読み週記 5月

 

第4週(5/26〜6/1)

 本にカバーをするのがもったいないと前から思っていた。表紙の折り返しが見えなくなっちゃうし、カバーの本が一杯あると探せないし。本屋でカバーをかける派は、どういう想いのもとでそうしてるんでしょうか。
 外で読むときに、人に見られ無くない、とか、本を汚したくない、というあたりでしょうか。確かに時々いらぬ誤解を招きそうな本も無いではないけど、ほとんどはどうでもいいよねぇ。綺麗に保存することにもあんまりこだわらないし。きっちりかかってないカバーは持っているときゆるゆるで邪魔になったり、カバーで面倒な思いをすることって、結構ありません?

 コリン・ホルト・ソウヤー『フクロウは夜ふかしをする』(創元推理文庫)は、高級老人ホーム<カムデン>に入居している老女探偵達の活躍を描いたシリーズ<老人たちの生活と推理シリーズ>の3冊目。主人公のアンジェラとキャレドニアの2人や、愛される警察官マーティネス警部補などお馴染みのキャラクターが満載で、今回は彼らと関わりを持つ若者達の姿も描かれている。ドナ・ディーとドラ・リー姉妹の姪(だかなんだか)とか、新しい入居者であるガーデナーの甥(だかなんだか)とか。若者の描き方がちょっと単純かな、と思わないでもないけど、それなりにリアルな感じもする所を見ると、若者なんてそんなものなのかも。

 ニール・スティーブンス『クリプトノミコン』(ハヤカワ文庫)の第3巻。二つの時代を股に掛ける長大な物語もいよいよ後半に突入した。前半の2冊では第2次世界大戦の時代の暗号解読者や、暗号戦争の影で使われる兵士達のエピソードが多かったが、後半になるに連れて、彼らの孫や子どもの世代、巨大な地下壕にデータヘブンを創ろうと目論む若者達の物語が中心になるようにシフトしていく。データヘブンの理屈よりも暗号戦争の理屈の方が理解しやすい俺としては、ちょっと難しくなってきたように思います。すいません。
 こうやってある人物の子孫達が主人公になっていくと、安直な読書歴の性で、自然と世代間のつながりが示されてないキャラクターの先祖・子孫が気になってしまうところ。大戦中に活躍するちょっと変わった従軍牧師のイノック・ルートの子孫は、とか、現代で圧倒的な存在感を見せるアビの先祖は、とか。意外に顔を見せたりしてるんじゃないの、と変な期待をしてしまったり。それにしても、マンガっぽい水着お姉さんの絵が表紙にあったりして、ちょっと外で読んでいるときに、気にしてしまう瞬間があった。

 最初から「カバー要りません」って言ってレジに本を出せば済む話なんだろうけど、何も聞かずにレジ台の下からカバーを取り出した店員さんに「あ、カバーいいです」と言うのがなんだか申し訳ない気持ちにさせられるのはなぜだろうか。「聞かない」「言わない」という暗黙の戦いが行われたりしているのだろうか。

 

第3週(5/19〜5/25)

 生活が荒れまくった一週間。本を読んでいるのやらなにやらよくわからずに、あっという間に一週間が過ぎていった。まあ悪くない。得点数点と大失点1、という感じ。

 前作『麦踏みクーツェ』(理論社)でぐっと迫られてしまったいしいしんじの単行本書き下ろし『プラネタリウムのふたご』(講談社)もなにやら不思議な物語。工場のもやで夜空が見えない山の中の町。そこにあって人々の夜空体験を一気に担うプラネタリウムに捨てられたふたごは、テンペルタットル彗星にちなんで「点ペル」と「タットル」と名付けられる。プラネタリウムの解説員である「泣き男」に育てられた2人は、町を訪れたサーカス団と出会った日から、それぞれの人生を生きることになる。一人は手品師に、もう一人は星の語り部でもある郵便配達人に。
 いしいしんじの小説はどれも一本縄では聞かない不思議な流れ方をしている。もちろんしっかりと本筋はあるんだけど、むしろ語られる一つ一つのエピソードに独特の味がある。その魅力は、作中語られる、双子の一人が創る手品ショーを表現した著者自身の言葉によって象徴されているのではないだろうか。ガツンと来るような衝撃はないが、ひっそりと穏やかに心に染み入ってくる。

