2000年8月14日「あぶない日本」
 ぼくは必ずしも悲観主義者ではないのだが、この国の現状を見るにつけ、どう考えても明るい未来があるとは思えない。政治家の汚職もそうだが、雪印乳業の食中毒問題が発生したときにしても唖然とするようなことの連続だった。社長が裸の王様でなにも知らされてないのはまだしも、人間としても失格者ではないかと思わざるを得ないような発言が社長の口から相次ぎ、その光景をテレビが全国に伝えるのだから、すさまじい時代である。
 大臣や大会社の社長を務めるいい大人ですら、あのレベルであれば、救いようのない少年少女が出てくるのも当然のことかもしれない。野球部の後輩にからかわれて殺意を抱くのはわからないではないが、後輩たちをやる前に自分の母親を殺しておかなくてはという発想はいったいどこから来るのだろうか。
 それにしても、警察の不祥事も年中行事になって久しいが、病院の初歩的ミスの報道もいまや珍しいことではなくなってしまった。事件があっても警察に相談もできず、うっかり病気になることもままならない。いやはや、なんという世の中になってしまったのだろうか。さらに衛生管理に厳格なはずの食品会社や飲料会社の製品から、トカゲがでたの、ハエがでたので、製品を回収しているといったニュースが連日のように報じられるのも異常な話だ。
日本という国のタガがいつのまにか弛んでしまったのだろうか。
 いっそこんな国を捨てて、どこかへ移住しようかと思ったりもする昨今だが、そのためにちょっと耳寄りな話を聴いた。かのフジモリ大統領のペルーでは、米ドル預金の利子がなんと10パーセントで、しかも利子に対する課税はゼロである。1000万円ぶんの米ドルがあれば、年100万円の利子が得られるわけで、ゼロ金利政策がどうのとグジャグジャ言っていることもない。しかも物価が安いから、利子で生活できるのもいい。消費税は目下18パーセントと高いが、もとが安ければ、ま、なんとかなろうというものである。第一、この物価高の日本で消費税10%時代はそんなに先のことではないとすれば、自衛のためになんとかせねねばならないことは自明の理である。ただし、かの国もひとたび政情不安となれば、外国人の財産がどこまで保証されるかは判らない。いやはや、生きていくのも大変です。

2000年10月5日-Vol.1『ラテン音楽パラダイス』文庫化
 92年3月に初版が出て、その後94年1月に第2版、94年11月に第3版を重ねて専門書としては大健闘の11,500部が売れた拙著『ラテン音楽パラダイス』が講談社から文庫化されることになり、2000年の夏はそのアルバム・ガイドの執筆に大半の時間をとられた。
じつをいうと、講談社から99年10月に出た『ラテン音楽 名曲名演名唱ベスト100』が稿了となって間もなく、『ラテン音楽パラダイス』文庫化のお話をいただき、すぐに原稿の整理に入り、本文のほうはわりとすんなり行ったが、どうにも手間取ったのがレコード・バイ・ガイドに推薦するCDとビデオの選定だった。第2版のときに若干入れ替えをしたので、実質的には6年の歳月が流れたわけだが、その間に久々にラテン音楽の人気が高まり、以前よりCDが入手しやすくなっていると思っていたら、それが大違い。168点選んであったCDとビデオの多くが目下入手不可能か困難になっていたのだ。買えないものをバイ・ガイドに挙げても意味がない。そこで再チェックに入り、かなりの量のCDを改めて購入したり借りて聴き、288枚の推薦アルバムを決めて、原稿を書き始めたが、当然のことながら何度か聴いてから書くため、おそろしく時間をとられたという次第。それにしても売れないとなるとたちまち廃盤にしてしまう日本のレコード会社の相変わらずの姿勢には本当に腹がたつ。
さて、文庫版『ラテン音楽パラダイス』だが、やがてゲラが出て校正の仕事に入り、年内には出るのではと推測しているが、その節はヨロシク!
