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帰り道に見舞われた、激しいが足速に通り過ぎていった夕立のおかげで、月杜周辺は湿気による草の香を強く匂い立たせていた。雨が雲を洗い流したおかげで月が明るく、蜻のワンピースと同じ色の月光が降り注いで、草葉に付いた露を銀色に輝かせる。 車の助手席から降りると、服の裾が濡れるのも構わず、蜻は伸びた草の中を横切って森へと歩いていく。その足取りは、まるで家に帰り着いたかのように確固としている。 「蜻くん! あまり奥へは行かないほうがいい!」 私の声に振り返ることもせず、彼女は森の縁へと到達し、毫も逡巡する事なく木々の中へ白い影を消していく。突然の、今まで見せた事のない不可解な行動に困惑しながら、私は森の中へ蜻を追った。墨を流したような夜の森にあって、幸いにも蜻の白いワンピースは目立つ。茂る葉々の隙間を縫って地表へと届いた月光が斑の照明となって蜻を照らし、その白い影が木立の間を亡霊のように、木々の精霊のようにひらひらと遊び、森奥へと私を誘っていく。 いよいよ彼女の姿を見失うかと思われた時、不意に視界が開け、私は森の中の小さな広場にいた。広場の中央には大きな切り株が鎮座しており、その上には樹木の妖精と見紛うばかりの、月光で青白く浮かび上がった高森蜻が立っている。蜻は目を閉じて、聞いた事のないメロディのハミングを口ずさんでいる。声をかける事も忘れ、私は蜻の美しい声に聞き入った。月はいよいよ明るく、森の小虫の一匹までもが蜻のハミングに聞き惚れているかのように声を潜め、辺りを全き静寂が包む。 ふと気がつくと、蜻はハミングを止め、切り株の上から私を見つめていた。ようやく許可が下ろされたかのように安堵しながら、私は森の中の不意の広場に歩を進め、周りの墨色の森を見回し、中空からねめつける銀色の月を見上げた。そして理解する、昨日から蜻が見つめていたのが、この場所である事を。 蜻に侵しがたい神性を感じた私は彼女に直接目を向ける事ができず、彼女に背を向けて森の奥に視線をさ迷わせ、暗い森の中に蠢く、いるはずもない黒い輪郭に目を凝らす。思い出されるのは「モリノヒト」の伝説。彼らは満月の夜、銀色の広場に集い、月への太古の祈りを捧げ、踊りまわるのではなかったか。悠久の歳月をけみした石化した切り株を祭壇とし、月の光を集めて呼び出される豊穣の母に、鮮血滴る生贄を捧げるのではなかったか。 どれくらいそうしていたのか、ふと我に返り、帰宅を促す言葉をかけるべく蜻を振り返る。 ――目に入った蜻の姿を、私は一生忘れないだろう。 振り向いた時、蜻は下着を両の足から抜いたところだった。蜻のほっそりとした白い裸身が、夕立が葉の先に残した雫と同じ銀色に輝く。重さを感じさせない幽玄さで切り株の上に立つ蜻が、右手を私の方に差し出す。ホワイト・フェニックスのゲート前で、私が彼女にしたのと同じように。耳の奥で無様に鳴った音は、場違いな淫らさに生唾を嚥下した、私の喉が立てたものだ。 差し出された白磁のような右手を掴みたくて、しかし掴んでも良いものかと逡巡して、私の右手が宙を掻く。 「……おじさま?」 白凰駅で初めて会った時と同じく、物怖じしない笑顔を浮かべて、頭を少し傾げる蜻。 沸騰した血が血管を逆流し、信じられないほど獣じみた熱い息を吐いて、蜻の華奢な身体を掻き抱くために、私は両腕を前に伸ばした。 ![]() ![]() ![]() 蜻のハミングで目を覚ます。 月はほとんど位置を変えておらず、まどろんでいた時間はごく短いものだったに違いない。意識を失う直前まで腕の中で淫佚に身悶えていた蜻の姿はない。