第五話「厨子夜婚の儀」




【厨子夜婚の儀】
 ゴーン・・・ンンン・・・。
 重々しく低音で響き渡る鐘の音。どこか厳かな雰囲気もあるが、それ以上に心を沈ませる陰鬱さが交じっている。厨子神社の鐘(ベル)。25年ぶりに村全域に轟くその音色は、華やかな結婚式には明らかに不似合いなものだった。
 「厨子夜婚の儀」。25年に一度、真夜中に執り行われる厨子村土着の祭祀。
 真夜中にもかかわらず、村は無数の篝火で煌々と照らされ、影を揺らめかせている。近付くにつれてその数を増やした篝火に照らされ、厨子神社の境内は昼さながらに明るい。
 境内には人、また人。厨子村住人の全てがここに集まっている。境内に入りきれなかった村人たちが石段の途中まで列をなし、少しでも境内に近付こうと押し寄せている。しかし、神社全体が静寂に包まれており、パチパチと篝火の爆ぜる音だけが耳につく。

 本殿は開け放たれ、中の様子が一目で見て取れた。
 羽織袴の祁堂礼一と、白無垢に身を包んだ香住沙奈枝が隣り合って座っている。その前、祭壇に奉られた御神体・厨子と向かい合うようにして、玉串と榊を手にした宮司・芦鷹真輔。花婿の斜め後ろに祁堂家の当主・文康、花嫁の斜め後ろに香住家の当主・須美子が控えている。本殿に一番近い場所には御三家の関係者が陣取っており、その中に芦鷹巧美の白いセーラー服姿も見えた。

 ゴーン・・・ンンン・・・。
 最後に一つ低く鳴らされた鐘に続いて、宮司が玉串と榊を振り、その小柄な体躯からは想像も出来ないほど朗々とした声で祝詞を詠み上げる。

掛けまくも 畏き 厨子耶恨大神
(かけまくも かしこき ずしやこんのおほかみ)
全の 初めの 産土の 睡る命に
(うつの はじめの うぶすなの ねぶるみことに)
御穢 穢し給ひし時に 生り坐せる
(みけがれ けがしたまひしときに なりませる)
穢戸の 大神等
(けがれどの おほかみたち)
諸々の 禍事 罪 穢 あらむをば
(もろもろの まがごと つみ けがれ あらむをば)
招き給ひ 産み給へと 白す事を
(まねきたまひ うみたまへと まをすことを)
聞こし食せと 恐み 恐み 白す
(きこしめせと かしこみ かしこみ まをす)


 祝詞を奉上し終えた真輔は恭しく御神体に歩み寄り、その正面に取り付けられている両開きの小扉を開けた。

 パンドラの箱は開けられた。
 でも、その中に希望は入っていなかった。
 入っていたのは、
 闇と、
 恐怖と、
 狂気だけ。


【ズー=シャエ=クワン出現】
 闇が奔流となって厨子から溢れ出した。
 それは究極の死であり、永劫の虚無であり、古き夜の静寂であった。奈落の暗さと全き沈黙であった。凍てつく暗黒。大地の震えとともに現れる、か黯き海。
 暗闇は本殿を覆い尽くし、密度を変えぬまま拡がっていく。礼一も、沙奈枝も、御三家の当主たちも、闇によってその姿を掻き消された。
 厨子神社が、否、厨子村全域が闇で覆われた。篝火の明かりも、暖かさも、闇によって奪われてしまった。闇が奪わなかったのは篝火の爆ぜる音だけ。そして闇がもたらしたのは、篝火の爆ぜる音を掻き消してしまうほどの絶叫と、怒号と―――狂気。
 闇は境内にいた者全ての視力を奪った。眼球に走る耐え難い激痛によって。目の痛みに耐えられず瞼を下ろしているのか、それとも目は開けているのに闇が視界を閉ざしているのか、その判断すらつかない。ただひたすらに目が痛い、いたい、いた、いタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイタイタイタイタイタイ!! 痛みから逃れられるのであれば、この目をえぐり出す事も厭わない、そんな考えすらよぎるほどの、心をも傷つける痛み。

 だから神崎浩輝は、両手の人差し指と中指を眼窩に突き入れ、両の眼球を掴み、視神経をブチブチと引き千切りながらえぐり出し、それを投げ捨てたのであった。痛みから逃れられた開放感に、空洞になった眼窩から滂沱たる赤黒いの涙をこぼしながら、腹を抱えて大笑する。
 浩輝は発狂した。

 朝倉圭は啜り泣いていた。暗闇の中で独り、不安に押し潰されて。周りには両目を押さえてうめき悶える人、人、人。膝を抱えて顔を伏せたまま、圭はただ泣くしかなかった。拭っても拭っても、とめどなく溢れてくるドロリとした涙を流しながら。
「・・・ふぅ、ぎゃぉ・・・むは」
 意味不明な呟きをこぼすと、眼窩からので顔面を朱に染めた圭は立ち上がって、フラフラと境内を歩き出した。
 とっくに、狂っていた。