 そんなに年寄りになったつもりはないのだが、というかまだ若いんだけど、日々自分の中で言葉が衰えて死んでいっている気がする。仕事柄言葉をもっと蓄えて実らせなくてはいけないとは思っているのだが、そうなれないもどかしさがある。たくさんの本を読んで、いったいどこにそれが生きているというのか。本の問題ではない。読み手の問題である。

 

第2週(5/12〜5/18)

 今週は覚え書き。

 GW中にようやく手を出したニール・スティーブンス『クリプトノミコン』(ハヤカワ文庫)の2巻。第二次世界大戦中の暗号を巡る争いと、現代でデータヘブンの建造を目論む、戦中世代の登場人物達の子ども、孫の世代の二つの物語が同時並行で語られる。細かく区切ったストーリーが連なって大きな流れとなっていく組み立てで、一つ一つの話が濃い!

 アーシュラ・K・ルグウィンのシリーズ<ゲド戦記>の、2回目の最終巻『アースシーの風』(岩波書店)は、ゲドと言うより、ゲドが育てた人々が主な主人公となる。書かれるべくして書かれた最終巻。大団円の趣十分の終盤だが、ラストは素直に感動的。

 <ゲド戦記>は間違いない名作だが、今日は特に触れない。

 

第1週(5/5〜5/11)

 連休で更新を休んだ間に、アーシュラ・K・ルグウィンの<ゲド戦記>の、なぜか2回目の最終巻『アースシーの風』(岩波書店)を堪能すべく、1〜4の再読に取りかかった。事情により4巻が手元になく、未だに5巻に追いついていないが、<ゲド戦記>の面白さをエネルギーに読書熱に久々に熱が入り、このところ本が読める。この好調が失われないといいんだけど。

 読む本を忘れてしまい、慌てて職場に落ちていたのを拾い上げたのが池波正太郎『忍者丹波大介』(新潮文庫)は、俺にとっては初の池波文学。今までなんとなく通らずに来ていたが、縁とは不思議な物だ。
 主人公は、関ヶ原の時代を生きる甲賀忍者の丹波大介。甲賀への忠誠心よりも、自らの丹波の血のみに従い、独自の心のままに時代を生きた忍者である。戦乱の時代を生き抜く大介の目を通して、石田三成の懐刀島左近、真田親子や他の忍者達が魅力的だ。島左近はいろんな歴史小説に度々姿を現す人気者で、どこに出てきてもしびれるキャラなんだけど、彼はもちろん、この作品では真田兄弟の父、真田昌幸がなかなか渋い。ただ、どうしても隆慶一郎が頭に浮かんでしまうのが難点か。

  ジークフリート・レンツ『アルネの遺品』(新潮クレストブックス)も、やはり装丁の魅力が後押ししているのは確か。全編を通して会話のカギ括弧が無かったりと、文章の雰囲気も独特。静かな中、主人公が、彼の家に養子に来た少年の遺品を片付けながら、彼との想い出をたどりながら、「彼はなぜ死んだのか」という問いに向かっていく。港町の少し寂しげな雰囲気のなかに生きる子ども達の姿。父親がしかけた無理心中から一人生き残って主人公の家に来た少年アルネのキャラクターや、物語の結末の付け方なんか、読み手によって意見の分かれるところ。色んな人がどう読むか、を是非聞いてみたい。読んですっきりする読後感が得られたりはしないのは確かだと思うけど、面白い一冊ではあった。人によってはアルネの、あるいは主人公の弟達に感情移入して、なかなかの辛い思いをするかも。

