ドライアド

 朝、目を覚ますと妻が慌しく外出の支度をしていた。
 何でも、知人のご母堂がいよいよ危篤となったため、もしもの時に備えて手伝いに行くのだという。まだ息を引き取っていないのに失礼に当たらないかと尋ねると、「高森さんには学生時代に本当にお世話になったの。もしもの時には、一番最初に、一番近くにいてご恩をお返ししたいのよ!」と強い口調で言い返される。日常の家事すら厭わしがる妻に珍しい事もあったものだとは思うが、いらぬ諍いを起こすのは本意ではないので、その言葉はぐっと腹の底に沈める。週末を一人静かに過ごすのも、悪くはないと思った。次の言葉を聞くまでのほんのわずかな間だけは。
 「そんな様子だから、高森さんのお嬢さんを預かる事にしたのよ。私は出かけるから、あなた、面倒見てあげてちょうだい」
 文字通り寝耳に水だ。寝ぼけ眼で新聞を広げようとしていた私は、妻の無責任な言葉を聞いて新聞と眠気を一緒に放り出した。聞けば「高森さん」の14歳になる長女をこの週末の間我が家で、というよりも、私が、預かるのだという。大学に進んで一人暮らしをしている実の娘にすら、中学に上がった頃から毛虫のように疎ましがられた私だ。余所の娘さん、ましてや妻の大恩人の娘さんの相手を務める事など、役不足にも程がある。
 しかし妻は私の弱音などまったく取り合わず、「別に仲良くならなくたって良いのよ。食事の面倒だけ見てあげてちょうだい」と言って5千円札をキッチンのテーブルに置くと、ばたばたと足音を立てて玄関へと向かう。
 「11時に白凰駅に着くから、迎えにいってあげて」
 そう言って靴を履き終えると、鞄を引っつかんで扉を開けようとする妻。慌てて呼び止めて、待ち合わせの詳しい場所も、第一その娘さんの顔すらも知らない事を訴える。白凰駅前でそれらしい年頃の少女に片っ端から名前を聞いて回っていては、ものの10分もしない内に警察に住所と連絡先をメモさせる事になるだろう。
 「一目見れば分かるわ。凄く――わかりやすい子だから。それが蜻ちゃんよ」
 ノブを掴んだまま振り返りもせずそう言った後、妻は勢い良くドアを開けて出かけていった。ドアクローザの機能でゆっくりと閉まる玄関扉をぼんやりと眺めながら、私は2時間後に白凰駅の人込みの中から探し出さなければならない14歳の少女の名前を呟いた。
 「……高森蜻(たかもり しょう)」

    