覚醒直後のぼんやりとした頭で、蜻のハミングの出処を探す。 立ち上がって後ろを振り向いて、そこにあった、否、「いた」ものを、最初、私は何であるか判じる事ができなかった。……今でもはっきりとは解釈できないでいる。 最初、それを木であると思った。しかしその太さは並外れており、大人3人が手をつないで輪を作っても抱えきれないほどで、熱帯雨林に立つ太古の巨木すらも凌駕していた。幹はグロテスクに捻れ、節くれ、洞を開け、瘤を作り、天を突き刺すように高々と頭上へ伸びている。土管ほどの太さの無数の根が枝分かれして地を穿ち、巨木を支えている。最悪なのはその樹皮だった。白い肉質の樹皮は3メートルにも引き伸ばされた人の顔皮だった。巨人から剥きはがされたような人肉の仮面が、ごつごつとした巨木の幹に、まるでペットボトルを覆う塩ビのパッケージのようにぴたりと巻きついていたのだ。巨顔の左目が突き出た瘤によって飛び出し、鼻の部分が洞を覆って不恰好に凹んでいる。幹に斜めに走る萎びた大蛇のような捻れを、醜いヒルのように形を崩した艶やかな唇が覆っている。小船ほどもあるその唇からは、か細いハミングが漏れ出ていた。 よろりと一歩後退すると、巨木の全景を理解する。天に向かって伸ばされた幹は数本の触手に先分かれしていて、あたかも汚水でのたうつイトミミズがごとく、その太さと長さに似合わぬ敏速な動きで不規則に絡まりあい、歪み、くねっている。地を穿っている土管大の根と思われた物の先には山羊の蹄のごとき器官が備わり、大地を踏みしめている。既知の動植物のどれとも似ていない動きでビクビクと震える肉樹を覆う人面は、ユークリッド幾何学を逸脱した曲線を描きながら、それでもなお愛らしさを残す、高森蜻のものだった。 森の奥から肉樹のハミングに合わせる歌声が、うねる音程を伴った詠唱の声が聞こえてくる。 いあ いあ しゅぶ=にぐらす 千匹の仔を孕みし森の黒山羊よ! いあーる むなーる うが なぐる となろろ よらならーく しらーりー! いむろくなるのいくろむ! のいくろむ らじゃにー! いあ いあ しゅぶ=にぐらす! となるろ よらなるか! 月光の集まる広場を囲むように響く詠唱は、徐々に輪を狭めて私の方へと迫ってくる。毛深くて角を持つ「モリノヒト」が、神の御子を称えるために森の深奥から躍り出てくるのか。 高まる詠唱の声を、手で耳を覆って締め出す。黒い影が木々の間を飛びまわり、神を賛美し、御子を祝福する祈りの言葉を詠う。 今宵、銀月の魔宴(うたげ)。 恐怖と混乱にがんじがらめにされた私の目が、肉樹に貼り付いた蜻の唇のかすかな動きを捉える。か細いハミングを漏らしていた時とは明らかに違う、何らかの意思を伴った動きを。我知らず、耳を覆っていた手を下ろす。……嗚呼々々、手を下ろさなかったら! 見上げる巨木の樹皮となった、畳よりも尚大きい蜻の顔に付いた凸凹の唇から、愛らしい少女の声の響きをもって、死ぬまで悪夢に見る事になる女夢魔の使う呪詛の詞が漏らされた。 「……おじさま?」 絶叫が上がった。私の声で。 ![]() ![]() ![]() 「あら、最近熱心ね。また森林浴?」 外出しようとする私に気づいて、妻が声をかけてくる。私は健康への影響に関する誰かの受け売りを曖昧に返し、靴を履いて家を出る。 もう何十回も試みたが、いまだ再び到達できぬあの切り株のある森の中の広場を探して、私は今日も森を歩く。いつかまたきっと、銀色の月の晩に、モリノヒトたちの宴であの白い少女に会える事を願って。私を永遠の悪夢の虜にした、森の神の御子をこの腕に抱くために。 ひょっとすると、もう――私は狂っている。 (了) ![]() |