最終話
『クリスタル・ヴォイス』
薄手のベストの内ポケットに右手を入れた姿勢のまま、長内香織はユラリと上体を傾がせ、そのままトップスピードの疾走に入った。走りながら内ポケットから抜き放った右手には、銀色の短い棒状の物体が握られている。チャ、チャッと微かに金属が触れ合うような音を立てて、銀色の棒は切っ先をそなえた刃物に変わる。左腕を添え、両手で握り込んだバタフライナイフ。疾走の勢いと大柄な香織の体重の乗った一撃は、世羅の胸を刺し通すには十分に思われた。
「あんたに殺された人たちの為に、私は何だってするよ!」
香織の怒号。突き出される右腕と、それを押し込む左腕。切っ先が世羅に迫る。10年以上慕い続けてきた世羅との間に築かれた最後の“本当”が、このナイフだった。
「優しいのね、香織」
世羅は微笑んだ。以前のような優しい笑顔で。
「でも届かないわ、香織」
世羅は微笑んだ。以前とは違う冷ややかな顔で。
踏み出した香織の右足が結晶化し、地を蹴った衝撃で砕け散った。バランスを崩すまいと踏ん張った左足も同じように砕け、倒れまいと突っ張った両腕も同じく衝撃を吸収する事なく粉々になった。燃える瞳に世羅を映したまま何かを叫んだ香織だったが、結晶化した声帯は出来損ないの笛のようなか細い音を無様に鳴らしただけだった。バケツからぶちまけられた砕氷のように、香織は粉々になって世羅の足元に散らばった。
香織の魂を乗せたバタフライナイフが疾走の勢いのまま地を滑って世羅に迫ったが、それもパールピンクのパンプスの数センチ前で勢いを失い、止まる。
香織の何もかもが、世羅には届かなかった。
“必要のない人間なんていない”
帯刀祐二はこの言葉を信じていなかった。少なくとも走ることをやめた彼に居場所はなかった。それは彼が“必要のない人間”であることの証だった。
しかし、その証を覆した者がいた。陵世羅。走ることをやめ、月辺鈴姫を救うことも出来なかった祐二に、居場所を与えてくれた女性。必要とされる事がこんなにも心地良いものだと、祐二に教えた女性。
そして今、最も高い次元で世羅に必要とされている事を祐二は感じ取り、歓喜にその身と心を震わせた。この最期の瞬間、間違いなく祐二は世羅にはなくてはならないたった一人の人間に昇華した。そして―――
「好きだったよ、ユウくん」
水晶像になった祐二が浮かべる歓喜の表情を見て、世羅は少しだけ寂しそうにそう呟いた。
赤室翔彦、月辺鈴姫、苑原柚織、長内香織、帯刀祐二―――定められた数だけ魂は捧げられた。水晶の径を通じて魂は常闇に消え、径を辿って道が通じ、扉が開かれる。
そして扉を抜けて現れるものは―――
耳をつんざく轟音が、世羅の背後から上がった。
直径2メートルはあろうかという巨大な水晶のオベリスクが、まるで地底から逆向きに打ち込まれた大釘のように、B13区画の床から天井めがけて突き抜けたのだ。天井を穿ったオベリスクの切っ先は遥か頭上で穿進を止め、水晶の柱のように世羅の背後に屹立する。轟音の反響と土煙が収まらない内に、第二、第三の、いや数え切れないほどの水晶柱が、世羅を中心として滅多矢鱈に床から生え、無軌道に天井を穿って行く。それは、突如として水晶柱の森が出現したかのような光景だった。切っ先を天井に、基部を床にめり込ませた、刺し貫く棘のような森だ。
水晶柱の間を抜けて、まるで森に住まうニンフが遊び出てきたかのように、世羅が姿を現す。凄烈な破壊を伴って出現した水晶の中心にいたにも拘らず、その身体にはわずかの傷もついていない。
歩み出てきた世羅を追うかのように、無数の触手が水晶柱の基部という基部からゾロリと姿を現し、辺りを埋め尽くして蠢く。
「ようこそ、お父さま」
一基のオベリスクに右手を当てて世羅がそう言うと、それに応えるように触手がぞわりと波打ち、何基もの水晶柱が内部から光を放って不規則に明滅した。その光の明滅が水晶からの返答の声―――クリスタル・ヴォイス―――であることは間違いない。
五人の魂を触媒に現れたこの鳴動する水晶柱群が、世羅の待ちわびた彼女を愛するもの、“結晶化した知性”、“水晶の声主”クィス=アズに他ならなかった。
