第四話「四神ししんの護符」




 香住の本宅にはもう戻れない。母親を、いや、御三家を向こうに回したとなれば厨子村にいる事すら出来なくなるだろう。厨子夜婚の儀を乗り切っても、危機はまだ続く。―――乗り切れたら、の話だが。
 四神の護符の入手には失敗した。切り札は手に入らなかった。祭儀に際して身を守る術はない。この身一つで自分と沙奈枝を守らなければならない―――。
「でも、やるしかないよ、夕貴」
 香住夕貴は叱咤の言葉を自らにかけ、兜の緒を締め直すかのように、金色のポニーテールをまとめるオレンジ色のリボンを固く結んだ。

「夕貴(あの子)を殺して頂戴」
 叔母・香住須美子が言った言葉。何度思い出しても震えるほどの憤りと、悲しみと、恐怖を喚起させる、その言葉。
 足早に香住家の本邸から遠ざかりながら、香住薫はやり切れない気持ちを隠しきれないでいた。
 沙奈枝を守りたくて懸命に行動してきたつもりだった。薫も、夕貴も。しかし、それは彼女の実の母親によって全面的に否定された。確かに沙奈枝を殺せとは言われていない。だからと言ってその双子の妹を殺せという依頼は、正気の沙汰ではない。それを言葉として紡ぎ出してしまうほどに、この村の人間は因習に囚われている。それはあまりにも悲しく、あまりにも恐ろしい事なのではないだろうか?
 決意は変わらない。厨子夜婚の儀、阻止あるのみ。

 謎の解を求めての再度の蒼戸空也との会談は、結果として新たな謎・・・というよりは混乱を楢須藤竜一にもたらした。
 空也の目的―――厨子夜婚の儀を阻止して、厨子村を“潰す”事。
 彼の言葉が真実だとすれば、厨子夜婚の儀を阻止する事は厨子村の不幸に繋がる。しかし今までの情報を総合すれば、祭儀が執行されれば村人に災いが降りかかる恐れがある。
 足元が揺らぐ。誰かを不幸にしたくて行動してきた訳じゃない。しかし、どう転んでも誰かが不幸になるとしたら? 何をしても、誰かが不幸になる片棒を担ぐ事になるのだとしたら?
 何が正しいのか、何が真実なのか、もう分からない。そもそも真実など・・・存在するのだろうか?

 羽織袴に着替えた祁堂礼一は、叔父・文康に付き従って厨子神社へと向かっていた。祭儀は花婿は先に神社入りして、花嫁の到着を待つ式次となっている。
 “厨子村に戻って、祁堂家が決めた許婚と結婚する”
 礼一を縛る誓約。後悔はしていない。しかし、納得もしていない。
(誓約通り沙奈枝と祝言を挙げる・・・でも、その後の事は・・・)
 蒼戸空也に託した礼一の“意志”。納得はしていない。しかし、覚悟は出来ている。

 ククッ・・・
 例によって情報をまとめた手帳を閉じたところで、玉木司は妙な音―――声?―――を耳にした気がして顔を上げた。部屋を見回しても、司以外に人がいる気配はない。司は再び手の中の手帳に目を落とす。
 手帳自体は安物だ。昨年暮れ、研究室に大量に放置されていた中の一冊を、カレンダー代わりにしようとしてもらってきたに過ぎない。だが、今や多量のインクを吸って重くなったこの手帳が、自分の命と等価値―――それ以上?―――に思えてくる。たった今書き加えられた記述によって生命を吹き込まれたかのように、安物の手帳の表紙が手のひらにしっとりと吸い付く。
 ククッ・・・
 またあの音―――いや、声。
「ああ、なんだ」
 声は、司の咽喉の奥から漏れ出た歓喜の笑いだった。

 去り行く芦鷹巧美の背中を見送る事しか出来なかった。すでに修復不能なまでにひび割れてしまった10代の少女の心。医師としてではなく人間として、天野信一は巧美を救ってやる事が出来なかった。巧美の悲痛な叫びを受け止めてやる事が出来なかった。
「心のケアは専門外・・・などとは言えないな。修行が足りん」
 巧美の心の傷を癒す時間も、そのための修行をしている時間もない。あと数時間もすれば厨子夜婚の儀は始まるのだから。
「過ぎ去るは及ばざるが如し―――しかし、まだ過ぎ去っていないものもある」
 これから起こるかもしれない悲劇を食い止める事が出来れば、それは巧美の心を癒す要因になるかもしれない。そう信じる。

