あまりにも(裏)な更新日記6       

 

12月30日

 あれ、読み週記の表に12月分のリンクを貼りそこなってる。びっくり。
  いよいよ2002年も終わり。もしかして前にも同じようなことを書いたかも知れないけど、年度末、年末と区切りが年に2回もあってなんだか混乱してしまうけど、まとめたり思い返したり、大雑把に言うと飲みに行く機会が増えるのは良いことだ。酒浸りの日々を送りながら、「読み週記」を更新。年内最後の更新になるはず。次は来年ですな。

12月28日

 またもや予告し忘れた、というか、祝日であることに当日気付いたからなんだけど、今週は読み週記をお休み。そのかわりでもなんでもないんだけど、を更新した。
 最近詩を書くことがまた増えてきたのは、ちっとも小説なんて書きはしなくなったからなのか。もとは小説が書きたかったのに、最近そんなことを人に話すことが増えたせいで、急にそんな自分を意識するようになった。もっと書きたいのになぁ。
 詩と関係ないですな。

12月16日

 一冊の本も読んでないのに、「読み週記」を更新。特別読めてないわけではないと思うんだけど、実際は読んでいないようで。それほど不全感はないけど。
 目前に冬休みが待っていて、今年は色んなタイミングが組み合わさったせいで、長く休めそうな雰囲気。これを機に溜まった本を読みまくる、引きこもり生活第2弾をすべきか、それともどうにも収納場所に息詰まった本の整理を優先すべきか、ダラダラと遊んで過ごすか、悩みどころ。

12月11日

 ほんとすっかり忘れていた「読み週記」を更新。今日、出勤途中に突然思い出した。そして間違えて手前の駅で降りちゃった。関係ないけど。

12月7日

 久しぶりにを更新する。普段読み週記しか更新していないので、前に詩を書いたのは最近のように思っていたら、5ヶ月も前のことだったので驚く。季節一つ飛び越してます。2編追加。本当は1つだけ書くつもりでいたのに、気付いたらもう1つ書いていて、さらにもう1つ書いて3つにしようという気になったのに、2つ目を書き終えたらもう1つがなんだったのか忘れちゃったので結局終わってみたら2つだった、という訳の分からないお話。さて足していくつ?
 ああそうだ、思い出した。もう1つ書こうと思っていたのは「ラテンのリズム」という詩でした。2つ目をかいているときになにかラテンの曲がバックにかかっていて、こんなリズムを言葉にしようと思ったんだけど、書き終えた頃にはまた曲がジャズに戻ってる罠。と、ここまで書いたところで、昨日の夜中に寝る前に、「明日こんな詩を書こう」と思って、枕元のホワイトボードに書き留めておこうか悩んだ結果「覚えているに違いない」と確信して書かずにいた詩があったことも思い出した。もちろん覚えていない。そのためにホワイトボード置いてるのに。

12月2日

 全くもって良くない。欲求不満というか不全感というか、中途半端な踏み出した足の置き場に迷うような気持ちのまま日々を過ごしている。おまけに更新した「読み週記」では「風邪のひきはじめ」と書いたが、今日になっていよいよ本格化の様相を呈している。こんな時は日記の更新もおざなりにして、何も語らず眠るのが良い。

11月25日

 更新した「読み週記」を書き終えて、「本を読む行為」と個人の関係について考えてしまった。人はなぜ本を読むのか、とか俺はなぜ本を読むのか、ということをあえて考える必要はないようにも思うが、毎週のように本を読み、その感想をこうやって連ねていくことは、実は俺が思っている以上に自分自身にとって大事な作業なのではないか、という気がしてきた。同時に自分が本を読むスタイルというか、自分にとっての読書という行為の意味合いが、今後変わっていくのではないか、ということを感じた次第。

11月18日

 久々に内容のある「読み週記」を更新。本当に本が読めていない。なんとかならないものか。鬼読書連休のリバウンドなの?今頃?

