プロローグ「帰郷」
「次は終点・沼商店前、沼商店前〜」
廃店となった駄菓子屋の前でバスは停車し、自動ドアが“ガシャ”と音をたてて開いた。
バスには未だ8人の客が乗っている。そして誰も席を立たない。
開いた時と同じ音を立てて、自動ドアが閉まる。行き先表示を「回送」に換えて、バスは再び山道を登り始めた。
おそらく鮮やかな緑であろう木々の葉が、傾いた陽の光を浴びて黒々と萌えている。バスはそんな黒と橙の斑の中を抜けて、山奥へとその車体を進めていく。バスの終点の、更にその先へ。
玉木司は最後尾の長座席に一人で座っていた。彼の位置から一望できる車内には、彼を除くと7人の乗客が見て取れる。血の囁きに導かれ、たまたまこのバスに乗り合わせた同郷人たち・・・。司は神経質そうに眼鏡をずり上げようと手を伸ばし、苦笑してそれをやめた。コンタクトレンズを入れていることを、なぜか忘れていた。
司の右斜め前の窓際に座っていたのは香住薫だった。窓枠に肘をかけ、頬杖をつくようにして流れていく景色を眺める。10年ぶりの帰郷。・・・彼女は、きっと変わっていないのだろう。それこそ、石のごとく。そしてそれは、きっと喜ばしい事ではないのだろう。
薫の座席から通路を挟んだ左側の2座席前からは、バスの中で唯一の会話の声が聞こえてくる。先日のコンパで起こった抱腹モノの出来事を思い出して笑い合う、背の高い彼氏と小柄な彼女の凸凹カップル。・・・に見えるが、れっきとした女性である。2人とも。背が高くショートカットの朝倉圭と、小柄な津島幸乃。かつて故郷から離れた時と同じように、2人は連れ立って帰郷の途に就いていた。
3席背後に圭と幸乃のクスクス声を聞きながら、神崎浩輝はノートPCのキーボートを叩いていた。突然の帰郷で、仕事は京都に残したままだ。仕事に復帰した時の自分を助けるために、出先でも出来る仕事は少しでも進めておかないとならない。夏休みにユニバーサルスタジオ・ジャパンへ連れて行くという家族との約束は、どうやら果たせそうにない。
通路を挟んだ反対側の窓際の席には楢須藤竜一が目を閉じ、腕を組んで座っていた。上等な仕立てのスーツの襟元に光る弁護士記章が、この若者が何者かを物語っている。車窓から入る陽光が閉じられた瞼の上で眩しくきらめいても、竜一は眉毛一つ動かさない。しかし、その頭脳はフル回転することを止めない。
その更に前、前から3番目の右側座席に天野信一は深々と腰掛けていた。見る者を安心させる穏やかな笑顔がバスの窓に映りこんでいる。久しぶりの帰郷に気を良くしたのか、信一はお気に入りのバンド「ガイ・アルク」の『Revelations』の一説をハミングしてしまい、慌ててそれを誤魔化すように咳払いをした。
バスの一番前の席に座っている8人目の乗客は、セーラー服を着た、一目で学生と分かる少女だった。セミロングの髪をうなじの付近で双房に分け、三つ編みのお下げを2つ作っている。窓から外を眺めるその横顔は、年頃の少女特有の愛らしさがあるものの、どこか物憂げで、世を儚んだ感さえ伺える、不相応なほど大人びたものに見えた。
やがてバスは舗装されていない道に入り、程なく山間の村落の中央広場で停止した。バス停の表示は、ない。
一番前の座席に座っていたセーラー服の少女が鞄を持っていち早く立ち上がり、自動ドアが開くと同時にバスを降りていく。残された乗客7人もまばらに立ち上がり、バスを降りた。
バスはドアを閉め、もと来た道を帰っていく。今度こそ本当に回送車輌となって。
盛夏の暑さからは取り残された中央広場。山間の村に、涼やかな風がヒグラシの声とともに吹き抜けていく。夕暮れの橙色の陽光より、民家から漏れる灯りの方が鮮明になる時刻―――逢魔が時。
広場の北側には村役場と思しき平屋の建物が建っており、その入り口の脇には木製の看板が架けられている。
看板に「厨子村役場」の文字。
あなたたちは、故郷に帰ってきた。