、いい。
しかし。
一夜明けてからの「フタマタ」騒動。しかも、恋人宣言されたはずの自分よりも、かの国の女王がまるで彼の恋人であるかのような扱いになっていた。昨日よりも今日のほうが、自分の影は薄くなり、かの女王の存在が色濃くなっている。
明らかに、不自然だった。

「・・・ねぇ、ジョー」

彼の胸から頬を離して顔を見上げる。

「あの」

けれども、自分の胸に湧き上がった疑惑をぶつけるには時期尚早なのかもしれず、言葉にしていいものかどうか迷った。なので、代わりにこう言った。

「・・・そろそろゴハンにしない?おなか空いちゃった」

 

***

 

そもそも、かの女王と彼のツーショット写真はいつ撮られたものなのか。
もちろん、しみじみと見た訳ではないので、どんな構図のどんな写真なのかはうろ覚えだった。が、ジョーの表情が「よそいき」のような気がしてならなかった。もし「親密な」ふたりの写真ならば、もっとこう・・・嬉しそう、とはいかないまでも、そういう雰囲気というのは写真に現れてくるものではないだろうか。例えば、自分と彼の映っている写真は、時には自分で見ても照れてしまうことがある。ただ並んで映っているだけで、手を握ったりも肩を抱かれてもいないのに、お互いの距離感や雰囲気がお互いを思い遣っているのがわかるのだ。もちろんそれは、自分ひとりだけがそう感じてしまうのかもしれなかったが。
だから、例のツーショットはただの「表敬訪問時の記念撮影」としか思えなかった。
そんな他人行儀な写真が「フタマタ疑惑」の表舞台に出ているというのは、やはりどう考えても不自然だった。

夕食後、ゲストルームでストレッチをしながらフランソワーズはずうっと考え込んでいた。
なにをどう考えても、やはり納得がいかなかった。
それに。
マスコミが本気を出してジョーと彼女との事を調べたならば、数年前の彼女の気まぐれが起こした一件も簡単に知られてしまうであろうことは想像に難くない。

――別に、いま思い出しても平気よ。

辛かったのは事実だが、それも今は遠い昔の記憶だった。少なくとも自分にとっては。あれから数え切れないほどの事が色々と続いた。だから、それらに比べれば大した事ではなかったのだ。
しかし。
当人である彼女にとってはどうなのか。そこまでは、わからない。
彼女の状況も変わってはいる。何しろ、当時は王女だったのが今では女王なのだから。

まさか、彼女のなかではジョーとのあの一件が現在進行形・・・ってことは・・・ないわ、よ。ね?

とはいえ、開幕戦での出来事を思えば、完全に否定しきれなかった。
しかも。
あの時、自分はまるで――機械人間のように扱われた。
サイボーグなのだから、人間を守って当たり前なのだとも言われた。
あの時の思いは忘れていない。今でも思い出すと悔し涙が出そうになる。決して泣きはしなかったが。
その件に関しては、ジョーにも言っていない。自分と女王との確執なのだから。それに、きっと彼が知ったら――今の自分よりも傷つくのは目に見えている。決してそんな素振りをしなくても、それは確実だと自分にはわかる。だから、言わない。
ともかく、あの時彼女が自分を邪険に扱ったのは――もしかして、自分をジョー争奪戦のライバルと思ったからではないだろうか。
そして、今回の件も――あるいは、女王自らが流した風聞なのかもしれなかった。ジョーが優勝したのと合わせて。
それとも。
そう結びつけて考えてしまう自分は意地悪なのだろうか。

「・・・わからないわ」

「何が?」

背後から声をかけられ、自分の思考にしか意識を向けていなかったフランソワーズは文字通り飛び上がった。

「ジョー!・・・もう、びっくりしたわ」
「ゴメンゴメン。あんまり熱心だから、声をかけるタイミングが見つからなくて」

そう言って頭を掻いている。

「・・・どうしたの?」
「うん。・・・きみの公演っていつだったかなぁと思って」
「今度の日曜日よ」
「日曜・・・」

フランソワーズの答えに、ジョーはがっくりと肩を落とした。

「・・・ダメだなぁ」
「どうかしたの?」

フランソワーズは彼の元へ進み、そうっと頬に手をあてた。

「なかなか予定が合わないな、って。残念ながら、その日はイギリスグランプリなんだ」
「あら。予定が合えば見に来てくれるつもりだったの?」
「え。いや、それとこれとは・・・」
「あーあ。いつになったら見てくれるのかしら。ハリケーン・ジョー?」
「コラ。そんな事言ったら、次のレースに一緒に連れて行くぞ?」

抱き締めようとする彼の腕をすり抜ける。

「ダメよ。今度もひとりで行ってちょうだい」
「冷たいなぁ」
「そのくらいガマンできなくてどうするの。・・・ちゃんと、電話もメールもするから」
「ん・・・」
「だから、泣いちゃダメよ?」

明日にはもう出発しなければならないジョーだった。

 


 

噂D

 

キャサリン女王、か・・・。

闇の中に一組の蒼い瞳だけが見える。が、煌いたのはほんの一瞬で、その蒼はすぐに見えなくなった。
フランソワーズは闇の中で天井を見つめていたが、考えようとしても思考がまとまらず目を閉じた。