 目の痛みに辛うじて耐える者、両の目に爪を立てて痛みから逃れようとする者、眼球をえぐり出して痛みから逃れた者。それら全てを覆い隠して、悲鳴だけの世界を創り出した闇。厨子耶様、厨子村の鎮守の神、嫁神を娶るもの―――
 “暗く静かなるもの”厨子耶恨(ズー=シャエ=クワン)。


【オーリックス招来】
 悲痛な面持ちで、芦鷹真輔は境内の阿鼻叫喚図を見ていた。
 懐にある「青龍の護符」の霊験により、真輔は厨子耶恨の闇の影響を受けない。カッと目を見開いて、苦しみのた打ち回る村人たちをその目に焼き付ける。厨子夜婚の儀を執行するのが宮司の役目。そして生贄となる村人たちの苦悶を見届けるのも宮司の役目である、それが真輔の信念だった。村人の命と引き換えに約束される厨子村の繁栄、出身者への優遇、資金援助。今ここで嘆き悶える者たち全てが、厨子村の未来を守る人柱なのだ。
「赦せよ、皆の衆。次の祭儀では、必ずや我が両の眼(まなこ)を差し出すと誓う」
 真輔はこぼれる涙を拭いもせず、村人たちの姿を食い入るように見つめた。

 異変は、暗闇と怒号を切り裂いて起こった。
 突如天から降り注いだ目も眩む輝き。まるで厨子耶恨の闇を払うかのように、光の巨槍が厨子神社の境内に突き立った。白炎と紫炎を纏った光槍は、やがて激しく炎を噴き上げ、互いに絡まり合う白と紫の螺旋と化して、闇を穿って天へと伸びた。のたうつ巨大な光の槍であり、凄まじい炎揺らめく、強烈で目も眩むような紫と白―――。
「・・・ま、まさか!」
 厨子耶恨の闇に目を閉ざされていなかった真輔は、紫白の閃光によって視力を奪われていた。しかし、盲いる間際に見た紫と白の槍の正体には思い当たる節があった。『ゐをどノ書 暗ノ巻』巻末に、先々代の宮司が書き加えたと思われる付記。“暗く静かなるもの”厨子耶恨をこの地に封印し、そして50年前の厨子夜婚の儀において最大の被害を出すに至った原因の神格。
 旧き神―――“きらめく炎”降来主(オーリックス)。

 晴れぬ闇によってもたらされる目への激痛に加え、突如舞い降りた光柱によって放たれる閃光が境内の混乱に拍車をかける。悲鳴と怒号に甲高い笑い声や理解不能な絶叫が加わり、狂乱の度合いは収束不能なまでに高まる。
 そんな地獄絵図のような境内を横切って、本殿へと近付く人影が一つ。紫と白のストライプのワイシャツは赤黒いの染みでべったりと汚れ、銀縁眼鏡にもの泡が飛び散った跡が残っている。ボロボロの黒スーツを身に着けたその男は、しかし嘲るような笑みを唇の端に浮かべて、盲いた真輔と対峙した。
「鉛玉の礼を言いに来たぜ、芦鷹」
 勝ち誇り、嘲り、見下し、蔑むその声。
「・・・蒼戸の子倅(こせがれ)か!?」
 真輔に呼ばれて快心の笑みを浮かべたのは、血みどろの蒼戸空也だった。

「無様だな。たった5億を惜しんで儀式をぶち壊しにされた気分はどうだ?」
 背の高い空也が小柄な真輔と対峙すると、自然と見下ろす形になる。しかし、今は心理的優位性をもって空也が真輔を遥か高みから見下ろしていた。
「馬鹿な・・・。なぜ厨子耶様の闇の影響を受けぬのだ? 四神の護符無くば叶わぬ事ぞ!?」
 取り乱した真輔の声を聞いて、益々空也の顔に喜色が浮かぶ。左胸の内ポケットから何やら封書を取り出してヒラヒラさせた後、盲いた真輔にも理解できるように説明してやった。
「白虎の護符さ。お前ら御三家がオレとの取引を袖に振っても、礼一はオレとの取引に乗った、という訳だ」
 酷薄な笑みを浮かべたまま、空也は礼一を見遣る。己の双眸を手で押さえてうずくまる礼一の姿は、境内で苦悶する百を超える村人たちと何ら変わらない。四神の護符を空也に譲渡し、自らが苦しむ事を選択して尚、礼一は取引に応じた。だから祖父から受け継がれた復讐の念に乗せて、礼一の意志を空也が代行する。
「降来主により、厨子耶恨は完全に封印される。だから厨子夜婚の儀は、今回が最後だ。厨子村の役目は終わる。そしてお前たち、御三家もな」
 境内の真ん中に屹立する光の柱に向かって、空也の右腕が伸ばされる。そして虚空にある不可視の果実を握り潰すかのように、拳が固められた。
「降来主―――裁きを」