それやこれやでこの「言いたい放題」もあまり書けず、サイトの推薦CDの書き換えもほとんど出来ずにいたが、これからはもう少しマメにやる予定。乞う御期待。

2000年10月5日-Vol.2ムス
 ムス、というより日本ではムースだろうか。元もとはフランス語でmousseと綴る。泡立てたクリームやそれを混ぜて作った料理や菓子をさす言葉である。この単語と初めて遭遇したのはモナコのカジノのバーでだった。ビールを注文したところ、いきなり「アヴェック・ムス?ウ・サン・ムス?」ときたもんだ。なんのことだか判らず、聞き返す。すると、バーテンダー氏はニヤリとして、グラスに少しビールを注いでから泡の部分を指して「これ、これがムス」と宣うた。にわか勉強のフランス語では、悲しいかな、ベラベラとこられるとお手あげだが、説明されてみれば、泡をくうほどのことはない。なるほどビールの泡もムースだったのかと納得したり、口先ひとつのリップ・サービスではあるが、なんともニクイじゃないか、さすが天下の賭博場のバーを預かるバーテンだわいとぼくはいたく感心したことを思い出す。
 酒飲みといわれる人種の大半がビールを飲むと思うが、ビールの注ぎかたに関しては二通りしかない、と思う。つまりグラスに注ぐ際に泡を立てるか、立てないかの二通りである。そんなことは大したことじゃないという人は少なくともビールの愛飲家ではないことは確かである。ぼくがアルコール類を嗜むようになった頃は京都に住んでいたのだが、こちらが若造ということもあってビールを飲むにあったてもこちらの都合などいっさい無視で、否応なしに泡を立てずに注がれることが多かったように思う。
 ぼくがビールの泡にこだわるようになったのはずっと後のことで、大学を出て3〜4年経った頃だった。就職した広告代理店でラジオテレビ制作部なる部署に配属されてまもなくビール会社の提供番組でいわゆる生コマーシャルを担当した時からである。生コマーシャル、略して生コマはテレビ局のスタジオで番組放送時にCMを生で放送するかビデオ収録時に同時に収録するもので、フィルムなどに撮影済みのものを放送時に放映するのとは根本的に違うのだ。ぼくが関わったのは今は亡き石原裕次郎が初めてテレビにレギュラー出演するというので話題をよんだ「今晩は裕次郎」という番組だった。その収録時にCMパートにさしかかると裕ちゃんがジョッキーでググッと飲み干すビールをぼくはスタジオの片隅で用意する係だったわけである。絶頂期にあった裕ちゃんがその番組にでたのは、ヨットで太平洋の横断に成功した堀江謙一の著書『太平洋ひとりぼち』の映画化の権利を買って、自分のプロダクションで制作するために資金が必要だったと聴かされていた。
 そのときに思い知らされたのだが、キメの細かい雪のような泡を立てるのがすこぶる難しいのだ。準備段階ではうまくいっていても、いざ本番となって強烈なライトを浴びるとたちまち洗濯泡のようにしまう。すると鬼より怖いスポンサーから罵声が飛んでくる。
 番組はなぜか不評で9カ月で打ち切りとなったが、その間ぼくのビールを注ぐ技術は確実に進歩した。しかも、その仕事に関わっていた間に工場見学に出かけて知識を深めた。その過程でビールの泡はビールが含むガスの発散を防ぎ、ビールの旨さを逃がさないための一種の保護膜の役目を果たすと知った。一方、ビール注ぎの名人といわれる人を訪ねてその業を盗むことなども重ねて、腕を磨いた。その結果、ビールを味わいながら飲むにはいい泡が不可欠と悟るにいたり、以後のぼくは泡派というか泡党となったのである。