ばかね。考えても仕方ないじゃない。

ジョーが彼女をキャシーという愛称で呼ぶことも。
キャサリン女王がジョーのチームのスポンサーになったことも。
開幕戦の、モナミ公国でのことも。
どれも――深い意味はない。
表面上では、全て綺麗に説明がつく。
ジョーが彼女をキャシーと呼ぶのは、「過去の彼女」を相手にしているからであって、いまではない。だから、彼が彼女をそう呼ぶ限り、彼にとって彼女は現在そこに存在しているわけではなく――彼のなかでは終わった存在。
だから、何も心配することはない。
スポンサーの件もそうだ。ジョーのチームにとって、それは大きく良い方へ進むきっかけになるし、必ずプラスになる。
だから、何も心配することはない。
開幕戦で、彼女がジョーを探していたことも――スポンサーの開催国での開幕戦なのだから、不思議なことでも何でもないはずだ。例え、彼女が公的な意味ではなくジョーに会おうとしていても。
それに、実際――彼女はジョーに会えなかったのだから。私的には。
否。
正確には、彼女は『ジョーに会っていたのに彼をわからなかった』。
今でも不思議だった。
もし、彼女がほんとうに彼を――ジョーを好きなのなら、わからないはずがない。彼がどんな格好をしていようとも。
何故なら、自分だったらそうだからだ。彼がどんな姿をしていても、見分けられないわけがない。自分の能力を使わずとも、それは容易なはずだった。
なのに、彼女はわからなかった。

――どうしてかしらね。ジョー。

体の向きを変えて、傍らで眠っているジョーの顔を見つめる。
そうっと目にかかる髪を除ける。
両目が見える彼の顔。

これって、そんなに貴重なことかしら・・・?

ジョーの両目が見える。
フランソワーズにとって、それは特に珍しいことではなかった。
が。

でも、他のみんなもわからなかったのよねぇ・・・。

彼の前髪が短くなってしまった時。しばらくは他のメンバーも彼をジョーだと認識するのに手間取っていた。
はじめは冗談でそう言っているのかと思っていた。が、じきにそうではなく――本当にわからないのだと知ったときは驚いた。

私だけ。――どうして?

それは、彼とこうしていることに関係があるのだろうか。あるいは、彼に抱き締められることが多いからなのだろうか。ミッション中もそうでない時も含めて。確かに、彼の腕のなかから彼の顔を見上げるときは、大抵・・・前髪に隠れているはずの瞳もちゃんと見えていた。

と、いうことは。
キャサリン女王がわからなかったということは、つまり、彼女がジョーとそういう位置関係をとる機会は皆無かもしくはあってもほんの数回だったということになる。

だったら、全然フタマタじゃないじゃない。

そう思い、なんだか馬鹿らしくなってきた。

――そうよ。大体、変装もなんにもしていないジョーが目の前にいるのに、まるっきり気付かないのっておかしいじゃない。そんなの――ジョーのことを本当に好きなのか・・・愛してるのか、って疑うわ。だって、私は絶対にわかるもの。
もし、ジョーのそっくりさんが何人立っていて「本物はだーれだ」って言っても、絶対に間違えないわ。
だって。

甘えるように鼻を彼の肩のあたりにこすりつけ――彼の胸に寄り添った。

だって。
私のジョーは「このひと」だもの。例え、何人ものそっくりさんが現れても――私にはわかるわ。
ほんとうよ?ジョー。

その声が聞こえたのか聞こえてないのか――
フランソワーズは、まるで返事をされたかのように、彼の腕に抱き締められていた。

 


 

噂E

 

「――あのさ。フランソワーズ」

いったん、言葉を切る。口中の唾を飲み込んで、息を整えて、そして――

「・・・これから帰るから。だから、明日。・・・成田に来てくれないか?」

「明日?」

携帯電話の向こう側から、訝しげな声が響く。不思議そうに小首を傾げて自分を見つめている彼女の顔が思い浮かんだ。
「そう・・・明日」

明日が勝負だった。
そして、ジョーの心は既に「明日」以外にないと決めていた。

 

***

 

ジョーからの電話を受けたのは、公演が終わって数時間後だった。
打ち上げも始まったばかりで、まだ場も静かな中――自分の携帯が小さくメロディーを奏でている事に気がついた。
ついさっき電源を入れており、うっかりマナーモードにしておくのを忘れていた。
小さく「ごめんなさい」を繰り返しながら、外に出る。
電話の相手はジョーだった。

「もしもし、ジョー?」

確か彼のレースも終わっている頃だった。
そして、終わってすぐ自分に電話をかけてくるということは、良い結果を残せたのに違いなくて。
フランソワーズの声は自然と弾んだ。
電話を受ける側としては、やはり楽しい話題の方がいい。

「勝ったのね?――何位だったの?」
「何位だって?」

返ってきたのは、聞き慣れた大好きなひとの声。――何度聞いても、どきどきする、甘い声。

「嫌だなぁ、フランソワーズ。誰に向かって訊いてるんだい?」
「――!?」

ジョーが少し偉そうな口調で話す時は、「ほんとうに」良い結果の時だけだった。

もしかして、フランスグランプリに続いて・・・2連勝?