 光の柱がうねった。明滅するネオンのように白と紫が瞬く。
 ヴ・・・ンン・・・
 蝿の羽音のような音を立てて大気が振動し、オゾン臭が鼻をつく。そして―――雷撃。木の葉に葉脈が走るように、大気に稲妻の触手が広がる。稲妻は闇を散らすかのように荒れ狂った。・・・無差別に。
 実体なき闇を撃ちながら、稲妻の雨が降り注ぐ。それは神社の境内に新たな混乱をもたらし、更なる絶叫を加えさせた。降来主の稲妻を浴びて焼け焦げた村人から発した異臭が、瞬く間に境内に立ち込める。厨子耶恨の闇に視力を奪われた村人たちに神雷を避ける手立てはなく、人の形をした燃えカスが急速にその数を増やしていく。

 荒れ狂う神雷は次々に村人を巻き込み、死体の山を築いていった。折り重なるように倒れ伏した黒焦げの死体の中に、熱で溶けかけた弁護士記章のついた紫色のスーツがある。神雷の熱は一瞬にして体組織を完膚なきまでに破壊し、骨すら灰と化すほど高温であった。
 紫色のスーツの死体に、首から上はない。身体からもぎ取れた黒焦げの楢須藤竜一の首は、胴体から5メートルも離れた場所に無造作に転がっていた。

 背中を襲った激痛に、玉木司は絶叫を上げた。境内を舐めるように這いまわる降来主の雷が背中を撃ったのだ。背中の肉の焦げる臭いと凄絶な衝撃に吐き気がする。目の痛みも収まらない内に襲い来た新たな激痛に、まともに思考が働かない。
「一体何だって言うんだ!?」
 司が叫ぶのと、彼の体を2撃目の雷が撃つのはほぼ同時だった。ビクンと体を大きく痙攣させて、司は倒れ伏し、そのまま死んだ。

 肩で大きく息をしながら、天野信一は地面を這いずるようにして移動していた。厨子耶恨の闇にやられた目からこぼれる涙と、汗と、鼻水に泥が混じって、顔面は酷い状態になっている。
「ヒィィィッ!!」
 すぐ脇の地面を神雷がえぐり、信一は無様な悲鳴を上げて飛び退いた。腹這いになって移動しながら考えをめぐらせる。かつて読んだ魔道書に対抗手段は載っていなかったか? 『ゐをどノ書 輝ノ巻』で読み逃した部分があったのか? 自分は何でこんな目にあっているのか? 誰のせいでこんな事に―――
 信一の思考はそこで永遠に中断された。降来主の稲妻が信一の背中を撃ち、車に轢殺された蛙のような無様な格好で、息絶えたからだった。

 津島幸乃は混乱の坩堝(るつぼ)と化した厨子神社の境内を走った。不安に耐え切れずに泣き崩れているかもしれない幼友達・朝倉圭の姿を探して。
 擦り減った正気で眺める境内の地獄絵図は、既に幸乃には何の感慨も呼び起こさなかった。悶絶する村人たちは書き割りの如く関心外となり、黒焦げの死体や奇声を上げる狂人たちは走るのに邪魔な障害物程度にしか認識していなかった。ただ圭の姿を探して、血走らせた目をキョロキョロと忙しなく動かした。
 そして、幸乃はついに見つけた。彼女と同じように、苦悶する村人に突き飛ばされ、死体に蹴つまずきながら、フラフラと境内を徘徊する圭の姿を。
 友の名を呼んで幸乃は駆け寄ろうとしたが、その瞬間、降来主の神雷にその身を撃たれ、黒焦げになって絶命した。
 圭は炭化した幸乃の右手を踏み砕きはしたが、変わり果てた幼友達に気付く事なく、の涙と涎を流しながら、幸乃の死体から離れていった。

