「噂」
「送っていくよ」 鍵を閉めたあと、ジョーがそう言ったのを聞いてフランソワーズは足を止めた。 「いいわよ。ここからなら近いもの。電車ですぐよ?」 そのままぐいっと手首を掴んでエレベーターに乗り込み、有無を言わせず駐車場まで降りてしまう。 「待ってよ、だって――大丈夫よ?」 無いのだった。 「――なんで」 そんなの許可するわけがなかった。大体、車をジェットに貸すなんてことがある訳も無く、そもそもジェットは自分の車を売るほど持っているのだから。 「絶対、壊される。もう戻ってこない・・・・」 ブツブツと言うジョーを呆れて見つめ、フランソワーズは彼の手を引いた。 「いいじゃない。どっちにしろ、目立つ車よ。あっという間にね」 どんなチューンを施したのかは怖くて訊けなかった。 「今度は目立たない車にしたら?国産の軽とか。それだったら私だってひとりで」 ――もう。そんな事言ったら、どこにもいけないじゃない。アナタがいないと。 「それより、きみの方は大丈夫?」 フランスグランプリの後に二人は会っているはずだった。 「・・・爆笑された」 しかも、ジョーは全然反省している風には見えないのだった。本気で「次の表彰台ではどうしようかな」と考えているようだった。 「それに、ワイドショーでは『ね?フランソワーズ』のとこばっかりよ?」 決めセリフだったはずの『彼女は僕のなんですから』は、幸か不幸かすっかりスルーされているのだ。 「ふーん、って、ひとごとじゃないでしょ?」 知らない、っとジョーの手を離し、すたすたと早足で行ってしまう。 「――フランソワーズ!帰り、迎えに行くから!」 振り返り、イーっとジョーに顔をしかめて見せて、改札に消えた。 レッスン室に入ると、ちょうど対角線上の隅っこのほうに人が集まっていた。 「みんな何してるの?もうすぐ本番なのに。ちゃんと練習しなく」 先日と同じようにワンセグを目の前に突きつけられる。 「もう――何なの?」 レッスン室には携帯持込禁止なのに、いったい誰が持ってきたのだろう? 『ハリケーン・ジョー、二股!?』『女王とバレリーナ、本命はどっちだ!』 画面の右下のほうに赤い文字で書かれた言葉が眼に入った。 「・・・これがどうかしたかしら」 出てきた声は我ながら氷のように冷たかった。 「――え」 「どうかしたかしら、なんて気取って言っている場合じゃないでしょ!?二股だよ?どうなのよ、本当だったら、あの生チュー男絶対ただじゃおかないからね!」 そうよそうよと周りからも声が上がる。 「・・・二股なんて。そんなの、ないわ」 ほうっと息を吐き、フランソワーズが答える。 「そんなわけないもの。この写真は――彼女はジョーのチームのスポンサーだから。それで、よ」 ワンセグ画面の中ではワイドショーの芸能レポーターが、ジョーと女王がいかに親密なのかを得々と語っている。 「・・・アンタの形勢不利だって言ってるよ」 屈託のないフランソワーズに、かける言葉を失う。 「だって、本当に女王とは何でもないもの。――知ってるから、大丈夫」 「・・・まったく」 息をつくと、フランソワーズもバーレッスンに就いた。 ――ジョーに二股なんて器用な真似ができるわけないじゃない。彼女とはとっくの昔に終わってるのよ。 全く不安になる要素なぞひとつもなかったけれど、そんな「噂」が存在しているだけでもなんだか胸の奥がモヤモヤしてくるのだった。 こんな噂をジョーが知ったら、絶対に傷つくもの。いったい誰よ、こんなこと言い出したのは。 直接、苦情の電話でもかけてしまおうか――と考えるのだった。 ジョーを傷つけるひとなんてこの世にいてはダメなのよ。