「か」
勝ったのね、と言おうとして――ジョーの声とぶつかった。

「参ったよ。雨でグリップが難しくてさ。も、滑る滑る」
「・・・・」

勝ったことの報告ではなかったのか。
黙り込んだフランソワーズの耳には、楽しげなジョーの声が響いている。

「何回もスピンしそうになってさ。堪えたんだけど、何度目かにもっていかれて」

くるくる回ってしまったのだそうだ。彼の表現そのままで言うなら。

「・・・くるくる・・・?」

スピンするのはそんなに楽しげなことだっただろうか?
フランソワーズは眉間に軽く皺をよせ、一瞬携帯を耳から離し――まるで、相手がそのなかに見えるみたいにしみじみと携帯電話を見つめた。電話の向こう側からはくすくす笑いを含んだ声が続く。

「そ。くるくるーって。もうだめかなーって思ったんだけど、そうでもなかったよ。だってさ、みーんなくるくる回ってるんだぜ?俺だけじゃなくて。それはもう、壮観だったなぁ」
「・・・そうなんだ」

それで、ジョーは何位だったのだろうか?まさか、スピンを楽しんだ話をするために電話をしてきたわけではないだろう。
・・・それとも、そうなのだろうか?

「で、俺が一番先に我に返ってコースに復帰したというわけ」

この際、ジョーの不可思議な表現は無視した。そうじゃないと話が進まない。

「そんなわけで、優勝しちゃったよ。また」
「優勝っ?」
「そ。2連勝」
「すごい。さすがね」
「もちろん」

一瞬、間が空いて。

「――で?フランソワーズのほうはどうだったんだい?ミスしなかった?」
「ま。誰に向かって言ってるの?」

ジョーと同じ調子でやり返す。こういうノリがでる時のフランソワーズも、機嫌が良い証拠だった。

「ふーん。その調子ならうまく行ったんだ。――良かったな」
「そうよ。だから、ジョーもいつかちゃんと観てね?」
「え。いまそれを言うわけ?」
「言うわよ。だって観て欲しいもの」
「う―――」

低く唸る声にくすりと笑ってから続ける。

「これから打ち上げなの。だから、また後で――切るわね」
「あ、待った」
「なに?」
「あのさ。明日なんだけど・・・・」

 

***

 

「成田?」

きょとんとした顔が容易に思い浮かぶ。その蒼い瞳を思い出しながらジョーは言葉を継いだ。

「うん。――明日、どうしても来て欲しいんだけど、だめかな」
「どうしても、って・・・・行けるけど、どうしてまた」
「それは」

再び、唾を飲み込んで声を整えて。

「明日が一番いいと思うんだ。その、・・・連勝したからマスコミ関係も来てるだろうし」
「ええ、それが・・・?」
「だから、・・・噂を払拭するいい機会だと思うんだけど」

噂を払拭する。
それは、ジョーがイギリスグランプリのために日本を発ってからずうっと考えていたことだった。
なにしろ、日本では――その少し前に、自分はフランソワーズと付き合っているとちゃんと宣言したにも拘らず――何故か翌日から自分は「フタマタ野郎」になってしまっていたから。自分では、自身のことだし天地神明に誓って「フタマタ」なんて覚えがないと言える。が、それでも、自分があらぬ疑いをかけられ、あたかも「その通り」であるかのように放送されると、彼女は凄く不機嫌になるのだ。それは、噂の内容についてではなく――自分がフタマタなんぞしていないことはよくわかっているので――彼が、つまりジョー自身があらぬ噂によって傷つくと本気で心配して、そして――怒っている。
だから、彼女のためにも一刻も早く「効果的」に噂を払拭したいと思っていたのだった。

そして、前回の優勝時もそうであったように、連勝した今もおそらくマスコミは待ち構えているわけで・・・

できれば国際映像も使いたかった。
ジョーがイギリスグランプリに行って一番初めに知ったのは、日本以外では自分とモナミ公国の女王が「熱愛中」だと報道されていることだった。それも、連日繰り返し繰り返し。
どうしてそんな出来事が突然降って沸いたのか、ジョーには心当たりがあり――おそらくそれは当たっているはずだった。

だから、それも含めて、全ての噂の払拭を心に誓った。

明日の成田では――フランソワーズとの事をちゃんと、誰の目にも誤解ができないように発表するつもりだった。

とはいえ、彼女の姿を報道させるつもりは全くなく、彼女を成田に呼んだのは・・・
発表したあと、真っ先に彼女の顔を見たいからだった。

 


 

噂F

 

あと数分で成田空港に着くというのに、島村ジョーはえらく不機嫌だった。
しかも、その不機嫌は今に始まった事ではなく――飛行機に乗ってからずっと、だった。
否。
より正確に言うならば、――飛行機に乗る直前からずっと――だった。

 

***

 

フランソワーズに電話をしてから数時間後。
ジョーは空港にいた。日本に帰るための手続きを全て終え――あとは搭乗するだけだった。
それまでまだ数時間ある。
何をするともなく、空港のラウンジでぼーっとしていた。スタッフはそれぞれマシンの調整やら何やらのため、各自ばらばらに自分の目的地へ向かうことになっている。
ジョーは無理言って――2連勝したので、少しは強気で――いったん帰国することを許された。
何しろ、一連のこの馬鹿馬鹿しい報道騒動を何とかしなければいけなかった。
日本での件はともかく――モナミ公国女王と熱愛中だなんて冗談ではなかった。

・・・キャシー。悪ふざけにもほどがあるぞ。

ひとこと言ってやりたい気もしたが、火に油を注ぐことにもなりかねない。
けれども、この一連の噂騒動の火元が彼女であることは明らかだった。
ジョーには確信があった。
開幕戦以来、彼女が何か考えているような気がしていてならなかった。何しろ、開幕戦後に彼女には会わず、さっさと移動してしまったのだから。
それ以後も彼女がサーキットに現れることもなく、日々は平穏に過ぎていったのだった。が。