11月11日

 更新した「読み週記」を読んでもらうとわかるのだか、今週は一冊も本を読んでいない。別に仕事が凄く忙しくなった、というわけでもなく、毎日ダラダラと生活しているだけなんだけど。よって更新したとは言うものの内容は無い。読んでもらわない方がいいかも。すいません。

10月28日

 なんにも更新してないんですけどね。今週は溜まっていた雑誌を読みまくってるうちに時間が無くなり、読み終えた本はゼロ。前は雑誌も読み週記に載せてたんだけど、あんまり面倒くさいんでやめちゃった。というわけで、何一つ更新していない更新日記。こんなテキストオンリーのページなのに、ついに力つきるのか、俺。というのもなんだか悔しいような気もするので、「なんにも読んでません」ということで「読み週記」を更新することにしようっと。

10月21日

 月曜休みが度々はいる影響で、更新した「読み週記」も、第何週なのかがさっぱりわからない。おまけにこのところちょっとエネルギー不足で、更新もおざなりに。書いてる途中でやめようかと思っちゃった。

10月7日

 前回の更新が10月だったので、今日更新の「読み週記」から10月かと思いきや、まだギリギリ9月にひっかかってる罠。そんなわけで読み週記にある通り、来週は月曜日がお休みにつき、更新もお休みである。体育の日なので運動しよう!と心に密かに思いながら、きっとやらないはず。運動不足に悩む今日この頃。一日やったくらいじゃほとんど変わらないよな、というのを言い訳に全然運動しなくなるさらに罠。

10月1日

 祝日で「読み週記」を一回休んだため、気付くと10月になっている。セリエもチャンピオンズリーグも開幕し、ビデオが溜まってしょうがない。こんな時期になにもアジア大会なんかやらなくてもいいのに。
 今シーズンのセリエでは、インテルが現在開幕3連勝中。いっつもぎりぎりの試合で、内容も良くないみたいだけど、とにかく負けずに来ていることがすばらしい。
 開幕前、大きな話題になっていたロナウドの移籍。インテル、レアルはもちろん、バルサのフロントなども名前が挙がりながら、様々な所で糾弾や擁護が行われている。俺の目にしたところでは、インテルの会長、モラッティへの同情の声が大きいようですが。
 開幕後も試合に出られないせいか、インテルと監督のクーペル批判を続けるロナウド。かなりの票を落としたようだけど、一つだけロナウドについて言っておきたいのは、「金目当ての移籍」という評に対して。「言っておきたい」なんて大仰に構えることはないんだけど、その評を目にしたときには、流石にそれは言い過ぎじゃないかと思ったのだ。ロナウドの代理人が金儲けのために今回の一幕を演出したのは当然としても、その点について責められるのは高騰しているサッカービジネスであって、ロナウド個人の品性ではないはず。今更評判を落としてまではした金の為にあんな大変な移籍劇を繰り広げる必要はないと思う。ましてやナイキとインテルの契約の違約金を払うだとか、膝の怪我の再発についての契約条項が加わるとか、ロナウドの手出しの部分がずいぶん多い。これで「金の亡者」呼ばわりされるのはちょっと可哀想。
 今回の移籍でインテルやモラッティのダメージは小さくないだろうし、いいやり方だったとはとても思えない物の、ロナウド移籍のポイントはイタリアやインテルのサッカーとロナウドの相性の部分が大きいのではないかと思う。インテルへの移籍やレアルへの移籍について、ロナウド本人の決断がどれくらい大きいかは知らないけど、もうちょっと考えたらどう、と言いたいけどね。

 

9月17日

 月曜日がお休みだったので、今日は火曜日の更新。更新した「読み週記」にも書いたけど、今年は「月曜が休みの日は更新も休む!」と言い切った様な気がするので、来週こそは予定通りお休みにする。なんだかついこの間夏休みを取ったばっかりなのに、また2週も続けて土日月の三連休が2週も続くのも不思議な感じだ。無論、休みは大歓迎だけど。もうちょっと週半ばの祝日も欲しいなぁ。