噂@
午後からフランソワーズのレッスンだったので、ふたりはシャワーを浴びたり、朝食を食べたり、あれこれしたり――と慌しく、あっという間に時間は過ぎていった。なにしろ、のんびりしているわけにはいかないのだ。ジョーはジョーで、事務所に行かなければならなかった。
「ダメだよ。電車だろ?」
「そうよ?」
「送っていくよ」
「だめ」
「だって、車ないでしょう?」
「――え?」
駐車スペースは空だった。2台とも。
「忘れたの?この前、ギルモア邸に乗ってきてそのままにしてたでしょ?」
「・・・それはストレンジャーだよね?」
「ええそう」
「・・・フェラーリがない」
「貸したじゃない。ジェットに」
「ジェット!?」
「ええ。――向こうで乗るからちょうどいい、って」
「向こう?」
「アメリカ」
「アメリカ!?」
「・・・俺の車」
「また買えばいいでしょ?」
「・・・・チューンしたばかりだったのに」
「だめだ」
「どうしてよ」
「ひとりで乗るなんて危ない」
「危ない、って・・・」
「俺がいない時に車に乗るなんてダメだ」
「何が?」
「その、・・・記者とか」
「――あぁ、それね。・・・大丈夫よ。」
「ごめん」
「あら。反省してるの」
「・・・少し」
「そうよねぇ。全国放送ならまだしも、国際映像でひとの名前を叫ぶんだもんねー」
「・・・別に悪いことじゃないだろ」
「お兄ちゃんに怒られなかった?」
「爆笑??」
「叫ぶだけじゃ足りねーよ、って」
「何よそれ」
「アピール度が低いって言われた」
「・・・・もー。お兄ちゃんたら、ジョーに何を吹き込んでいるのよ」
「ふぅん」
今は、『ね?フランソワーズ』の「フランソワーズ」の部分に自分の恋人の名前を入れて言うのが流行ってきており、早くも今年の流行語大賞になるのではないかと言われていた。
「ひどごとだよ。俺の名前じゃないし」
「もー!!」
ちょうど駅へ向かう分かれ道なのだった。
「名前を呼ばないで!!」
ジョーはその姿を見送ってから――特に変装するでもなくごくごく普通に、歩き出した。
F1レーサーで、しかも先日優勝したばかりでニュースにでまくりとはいっても、普通にこの辺を歩いているなんて誰も思わないし、もし思うひとがいても「似てるなー」という認識程度であるということをジョーは知っていた。
噂A
「あ。来た来た、――フランソワーズ、ちょっと!」
フランソワーズは軽く首を傾げ――みんな練習しなくちゃダメじゃない。とひとこと言ってやろうと歩を進めた。
「いいから!!見てよ!」
そう思いつつも、仕方なく画面を見る。
そして、画面中央には――キャサリン女王とジョーのツーショット写真。
一瞬、その場は凍りついたものの――それも、すぐに氷解した。
「でも・・・仲良いんでしょ?」
「言わせておけばいいわよ、そんなの」
「でも」
「いいの」
「悔しくないの?」
「どうして?」
「どうして、って・・・」
「そ。そうだよねー。だって、生ちゅーのバラのひとだし」
「そうだよ。『ね?フランソワーズ』って言ってたじゃん」
そうよそうよ、誰が二股なんて言い出したのよ全く・・・とみんな口々に呟き、三々五々バーへ散っていった。
今は私だけ。・・・そうよね?ジョー。僕のだ、って言ってくれたのは嘘じゃないでしょう?
テレビのひとかしら?
絶対、許さない。
この私を怒らせたら怖いのよ?