――それですむわけがない。

いくらジョーが避けても、やはり彼女は彼のスポンサーなのである。
早晩、彼に対しプレッシャーがかかるのは目に見えていた。
スポンサー不在がどういうことを意味するのか。今季のF1レースでは痛いほど知らされた。

でもまぁ、ともかく・・・

あと数時間後にはもう成田に立っているし、そこにはフランソワーズも待っている。
ここで、自分の恋人は彼女であると公言してしまう決意を固めていた。
今までのような会見ではダメなのだ。もっとちゃんと――しっかり、言わなければ、この一連の噂は消えずますますおかしなことになってしまうだろう。

本当は、フランソワーズの肩を抱いて言ってしまいたかった。けれど、自制した。
彼女は自分と違って、一般人であり――夢を実現させ頑張っているひとりの女の子なのだから。
それに、彼女をカメラの前になんて立たせてしまったら。
面白いもの好きなテレビ局が放っておくわけがないのだ。お笑いの種に出演依頼されたり――レーサーの恋人という立ち位置で、スポーツ系トーク番組に呼ばれたりするかもしれなかった。
そんな、一過性の見世物にする気は全くなかった。だから、次善の策として、近くで待っていてもらうことにしたのだった。
そうでなければ、自分はマスコミなんていう強大な敵には立ち向かえない。
ミッションの時も、いつでも――彼の隣には彼女がいたのだから。
だから、戦えた。
それは、彼女にも他の仲間にも言わない、彼自身の秘密だったけれど。

 

***

 

「・・・ジョー?どうかした?気分でも悪い?」

自分の視界がエメラルドグリーンに染まる。

「・・・別に」

ふいっと顔をそむけ、ついでに身体全体もそむけてしまう。

「機嫌が悪いわね。まだ拗ねてるの?」

しょうがないひとね。という声を背に受け――ジョーはぎゅっと目を瞑った。

全く、どうしてこんなことになってしまったんだ?

 


 

噂G

 

到着した飛行機を見つめ、驚きの声が上がったのはほんの一瞬だった。
次の瞬間には、マスコミ陣はその飛行機の到着ゲートに向けて殺到した。

銀色の機体。
尾翼には――王室のマークが入っていた。

 

***

 

特別ルートを通るでもなく、堂々と一般通路を進んでゆく。
ジョーは憮然とした態度を崩さない。いきおい、早足になるものの、その度に隣を歩く人物の手が伸びて彼の腕を引くのだった。その手を何度振り払おうとしたことか。しかし、その手の持ち主はまるで当然のように彼の腕を取って歩くのだ。

「――怖い顔。大丈夫よ、記者会見なんて。私が全部うまくやるわ」
「君は口をだすな」
「あら、どうして?」
「・・・・」

それは、何を言い出すかわからないからだ。
と、ジョーは胸の裡でひとりごちた。
彼女の意図が全く読めない。そもそも、なぜイギリスにいたのかも謎だった。
まさに発とうとしたその時、空港ロビーでジョーの前に立っていたのはモナミ公国の女王、キャサリンだった。
そうして、彼女の専用機に乗せられ――いま、成田にいる。

思惑が外れた。
予定がどんどん変わってゆく。
変わってゆくだけならまだしも――自分が意図しない方向に進みつつある。

彼女の言い分は――それを頭から信じていいものかどうかは甚だ疑問ではあったが――至極当然のものであり、他意はなさそうだった。
つまり。
年始から打診していた「コマーシャル第2弾」の件で、「たまたま」日本に行く用があったのだという。
そして偶然、ジョーに会った。
イギリスに来ていたのはレースとは全く無関係の別件だったのだという。
知り合い、それも旧知の仲のジョーを自分の機体へ誘ったのも自然な流れだった。本当に偶然であるならば。

「キャサリン女王。日本に来た目的はなんですか?」

ジョーの腕に手を添えて歩いている女王に、女性記者から質問が飛ぶ。
通常であれば、こんな不躾な質問の仕方なぞ不敬罪に問われても不思議ではない。が、今日は特別だった。
何しろ、女王の周りにはSPも少ないのだ。薄い警備は危険を感じさせたが、女王はというと危険を感じてすらもいない様子だった。
にこやかにカメラを見つめ、そして――傍らの島村ジョーを見つめ、エメラルドグリーンの瞳が輝く。

「このひとと仕事の話をするためです。――そうよね?ジョー」

ジョーが何か言おうと口を開いた途端、別の方向から質問が飛んだ。

「今回、一緒に日本へ来たのは何か親密な意味を感じるのですが?」

「まあ」
くすりと笑みをひとつ。

「それは今更言わなくてもおわかりでしょう?私とジョーは」
「――キャシー」

低い声で遮られる。が、気にしない。

「もう随分・・・昔からの仲ですのよ。――大切なひと。そうよね?ジョー」

甘えたように見上げられた。が、ジョーはそちらを見ない。

「ジョー。・・・もう、照れ屋なんだから」

 


 

噂H

 

こんなはずじゃなかった。

たくさんのカメラのフラッシュを何の感動もなく浴びながら、ジョーの心は冷たくなっていった。

・・・こんなはずじゃ・・・

用意されていた席に着いたのは、ジョーとキャサリンだった。
まるで二人の会見のような様相を呈しており――そして、女王キャサリンはそれを否定しなかった。

「おふたりのなれそめは、やはりあの来日の時の?」

質問が飛ぶ。
キャサリンは一瞬、隣のジョーを見つめ・・・そして答えた。

「ええ。そうなるわ――ねぇ、ジョー?」

ジョーは彼女を見ない。
唇を噛み締め、耐える。
今、口を開いたら何を言うか自分でもわからなかった。

数年前の、来日の時。――その話はしたくなかった。

確かに、あの時は――いや。考えるな。もう、過ぎたことだ。

あの時の、フランソワーズの悲しげな顔がフラッシュバックする。

――違う。――思い出すな。
彼女はもう――あんな顔は、しない。

 

――そうだろうか?