9月9日

 重陽の節句と言うそうで。縁起が良くて一番多い9が並ぶから、とか。めでたい。台風のシーズンなのに、平穏な毎日。今年は台風も前倒しで、先にシーズンが終わってしまったんでしょうか。
 台風とか雷とかが好きだ、と言えるのは、大した被害も受けない地域に住んでいるからなのかも知れないけど、それでも大荒れの天気になると、なんだかむやみに嬉しくなる。普段抑圧してる攻撃性を代理で表現してくれるから愛着があるのか、くわしい仕組みはわからないけど、とにかく荒れ狂っているとわくわくしてしまう。暴力的な台風のさなか、職場や学校で仲間と一緒にその威力をぼんやり眺めているとき、えもいわれぬ連帯感みたいな物を感じて嬉しくなることがある。ピンポイントで隔絶された世界で、安心できる仲間達都だけいる世界。防壁(建物)の中で、外界からある種遮断されることで、どんな人にも出来事にも邪魔されず、また誰一人としてかけることもない、という状況を感じるから楽しいのか、よくわからない。
 荒れ狂う嵐のただ中を歩いたり、立ちつくしたりする瞬間も、別の楽しさがある。自分ではどうにもならない混乱に包まれて、ただあきらめて身をゆだねるしかない、という気持ちよさ。普通の雨で足下が濡れるのは悔しいけど、大嵐の中を歩かざるを得ない状況で、足が濡れようが全身水浸しになろうがもうどうでもいいでしょ。冷たいし、後で大変なんだけど、巻き込まれた以上、もう甘受して巻き込まれておく以外にないような、あがくのを辞めてしまうような興奮状態。そんな想いに身を浸すことが、普段の生活でどれくらいあるでしょうか。
 と、わけのわからないことをまくし立てつつ「読み週記」を更新。

8月26日

 更新した「読み週記」にあるように、来週は夏休みでお休み。何か書くかもしれないけど、それほど長い休みでもないので書かないかも。とにかくヤスムヨー。

8月19日

 ややアル中かしつつある今日この頃。皆様いかがお過ごしでしょうか。生活を立て直すべく色々苦心してるんだけど、実際の効果としては酒量が増えているだけのような気がする。「酒は人類の友」と開き直って「読み週記」を更新。

8月12日

 先週からの続きネタだけど、ビートルズを返却してもらって聞いてやろうと思ったら、ほとんどのアルバムに歌詞カードが入っていない。そういえば「歌詞カード消えてるけど」と言って貸したような記憶もある。この歌詞カード紛失問題に悩む人は意外に多いのではないだろうか。せっかく買ったアルバムを久しぶりに歌おうと思ったら、ケースの中に歌詞は無し。そのために新しいアルバムを買うのもなんだかもったいないし、でも英語の歌なんか聴いてるだけじゃ拾えないし。そんな時のお助けサイト、みたいな物は無いでしょうか。ビートルズくらいなら根気よく探せば見つかりそうでもあるけど。
 著作権を踏みにじるような悪提言をしつつ、「読み週記」を更新。

8月5日

 映画「i an Sam」を観に行ったら、急激にビートルズが聞きたくなったので、ビデオに撮った「ビートルズ・アンソロジー」を観る。そのまま勢いに乗って家にあるアルバムを聴きまくろうと思ったら、好きなアルバムのほとんどは人に貸してしまっていることに気付いて愕然とする。そしてほとんどの歌詞カードが家のどこかに消えているという事実にも驚愕する。なんと言うことだ。『Let it be』、『Sgt,Pepper's Lonely Hearts Club Band』だけは無事発見する。もっと以前のアルバムはちゃんとありそうだけど。
  曲を聴いて映画を思い出しながら「読み週記」を更新。

7月29日

 更新した「読み週記」にあるように、えらくエネルギーが減退。よって、更新日記も「更新した」で終わりである。

月22日

 楽しい夏休みに入り、堂々と学校に行かなくていい最初の月曜日の朝、見慣れた塾の鞄を背中に背負った小学生の姿を見てげんなりする。せめてあのもの悲しい努力から、彼が何かを得られるといいのだが。
 寂しい夏休みの初日に「読み週記」の更新。

7月15日

 時間差攻撃風にを1編載せる。特に何も語るべき事はない。

7月15日

 台風が次々到着している。今年は一体どうなっているのか。どうもこのところ毎年のように「今年はどうなってるんだ」という話題が出てきているような気がする。その度に温暖化や環境汚染について人々は触れるが、実際に温暖化や環境汚染を防ぐ試みをしている、という話題になったためしがない。おそらく特に気をつけていることもないのだろう。毎年各種の異常気象が訪れている。ごく当たり前の触れ幅のうちにある現象なのか、誰もが目にしていながら重要視しない、人類崩壊の予兆なのかはわからない。暑くて困るのは確かだ。熱にやられながら「読み週記」の更新。どうしてこの部屋のクーラーは日によって全然涼しくならないのだ。