瞬時にジョーは手を伸ばし、彼女の体を捉まえた。 「どうして止めるのよ」 引き摺るようにしてその場から引き離す。 「・・・ったく。いったいどうしたっていうんだ」 未だにジョーに腕を掴まれたままのフランソワーズは、頬を紅潮させ彼を睨みつけた。 「だって――ひどいじゃない!・・・訂正しないと、誤解されたままなのよ?」 ジョーはやれやれと二度目のため息をついた。 「僕は気にしてないから。フランソワーズがちゃんとわかってくれてればそれでいいんだよ」 一瞬、炎が燈ったようだった双眸が揺らぎ、怒りは鎮静化された――かのように、見えたのだが。 「イヤよ。何よ、『フタマタ野郎』って!!」
***
迎えに来なくていいと言ったはずだったのに、ジョーが待っているのを見つけてフランソワーズは大層驚いたのだった。 まさか、朝からずっとこの辺にいたんじゃないでしょうね? ちらりと疑惑の目を向けるものの、ジョーは全く悪びれずにニコニコしていた。 ・・・子犬みたい。 彼に尻尾があるなら、いままさにそれは振り切れんばかりに振られていることだろう。 褐色の瞳のわんちゃん。名前はジョー。 勝手に心のなかで犬になった彼を思い描いてみる。 性格は甘えんぼ。でも、飼い主を守るためならどこだって行くの。勇敢なのよ。 思わずくすりと笑みが洩れてしまった。 「――ん、なに?どうかした?」 訳がわからなかった。が、言われるままに手を差し出してみる。 「はい。よくできましたっ」 笑顔とともに言われ、そのまま腕に巻きつかれる。 「・・・フランソワーズ?」 あ、そ・・・とジョーは軽く首を傾げつつ、それでも彼女に腕を貸したまま駅へ向かった。 駅のホームに着いて、あと5分で電車がくるねと話していた。 「フランソワーズ。ど」 ひとこと言うと、あっけなくジョーの腕を解放し、先刻通り過ぎた売店前へ歩き出した。大変な早足で。 彼と彼女の姿を目にした彼らは、いままさに自分たちが噂していた当人が現れ、ただ呆然と突っ立っていた。 フランソワーズがこの会話を耳にしたのは、別に能力を使ったわけではない。
***
「ひどいわ。どうしてジョーは怒らないのよ」 膨れたままのフランソワーズの手を引き、ホームに滑り込んできた電車に乗る。 「夕ごはん、何にしようか」 瞬殺だった。 「たまには張大人の中華を食べたいなぁ」 それっきり、つんと横を向いたままひとことも喋らない。 あーあ。グレートは信用がないんだなぁ・・・。 彼の脚本による舞台『雪の女王』の中のセリフを、フランソワーズは未だに根に持っているのだった。
***
電車を降りて、途中でテイクアウトの惣菜を買って、ジョーのマンションに入ってからも、フランソワーズはずうっと無言だった。ジョーが顔を覗き込んでも、目を逸らせたまま合わそうとしない。そのままだったら、いくらジョーでもお手上げだったが、フランソワーズはそれでも繋いだ手はずっと離さなかったので――大丈夫かと思いきや、部屋に入ってからも、彼女の不機嫌は直らなかった。 「フランソワーズ。とりあえず、ごはんにしようよ」 上着を脱いでネクタイを緩める。 「ホラ。さっきから一体どうしたんだよ」 覗き込むジョーの視線を避けるようにして。 「だって・・・テレビや新聞で面白がってあんなふうに言われて、それを見たり読んだりしたひとがみーんなジョーの事をそう思ってるのよ。・・・そんなの、酷い」 そのまま俯いて。 「そうじゃなくて。・・・あなたが悪口を言われるのがイヤなの。何にも悪いコトしてないのに」 彼が少年期にどういう日々を送っていたのかは想像するだけで、実際に彼の口から聞いたことはなかった。 「・・・ほんとに大丈夫だから」 そういった彼の目をじっと見つめる蒼い瞳。 「・・・本当に?」 だって、泣くくせに。と思いつつ、とりあえず――笑顔を作った。ジョーが困っているのがわかったので。 「・・・ジョーは、本命とか、選ぶとかじゃないのよね?」 そのまま、ジョーの胸に寄り添った。 ――テレビも新聞も、なにもかも間違っている。ジョーはちゃんと言ってるのに。私のこと。 「告白」を受けた女の子は強いのだった。
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噂C
ジョーの腕に抱き締められながら、その胸に頬を寄せてフランソワーズは考えていた。 「・・・ねぇ、ジョー」 彼の胸から頬を離して顔を見上げる。 「あの」 けれども、自分の胸に湧き上がった疑惑をぶつけるには時期尚早なのかもしれず、言葉にしていいものかどうか迷った。なので、代わりにこう言った。 「・・・そろそろゴハンにしない?おなか空いちゃった」