本当に、そうだろうか?

それは、自分が勝手にそう思い込んでいるだけで――自分の知らないところで、今でも彼女はあの時のような顔をすることがあるのかもしれない。

 

自分の知らないところで。

 

――悲しい?

何が悲しいんだフランソワーズ。
僕がきみをひとりにするなんて、そんなことあるわけがないじゃないか。
僕がそばにいるのに、どうして悲しくなることがある?
ないだろう?
だから、きみは悲しくなんかならない。そんな顔は――しない。

 

・・・たぶん。

 

自信がなかった。
なにしろ、いまここでこうしている一分一秒が――おそらく、彼女を不安にさせている。
何故なら、自ら彼女をこの地に呼んでおいて、未だに会えていない。
自分がどこにいるのかも知らされていない。もし、うまく事務所の人間と会えていても、いま自分がいるこの場所に彼女が現れることは皆無であったし――何しろ、当初の予定では「自分の会見」が全て終了してから会うつもりだったのだから。
きちんと彼女の話をして、そして――全てが終わってから、彼女の顔をみてほっとしたかった。
と、いうよりも。
マスコミ相手に戦うためには、彼女が「近くにいる」と信じられること、彼女が「待っていてくれる」と思えることが必要不可欠だった。そのどれが欠けても、おそらく自分は――マスコミ相手でなくとも――誰とも、どんなものとも戦えない。
なのにいま、自分がここにいてこういう状況になっていることを彼女に伝える術がない。
だいたい、今のこの状況をどう打破したらいいのかもわからないのだ。

――何が最強のサイボーグだ。

こんな、噂ひとつ払拭できず、ただのスポンサーでしかない女王をどうすることもできず、結果、自分が全く思ってもみない方向に進んでいる。
不本意ながら、で済ませられる状況ではない。

 

「・・・よね?ジョー」

もの思いに沈んでいたジョーは、エメラルドグリーンの瞳に見つめられ我に返った。

「――え。なにが」
「ま。聞いてなかったの。・・・今までも、何かの時に会っていたわよね、って言ったのよ?」
「何かの時に、って・・・」
会っていただろうか?

「そういえば、島村さんは以前一般女性と熱愛報道がありましたよね?その件については」
「あ、それは」

チャンスとばかり、勢い込んで話しだそうとするジョーの言葉を強引にひったくったのは女王だった。

「誤報ですわ。決まっているじゃない」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。どこかの記者が間違えたのよ。そんな――ちょっと遊んでいたのを熱愛なんて言われたら、あなただってたまったものではないでしょう、ジョー?」

――ちょっと遊んでいた。

「あなたたち、・・・名誉毀損で闘う気はあるのかしら?――モナミ公国を相手に」

若い女王だから御しやすいと思うのは早計だった。
いま、目の前にいるのは若くても支配者に間違いなかった。

――もう、たくさんだ。

立ち上がろうとする。
が、SPによりすぐに椅子に戻されてしまう。

「・・・あら。・・・行ってもいいのよ?ちからを使って」
「――!」

小声でキャサリンがにっこり笑って言う。

「でも、ほどほどにしてね?あとが大変だから」

借りを作る気はなかった。
しかし。

 

――フランソワーズ。

逃げられない。

いつも、突破口を知っていて、自分を導いてくれた大切な存在。それが、いない。いまここには。

 

――フランソワーズ。

スポンサーの意向には従わなければならない。というだけではなく。ジョーは半分、諦めていた。

 

「・・・フランソワーズ・・・」

僕は、どうしたらいいんだ。

 

知らず、小さく彼女の名を呼んでいた。

 


 

噂I

 

空港ラウンジの一角で、フランソワーズはジョーの事務所の広報担当者と向かい合ってソファに座っていた。
テーブルにはコーヒーがふたつ。
けれども、どちらも手をつけられていない。

「――おかしいわ。もうとっくに着いているはずなのに・・・」

どうして連絡がこないのかしら。
と、何度も繰り返す担当者。目の前のフランソワーズに申し訳なさそうに。

「ごめんなさいね。到着したら電話がくることになっているのだけど」
「飛行機が遅れているのではないでしょうか?」
「いえ、それはないみたいなんだけど・・・」

テーブルに置かれた携帯が震えた。

「あ、ごめんなさい。その連絡みたいだわ――ちょっと失礼」

携帯を耳に当てながら、小走りにラウンジから出てゆく。
その後ろ姿を見送りながら、フランソワーズは小さく息をついた。

昨夜、ジョーから成田に来て欲しいと連絡があった。その後、彼の事務所の広報担当者から連絡が入り――いま一緒にいる彼女だ――今日、ここ成田空港にいる。
流れとしては、ジョーの乗った飛行機が到着後彼女の携帯にその旨連絡が入り、その後ジョーの会見が終わる頃に移動、となるはずだった。会見が完全に終わり、マスコミ陣がいなくなってから会う手筈になっている。
それはジョーの意向であり、彼はフランソワーズがちらっとでもマスコミと接触するのをよしとしなかったのだ。
だったら、何も空港に呼ばずともいいものだが、それとこれとは彼のなかでは別らしい。
ともかく、フランソワーズは広報担当と共に成田空港にいた。
が、待てど暮らせどジョーが到着したという連絡が一向に入らない。
到着予定時刻より一時間も経っている。
もし、彼の乗った飛行機に何かトラブルがあったのなら――それこそ、速やかに情報が入ってくるはずだった。
けれども、その類の連絡は一切ない。
ということは、――ジョーはいま一体、どこにいるのか?
まだ機上なのか?それとも、とっくの昔に着いているにもかかわらず、連絡が出来ない状況にあるのか。