「これは凄い! 世紀の大発見ですよ!!」
出現したクィス=アズを見て、巳堂英一は逃げ出すどころか、逆に蠢く触手へと歩み寄ろうとした。英一の前には英東児が立ちはだかったが、まるでそれが目に入っていないかのようにフラフラとした足取りで世羅へと、クィス=アズへと近付こうとする。
力ずくで英一の歩みを止めようとした東児だったが、英一の熱狂に浮かされた目を見て、その試みを収めた。
「凄い、凄いぞ。ねえ、陵さん・・・世羅・・・」
ブツブツと何かを呟く英一に触れられるのを待つ事なく、クィス=アズの触手は輪を描いて英一をぐるりと取り巻いた。その輪が絞られると英一の姿は触手の群の中に消え、そして再び触手の輪が解かれた時―――
発狂した英一の姿形はそこにはなく、代わりにきめ細かい水晶の砂山がザラリと音を立ててその場に崩れたのだった。
「付き合ってられん、こいつは返す」
そう言って、このふざけた「幸運のお守り」を世羅の顔めがけて投げつけてやるつもりでいた。事実、そうした。しかし、お守りについた水晶から伸びた芽や根が腕の神経にまでもぐり込んで、手から離れなくなることは想定外だった。関節が外れるかと思うほど腕を振り回したが、それが抜け落ちる気配はない。鈴原志郎は、恐怖に目を見開き、悲鳴を上げた。
「“力”を使っておきながら、今更付き合いきれないなんて、ヒドイことを言う人。女性も、一度寝たらもう用済みっていうクチ?」
嘲笑うような世羅の声。それが志郎の耳に届いたかは定かではない。
腕を振り回しながら滑稽に踊り狂う志郎をクィス=アズの触手が横薙ぎに払う。触手の一撃に吹き飛ばされた志郎の身体はB13区画の壁に激突する直前で結晶化し、甲高い音を立てて派手に砕け散った。ようやくお守りの水晶から逃れられた志郎だったが、その代償は手に余るほど大きな物となった。
怪物じみた世羅とその背後の怪物によって、次々と仲間たちが結晶化してその身を微塵に変えていく。しかし、そんな絶望的な状況の中でも、出羽清虎は望みを捨ててはいなかった。世羅の姿形に未だ人間的な部分が残っているように、彼女の心にもまだ人間的な部分が残っているはずだと、そう信じていた。
自失状態の日下部矢尋に駆け寄ると、清虎はその肩を揺さ振って叫ぶ。
「おい! あんた、世羅さんに伝えたい事があるんじゃないのかよ!? そいつを胸にしまったまま、水晶になって死んじまうつもりかよ!!」
清虎の激しい口調に、ようやく矢尋の目が視点を結ぶ。矢尋は清虎を見、次いで蠢く触手と水晶の森を従えた世羅を見た。その目に、平時とは比べ物にならないものの、どうにか精気が戻ってきたことに清虎は安堵し自信を持った。
「そうだな・・・」
意志のこもり始めた矢尋の声。
「出羽君の言うとおりだ。私にはまだ世羅に伝えたい事がある。それを伝えるのは・・・今しかない!!」
矢尋が世羅の方へと一歩踏み出す。並ぶようにして清虎もそれに続いた。矢尋と清虎の声が世羅の「人間の部分」に届くことに、二人は賭けた。
「世羅、君に聞いて欲しい事があるんだ・・・!」
「世羅さん、俺の話を聞いてくれ!」
矢尋と清虎の声が重なった。
雲一つなく晴れ渡った夜空に、一際暗く輝く暗黒の星。雲に霞むことのないその星の暗い輝きさえ届かない地下で始まった、愛に飢えた娘の物語。
そっか。やっぱり家族は大事だよね、うん。翔彦さん、良いパパさんな感じがするもん。あは・・・。
良く似合うよ、香織。女の子らしく見える。ちょっとだけ。
マスターの淹れる珈琲を飲むと落ち着くわ。
辛いなら辞めちゃっても良いんじゃない? でも、私みたいに後悔だけはしないようにね、月辺さん。
・・・え? あ、そうなんだ。おめでとう、矢尋君。式には呼んでよね?
凄い! 巳堂君、天才かも! ううん、天才だよ!!
うん、絶対聴きに行く! 一番大きな花束を持って行くよ!! 柚織ちゃん、どんな花が好き?
違うよ、ロクは男の子だってば。分かってないなぁ、トラは。
床一面に散らばる人間6体分のカケラを見下ろしながら、淋しげに、嬉しげに、陵世羅は笑った。
「大嫌いよ、あなたたち」