***
そもそも、かの女王と彼のツーショット写真はいつ撮られたものなのか。 夕食後、ゲストルームでストレッチをしながらフランソワーズはずうっと考え込んでいた。 ――別に、いま思い出しても平気よ。 辛かったのは事実だが、それも今は遠い昔の記憶だった。少なくとも自分にとっては。あれから数え切れないほどの事が色々と続いた。だから、それらに比べれば大した事ではなかったのだ。 まさか、彼女のなかではジョーとのあの一件が現在進行形・・・ってことは・・・ないわ、よ。ね? とはいえ、開幕戦での出来事を思えば、完全に否定しきれなかった。 「・・・わからないわ」 「何が?」 背後から声をかけられ、自分の思考にしか意識を向けていなかったフランソワーズは文字通り飛び上がった。 「ジョー!・・・もう、びっくりしたわ」 そう言って頭を掻いている。 「・・・どうしたの?」 フランソワーズの答えに、ジョーはがっくりと肩を落とした。 「・・・ダメだなぁ」 フランソワーズは彼の元へ進み、そうっと頬に手をあてた。 「なかなか予定が合わないな、って。残念ながら、その日はイギリスグランプリなんだ」 抱き締めようとする彼の腕をすり抜ける。 「ダメよ。今度もひとりで行ってちょうだい」 明日にはもう出発しなければならないジョーだった。
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噂D
キャサリン女王、か・・・。 闇の中に一組の蒼い瞳だけが見える。が、煌いたのはほんの一瞬で、その蒼はすぐに見えなくなった。 ばかね。考えても仕方ないじゃない。 ジョーが彼女をキャシーという愛称で呼ぶことも。 ――どうしてかしらね。ジョー。 体の向きを変えて、傍らで眠っているジョーの顔を見つめる。 これって、そんなに貴重なことかしら・・・? ジョーの両目が見える。 でも、他のみんなもわからなかったのよねぇ・・・。 彼の前髪が短くなってしまった時。しばらくは他のメンバーも彼をジョーだと認識するのに手間取っていた。 私だけ。――どうして? それは、彼とこうしていることに関係があるのだろうか。あるいは、彼に抱き締められることが多いからなのだろうか。ミッション中もそうでない時も含めて。確かに、彼の腕のなかから彼の顔を見上げるときは、大抵・・・前髪に隠れているはずの瞳もちゃんと見えていた。 と、いうことは。 だったら、全然フタマタじゃないじゃない。 そう思い、なんだか馬鹿らしくなってきた。 ――そうよ。大体、変装もなんにもしていないジョーが目の前にいるのに、まるっきり気付かないのっておかしいじゃない。そんなの――ジョーのことを本当に好きなのか・・・愛してるのか、って疑うわ。だって、私は絶対にわかるもの。 甘えるように鼻を彼の肩のあたりにこすりつけ――彼の胸に寄り添った。 だって。 その声が聞こえたのか聞こえてないのか――
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噂E
「――あのさ。フランソワーズ」 いったん、言葉を切る。口中の唾を飲み込んで、息を整えて、そして―― 「・・・これから帰るから。だから、明日。・・・成田に来てくれないか?」 「明日?」 携帯電話の向こう側から、訝しげな声が響く。不思議そうに小首を傾げて自分を見つめている彼女の顔が思い浮かんだ。 明日が勝負だった。
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ジョーからの電話を受けたのは、公演が終わって数時間後だった。 「もしもし、ジョー?」 確か彼のレースも終わっている頃だった。 「勝ったのね?――何位だったの?」 返ってきたのは、聞き慣れた大好きなひとの声。――何度聞いても、どきどきする、甘い声。 「嫌だなぁ、フランソワーズ。誰に向かって訊いてるんだい?」 ジョーが少し偉そうな口調で話す時は、「ほんとうに」良い結果の時だけだった。 もしかして、フランスグランプリに続いて・・・2連勝? 「か」 「参ったよ。雨でグリップが難しくてさ。も、滑る滑る」 勝ったことの報告ではなかったのか。 「何回もスピンしそうになってさ。堪えたんだけど、何度目かにもっていかれて」 くるくる回ってしまったのだそうだ。彼の表現そのままで言うなら。 「・・・くるくる・・・?」 スピンするのはそんなに楽しげなことだっただろうか? 「そ。くるくるーって。もうだめかなーって思ったんだけど、そうでもなかったよ。だってさ、みーんなくるくる回ってるんだぜ?俺だけじゃなくて。それはもう、壮観だったなぁ」 それで、ジョーは何位だったのだろうか?まさか、スピンを楽しんだ話をするために電話をしてきたわけではないだろう。 「で、俺が一番先に我に返ってコースに復帰したというわけ」 この際、ジョーの不可思議な表現は無視した。そうじゃないと話が進まない。 「そんなわけで、優勝しちゃったよ。また」 一瞬、間が空いて。 「――で?フランソワーズのほうはどうだったんだい?ミスしなかった?」 ジョーと同じ調子でやり返す。こういうノリがでる時のフランソワーズも、機嫌が良い証拠だった。 「ふーん。その調子ならうまく行ったんだ。――良かったな」 低く唸る声にくすりと笑ってから続ける。 「これから打ち上げなの。だから、また後で――切るわね」