 芦鷹巧美を縛る陰鬱な足枷―――厨子村。待ち焦がれた解放者は現れず、足枷は彼女を重く縛り続けたまま。何もかも約束通り。呪縛は断ち切られなかった。
 見えない足枷は外せないと、とっくに諦めがついていたと思っていた。しかし、帰郷者を迎えて様変わりした厨子村を感じて、消えたはずの希望の火が再び灯ってしまった。
 諦めを理解していたはずの「頭」と、未だ希望を捨て切れていなかった「心」。一つの身体の中でせめぎ合う逆方向のベクトル―――矛盾。
 内に抱えた矛盾に対する答えを見つけられないまま、巧美は厨子夜婚の儀に臨む。いや、答えは既に見つかっていたのかもしれない。なぜなら・・・
 ―――互いに矛盾し合うから混沌だろう?

「どうやっても犠牲者は出て、祭儀を止めるのも不可能。八方塞なのか・・・?」
 薄暗くなり始めた厨子村の村道を歩きながら、神崎浩輝は溜息混じりに呟いた。
 前村長・芦鷹の御隠居の話が確かなものであれば、蒼戸空也の危険性が俄然増してくる。50年前の大量被害者を出した際の厨子夜婚の儀の再現の鍵を空也が握っているとしたら、彼を止めるのが次善の策となるのかもしれない。そして、その時間はもうない。
「僕一人の力ではどうにもならない、か・・・」
 再び溜息。帰郷してから溜息を吐く回数が増えたような気がする。
(溜息を吐くと幸せが逃げるというが、それが真実ならかなり大量の幸せを逃がした事になるな)
 独り苦笑すると、浩輝は歩調を早めた。歩み行くその先にあるのは、厨子神社の長い石段だった。

 厨子神社の石段を降りた場所にある杉の木にもたれて、津島幸乃は朝倉圭を待っていた。
 境内では淡々と厨子夜婚の儀本番に向けての準備が進められていた。準備の指揮を執っていたのは叔父・芦鷹真輔だったが、昨日の事もあり、話しかけられる雰囲気ではなかった。
 祭儀の中止を実現させるべく頑張ってきたつもりだった。しかし、結果として残ったのは芦鷹家から科せられた出入り禁止の命令と、自身の無力さへの再認識だけだった。
 手の中の携帯電話に目を落とすと、そこに表示されていたのは先刻受信した圭からのメール。
<ごめん、神社へは行けない>
 理由は記されていない。問いただそうにも、電源が切られているのか、電話は不通で、メールを何度出しても返信はない。圭に何が起こったのか? これから何が起こるのか?
 自分は、どこで間違ってしまったのだろうか?

「・・・くそったれ」
 闇の中でゼイゼイと肩で息をしながら、蒼戸空也は呪詛の言葉を呟き続けていた。
 弾丸は肩に二発、腹部に一発命中した。腹部からの出血は特に酷く、見る間にワイシャツが赤黒く濡れそぼっていく。早期に治療した方が良いだろう。しかし、それを許さない事情と意地が空也にもある。
 まだ死ねない。
「・・・くそったれ」
 もう一度空也は言うと、立ち上がってヨロヨロと歩き出した。血痕を点々と、厨子神社に向かって残しながら。

 四神の護符を手に入れて幸乃を守る。そのためには、この手を穢れに浸すことも厭わなかった。しかし、手は汚穢に塗れたが、四神の護符を掴む事は出来なかった。それが朝倉圭の限界だった。
 手の中にあるのは携帯電話。この向こうに大切な友の声がある。自分の事を思いやってくれる優しい心がある。自分を赦してくれる言葉がある。でも―――
 厨子村で暮らしていた幼い頃からずっと一緒だった幸乃。互いを思いやり合いながら、守り合いながら歩んできた。その幸乃と決別するのが、この厨子村の地となろうとは。
「ごめんね、幸乃」
 携帯電話の電源は二度と入れない。
 自分は、どこで間違ってしまったのだろうか?

 人事―――「四神の護符」の行方―――は尽くされた。あとは天命―――厨子夜婚の儀―――を待つのみ。