リタイヤ 久遠 奨
「アメリカ・・・ですか?」
國史院大学医学部付属病院の院長室に呼ばれた久遠奨は、目の前に座る人物、病院長にそう確認した。突然の呼び出しに駆けつけた奨に院長が告げたのは、海外への赴任だった。
「ああ。マサチューセッツ州アーカムにあるミスカトニック大学の医学部に欠員が出てね。私の所に話が回ってきたのだ。君も海外での医療実務を経験したいと、常々そう言っていたのではなかったかな、久遠君?」
院長の言葉に奨は「はぁ」と煮え切らない返事を返すにとどまった。国外での医療研修を受けてみたいと申請していた事は事実だ。今もその気持ちは変わっていない。しかし、時期が悪すぎた。まさかこのタイミングでそんな話が舞い込んで来ようとは・・・。
「気が進まないのであれば無理強いはせんよ。しかし、これは君にとっても大きなチャンスだと思うのだがね?」
院長の言うことは理解できる。そして感謝もしていた。数多くいる医師の中で、自分を推薦してくれようとするその気持ちには応えたかった。でも、陵世羅への自分の気持ちは―――
これは世羅への気持ちに区切りをつける良い機会なのかもしれない。世羅は「死んだ」。彼女のいない今、自分が白凰市に縛られる理由は無くなったのだ。
「そのお話、受けさせていただきます。いえ、是非受けさせてください」
奨は決意した。
背後で、院長室の扉が閉まった。
住居はミスカトニック大学側で手配してくれてあり、明日からでも入れるそうだ。向こうの受け入れ態勢は整っている。後は奨がそこに行けば良いだけだ。
今巻き込まれている事件を含め、白凰市に未練が無いといえば嘘になる。しかし不確かな真実より、自分を必要としてくれている進行形の真実を、奨は選んだ。
奨はポケットの中に手を入れ、世羅から届いた招待状と幸運のお守りを取り出すと、それを傍らのゴミ箱の中に投げ入れた。
奨は“船”を降りたのだ。
(“終わった事”にしがみついて足踏みや後戻りするのはもう止めにするよ。だって、世羅、私の歩みはいつだって未来へ向かっていただろう?)
奨はアメリカへの第一歩を踏み出した。世話になった同僚たちには一言挨拶をしておかなければならないだろう。私物は・・・後日送ってもらっても良いか。
翌日、久遠奨はアメリカへと発った。
そして、二度と白凰の地を踏むことは無かったと言う。
(久遠奨、リタイヤ)