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「成田?」 きょとんとした顔が容易に思い浮かぶ。その蒼い瞳を思い出しながらジョーは言葉を継いだ。 「うん。――明日、どうしても来て欲しいんだけど、だめかな」 再び、唾を飲み込んで声を整えて。 「明日が一番いいと思うんだ。その、・・・連勝したからマスコミ関係も来てるだろうし」 噂を払拭する。 そして、前回の優勝時もそうであったように、連勝した今もおそらくマスコミは待ち構えているわけで・・・ できれば国際映像も使いたかった。 だから、それも含めて、全ての噂の払拭を心に誓った。 明日の成田では――フランソワーズとの事をちゃんと、誰の目にも誤解ができないように発表するつもりだった。 とはいえ、彼女の姿を報道させるつもりは全くなく、彼女を成田に呼んだのは・・・
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噂F
あと数分で成田空港に着くというのに、島村ジョーはえらく不機嫌だった。
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フランソワーズに電話をしてから数時間後。 ・・・キャシー。悪ふざけにもほどがあるぞ。 ひとこと言ってやりたい気もしたが、火に油を注ぐことにもなりかねない。 ――それですむわけがない。 いくらジョーが避けても、やはり彼女は彼のスポンサーなのである。 でもまぁ、ともかく・・・ あと数時間後にはもう成田に立っているし、そこにはフランソワーズも待っている。 本当は、フランソワーズの肩を抱いて言ってしまいたかった。けれど、自制した。
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「・・・ジョー?どうかした?気分でも悪い?」 自分の視界がエメラルドグリーンに染まる。 「・・・別に」 ふいっと顔をそむけ、ついでに身体全体もそむけてしまう。 「機嫌が悪いわね。まだ拗ねてるの?」 しょうがないひとね。という声を背に受け――ジョーはぎゅっと目を瞑った。 全く、どうしてこんなことになってしまったんだ?
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噂G
到着した飛行機を見つめ、驚きの声が上がったのはほんの一瞬だった。 銀色の機体。
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特別ルートを通るでもなく、堂々と一般通路を進んでゆく。 「――怖い顔。大丈夫よ、記者会見なんて。私が全部うまくやるわ」 それは、何を言い出すかわからないからだ。 思惑が外れた。 彼女の言い分は――それを頭から信じていいものかどうかは甚だ疑問ではあったが――至極当然のものであり、他意はなさそうだった。 「キャサリン女王。日本に来た目的はなんですか?」 ジョーの腕に手を添えて歩いている女王に、女性記者から質問が飛ぶ。 「このひとと仕事の話をするためです。――そうよね?ジョー」 ジョーが何か言おうと口を開いた途端、別の方向から質問が飛んだ。 「今回、一緒に日本へ来たのは何か親密な意味を感じるのですが?」 「まあ」 「それは今更言わなくてもおわかりでしょう?私とジョーは」 低い声で遮られる。が、気にしない。 「もう随分・・・昔からの仲ですのよ。――大切なひと。そうよね?ジョー」 甘えたように見上げられた。が、ジョーはそちらを見ない。 「ジョー。・・・もう、照れ屋なんだから」
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噂H
こんなはずじゃなかった。 たくさんのカメラのフラッシュを何の感動もなく浴びながら、ジョーの心は冷たくなっていった。 ・・・こんなはずじゃ・・・ 用意されていた席に着いたのは、ジョーとキャサリンだった。 「おふたりのなれそめは、やはりあの来日の時の?」 質問が飛ぶ。 「ええ。そうなるわ――ねぇ、ジョー?」 ジョーは彼女を見ない。 数年前の、来日の時。――その話はしたくなかった。 確かに、あの時は――いや。考えるな。もう、過ぎたことだ。 あの時の、フランソワーズの悲しげな顔がフラッシュバックする。 ――違う。――思い出すな。
――そうだろうか? 本当に、そうだろうか? それは、自分が勝手にそう思い込んでいるだけで――自分の知らないところで、今でも彼女はあの時のような顔をすることがあるのかもしれない。
自分の知らないところで。