 むろん、ビールの泡を嫌ってグラスを傾けるなどして泡が立たないように注ぐ人も多い。だが、こちらの好みも確かめずにだれもが泡嫌いと一方的に決めつけて泡を立てずに注ぐのはなんとか止めてもらいたいと思うのだ。ぼくの体験から言えば、泡党とて泡を飲むのが好きという人はほとんどない。第一、泡を食うのも飲むのもイヤだし、そもそもそれだけで旨いものではない。要するに、いい泡をたてることでビールの旨さを保とうということなのだ。
 逆に言うと、泡嫌いはビールの正しい飲みかたをご存知ないということにもなる。しかるべく取っ手のついたジョッキーはビールの泡が上唇にはあたっても口には入ってこない構造になっているのをご存知だろうか。取っ手のないジョッキーや普通のグラスでも正しく持って飲むなら、上部の泡は口に流れ込んでは来なくなるものである。
 さて、冒頭のモナコのカジノのバーテンダー氏の話に戻ろう。ぼくが感心したのは彼が世の中にはビールの泡好きと泡嫌いがいることを知っていて、ビールを注ぐ前に泡がいるのかいらないのかを尋ねることがサービスと心得ていることだった。日本のクラブやバーでは、たとえば誰かがタバコを取り出すとすぐさまライターで火を付けることがサービスだと思っているようだが、40数年ビールを飲んできたわが体験からしても、ビールを注ぎにかかる前に泡が欲しいかいらないかを尋ねられたことは残念ながら一度としてない。わが余生にも限りがあるが、生きている内に一度でいいからそんなサービスを受けてみたいと思うことしきりである。

2000年10月23日「蕎麦好き」
 ぼくはもうかれこれ20年玄米を主食にしてきた。それにともなって14〜5年は哺乳動物(牛、馬、豚、鯨など)もいっさい食べない時期があった。とはいえ、根が旨い物好きなので、その間ぼくの関心は旨い地鶏と蕎麦にむかうこととなった。
そんなわけで、ぼくは重度の蕎麦愛好家となり、 関西育ちはふつううどん好きになる人が多いというのに、もっぱら蕎麦店通いである。少し前のことだが、杉浦日向子とソ連(蕎麦連合の略か?)の編著になる「ソバ屋で憩う」(新潮文庫)に出ていたNHKまえの某蕎麦店へ行って、天せいろを頼んだまではよかったが、出てきた海老のてんぷらをみて仰天した。どう見てもてんぷらではなく、海老フライのような茶褐色をしているのだ。あとにもさきにも、その時だけしか行ってないので、それがその店の流儀なのか、その時だけ揚げ過ぎたのかは判らない。はっきりしているのは、おそろしく不味かったということ。そのうえ蕎麦もたいしたことがないときて、酒も不味くなり、いやな気分この上ない状態だった。それにしても、杉浦日向子とソ連の諸氏は、あんな店で海老フライそばを食しながら「憩う」らしいと、なかば呆れている昨今である。
 都心では赤坂の砂場がぼくのお気に入り。といっても、注文するのは、とりわさ、卵焼きにぬるかんの酒。それでしばし過ごして、天せいろ。ここの天せいろと天ざるとでは蕎麦の種類がちがっていて、繊細にすぎる天ざるのそばをぼくは好まない。ここで過ごす午後4時すぎの時間はまちがいなく至福のときとなる。
恵比寿駅近くの香り屋も最近わりと行く店だが、ここの蕎麦は太めんはいいが、細い麺はまったくいただけない。コシがないのだ。でも夕方にふらりと寄って鴨ロースでビールのグラスを傾けてしばし過ごし、おもむろに食べる太切りの蕎麦はなかなかオツなものである。
 一時は長坂の翁や忍野八海の天祥庵に旨い蕎麦をもとめて通ったこともあるが、八王子の野猿峠ちかくに車屋を見つけてからはもっぱら車屋通いの身となった。ここも翁や天祥庵と同様に一茶庵系のお店で、じつに旨い。鴨ロースも上質、酒も銘柄がいろいろあって選ぶ楽しみも満喫できるし、熱々の蕎麦がきで腹を暖めてから口にする三色盛り合わせの旨いことといったら!