7月8日

 通常の更新ペースに戻って2回目の、「読み週記」の更新。世間にはワールドカップが終わって一気にしなだれた人々が沢山いるらしいが、とんでもない。そんな暇は無いのだ。ワールドカップ期間中にも本は出版されているし、仕事は溜まってるし、そうこうしている間に新しいシーズンの始まりが近づいて、移籍市場もにぎわい始めた。こうしてまた暑い夏が来る。

7月1日

 ワールドカップも終わり、再び日常の生活が始まった。早くも町の人々はワールドカップを忘れ始めているかのよう。そんなもんかしら。というわけで、「読み週記」を更新。久々の更新ですっかり忘れてしまった。今週の読み週記に書き損なった6月中の本もあったと思うが、その週を過ぎてしまうと家中に散逸してしまうので、もはやそれが6月中に読んだ本なのか、もっと前の物なのかわからない。不思議な物だ。

突発的ワールドカップ日記4(6/30)

 日本と韓国の共催で行われたワールドカップが、ブラジルの優勝で幕を閉じた。夢の中にいるような、不思議な一ヶ月間だった。前回の98念ワールドカップは、仕事もほとんどない中、毎日試合を見てはその記録をHPに載せる、という謎の経験をした大会だった。今回と前回では、大会の雰囲気も、それを受け止める自分自身も全く違った。4年前のあの頃、日本の試合を覗くと、人々とワールドカップの話をすることなどほとんどなかった。アイルランドのサッカーや、メキシコの選手について話をするような事はなかった。日本におけるサッカーの歴史は、代表の成績だけでなく、新しく書き代わった、と思える大会だった。人々がサッカーを忘れないでくれることを願うばかりだ。この狂騒の一月が、ただの記憶としてしまい込まれてしまわないことを願う。
 今回大会、結局試合を見ることもなく、海外のサポーター達に囲まれるようなこともなく、ほとんどをテレビや新聞などの情報によって体験していた。国内で行われている大会なのに、それを肌感覚でほとんど味わっていなかったことを、決勝の後になって少し後悔した。不思議なことに、「ワールドカップが日本で行われている」と一番実感したのは、決勝戦終了後、ブラジル代表の選手とスタッフ達が横浜のグラウンドでウィニングランをしている時だった。ワールドカップの感動的なフィナーレ、優勝チームのキャプテンがジュール・リメカップを高々と掲げる瞬間。歓喜に狂いながらグラウンドを回る選手達。あのワールドカップの最後の時が、自分がいるこの国、日本で行われている、という認識にたどり着いたときに、初めて日本のワールドカップを実感し、そして大会の終わりを感じたのだった。
 2002年のワールドカップは終わった。また新しいシーズンが始まる。次のシーズンが始まり、次の大会が行われる。歴史の中に想い出がしまい込まれる。自分たち日本人も、その渦中にいたのだ。
 サッカーが好きで良かった。

6月22日

 を2編アップ。どうしてこうも間が開くんだろう。前に詩を書いたのが去年の11月。それ以来ほとんど読み週記や更新日記だけを書いて生きてきたらしい。短編を一個くらい書いたかな。なんというか、色々ガンバレみんな。

突発的ワールドカップ日記3(6月18日)