――悲しい? 何が悲しいんだフランソワーズ。
・・・たぶん。
自信がなかった。 ――何が最強のサイボーグだ。 こんな、噂ひとつ払拭できず、ただのスポンサーでしかない女王をどうすることもできず、結果、自分が全く思ってもみない方向に進んでいる。
「・・・よね?ジョー」 もの思いに沈んでいたジョーは、エメラルドグリーンの瞳に見つめられ我に返った。 「――え。なにが」 「そういえば、島村さんは以前一般女性と熱愛報道がありましたよね?その件については」 チャンスとばかり、勢い込んで話しだそうとするジョーの言葉を強引にひったくったのは女王だった。 「誤報ですわ。決まっているじゃない」 ――ちょっと遊んでいた。 「あなたたち、・・・名誉毀損で闘う気はあるのかしら?――モナミ公国を相手に」 若い女王だから御しやすいと思うのは早計だった。 ――もう、たくさんだ。 立ち上がろうとする。 「・・・あら。・・・行ってもいいのよ?ちからを使って」 小声でキャサリンがにっこり笑って言う。 「でも、ほどほどにしてね?あとが大変だから」 借りを作る気はなかった。
――フランソワーズ。 逃げられない。 いつも、突破口を知っていて、自分を導いてくれた大切な存在。それが、いない。いまここには。
――フランソワーズ。 スポンサーの意向には従わなければならない。というだけではなく。ジョーは半分、諦めていた。
「・・・フランソワーズ・・・」 僕は、どうしたらいいんだ。
知らず、小さく彼女の名を呼んでいた。
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噂I
空港ラウンジの一角で、フランソワーズはジョーの事務所の広報担当者と向かい合ってソファに座っていた。 「――おかしいわ。もうとっくに着いているはずなのに・・・」 どうして連絡がこないのかしら。 「ごめんなさいね。到着したら電話がくることになっているのだけど」 テーブルに置かれた携帯が震えた。 「あ、ごめんなさい。その連絡みたいだわ――ちょっと失礼」 携帯を耳に当てながら、小走りにラウンジから出てゆく。 昨夜、ジョーから成田に来て欲しいと連絡があった。その後、彼の事務所の広報担当者から連絡が入り――いま一緒にいる彼女だ――今日、ここ成田空港にいる。 ラウンジにひとり残されたフランソワーズは、ともかく考えても仕方がないとコーヒーカップに手を伸ばし――すっかり冷めていることに気がついて、やめた。 何度目かのため息をつく。 昨夜、ジョーから電話をもらったあとは――打ち上げ会場に戻ってもどこか上の空だった。 バッグからそっとコンパクトを出し、チェックする。 やだもう。ひどい顔してる。・・・こんな顔でジョーに会うなんて、最低だわ。 傍から見れば、いつもの自分と大差ないはずだった。けれど、自分的には今日の自分はお世辞にも綺麗とは言えなかった。もちろん、最低ランクではないと思いたいが、それでもベストな自分とは大きく差がついていた。 ああもう・・・。変なトコ目聡いんだから、あのひと。絶対、「顔、ヘンだよ」って言うに決まってる。そして「酒飲んだだろ」って言うわ。ちょっと不機嫌そうに。でもね、昨日は打ち上げだったんだし、飲んでるの当たり前でしょう?大体、私が誰とお酒飲んだってジョーには関係ないと思うのよね。別に合コンしているわけじゃないんだし。・・・ちょっと待って。実は打ち上げなんて嘘で、私がどこかの誰かと合コンしてて、それでお酒飲んでるかもって思うということは・・・自分がそうだから、って事じゃない?――あらやだ。ジョーはそうしてる、ってこと?だから疑うの?・・・しんっじられない! 勝手に思考が暴走していくのは、寝不足と二日酔いのせいだと思いたかった。 「―――・・・・」 何か聞こえたような気がした。 「・・・?」 思わず、耳をすます。 けれども、「003」としての自分がもう一度試せと言っている。 フランソワーズは居住まいを正し、そうして――耳のスイッチをいれた。 「―――を、・・・・なんて言われたら、あなただって」 「!?」 周波数が合ったかのように、突然明瞭に聞こえてくる声。 「・・・でしょう、ジョー?」 ジョー? 思わずソファから立ち上がっていた。 ジョーの声?もう成田にいたの? そして。 なぜ、――彼女と話しているの? わけがわからなかった。 ジョー?――何よこれ。 しかし。 ジョーの表情は暗く、とてもそんな噂を払拭している最中とは思えないのだった。 ・・・何してるのよ。 と、ジョーが突然立ち上がり――かと思うと、すぐに押さえつけられ着席させられた。 フランソワーズは、バッグを掴むとその場所――ジョーのいる場所へ向かって駆け出していた。ふたりがいる場所は、自分が今いる所から意外と近いことは既にわかっている。 「・・・フランソワーズ」 駆けていても明瞭に聞き取れる彼の声。 もうっ・・・何やってるのよ、ジョー!