 パーキングメーターに硬貨を2枚入れると、焼け付く日差しの中を駅前まで歩く。
 「一目見れば分かる」少女とは、一体どんな子なのだろうか。背中に「高森」と書かれた幟の立った竿でも挿してくれているのだろうか? そんな少女に声をかけなければならないというのであれば、違う意味で勇気が必要になる。……恥を忍んで少女の名前を声高に呼ばわる羽目になるだろうと覚悟を決める。暑さによるものではない汗が、大量に背中を流れ落ちる。この先に受けるであろう恥辱に怯える冷や汗と、無責任な妻へ向けた怒りの汗と。
 熱気を掻き分け、人込みをすり抜けて、どっと人を吐き出す白凰駅の改札口に向かって歩を進める。それらしい人待ち顔な少女がいないか、あちこちに視線を走らせる。「高森」の幟は立っていない。いよいよ声を張り上げるかと溜息をつき、その反動で大きく息を吸おうとしたその時、数名の若者の視線が作る一つの流れを、偶然、私の目が追った。
 改札脇、券売機の前に並び立つ円柱の一つに、白のつば広帽を被った白いワンピースの少女が背をもたせかけて立っていた。両手で小さなバッグの持ち手を握って、膝ほどの高さに下げている。汗ばむほどの熱気の中に立っていながらも、背まで伸びた長い髪はサラリとした軽さを失っていない。
 誘蛾灯に誘われる夏の羽虫のように少女に近寄り、その前に立つ。少女は顔を上げる。「凄く――わかりやすい子だから」。妻の言っていた言葉を思い返す。
 「高森さんの……?」
 私の問いかけに、少女は物怖じせずに笑顔を見せ、白い帽子の乗った頭を少しだけ傾げた。
 「初めまして、おじさま」
 妻の言っていた事に得心する。そして若者たちによって作られていた視線の流れにも。
 数瞬前まで我が身の不幸を呪いながら探していたのが、目の前の信じられないほど愛らしい妖精のような少女である事が判明して、我ながらかなり複雑な表情をしていたのだと思う。蜻は柔和に笑みを浮かべたまま、そんな私をジッと見つめている。娘よりも若い、幼いとも言える少女に、余裕のない態度を見透かされたような気がして、私は一層うろたえる。
 「あ、暑かっただろう? む、向こうに車が、止めてある、から」
 態度を立て直せないまま、私は少女の左手首を掴んで足早に歩き出す。数歩進んで、初対面の中年男の汗ばんだ手で細い手首を掴まれた少女が、如何に不快感を感じるかに思い至る。
 「あっ、ああ、すまない。気持ち――痛かっただろう?」
 慌てて手を離す。「気持ち悪かった」と言いかけて「痛かった」と言いなおしたのは、かつて実の娘から吐き出すようにそれを言われたトラウマが疼いたせいだ。なぜだか、否、罪悪感で、否、嫌悪の視線が怖くて、蜻の顔を見る事ができない。蜻が一歩歩み寄ると、我知らずビクリと肩が上がる。
 「車はどこですか、おじさま?」
 蜻の左手が私の右手に絡む。するりと蜻のたおやかな指が私の指の間に入ってきて、きゅっと軽く握られる。驚いて思わず蜻の顔を見ると、変わらぬ笑みを浮かべて、私のエスコートを待っている。
 どうやらこの少女は、私よりもずっと大人らしい。
 指を絡ませたまま、私と蜻は身を寄せ合って雑踏を抜けていく。周囲に私たちはどう見えているのだろうか? 不適切な関係のカップルに見えない事を願う。それではあまりに蜻が可哀想だ。せめて仲の良い親子に見えてほしい。再び背中を言い知れぬ汗が流れ落ちた。

    

 妻の置いていった5千円札の出番が早速来る。
 危篤にある祖母への蜻の心痛を紛らわすには、私は明らかに役不足だ。私にできる精一杯の事は彼女に「楽しかった」と言わせる事ではなく、どうにか「嫌で嫌でたまらなかった」と言われないようにする事だ。そこでとりあえず私の一番の責任、妻にも頼まれた彼女の食事の面倒を、これからこの5千円札で見みようというわけだ。
 行きつけの定食屋「くるま屋食堂」の味は私個人としては折り紙付きだが、蜻のように若い子にはもっとお洒落でケーキやパフェが食べられる場所の方がいいだろうと思い巡らし、散々考えた末、結局入ったのは道沿いの月並みなファミリーレストラン「リゼルポット」という体たらくだった。少女たちの間で話題となるケーキやパフェが食べられる場所など、私が知っていようはずがないのだ。
 私のなけなしの配慮も、結局杞憂に終わった。蜻は私と同じ日替りランチAを注文し、私の勧めにもかかわらず、デザートは頼まなかった。私は想像力の欠片もなく「ケーキは? パフェは?」と勧めたが、彼女はふるふると首を横に振ってその勧めを辞退し、「ダイエット中かい?」というデリカシーの欠片もない、娘を最も憤慨させた冗談にも、笑って首を振っただけだった。
 リゼルポットでの40分は、私にしてみればかなり居心地の悪い時間だった。「学校は楽しいか?」などと聞くには微妙な年齢であり、最近興味を持っていることなどを聞いてみたところで話が続くはずがない。もちろん祖母の容態の話はタブーだ。日替りランチAがすこぶる美味しければ共通の話題にもなるが、もちろんそんな事もない。
 年齢の離れた異性を相手に余裕がないのは、情けない事に私の方だった。そんな私の様子がおかしいのか、蜻は私の顔を見てはくすくすと笑っている。冴えない中年の冴えないランチのチョイスは、彼女のような年頃の少女にとっては滑稽に見えるのだろう。週が開けたら学校で笑い話として語られるのかもしれない。あるいはメールで今すぐにも。……蜻も携帯電話を持っているのだろうか?
 2人分の会計を済ましても、5千円札は姿を変えたものの、三分の二ほどの価値を保ったまま返ってきた。柄にもない配慮をした挙句、結局安く済んでしまった。まるっきりケチなオヤジだ。「ご馳走様でした」という蜻の礼儀正しい言葉に、ますます惨めになる。

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