 日本の戦いが終了した。結果はベスト16。決勝トーナメント一回戦での敗退だった。
 今まで続いてきた日本のサッカーの歴史を振り返れば、奇跡的、歴史的な好成績には違いない。しかし、点が取れそうな、あわよくば勝利が望めそうな試合に、日本のファンはより大きな喪失感を感じることになっただろう。そして、敗北の悲しみを味合わずにすむチームが、この広い世界に一つしかない、という当たり前の厳しい事実をも、改めて思い知ることになった。レベルの高い試合を多く見せるリーグ戦、ヨーロッパや南米のトップチームによる大会など、近年、ワールドカップよりも高いレベル、と言われる長い大会には無い、独特の価値ある勝利がいかに遠く、険しい道のりの先にあるのかを思い知った一日として、歴史に刻まれるはずだ。
 「サッカーは何が起こるかわからない」と言われるのは、例え数分のロスタイムでも、逆転の可能性があるからだ。多少の義務感を感じながら、最後まで日本の同点ゴールを信じ続けた。それでも、最後のトルコは、明らかに勝つ試合をしていて、当然の結果を出した。今大会、フランスやアルゼンチンという優勝候補の敗戦が波乱を呼んでいるが、ゲームの終盤で、逆転で負けを喫したチームは無い。アイルランドが唯一、終盤ぎりぎりのゴールで追いついた試合をしただけだ。2年前、ヨーロッパのチャンピオンズリーグでマンチェスター・ユナイテッドが対バイエルン・ミュンヘン戦で見せたような逆転劇は、そうそう起きる物ではない。そして、当然のように守りに入り、きっちりとした選手交代で結果を出したトルコが、紛れもない勝者になった。それが勝負だ。「いい試合だった」という表現は、勝敗とは別次元の話だ。
 こうして歴史は創られていく。93年。ドーハの悲劇の喪失から、日本は今日の所までやってきた。ドーハの悲劇の後ろにも、日本のサッカーの歴史が続いている。ホームの利を味方にした、ようやくの決勝トーナメント進出に沸き返り、 トーナメント初戦の敗退を悔しがる、これが今の日本なのだ。今後その上を目指せる国になるのか、先のことはわからない。ロビー・キーンのPKを息子を見るような目で見つめ、決まった瞬間に感動の涙を浮かべるアイルランドサポーターの顔が忘れられない。彼のような目で、ワールドカップに挑む選手達を見つめられるようになるには、彼が重ねた年輪を上回るサッカーの歴史が、日本人には必要なのかも知れない。いつかそうなれるよう、日本のサッカーが終わらない事を祈りたい。野球や相撲と争う必要はない。今日のサッカー熱が、そのまま続いていくとは思えないし、そんな必要もない。明日から突然、Jリーグのチケットが、その何倍もするワールドカップのチケットのように売れるわけもない。静かに、だが確実に、日本のサッカーが進んでいくことを、サッカーファンとして望んでいる。一競技だけで、世界の多くの国を盛り上げる競技は、他にない。オリンピックに次ぐ国際的なスポーツの大会は、サッカーのワールドカップをおいてないはずだ。猿まねの応援でもいい。盛り上がり方すら、マネでも今はいい。その喜びが忘れられることなく、歴史になっていくのなら。

 

突発的ワールドカップ日記2(6月14日)

 偉大な目標はまさに成就された。日本のワールドカップ予選リーグ突破が達成された歴史的な一日である。前回大会までは、ワールドカップに出場することすらならず、出場した98年大会では、1点の勝ち点すらあげることが出来なかった国が、「ブラジルよりも与しやすい」とされるトルコを相手にすることになり、決勝トーナメントでの勝利すら有力視されるようになっている。しかも、その可能性も否定できないのが現状だ。今年のワールドカップは、なにがあるかわからない。
 ルイ・コスタ、フィーゴ、ビットール・バイア、フェルナンド・コート、そしてパウロ・ソウザ。どこのチームにいようとも応援したくなるような(実はコウトは嫌いなんだけど)名前が並んだポルトガルが、予選リーグで姿を消した。得点力のあるフォワードの不在と、テクニック重視のフィジカルに弱いポルトガルサッカーの、それでも魅力を感じずにはいられないサッカー。楽しいゲームを見せる魅惑のサッカーが、ついに姿を消してしまった。98年のワールドカップの時、ワールドカップ日記を書きながら、「偉大な10番達の最後の大会」と表現したことを思い出す。俺が愛した最後の10番。ルイ・コスタのワールドカップが終わってしまった。
  やはり歴史的な快挙で、二つの国が、国を挙げて快哉を叫んでもおかしくない、韓国の予選突破、という華々しい記憶の影で、素晴らしい選手達の、おそらくはただ一回のワールドカップが幕を閉じた。あまりにもはや幕切れだった。日本の予選突破を見届け、意気揚々と夜に仕事に出かけ、換えってビデオを見終わった夜中の1時半。日韓の快進撃を見守る意外に、俺のワールドカップが終わった感がある。 強豪といわれる国で残っている、ブラジル、イタリア、イングランド、スペイン、ドイツは健在だ。だた、俺が見たいチームは残っていない。静かな個人的失望がワールドカップを覆い出したのは、地区予選でオランダ、モロッコが消えていったあたりではなかったろうか。
 フランス、アルゼンチン、そしてポルトガル。いずれも優勝候補と呼ばれるチームの予選敗退は、世界中に衝撃を呼び、おそらくは議論の的になるだろう。世界のサッカー地図が少しずつ書き換えられているのか。しかもそれを成し遂げたのは、かねてから言われていたアフリカの強豪、ナイジェリア、カメルーンではなく、セネガル。さらにはサッカー新興国の日韓、アメリカと言った意外な国だった。
 試合での活躍もなく、時には試合にでることもなく、ましてや話題にすら上らなかった数多くの選手達。ロベルト・プロシネツキ、パウロ・ソウザ、マルセロ・ガジャルド、ロイ・キーン、アンドレイ・シェフチェンコ、ムスタファ・ハッジ、ジョセップ・グァルディオラ・・・。素晴らしいサッカーと、エンターテインメントを提供したタレント達が、歴史の表舞台から姿を消していく。
 今大会を見ていて思ったのが、前回大会に増して、古典的な娯楽性の少ないサッカーの隆盛と、ヨーロッパリーグの過密スケジュールによる選手の消耗の激しさだ。だが、そんな分析も、素晴らしいタレント達の輝きと陰りの前では意味を持たない。熱狂と興奮の隙間に、選手達の涙と共に語られる物語が確実に存在し、それを想う観戦者の心を揺さぶるドラマが存在する事を、忘れずに書き留めておきたい。

