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これ以上の恥の上塗りを回避すべく、食事を済ませると早々に帰宅をする。初対面の中年との気詰まりな時間を強いられるよりは、冷房の効いた客間で放っておかれるほうが蜻も気が楽だろう。……何より私の気が楽なのだ。 裏庭に面した一階の客用の六畳間を蜻にあてがう。窓が大きく明るいのが自慢の部屋だ。もっともこの暑さだ、日中に障子戸を開けておく事はないだろう。 しかし蜻は部屋に入ると鞄を隅に置き、まっすぐに窓へ向かって障子を開け放った。窓からは田園をはさんでこんもりと茂った森が見える。私がエアコンのスイッチを入れて温度調節をする間、蜻は立ったままジッと森を見つめていた。蜻の実家がどこにあるかは知らないが、これほど密生した樹林を見るのは初めてなのかもしれない。蜻が今見ているのは、白凰市にある三大森林の一つなのだ。 「“月杜(つくのもり)”というんだよ」 「ツクノモリ?」 森の形が円形の満月型をしているのがその呼び名の由来だと教えてやる。そして満月の夜、「モリノヒト」と呼ばれる樹木の精霊が月光の下で宴を開くという伝説も。 「ツクノモリ……。人は、そう呼んでいるんですね……」 憑かれたように森を眺めている蜻。エアコンがそこそこ効いてきた事を確認して、私は客間を出る。最後に何かあったら声をかけるように蜻に言った時も、彼女は窓の傍に座って森を見ていた。 ![]() ![]() ![]() 夕食も、結局ファミリーレストランで済ませた。蜻は私と同じディナーのセットメニューを頼んだが、今度は「パフェを頼んでも良いですか?」と断ってからそれを注文した。昼食の際の私の態度を慮っての行動だろう。彼女の年に相応しからぬ態度や心配りには救われると共に恥じ入りたくもなる。パフェを食べる時の年齢相応の笑顔や仕草の愛らしさは私の目を楽しませてくれるが、それが危篤の祖母を抱える孫娘の、私に対する配慮だとしたら……考えすぎである事は分かっているが。 家に戻ると入浴の順序で頭を痛めたが、結局蜻に先に済ませてもらう事にした。ダイニングテーブルに座って新聞を眺めていた私は、スリッパのパタパタいう足音と「お風呂、先にもらいました」という蜻の声に顔を上げた。胸の前にたたんだタオルを抱いた濡れ髪の蜻を見ると、奇妙な感情、恐らくは実の娘には徹底的に拒絶された私の父性がこみ上げてきて妙に気恥ずかしくなり、咳払いのような曖昧な返事を返して再び新聞に目を落とした。なぜか立ち去らない蜻の視線に居たたまれなくなった私は、新聞にあった遊園地の広告を見ると、我知らずこう言っていた。 「し、蜻くん、明日、ここ、ここへ行ってみようか?」 二、三度彼女を「蜻ちゃん」と呼んでみたが、彼女の不思議に落ち着いた物腰には「ちゃん」という幼い親しみが相応しくないと思い、私は会社の部下を呼ぶように「くん」をつけて彼女を呼んでいた。 ここ10時間ほどの付き合いで、彼女が私の申し出――遊園地への誘い――を断る事が予想できた。首を横に振ってから、済まなそうな笑顔を浮かべてダイニングルームから立ち去るだろうと、そう思っていたのだ。居たたまれない現状を打破できるのなら、なれなれしい誘いを断らせる事によって彼女を追い払おうと、そう考えていた。だから眼の端で蜻が首を縦に振り、確認のために思わず顔を上げた私の目の前でもう一度はっきりと首を縦に振ったのを見た時には、ぽかんと口を開けてしまっていたと思う。 就寝の挨拶をした後、濡れた髪を耳にかける仕草をしながらあてがわれた部屋へ戻っていく蜻を見送った私は、こめかみが脈打つのを感じていた。遊園地など、娘が小学校低学年の頃以来、行った事がない。それを余所様の娘さんと二人きりで行く事になろうとは、自分で言い出したにもかかわらず、驚天動地の出来事で目が回る。もう一度遊園地の新聞広告に目を通す。車で30分もあれば着けそうだ。道順も問題はない。 新聞を折りたたみ、入浴のために浴室へ向かう。蜻の後に、娘よりも年齢の離れた少女の使った後の浴室で入浴する事に、妙に胸が高鳴る。 自分をおかしく思う。しかし、間違いなく、静かな態度で私を激しく振り回す高森蜻という異性に、私は心惹かれていた。 ![]() ![]() ![]() 私の知る「白凰児童遊園地」は、敷地を大きく広げて「アミューズメントパーク“ホワイト・フェニックス”」という施設に生まれ変わっていた。名称は漢字から英語に変わっただけだったが、設備や雰囲気は完全に近代的なものに切り替えられている。 昨日とはデザインが違うが、同じ白色のワンピースに白のつば広帽という装いで、蜻は私の隣に立っている。夏の日差しをまぶしく反射するその色は、蜻の雰囲気に良く合う。 「行こうか、蜻くん」 何気ない風を装って出した私の手を、蜻は躊躇うことなく握る。入場チケットを買う私たちは、きっと親子に見えた事だろう。昨日まではまったくの赤の他人だった中年男と少女が、指を絡ませてゲートをくぐっているなどと、誰が想像できようか? 後ろめたい優越感が、私を浮き立たせる。 どれでも好きな物に乗って来いという私の言葉に、困ったような表情でつないだ手にきゅっと力を込めることで応えた蜻を連れて、私は名前からはどのような内容か想像もできないアトラクションを呪いながら、園内を歩いていく。なるべく待ち時間の少ないアトラクションを見つけては、一応蜻の意向を確認して、それに飛び込んでいく。待ち時間が少ないという事が人気がないアトラクションという事に気付いたのは3つ目のアトラクションの途中だったが、詫びる私に蜻は首を横に振って、「楽しいです」と笑顔を添えて応えてくれた。 高森家の家庭事情はまったく知らないが、蜻には強く父性を求めている気配があるように感じる。娘に疎まれた私が、彼女に理想の愛娘を見るように。しかし、彼女の無垢な思慕に対して、私は裏で不埒な恋慕を燻らせている。察しの良い彼女にそれを悟られまいかと、気が気でない。少なくともあと一日、それを悟られないようにしなければならない。なんとしても。 遠慮なのか、それとも(これは私の自惚れだろうが)好意から来るものなのか、蜻は全てにおいて私と一緒である事を求めた。全てのアトラクション(ジェットコースター系は無言で避けた)に私の同行を求め、昨日のファミレス同様、私と同じものを注文した。彼女にソフトクリームを食べさせるために、私も何十年かぶりにそれを食べる羽目になった。 「いちご味は美味しいかい?」 「食べてみますか? 代わりにバニラを一口ください」 互いのソフトクリーム(私の「いちご味」という野暮ったい言い方を、彼女は「ストロベリー」と可愛らしく言い直した)を一口ずつ食べあって、顔を見合わせて声を立てて笑った。 最後に乗った大観覧車からは遠くに広がる月杜が見えた。蜻は窓に額が当たりそうなほど顔を寄せて、森を見つめている。昨日の様子といい、どうやら森に強く惹かれているらしい。夕食後、森の近くまで行ってみようかという私の誘いに、蜻は森から目を離さないままコクリと一つ頷いた。幸い我が家から月杜までは遠くはないので、明日――蜻が帰る日――に差し支える事もないだろう。 ホワイト・フェニックス内のビュッフェで夕食を取り、家へ、森へ、向かう。 ![]() |