ラウンジにひとり残されたフランソワーズは、ともかく考えても仕方がないとコーヒーカップに手を伸ばし――すっかり冷めていることに気がついて、やめた。

何度目かのため息をつく。

昨夜、ジョーから電話をもらったあとは――打ち上げ会場に戻ってもどこか上の空だった。
なにしろ彼が言っていた「噂を払拭するいい機会」というのが気になった。
明日、成田で彼はいったい何をするというのだろう?
そして、自分を呼んだ理由は?
ともすれば、そればっかり考えがちだったフランソワーズは、注がれるままにワインを飲み――結果、普段よりもだいぶ飲むことになり、それは今日成田に来るための早起きも相まって、彼女のこめかみで自己主張をしているのだった。

バッグからそっとコンパクトを出し、チェックする。
何しろ、寝不足と二日酔いのダブルなのだ。彼の目に自分がどう映るか気になっていた。
鏡に映った自分の顔を見つめ――すぐに、少し乱暴にコンパクトを閉じた。

やだもう。ひどい顔してる。・・・こんな顔でジョーに会うなんて、最低だわ。

傍から見れば、いつもの自分と大差ないはずだった。けれど、自分的には今日の自分はお世辞にも綺麗とは言えなかった。もちろん、最低ランクではないと思いたいが、それでもベストな自分とは大きく差がついていた。

ああもう・・・。変なトコ目聡いんだから、あのひと。絶対、「顔、ヘンだよ」って言うに決まってる。そして「酒飲んだだろ」って言うわ。ちょっと不機嫌そうに。でもね、昨日は打ち上げだったんだし、飲んでるの当たり前でしょう?大体、私が誰とお酒飲んだってジョーには関係ないと思うのよね。別に合コンしているわけじゃないんだし。・・・ちょっと待って。実は打ち上げなんて嘘で、私がどこかの誰かと合コンしてて、それでお酒飲んでるかもって思うということは・・・自分がそうだから、って事じゃない?――あらやだ。ジョーはそうしてる、ってこと?だから疑うの?・・・しんっじられない!

勝手に思考が暴走していくのは、寝不足と二日酔いのせいだと思いたかった。
ともかく、第一声で「顔、ヘンだよ」と言われたら、どう反撃しようか考えていると

「―――・・・・」

何か聞こえたような気がした。

「・・・?」

思わず、耳をすます。
が、何も聞こえない。

けれども、「003」としての自分がもう一度試せと言っている。
普段、日常生活に於いては絶対に「ちから」を使わない。眼も耳もスイッチをいれることはない。
が。
首筋にちりっと電気が走るような感覚。

フランソワーズは居住まいを正し、そうして――耳のスイッチをいれた。
途端に流れこんでくる大量の音音音。
その音の洪水をより分けて、いま、自分が何を聴くべきなのか探りながら、慎重に範囲を絞ってゆく。

「―――を、・・・・なんて言われたら、あなただって」

「!?」

周波数が合ったかのように、突然明瞭に聞こえてくる声。
それは、よく知っている――忘れるわけがない――世界で一番嫌いな声だった。
どうしてこの声がこんな近くで聞こえるのだろう・・・と、思った瞬間。

「・・・でしょう、ジョー?」

ジョー?

思わずソファから立ち上がっていた。

ジョーの声?もう成田にいたの?

そして。

なぜ、――彼女と話しているの?

わけがわからなかった。
思わず眼のスイッチをいれていた。
声が聞こえてくる方をじっと見つめ――ジョーと、彼女が並んで座っているのを確認した。報道陣に囲まれている。

ジョー?――何よこれ。
あなたが言っていた、噂を払拭するいい機会ってこのことなの?

しかし。

ジョーの表情は暗く、とてもそんな噂を払拭している最中とは思えないのだった。

・・・何してるのよ。

と、ジョーが突然立ち上がり――かと思うと、すぐに押さえつけられ着席させられた。
その彼に、隣にいる彼女が顔を寄せて何事かを囁いた。
その瞬間、ジョーの顔色が変わった。

フランソワーズは、バッグを掴むとその場所――ジョーのいる場所へ向かって駆け出していた。ふたりがいる場所は、自分が今いる所から意外と近いことは既にわかっている。

「・・・フランソワーズ」

駆けていても明瞭に聞き取れる彼の声。
それはいつもより掠れて――すっかり弱っているように聞こえた。

もうっ・・・何やってるのよ、ジョー!
よくわからないけど、いま行くから、だから――みんなの前で泣いちゃだめよ!