 

突発的ワールドカップ日記(6月9日)

 ジョン・カビラ言うところの「剣が峰」、日本VSロシア戦が行われた。なんと1-0で日本のワールドカップ初勝利、というとんでもない試合になってしまった。歴史的な試合に違いない。これで日本は、目標であるベスト16へ大きく前進したことになる。素晴らしい!
 ワールドカップでの勝利がアジアの小国にとってどんなに大変なことかは、韓国のワールドカップの歴史を見ればよくわかる。日本、韓国共に、自国開催の利を生かして、その夢の扉を開くことになった。そもそも今までヨーロッパ、南米に独占されていたワールドカップの歴史が、アジアの国で開催される、という出来事によって開かれた事が、すでに大きな意味を持っている。プロサッカーリーグの開催に失敗した実績のあるアメリカでなく、アジアという新しい土地が開拓され、世界が注目する、という点は、サッカーの歴史の中でも特別なことだと思う。
 そしてその利点もあるが、日本、韓国共に歴史的な初勝利を得た。ようやく間に合った、と言うべきかも知れない。
 今回の大会。日本の目標は最低でもグループリーグの突破にある。ロシア戦の勝利で日本中が浮かれる中、うるさ型を自認する人々は「まだグループリーグを突破した訳じゃない」と言って、かえって冷めた声をあげるかも知れない。 メディアでも時々うがった意見として語られるとおり、スポーツは結果を求められる部分がある。トルシエ監督は、プロの仕事として、結果を求められる立場にある。初勝利の感動を与えようと、ワールドカップを盛り上げて経済効果をもたらそうと、求められた結果を出さなくては、仕事としては失敗である。しかし、そのシビアさがわかるからこそ、今日のこの勝利は諸手をあげて喜んで良いはずだ。選手達のインタビューでは、 誰もが次のチュニジア戦について言及していた。勝利は勝利。だが、次の試合をしっかり戦わなくてはいけない。そのことを肝に銘じるのは、選手として必要なことだ。
 結果を出す難しさがわかるからこそ、この勝利は喜んでいいのだ。ベルギー戦、勝てる試合と言われていたが、一つのプレーで負けることだって十分にあり得た。今日のロシア戦も、素晴らしいパフォーマンスを見せていたが、やはり引き分けに持ち込まれることがなかったとは言えない。その厳しい状況で、勝利を手に出来たことは、文句無く偉大な出来事なのだ。
 後半のロスタイム。誰にとっても大きなトラウマとなっているドーハの記憶を甦らせながら、心拍数は上昇を続けた。テレビの向こうで行われている試合だったが、今自分がまさに渦中にある大きな現実のドラマを体験しながら、過ごせたあの時間は、ワールドカップが日本で行われた、という素晴らしい記憶と共に残っていくだろう。
 試合後、テレビのインタビューに宮本と一緒に答えていた中山。試合の興奮と緊張を張り付かせて硬い顔をしていた中山が、放送席にいた、直前の病気によって日本でのワールドカップ出場の夢を立たれた高原と言葉を交わした瞬間。様々な想いを抱いたまま、顔をくしゃくしゃにして見せた笑顔と一気に解けていった緊張が忘れられない。過酷な戦いに赴く人々の想い。その一端を想像するだけで、胸がいっぱいになる。