 いよいよ新蕎麦も出回り始めているし、蕎麦好きにはこたえられない秋ではある。

2000年11月1日「たてまえ」
 もうだいぶ前の話しだが、エジプトの飛行機で旅したときのことだ。まだシベリア・ルートも使用できず、ヨーロッパへの旅はアンカレッジ経由が一般的な時代。いわゆる南回りで行く人は少なかった。それでも利用するには、それなりのワケがあった。割安だったからである。とは言え、1969年の年末で東京〜ロンドンの往復が約33万円だったから、いまから思えば安くはない。それでも当時はこのくらいでベスト・プライスだったのだ。
 そして、安かろう、悪かろう、と言ってはなんだが、利用した航空会社のフライトは遅延に次ぐ遅延で、まともに時間通りに飛んだことがなかった。まず羽田出発の日からして24時間ディレイした。とはいえ、広告会社の契約社員だったぼくとしては丸一日出発が遅れただけのことだったが、同行のK氏は道路管理会社のお偉かたで、見送りの人たちが多く、百数十人に出発1日延期の旨を電話連絡するだけで1日仕事だった、という。
 この旅では得難い経験を沢山したが、もう二度とゴメンの体験はローマから帰国の途に着いた機内で起こった。例によって、免税店で買い求めたスカッチをちびちび飲んでいると、隣の席のエジプト人が話しかけてきて、われわれはイスラム教徒だからアルコールはやらないと言う。その男はさらにアラビア語がいかに優れた言語であるかをとうとうと説明。はじめのうちは酒の肴がわりに聴いていたが、そのくどさにヘキエキとし始めた頃、
突然アナウンスがあって機内のライトが暗くなった。「イスラエルの戦闘機が近くにいるので、機内外のライトを消す」というのである。そんな馬鹿な!予告もなしに民間航空機に攻撃をしかけてくるなんてことがあるわけがない。と自分に言い聞かせて努めて冷静さを保とうとしたが、恐怖心はぬぐえない。エジプト人たちしてみれば、鬼より怖いイスラエルの戦闘機のこと、なにをしでかすか判らないと思ったらしく、機内はがぜんパニックの様相を呈した。わが隣席のくだんのおっさんがバツが悪そうに声をかけてきて「おれにもウイスキーを飲ませてくれないか」気前良くふるまってやったが、たちまちボトルは空になり、2本目もあっと言う間にあいてしまった。イスラム教徒は飲酒しないというのは「たてまえ」だと思い知らされたものである。
 そんなこともすっかり忘れていたら、オホーツク海上空で大韓航空機が撃墜される事件があり、ぼくは改めて肝を冷やした。飛んでははならない領域を警告を無視して飛行し続けたから撃墜したというのがソ連側の言い分だったように記憶するが、それだって一種の「たてまえ」にすぎない。民間航空機を平気で攻撃し、平然としていられる連中なんて人間失格である。いくら職務を遂行しただけと釈明しようと、通るものではなかろう。
 いまの中東情勢を見るにつけ、宗教や民族に根ざした複雑な問題が絡んでいるだけにひとすじ縄で解決できるとは思わないが、まずは冷静に、そして「たてまえ」ではなく、ともあれ同じ人間なんだという自覚を失わずに対処して欲しいと祈らずにいられない。

2000年11月24日「ラウル・ガルシア・サラテさんを迎えて」
 ぼくが個人的に招いたペルーの人間国宝的ギタリスト、ラウル・ガルシア・サラテのコンサートが無事終了。ホッとしたとたんに風邪にやられた。というより、だいぶ前から、珍しく胃腸の状態が思わしくなかったり、鼻水や軽い咳がでたりといった症状はあったから、風邪を引いていたのだ。だが、公演前に寝込むことはできないという強い意識が働いて、すべてが終わるまでなんとか持ちこたえたというべきかも知れない。
 ぼくが主催したのはルーテル市ヶ谷センターでのコンサートだったが、250の全席を完売、30人ほどの立ち見まで出るほどの盛況だったが、おかげで赤字を出さずにすんだ。駆けつけてくださった皆さんに、感謝感謝!である。
 それにしても、立ち見まで出て、やっとトントンというのは妙な話と思う人が多いだろうが、事実だからしょうがない。要するにもっとキャパの大きいホールでコンサートを開催できて、そこを埋めるだけの観客が来てくれるのなら、なにも問題はない。ペルーの人間国宝といっても、そのことを知っている人の数は少ないから、大ホールを借りても、切符を売るのが大変どころか不可能に近い。今回のコンサートにしても2週間ほど前まではチケットは半分ほどしか売れてなくて、ぼくは30万円ほどの欠損を覚悟し、10月25日から11月5日まで予定していたキューバ旅行も中止して、観客動員に走り回った。
 ところが、間近になって問い合わせが急増し、ぴあに委託していた分も完売となったのはいいが、じつはオーバーブッキング状態となり、今度はむりやりお願いしてまとめ買いしていただいた友人たちに電話をかけまくって返券をお願いする始末。われながら、自分の素人興行師ぶりに呆れたものである。
 とは言え、ラウルさんの演奏そのものは、予想以上に素晴らしく、ぼくもマエストロの至芸を満喫した。ラウルさんとは旧知の間柄の濱田滋郎先生などは、歓迎パーティに始まり、ラストの茨城県八郷にあるギター文化館でのコンサートまで、すべてのイベントに皆出席。さらにマエストロが日本を発つ11月21日には、RGZの文字を織り込んだ詩まで作って来てホテルでプレゼントするという熱の入れようだった。
 どの会場でも大勢のかたから、「ラウルさんを呼んでくれて有難う」というねぎらいの言葉をかけていただいたが、それがどんなに嬉しかったか!