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噂J
報道陣の後方がざわ、と揺れた。 床の一点に視線を固定し、全ての質問を放棄していたジョーは、その視界に華奢なサンダルが見えて顔を上げた。 「――ふ」 椅子から立ち上がる。 フランソワーズは呼吸ひとつも乱さず、ただジョーの顔を見つめた。 「フランソワーズ!!」 椅子を蹴飛ばし、――それは後方に控えていたSPにヒットし、はからずも彼らに対する牽制になっていた――ほんの数歩で彼女の元に駆け寄ると、全く躊躇せず彼女を胸に抱き締めた。 「フランソワーズ、フランソワーズっ・・・!」 両腕でしっかり抱き締め、彼女の肩のあたりに顔を伏せてうわごとのように名を呼ぶ。 「――おいっ!これって――」 一瞬後、二人の周りに怒号が飛び交い報道陣が殺到した。 「島村さん、こちらが本命ですよね!?」 けれども、全く聞こえていない・存在していないかのように、二人は全く動かない。 と。 「・・・・」 小さく彼女が何かを彼に問う。 「島村さん!彼女が熱愛報道のひとですよね!?」 「――本命?」 たった今まで穏やかな笑みを浮かべていたその顔に、一瞬のうちに険がよぎった。 「え、いや・・・本命、ですよね?」 「――そんなわけ、ないでしょう」 当然、肯定するという想定の元に放たれた質問だった。が、それはジョーの唸るような低い声により否定された。 「えっ・・・でも」 なおも食い下がろうとするインタビュアーを一瞬見つめ、――インタビュアーが黙ると、おもむろに口を開いた。 「本命なんて二度と言わないでください。僕には、本命も何もありません。彼女が全てなのですから」 フラッシュが焚かれる。 「では――フタマタというのは」 その言葉に報道陣に動揺が走る。中には、携帯電話を耳に当てどこかと連絡をとる姿も見える。 「え・・と、では、こちらが島村さんの恋人、と――」 一瞬、ジョーは目をくるりと天井に向け――既に彼女の名前は公共電波に乗せてしまっていたことを思い出した。 「名前は・・・」 少し照れたように微笑んで。 「・・・フランソワーズです」 「苗字も教えてください」 質問が矢継ぎ早に飛ぶ。 「――苗字?」 たった今、照れたように微笑んでいた彼の瞳が眼光鋭く質問を放った記者を射る。 「苗字なんて教えませんよ。もし、誌面に載せるようなことがあったら、ころ」 剣呑な言葉は寸でのところで彼女に止められた。 「だめよ。・・・そういうつもりで質問しているわけじゃないんだから」 小さく交わされる会話の間さえも、フランソワーズの顔が撮られないようにカバーする腕を外さない。 そんな中、やっと事態を知った広報担当者が到着した。
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噂K
広報担当者に促され、一歩踏み出したジョーはふと先刻まで自分がいた場所に目を遣った。 ジョーの視線を追って報道陣もそちらを見た。 「あ・・・」 決して故意ではなかったが、結果的に彼女を傷つけてしまったかもしれない事に気付き詫びを入れようと口を開いた。 「――まったく。いったい何の騒動かしらね」 珊瑚色の唇が弧を描く。 「あなたって――ここまでお膳立てしないと何もできないの?」 ぽかんとしているジョーを見つめ、女王は小さくため息をつくと立ち上がった。 「まさか私が、本当にあなたとこんな茶番をするために日本に来たなんて思ってないわよね?」 思っていた。 「いい加減にしてちょうだい。そんなに暇じゃなくてよ、私」 一歩、ジョーの方へ進む。 