 

5月27日

 更新した、「読み週記」では、半夜型になった生活を「なんとか立て直すべし」、と書いたが、実際は難しそうだ。目前に初めて日本と韓国で開催されるワールドカップが控えている。今回は日本で開催されるので時差の心配は無いが、毎日沢山の試合が行われることを考えると、おちおち寝ていられない。
 幸い職場に「サッカーってほとんど興味ない。あんまり楽しめない」という人がいるので、「ワールドカップを日本でやるんだから、仕事なんてしなくていいのだ」という論理がまかり通らなくてすんでいる。テレビ放送の関係で全試合を観ることが叶わないということもあり、4年前にやったような無茶なワールドカップ観戦記をHPにあげるようなマネはしないし、ちゃんと仕事にも出勤するとは思うけど、一方で、やっぱり興奮を抑えきれない。猫も杓子もワールドカップ一色になる必要は全くないが、なにか特別な季節が来ている、という肌感覚だけは共有できない物だろうか。
 例えば、いろんな人がこのワールドカップ開催期間に日記を書く、というのも面白い。それぞれのワールドカップがあるのだ。ある人は、自分が手に入れたチケットの試合をハリライトとしてワールドカップを記憶に残すかも知れない。むしろサッカーの大会としてでなく、身の回りに突如として現れた(もしくはベールを脱ぎ去り、正体を現した)サッカー狂観察記でもいい。週に1、2回ずつでも、そういういろいろな人々のワールドカップが綴られた記憶として残っていったら、面白いのではないだろうか。
 そんなわけで、来月一ヶ月間は、読み週記はおざなり更新となる。更新しないかも。ただし、更新日記にて、ミニワールドカップ日記を毎週書くぞお!

5月20日

 風邪をひいた。このところ風邪をひくと、どうも咳が酷くなる。毎日のど飴を大量に消費しながら、何か話したり笑ったりするたびにごほごほとせき込み、疲れるやらうるさいやら。静かな時に一人自分の席だけが響くのも嫌な気持ちになる。どうにか治まらない物かと思うが、咳を治めるというのは、どうもそのやり方がイメージしづらい。熱っぽいからゆっくり寝る、とか、お腹が痛いから、重たい物は食べない、とか、それぞれの日常的な不調に対する対策は思いつくが、咳だけはどうしていいかわからない。体のいたわり方が感覚としてつかめないのだ。
 うがいをする、とか、タバコを吸わない、とか、知的に理解できる対処法はあるものの、肝心の気持ちの落ち着かせどころがない。咳意外はこれといって目立った不調が見あたらないので、日常生活を普通に送るし、飲んでしまえばうがいも忘れ、仕事をすればタバコを吸いたくなる。つまり、体の具合が悪いから、と何かを休ませる方向に気持ちが向かないのだ。これだから、咳だけはいつもダラダラと続く。体力を失われ、イヤーな気持ちになりながら、「読み週記」を更新。

5月13日

 ワールドカップの各国代表が徐々に発表され始めている。ロマーリオ、ロベルト・バッジョといった、国内外の注目を集め、議論を呼び続けた選手が落選し、また新しい選手達が名前を連ねている。こうして様々な悲喜劇の中で歴史が作られていくのだろう。同時代人として、思い入れのある選手達の行方にハラハラし、時にがっくりしたり、歓喜したりすることも、サッカーの楽しみの一つだ。どんなスポーツにも、ただ競技としてだけでなく、ドラマの側面がある。別にスポーツに限らないけど。
 ああ、カズをワールドカップに・・・と叶わなそうな望みをまだ抱きつつ、「読み週記」を更新。