 ぼくは音楽ジャーナリストと名乗っている。なぜかといえば、醒めた頭で音楽家やその音楽を評価をしなければならない音楽評論家の立場がぼくのガラではないと思うし、それよりぼくは好きなアーティストのことやその音楽のバックグラウンドを報道したいと考えているからである。ペルーでは超有名でも、日本では知る人ぞしる存在でしかなかったラウル・ガルシア・サラテというアーティストを日本に招いて紹介するというのも音楽ジャーナリストの仕事だと考え、危なっかしい素人興行師役を演じたわけだが、それだけに多くのかたに喜んでもらえ、ねぎらいの言葉をかけていただいたことで、ぼくは苦労が報われた気がしたものである。
 この小文を目に留められて、コンサートは逃したけれど、ラウル・ガルシア・サラテの音楽に興味を持ったかたがおられたら、ぜひとも次の2枚のCDに耳を傾けていただけたらと思う。『郷愁のインカ』(テイクオフ TKF-2818)と『太陽の乙女たち』(同 TKF-2911)である。前者では1970年代前半の荒削りながら気迫にみちた至芸がすばらしく、近年の録音である後者では年輪をかさねたマエストロのいぶし銀のギター・プレイにふれられる。どちらを選ぶかは、聞き手の好みである。
 今回のラウル・ガルシア・サラテさんを日本に招くにあたっては大勢の方がたのお世話になったが、なかでもリマ在住の日秘(にっぴ=日本ペルー)商工会議所会頭の野崎英夫氏には一角ならぬお世話になった。氏が東京フリマ間の航空券を提供してくださらなかったら、いくら採算は二の次という素人興行師役のぼくでもラウル・ガルシア・サラテの招聘に踏み切ることはなかったと思う。
 それにペルーとはいろんな意味で縁の深い岩本匡司さん。野崎さんとのパイプ役にはじまり、終いにはラウルさんの全幅の信頼を得て、彼のJVC録音のコーディネーター役を務めてくださった早川智三さん。市ヶ谷のコンサートに友情出演してくださったソンコ・マージュさん。同じくその日のコンサートに出演してケーナでラウルさんと共演してくれたグルーポ・カンタティのエルネスト河本さん。裏方として不慣れなぼくたちをサポートしてくれたカンタティの島田静江さん。そしてラウルさんと濱田滋郎先生のギターワークショップに大勢の人を動員してくださった上に、自分でも参加してくれたフォルクロリスタの木下尊惇さん。赤坂のホテルから茨城の八郷のギター文化館までラウルさん夫妻を車で運んでくれた加藤忠さん。これらの方々のサポートあって、ともかく無事にラウルさんの初来日好演が終わったわけで、あらためて心からお礼申しあげます。
 と、いささかマジな話が続いたところで、笑い話をひとつ。ぼく、竹村の酒好きはほとんど飲まないラウルさんには印象的だったらしく、来日して4日目だったかに、「きみはタケムラじゃなくてサケムラだ」とのたまい、以後ことあるごとに「サケムラ!」と呼ばれたのには閉口した。それにしても、だれがこんな知恵をラウルさんに付けたのだろうと思案したり、いや待てよ、案外タケをサケに自分で置き換えたのかもと思ったり。いずれにしてもラウルさんはこんなふうに茶目っ気のある人なんです。
 折しも同じペルーから、APECにむりやり出席したフジモリ大統領が11月17日に予定外の来日を果たし、本国に向けてE-メールで大統領職の辞任届けをだすという不測の事態が発生。21日には記者会見し、当分そのまま日本に滞在することを表明。いっぽう本国の国会はフジモリ大統領の辞任届を受理せず、罷免を決定。なにやら不穏な雲行きとなっている。月40%のインフレを退治し、過激なゲリラ組織を鎮圧したフジモリ氏の功績は大きいとぼくなどは思ってしまうが、ペルーの政治や経済の中枢をしめる白人系の人たちには日本移民のせがれがコシャクなといった人種偏見があったに相違ないことは容易に想像できる。この先ペルーがどんな方向へむかうのか、ペルーから音源を輸入してペルー音楽の紹介に力を入れているぼくとしてはひと事ではない。