「あなたのチームのスポンサーになって、レースを招致したのだって――国の利益になると思えばこそ。もしあなたに集客力がなければ、とうの昔に見限ってるわ。いくらあなたの事が好きでもね。それとこれとは別なの」 「今回、日本に来たのは二輪のエンジンを作らせるのにはどこがいいかみるためよ。いずれ、二輪レースも行いたいし。イギリスであなたと会ったのは本当に偶然。ちょうど二輪のグランプリを観た後だったから――それだけ、よ」 ジョーの目の前で立ち止まる。 「それから、アナタ」 フランソワーズの肩に軽く触れる。 「私、あなたの事は大っ嫌いだけど――勇気だけはあるみたいね」 エメラルドグリーンの瞳が煌く。 「もしあなたが来なかったら、このひとを離しはしなくてよ」 するりとジョーの腕から抜け出し、エメラルドグリーンの瞳を見つめる蒼い瞳。 「残念ね。彼は私のなの」 女王の手を自分の肩からそっと外す。 「あなたがどんなに頑張っても――彼は渡さないわ」 いっとき見つめ合う。 先に視線を外したのは女王キャサリンだった。 「あなたの事は大っ嫌いだけど――大っ嫌いだったけれど、今はそうでもないみたいだわ」 くすっと笑い合って。 「ジョー。聞いた?あなた――負けてるわよ。彼女に」 女王の言葉にジョーは微かに眉間に皺を寄せた。 「あなたもこのくらい言えていたらね――結局、彼女がいなくちゃ何にもできないなんて情けなくてよ」 ジョーが何か言おうとするのを、フランソワーズがその腕をぎゅっと握って止めた。 「――次のレースも勝って――三連勝なさい。そのくらい、見せて頂かないとスポンサーとしても困るわ。こんなことをしている場合じゃなくてよ」 今度はフランソワーズは彼の腕を引き、何か言えと促す。 「・・・あ、はい。キャ」 一瞬、エメラルドグリーンの瞳が褐色の瞳を見つめ――そして、踵を返すと彼を後にし部屋を去っていった。
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噂L
「――フランソワーズ。ちょっと来て」 ギルモア邸のリビングで朝刊全紙をテーブルに並べ、ジョーはその正面に座り腕組みをしていた。 「なぁに?どうしたの」 昨日の騒動のあと、事務所の車でここまで送ってもらった二人は昨夜は早々にベッドに入り――ぐっすりと眠ったのだった。そして今朝は早くから起き出して、フランソワーズは朝食の用意をしたり庭の草木に水をやったりとくるくると楽しげに動いていた。 「ウン・・・おかしいんだよ。どこにも昨日の事が載っていない」 朝刊全紙を集めたのは、昨日の騒動への対応策を練るためだった。 「まぁ、これだけでもいいけど」 『お詫びと訂正』を指さし、フランソワーズに見せる。 「とりあえず、ヘンな誤解は訂正されたわけだし、きみの写真も載らなかったしね」 フランソワーズはジョーの手から新聞を受け取り、ページを繰った。 「・・・・」 そこには、『モナミ公国、来季より二輪レースも招致か』の見出しとともに女王と二輪レース関係者の映った写真が掲載されていた。 「なに?どうかした?」 ジョーが紙面を覗き込むが、 「なんでもないわ」 新聞を畳んでしまう。 「それより、ごはんにしましょう。――冷めちゃうわ」
どこでどう操作されたのか――は、ある程度予想ができたけれど、お互いに口にすることはなかった。
***
後日、立ち消えになっていた「ジョーのCMの話」が具体化することはまた別の話である。
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