5月7日

 今週も火曜日に「読み週記」を更新した。来週は一日分短いことになる。GWをたっぷり楽しんだ充実感はあるが、最後の最後でぐったりしてしまった。終盤、ずうっとセリエAの首位を走っていたインテルが、最終戦、ラツィオに敗れ、最後の最後で久しぶりのリーグ制覇を逃したのだ。
 元々今シーズンのインテルが優勝するとは思っていなかった。ロナウドは長い怪我に苦しんでいたし、バレンシアから来たクーペルの手腕は確かながら、今シーズンは、新しいコンセプトのチームをじっくり作る年だと思っていたからだ。ところが一転、気付いたらインテル、ユーベ、ローマの3チームが抜け出し、3チームで優勝争いをしているではないか。これでは興奮しない方がおかしい。ついつい「もしかして」という気持ちがわき上がって、その気になってしまうのだ。
 実際は終盤にきて優勝のプレッシャーからか、インテルは息切れ。勝ち点を思うようにとれずに追いつかれ、最終節の敗戦により、ローマにまで抜かれて3位でシーズンを終えることになった。地道にシーズンを送り、予定通りチャンピオンズリーグの予選に出られる4位以内を確保するならともかく、余計な期待を抱かせておいて、大きな失望をもたらす結果になってしまった。
 だが、結果はともかく、今シーズンのインテルは今までにない順調なチームづくりができたはずだ。最後で印象を悪くしてしまったことがクーペルにとっては不利だが、これで評価を落とさずに、来シーズン以降に期待を持たせて欲しい。

4月30日

 今年のゴールデンウィークは、二つの短い連休の間に平日がある。有休を取ったりで大型連休を楽しむのも良いが、それを意識しせずに、二つの連休で、少し得をした気分を味わうのも良い。去年はなんだかんだ言って、一週間くらいの連休を何度か楽しんだ気がする。同時に、一主観くらいの連休も、合間に用事があったり、休みとはいえ、家で仕事をしていたりで、貧乏性に暮らしてしまった気もする。短い連休くらいの方が案外贅沢に使えるということもあるのだ。でもどうせなら1、2ヶ月の超大型連休を贅沢に使いたいなぁ、とありふれた願望に浸りつつ「読み週記」を更新。

4月22日

 ジュンク堂の話をしていたら、6Fの医書売り場に、人間の臓器やら、魚の受精卵やらの見るも不気味な絵はがきが陳列されている、と聞いてびっくり。そんな物を見た記憶が全然ないのだ。見逃したのか、まだそのフェアをやっていなかったのか。どちらにしても悔しい話だ。非常に美味しいネタだったのに。
 そんな絵はがき、誰がどんな意図で買うのか、というあまりにもベタな興味を押さえられずに「読み週記」を更新。

4月15日

 クリーニング屋の主人に「なんか疲れてるね」と言われてしまった。少しぼーっとしてただけだとは思うけど、そう言われてしまうとなにか疲れているような気になってしまい、そのままどんどん疲れが全身に広がっていく。ああ、なんか疲れてるのかも、と倦怠感と憂鬱感に悩まされながら、ダラダラと「読み週記」を更新。

4月8日

 というわけで、急に思い立ったので「読み週記番外編 ジュンク堂探検記」アップ。久々にコンテンツが増えたような気になる。ジュンク堂探検は本当に面白かったので、こうやって文章にしたけど、HPに載せることを考えると、もっとページを創る技術が欲しいなぁ、と思ってしまう。いや、文章にする技術もですが。

4月8日

 「読み週記」を更新しながら、ずいぶん前に途中まで書いたジュンク堂レポートがまだ未完成であることを思い出した。職場の人が初めてジュンク堂を訪れて感動してくれたのが、なぜかうれしい今日この頃。あれ、はやく仕上げなきゃ、と固く誓うふう。

4月1日

 「しまった、ウソをつき損ねた!」と激しく後悔しながら「読み週記」を更新する。新年度になり。少し雑然とした雰囲気。切り替えやらなにやらに埋もれているうちに、エイプリルフールだった事をすっかり忘れていてちょっと悔しい気持ちになる。あまりにも新年度な日が更新日だったこともあり、日記も次のページに進む。

 

 

 

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