 今週一番の収穫は、久々のノンフィクション、リン・ティルマンの『ブックストア ニューヨークで最も愛された書店』(晶文社)だ。色々な本で語られるストーリーや、情報に興味はあるけど、本そのものにはそんなに興味がない、という向きにはさほどヒットしないとは思うけど、本や文学、書店文化について少し切ないような想いを持たされる人もいるにちがいない。
 ニューヨークのアッパーイーストサイドにあった一軒の書店が店を開き、20年後に消えていった、という歴史を、その書店のオーナーであるジャネット・ワトソンの語りと、その中に挿入される常連客、店員、リーディングを行った作家達など関係者のインタビューによって構成されている。それは一人の女性の半生記であり、一つの文化の盛衰の歴史であり、本やそれを取り巻く人々の書籍文化への愛情の表現であり、時代の節目の中で深刻な岐路に立たされている本の出版・販売についての問題提起であり、そして一軒の素晴らしい書店を失った人々の「喪の作業」である。
 主人公とも言える書店「Books & Co.」は、既刊本の販売を中心とした書店である。ベストセラーや有名な本を売ることではなく、販売員達が自分の目で選び、作り上げていった書棚は、古典・現代の世界中の文学作品や芸術書、哲学書などに埋め尽くされている。書店員達は自分達が扱う本と、足繁く通う客達についてよく知っていて、両者を結びつける重要な役割を担っているのだ。アットホームな雰囲気のなか、客達は店員にお勧めの本を聞いたり、チェーン店ではなかなか手に入らないような作家達の本を見つけ、本を買うだけでなく、本と出会い、書店に足を運ぶ、という文化を享受する。もちろん放っておいて欲しい客にうるさく話しかけるようなわけでもないことは、常連の一人であったウディ・アレンのエピソードからもわかるとおり。
 店では毎月のように、有名作家や、店員達が発見した、無名の有望な新人作家のリーディング(朗読会)が開かれ、店はただある本を売るだけではなく、新しい作家を世に知らせる役割も担っている。今やアメリカ文学を代表する一人であるポール・オースターしかり。強烈に思い出されたのは、やはり強い印象を残した
T・E・カーハート『パリ左岸のピアノ工房』(新潮クレストブックス) 14年4月第1週だ。両者の共通点は、それぞれ中古ピアノの修理・販売、書籍の販売をする人々の、自分たちの扱う物への愛情の深さ。『パリ左岸の〜』に出てくる職人のピアノ、ピアノが奏でる音への愛情のなんと深いことか。そして「Books & Co.」の店員、オーナー達の書籍や作家、そして読者達への想いのなんと熱いことか。
 本好き達が集う、夢のような書店なのである。店を運営する彼女達のこだわり、常連達の店への愛情、そして財産が失われていく哀しみ。書店ビジネスの厳しさに翻弄され、消えていく愛すべき店の全てがここで語られている。
 これを読んでいくと、「こんな店が近所に欲しい」と強く願わずにはいられないような夢の書店に出会い、そしてそれが如何にはかない夢であるかを痛感させられるのだ。「本」の文化がなんと根強く、そしてもろい物であるか。全ての本好き、そして書店員に勧めたい一冊。これはアメリカの話だが、日本の本文化の現状を考えれば、決してよその話ではない。日々「消費」されていく本のことを考えれば、インタビューに答えている人々の喪失の痛みは目の前にいつ現れても不思議ではない。


 どういう周期で訪れるのか、
本が読みたくてしかたなくなる時期がある。翌日の仕事の事など考えず(ちょっとは考えるよ、俺だって)、夜中までページをめくり、「コレを読み終えずに眠れるか」とむやみに息巻いたり、次に読む本を頭の中で選びながら眠りに引き込まれたり。夜ばっかりだけど。そんな読む幸せを味わえる時は幸せである。