 その光景を、空也は愕然とした面持ちで眺めていた。これは彼の意図する所ではない。降来主は、ただ厨子耶恨を討つはずだったのに・・・。
「そんな・・・馬鹿な・・・」
 雷鳴と悲鳴に掻き消されそうな、空也の呟き。真輔は空也のそばにいたが故、それを聞き逃すことが無かった。降来主の閃光に灼かれた目はまだ見えない。だが境内に巻き起こった新たな災厄は感じ取れた。轟音に負けぬよう、空也に向かって真輔は声を嗄らした。
「馬鹿者が! 50年前の祭儀でなぜ50人を超える犠牲者が出たのか考えた事もなかったのか!?」
 半拍遅れて空也は「・・・え?」と漏らして、虚ろな瞳で真輔を見た。それは、厨子村を手中に収めようとしていた魔術師の顔ではなく、まるで両親とはぐれて途方に暮れる幼子のそれだった。
「貴様のような馬鹿者にも分かるように説明してやる!
 それは、
 貴様の祖父・雄三郎の唱えた
 <降来主招来>の呪文が、
 不完全で
 間違ったものだったからだ!」
 狂騒を貫いて真輔の言葉が空也の鼓膜を打った。不完全な招来呪文によって呼び出された古神・降来主は、厨子耶恨の敵ではあったが、人類の味方ではなかった。そう。50年前同様に。真輔の言葉によって状況を理解したのか、はたまたその言葉に対する反証を思いついたのか、空也の瞳に再び意志の光がともる。真輔に向き直ると、反論が口をついて出た。
「ちょっと待て。だってオレは―――」
 それ以上、空也の言葉が続くことは無かった。
 降来主の神雷が、彼の体を貫いたから。


【アザトース覚醒】
「そんな・・・僕は、ただ・・・沙奈枝を助けたかった・・・それだけなのに・・・」
 厨子耶恨の闇に目を蝕まれながら、礼一は痛みによるものか悔恨によるものか判別できない涙を流す。隣に座っているはずの新妻の姿は、夜闇より尚暗い“闇”によってまったく見えない。礼一は闇の中手探りで腕を伸ばし、沙奈枝と思われる温もりをその腕の中に抱き収めた。二人の初めての抱擁。それは喜びに彩られたものではなかった。
「・・・ゴメンな、沙奈枝」
 礼一は詫びた。境内に渦巻く狂声に掻き消されないように抱きしめた沙奈枝の耳元で。

 開いた開いた なんの門が開いた 厨子耶の門が開いた
 開いたと思ったら いつのまにか閉まった
 閉まった閉まった なんの門が閉まった 厨子耶の門が閉まった
 閉まったと思ったら いつのまにか開いた

 怒号渦巻く闇を割って、突如、厨子村に伝わる古い童歌(わらべうた)が流れた。それは、まるで歌詠みをする天女の声のような、耳心地良い妙なる歌声だった。誰もが苦悶の悲鳴を、呪詛めいた怒号を、狂乱の絶叫を忘れ、その童歌に心を奪われた。歌声は―――本殿・花嫁のいる場所から。
 驚愕に目を見開く礼一の前で、すっくと立ち上がった沙奈枝が、童歌を口ずさんでいた。一際濃くまとわり付いていたはずの闇は振り払われている。いや、闇は沙奈枝に呑み込まれてしまった。
 依然闇は濃く、無差別の稲妻は轟いている。しかし歌い終えた沙奈枝が口を閉じると、全ての音は活動を止め、深淵のしじまが境内に全き静寂をもたらした。
 盲目のはずの沙奈枝は膝を折り、足元に座り込む礼一をそっと抱きしめた。
「ありがとう、礼一さん」
 沙奈枝が20年間に渡って凝縮に凝縮を重ねてきた最初で最後の意識(こころ)は、自分を愛してくれた者への感謝の言葉に費やされた。

 暗闇の中、断続的に閃く稲妻が創り出すコマ送りの世界を、香住薫は本殿に向かって走った。幼い頃、物言わぬ沙奈枝に何度となく歌い聞かせた童歌の、その声の主を求めて。
 果たして本殿に沙奈枝はいた。薫が幾度となく夢見て、そして叶わなかった抱擁を、別の男―――祁堂礼一―――と交わした姿で。
 嫉妬の情に身を焦がす薫の前で、沙奈枝は礼一から腕を解き、クルリと境内に向き直った。かつて見た事のないしっかりとした足取りで数歩歩むと、あたかもその身に光を浴びるかのように、両腕を広げ、胸を張った。そして・・・
 薫は気を失った。目の前の光景の負荷に脳が耐え切れずに、ブレーカーを落としたからだった。

 花嫁は膨らんで、破裂した。白無垢が赤とも紫とも言えぬ濁った肉色に染め上がり、ついには汚穢に塗れた布切れとなって千切れ飛ぶ。礼一の目の前で、大地から肉色のゼリーが搾り出されるかのように、挽き潰されるような異音を発しながら沙奈枝の体が膨張し、破裂し、化膿し、四散し、沸騰し、糜爛し、肥大し、拡張していく。厨子耶恨も降来主も、厨子神社も厨子村も、何もかもを塗り潰すようにして拡がっていく膿み泡立つ巨大なモノ。
 それは“アザティ”。アザトースの種。魔王の無意識の一部。覚醒した混沌。
 身体が内側から捲れ返るようにして、そこに混沌の花が咲いた。