 


 

噂J

 

報道陣の後方がざわ、と揺れた。
そのざわめきは徐々に前方にも波及した。

床の一点に視線を固定し、全ての質問を放棄していたジョーは、その視界に華奢なサンダルが見えて顔を上げた。
見慣れたサンダル。そして――足元からゆっくりと視線を上に上げてゆく。
そこには、報道陣をモーゼのように二つに分けて通り道を作ったフランソワーズが立っていた。
状況についていってない。
いま、カメラはシャッターを押される事を忘れ、インタビュアーは失語症に陥った。
突然の闖入者を全てのものが無言で迎えていた。
その対峙している相手――島村ジョー以外は。

「――ふ」

椅子から立ち上がる。

フランソワーズは呼吸ひとつも乱さず、ただジョーの顔を見つめた。
その蒼い瞳を見た瞬間、

「フランソワーズ!!」

椅子を蹴飛ばし、――それは後方に控えていたSPにヒットし、はからずも彼らに対する牽制になっていた――ほんの数歩で彼女の元に駆け寄ると、全く躊躇せず彼女を胸に抱き締めた。

「フランソワーズ、フランソワーズっ・・・!」

両腕でしっかり抱き締め、彼女の肩のあたりに顔を伏せてうわごとのように名を呼ぶ。
フランソワーズはというと、彼のアタックにも全く動じず、しっかり足を踏ん張って受け止めた。
そして彼の背中と頭に腕を回し髪を撫でながら――小さく、何事かを呟いた。

「――おいっ!これって――」
「あの熱愛報道のじゃないか!」
「なんだよ、こっちが本命かよ」
「写真!カメラ!」

一瞬後、二人の周りに怒号が飛び交い報道陣が殺到した。
四方八方からフラッシュが光り、二人の姿は光の中に浮かび上がった。
それでも、その対象はまったく周囲に気を向けておらず、まるで――今、世界のなかに二人しか存在しないかのように、全てのものを自分たちから切り離していた。

「島村さん、こちらが本命ですよね!?」
「女王とは本当に仕事だけの話だったんですね。てことは、一緒に帰国したのも仕事の打ち合わせを兼ねて?」
「彼女はどうしてここに?」
「島村さーん、顔上げてくださーい」

けれども、全く聞こえていない・存在していないかのように、二人は全く動かない。
動いているのは、彼の髪を撫でる彼女の白い指先だけ。
髪を撫でる――と、いうよりも。
それはまるであやすかのように、彼の髪を指に巻きつけたり、髪をくしゃっとしたりを続けている。

と。
衆人環視のもと、その彼女の手が――そうっと彼から離れた。
そうして、ふたりの間に隙間ができて・・・わずかに離れた。

「・・・・」

小さく彼女が何かを彼に問う。
それに対し、彼はかすかに頷いて――ゆっくりと顔を上げた。

「島村さん!彼女が熱愛報道のひとですよね!?」
「彼女こそ本命と言っていいんですね!?」

「――本命?」

たった今まで穏やかな笑みを浮かべていたその顔に、一瞬のうちに険がよぎった。

「え、いや・・・本命、ですよね?」

「――そんなわけ、ないでしょう」

当然、肯定するという想定の元に放たれた質問だった。が、それはジョーの唸るような低い声により否定された。

「えっ・・・でも」

なおも食い下がろうとするインタビュアーを一瞬見つめ、――インタビュアーが黙ると、おもむろに口を開いた。

「本命なんて二度と言わないでください。僕には、本命も何もありません。彼女が全てなのですから」

フラッシュが焚かれる。
が、ジョーはフランソワーズの頭を肩にしっかり抱き締め決して顔を撮らせることはしなかった。

「では――フタマタというのは」
「有り得ません。そんなもの、僕には全くの事実無根であり――訴訟を起こす用意もしています」

その言葉に報道陣に動揺が走る。中には、携帯電話を耳に当てどこかと連絡をとる姿も見える。

「え・・と、では、こちらが島村さんの恋人、と――」
「もちろんです。先日からそうお伝えしている通りですが」
「お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「――名前?」

一瞬、ジョーは目をくるりと天井に向け――既に彼女の名前は公共電波に乗せてしまっていたことを思い出した。
何を隠そう、自らが「ね?フランソワーズ」と言っていたのだった。

「名前は・・・」

少し照れたように微笑んで。

「・・・フランソワーズです」

「苗字も教えてください」
「ご職業は?」
「どうやって知り合ったのか教えてください」

質問が矢継ぎ早に飛ぶ。
が。

「――苗字?」

たった今、照れたように微笑んでいた彼の瞳が眼光鋭く質問を放った記者を射る。

「苗字なんて教えませんよ。もし、誌面に載せるようなことがあったら、ころ」
「ジョー」

剣呑な言葉は寸でのところで彼女に止められた。

「だめよ。・・・そういうつもりで質問しているわけじゃないんだから」
「でも」
「大丈夫。・・・大丈夫よ、ジョー」
「う。・・・うん」

小さく交わされる会話の間さえも、フランソワーズの顔が撮られないようにカバーする腕を外さない。

そんな中、やっと事態を知った広報担当者が到着した。
「すみません、今日はこれで――」

 


 

噂K

 

広報担当者に促され、一歩踏み出したジョーはふと先刻まで自分がいた場所に目を遣った。
そこには――女王がひとり座っていた。
悠然と。
超然と。

ジョーの視線を追って報道陣もそちらを見た。
かすかにざわめきが起こったが、先程と比べればそよ風が吹いた程度だった。

「あ・・・」

決して故意ではなかったが、結果的に彼女を傷つけてしまったかもしれない事に気付き詫びを入れようと口を開いた。
が、言葉が出たのは彼女の方が一瞬早かった。

「――まったく。いったい何の騒動かしらね」

珊瑚色の唇が弧を描く。

「あなたって――ここまでお膳立てしないと何もできないの?」
「――え?」

ぽかんとしているジョーを見つめ、女王は小さくため息をつくと立ち上がった。

「まさか私が、本当にあなたとこんな茶番をするために日本に来たなんて思ってないわよね?」
「それは・・・」

思っていた。

「いい加減にしてちょうだい。そんなに暇じゃなくてよ、私」
「でも」
「――誤解しないで欲しいの。あなたの事は好きよ、ジョー。だけど、それ以上に私は自分の国が大切。父が命がけで渡そうとしたもの、そしてあなたが守ってくれたものが・・・今の私には何よりも大事なの」