 月40%のインフレと口で言うのは簡単だが、その渦中にいる人たちはたまったものではない。最低賃金のシステムがあっても、つねに後手後手となり、民はその余波をモロにかぶって苦しむはめになるのが定石である。ある日本人旅行者が空港税の分だけ確保して空港に行ったところエアーポート・タックスが値上げされていて、発つに発てず困り果てたという笑えない話もある。レストランに入って注文したら、すぐに勘定をすませろというジョークも南米ではひと頃流行った。なぜなら、帰り際に勘定すると、驚異的なインフレのために時々刻々料理の値段が上がるからというわけである。
 社会情勢が不安定になれば、その国の音楽が低迷することは歴史が物語っている。インカの時代からいまに至るまで、豊かな音楽を生み出してきたペルーが、政変ゆえに泥沼にはまってにっちもさっちも行かなくなるようなことがないことを祈りたい。

2000年12月20日「電車と駅についての雑感」
 礼儀知らず!常識知らず!と面罵してやりたい連中がますます増殖傾向にあって、うんざりである。たとえば駅の階段。昇る側、降りる側を設定してあって、幼稚園の子供でも判るように明示してあるのに、守ろうとしない人のほうが断然多い。大都会の大きな駅ではうじ虫のようにウジャウジャと人間が蠢(うごめ)いているのだから、決まりを守ってくれないと、歩きづらいし、ぶつかって転倒落下といった事態にならないとも限らない。
 JRの駅では大抵喫煙コーナーが設けてあって、そこ以外では禁煙ということになっている。だが、これも守らず、所かまわず煙草を吸うヤカラがあとを絶たない。人混みを歩きながら煙草を吸う人も少なくない。ぼくもかっては喫煙党だったが、やめてからいちばん嫌なのが前を行く歩行者から漂ってくる紫煙である。それを避けるために、早足でそいつを追い越すか、立ち止まって少し距離をとるようにしているが、別のスモーカーが割り込んできたりしてはた迷惑この上ない。屋内の禁煙ゾーンの拡大にともない、屋外で吸う人が増えているようにも思え、困ったものである。
 電車やバスなどの公共の乗り物内ではうるさいくらいに携帯電話の使用を禁止したり遠慮して欲しいとのアナウンスが流れてくる。「ペース・メーカーに悪影響をあたえるため云々...」と、車掌がかなりマジに言っていても、そんなことを一向に気にすることなく延えんと話し込んでいる連中も多い。とはいえ近頃はメールが主流になりつつあって、鬱陶しい話声から解放されつつあるが、黙々と指を動かしながらケータイを見つめている人間のさまはあまり美しいものではない。だいたい人とコミュニケーションをとるのに器械というメディアを経由しないとうまくいかないこと自体が非人間的に思える。おまけに家ではゲームに熱中というのでは、人間性が希薄になって当たり前というものだろう。
 乗り物といえば、いい年齢のオジサンが漫画雑誌に夢中になっている図もスマートではない。どうでもいいことかも知れないが、ぼくにはそんな連中のアホズラがどうにもいただけないのだ。乗り物がらみでもっとも困るのは電車にとび込んで自殺する人が後を断たないことである。ぼくが都心に出るために利用しているJRの中央線は、いつしか自殺の名所のなってしまって、多い年だと年間に60人前後の人がみずからの命を絶っている。多いときには1日に3人の人がとび込み、午後から深夜まで中央線が麻痺状態だったことがある。つい先日のこと、ぼくが乗っていた電車が国立駅(くにたち、と読みます。念のため)を通過しようとしたとき、とび込んできた人がいて、電車は急停車。ただちに車内アナウンスがあって、しばらく停車するとのこと。ややあって、「ただいま救助活動中です」と放送があり、さらに数分後に「警察の検証中です」。