一歩、ジョーの方へ進む。

「あなたのチームのスポンサーになって、レースを招致したのだって――国の利益になると思えばこそ。もしあなたに集客力がなければ、とうの昔に見限ってるわ。いくらあなたの事が好きでもね。それとこれとは別なの」
当たり前でしょう――と結ぶ。

「今回、日本に来たのは二輪のエンジンを作らせるのにはどこがいいかみるためよ。いずれ、二輪レースも行いたいし。イギリスであなたと会ったのは本当に偶然。ちょうど二輪のグランプリを観た後だったから――それだけ、よ」

ジョーの目の前で立ち止まる。

「それから、アナタ」

フランソワーズの肩に軽く触れる。

「私、あなたの事は大っ嫌いだけど――勇気だけはあるみたいね」

エメラルドグリーンの瞳が煌く。

「もしあなたが来なかったら、このひとを離しはしなくてよ」

するりとジョーの腕から抜け出し、エメラルドグリーンの瞳を見つめる蒼い瞳。

「残念ね。彼は私のなの」

女王の手を自分の肩からそっと外す。

「あなたがどんなに頑張っても――彼は渡さないわ」
「自信家ね」
「愛されてるから」

いっとき見つめ合う。

先に視線を外したのは女王キャサリンだった。
口元には笑みが浮かんでいる。

「あなたの事は大っ嫌いだけど――大っ嫌いだったけれど、今はそうでもないみたいだわ」
「奇遇だわ。私もそうみたい」

くすっと笑い合って。

「ジョー。聞いた?あなた――負けてるわよ。彼女に」

女王の言葉にジョーは微かに眉間に皺を寄せた。

「あなたもこのくらい言えていたらね――結局、彼女がいなくちゃ何にもできないなんて情けなくてよ」

ジョーが何か言おうとするのを、フランソワーズがその腕をぎゅっと握って止めた。
じっとジョーの瞳を見つめ、何も言うなと制する。

「――次のレースも勝って――三連勝なさい。そのくらい、見せて頂かないとスポンサーとしても困るわ。こんなことをしている場合じゃなくてよ」

今度はフランソワーズは彼の腕を引き、何か言えと促す。

「・・・あ、はい。キャ」
「呼ばないで。――私は女王よ」
「――女王陛下」

一瞬、エメラルドグリーンの瞳が褐色の瞳を見つめ――そして、踵を返すと彼を後にし部屋を去っていった。
一度も振り返らず、それは見事な退場だった。

 

 

 


 

噂L

 

「――フランソワーズ。ちょっと来て」

ギルモア邸のリビングで朝刊全紙をテーブルに並べ、ジョーはその正面に座り腕組みをしていた。
じっと見つめる、朝刊全紙。さっきひとっぱしりコンビニまで行って片端から買ってきた。

「なぁに?どうしたの」

昨日の騒動のあと、事務所の車でここまで送ってもらった二人は昨夜は早々にベッドに入り――ぐっすりと眠ったのだった。そして今朝は早くから起き出して、フランソワーズは朝食の用意をしたり庭の草木に水をやったりとくるくると楽しげに動いていた。
キッチンの方からコーヒーの香りが漂ってくる。
髪にその香りを纏いつかせ、フランソワーズはジョーの隣に腰を降ろした。

「ウン・・・おかしいんだよ。どこにも昨日の事が載っていない」

朝刊全紙を集めたのは、昨日の騒動への対応策を練るためだった。
おそらく――各紙一面に大きく取り上げられているだろうから。
が、しかし。
予想に反して朝刊各紙のどこにも――一面にも三面にも芸能面にも――昨日の記者会見の事は報じられていなかった。
その代わり、一面の下のほうに小さく『お詫びと訂正』が載っていた。
『お詫びと訂正』――先日の、島村ジョーに対するフタマタ報道は全くの誤報であり、心より謝罪する。と。

「まぁ、これだけでもいいけど」

『お詫びと訂正』を指さし、フランソワーズに見せる。

「とりあえず、ヘンな誤解は訂正されたわけだし、きみの写真も載らなかったしね」
「そうね」

フランソワーズはジョーの手から新聞を受け取り、ページを繰った。
目指すのは芸能面でも三面記事でもなく――経済欄。
そしてそこには、目当ての記事が載っていた。

「・・・・」

そこには、『モナミ公国、来季より二輪レースも招致か』の見出しとともに女王と二輪レース関係者の映った写真が掲載されていた。

「なに?どうかした?」

ジョーが紙面を覗き込むが、

「なんでもないわ」

新聞を畳んでしまう。

「それより、ごはんにしましょう。――冷めちゃうわ」
「うん、そうだね。――おなか空いた」

 

どこでどう操作されたのか――は、ある程度予想ができたけれど、お互いに口にすることはなかった。

 

***

 

後日、立ち消えになっていた「ジョーのCMの話」が具体化することはまた別の話である。