 アナウンスの推移で、どうやらとび込んだ御仁が願望どおりにあの世へと旅だったらしいことがわかったものの、車内の人たちは一様にうんざり顔。なかには救助作業や遺体処理の様子を興味津々の顔つきでのぞき込んでいる人もいたが、ぼくは血に弱いので目をつぶって寝た振りをしていた。第一、その夜は友人と食事する予定だったので、そんなものを見た日には料理が喉を通らなくなってしまうと思ったからだ。
 自分が乗っている車両が自殺者と遭遇したのはその日だけだが、人身事故の余波はもういやというほど体験したし、NHKの生放送に遅れそうになったことも二度ある。それにしても、イタチの最後っぺのような、むだな抵抗をしてこの世を去って行くよりもっといい方法があるのでなないかとつくづく思う。フランスの画家ビュッフェは自分でビニール袋をかぶってから密封して窒息死したが、迷惑度が少ないだけスマート。さすがである。

2000年12月22日「パンチョスに気をつけろ」
 ぼくのホーム・ページの“聴きものCD”の欄に紹介したパンチョスがらみの2枚について問題が生じたので、今回はそのことにふれたい。
 その1枚に関して、ぼくはこんな風に書いている。
Charlie Zaa & Los Panchos"Romance de otra epoca"
はっきり言って、このレコードは詐欺的商品だ。もともとふわふわとロマンティックな歌を唄って、ぼくはちっとも巧いとは思わないが、人気のあるコロンビアの若手歌手チャーリー・サーが上記のようなCDを出した。おまえもパンチョスかと思ったが、パンチョス好きが多いラジオの聴取者サービスのためにと買い求めて聴いたが、屁みたいな唄に心底腹がたった。
 全12曲のうち1.3.4.6.7.9.10.12.の8曲が実体がはっきりしないロス・パンチョスの演唱で面白くもなんともない。これではオリジナルのパンチョスに無礼だ。そしてサ−自身が唄う4曲にしても、プエルト・リコのベニート・デ・ヘスースの名曲「わたしたちの誓い」のイントロでパンチョスの演奏を使い、途中から強引に、したがってきわめて不自然にオケの伴奏に代えるなど、なんともひどい。こんなレコードは絶対お買いにならないようにとご忠告します。

 これについてはなにも問題ないのだが、もう1枚のほうもこのCDと同様に詐欺まがいのアルバムだと判明したのだ。

Julito Rodriguez・Johnny Albino・Enrinque Caceres
"Homenje a El Trio Los Panchos・El Reencuentro"
 トリオ・ロス・パンチョス人気は、衰えるどころか、ますますそのボルテージが高くなっているようだ。ベネズエラの"エル・プーマ"ことホセ・ルイス・ロドリゲスが、パンチョスの往年の名演唱に自分のボイスをかぶせた「共演アルバム」がヒットして以来、そんな傾向が強まっているようだ。
 本作もパンチョス人気を当て込んでの企画だが、中味はいい。それもそのはず、3代目のフリート・ロドリゲス、5代目のジョニー・アルビノ、6代目のエンリケ・カセレスと、パンチョスの歴代トップ・ボイスが一堂に会して懐かしのパンチョスのヒットを唄っているのだから。3代目が75歳、5代目が82歳、6代目が64歳で、ところによりヨレルところもあるが、単なるトップ・ボイスの同窓会に終わらず、しっかり唄って弾いて魅了するのはさすがだ。ちなみに、「ある恋の物語」「ペルドン」など5曲を11/7のPグラフィティで放送予定。ぜひご一聴を!

 “聴きものCD”の欄には上記のように紹介したのだが、じつはいろんな問題をはらんでいたので、訂正をかねてご報告したい。
 まず問題は「3代目のフリート・ロドリゲス、5代目のジョニー・アルビノ、6代目のエンリケ・カセレスと、パンチョスの歴代トップ・ボイスが懐かしのパンチョスのヒットを唄っている」のは事実であるが、「一堂に会して」は唄っていなかったことが判明したこと。CDの仕様や解説から、ぼくが早とちりしてそのように思い込んでしまったのが、間違いのもとだったわけである。
 じつは、このアルバムから「ある恋の物語」「ペルドン」「恋の執念」「つた」「ペルフィディア」「シン・ウン・アモール」を放送でも紹介したが、その際ジャケットに表記されていたつぎのデータをあわせて紹介した。
*Primera guitarra y 3ra voz: Roque "El G歹rito" Lozada
*2da guitarra y2da voz: John Gonzalez
*Teclados: Noel Rodriguez y Tito Vicente
 で、かけた曲の大半でリード・ボーカルをとっているのは、82歳のジョニー・アルビノで、結局チャンと声が出ているのは彼だけなのでアルビノのバージョンをぼくは選んでいたわけである。そこで他の二人の声が聞こえないことに気づくべきだったが、不覚にもそれが出来ず、間違った情報をお伝えした。むろん放送のあと、数人の方から「一堂に会して唄ってはいない」というクレームのお便りをいただき、ぼくは2週後の放送でお詫びして訂正した。そのとき、なかの1人の方が「アルビノのバックを務めているのは一緒に毎年来日しているバルガス兄弟ではないか」と指摘してこられたことも報告したが、そのときもぼくはまだ上記のデータを信じていて、そんなはずはないと思うとつけ加えた。その数日後、東京世田谷区におすまいのMKさんから、こんなお便りをいただいた。
 「11/7 (火) 放送の"Homenje a El Trio Los Panchos" のCDからの6曲について私以外からも反響があったようですね。今回の放送で訂正されておりましたが、間違った場合直ちに訂正されることは大変謙虚で立派な態度と感心いたしました。なお、あのJohnny Albinoが歌った6曲は Taulino Y Gabriel Vargas の伴奏だという便りもあったと放送されました。私も16曲を無意識で聴いた段階で Julito RodriguezとEnrinque Caceresの伴奏が requinto, guitarra, teclados なのに、Johnny Albinoのものだけが requinto, gui- tarra, maracas なのはちょっとへんだなぁと思っておりました。この放送を聴いて早速 "Homenje a El Trio Los Panchos" のCDと97/11/21発売の"Trio Los Panchos Best Album" (日本クラウン CRCI-20323) のCD (演奏者Johnny Albino, Taulino Y Gabriel Vargas) を慎重かつ綿密に聴き調べてみました。その結果6曲とも全く同じ録音でした。いずれも演奏時間、演奏方法 ("Historia de un Amor"でのRequintoの腹を叩く奏法やその時間及び回数/スタート19秒時点,38秒,55秒,57秒, "Obsecion"での掛け声 1分30秒時点等、特徴的な演奏方法) が6曲とも同一でしたので間違いないと確信しました。おそらく日本クラウン (株) から買い取って編集したのではないでしょうか。」
 このお便りをいただいて、ぼくは仰天した。なぜなら、上記のデータは真っ赤な嘘ということになるからである。このぶんだと、MKさんが書いておられるように、「日本クラウン (株) から買い取って編集したのでは」という点も怪しいものであるが、それはぼくには関係ないことなので、これ以上追求するつもりはない。だが、なんとしても言っておきたいのは、エグゼクティブ・プロデューサーとして名前を出している Jorge Floresもミュージカル・ プロデューサーのNoel Rodriguezも、大のインチキ野郎になると言うことだ。さらに言えば、こんないい加減なアルバムを平気でリリースするBMG US LATINの神経も疑わざるを得ない。それにしてもパンチョスがらみなら売れるという音楽ファンの心情を食い物にするプロデューサーがばっこする昨今、パンチョスがらみのアルバムを買うときは要注意である。ともあれ、こんなインチキCDを紹介したことを恥じるとともに、こんな詐欺師的プロデューサーに災いあれ、と声を大にして叫びたい。

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