2001年1月1日「2001年の門出に思ったこと」
 ぶじに新世紀の初日も明けて、まずはおめでたいというのが実感。
 よくもまあ、と呆れるほど、次から次から、少年たちによる犯罪が起こり、警官たちの不祥事や医療ミスが明るみに出たり、銀行や保険会社や大企業の倒産が起こったりして、いかにも世紀末らしい様相を呈した1年だったが、総理大臣は宴会漬けの毎日。それも、赤坂の「口悦」(こうえつ)から、「山茶花荘」(さざんかそう)といった超高級料亭を一夜にはしごするという豪傑ぶり。問わず語りに「総理になって5キロ肥ったんですよ」などと宣うたこともあるが、これには開いた口がふさがらなかった。ぼくと同時期に早稲田に学んだ人たちがいまこの国の中枢にいるが、よってたかってこの国を破滅に追いやっているかのような印象しかないのは同窓の一人として本当に恥ずかしい。
 国家百年の計という表現があるが、そもそもいまの日本の政治家でそんな志を抱く人が何人いるだろうか。日本、ドイツとともに、第2次世界大戦を戦ったイタリアの当時の首相はかのムッソリーニだったが、彼はあの戦争のさなかにも道路や住宅の建設をすすめ、そこには「国家百年の計」ともいえるヴィジョンに則った政策があった、と思う。ぼくが大好きだったアヌーク・エーメが主演したフェリーニ監督の『甘い生活』の舞台となった集合住宅も、じつはあの大戦中に建てられたものだという。1969年の年末から70年の初めにかけてイタリアに行ったときに、「ムッソリーニは偉大だった。唯一ダメだったのは道路を100メートル幅にせず75メートル幅にしたことだ」と聞かされて、ぼくは唖然とした。戦時下にあっては道路も航空機の滑走路として併用する事態をも考えて建設されることもあるから、それなりの幅が要求されたのだとは思う。だが、それだけではないことも確かで、そこに「国家百年の計」が息づいているとは言えないだろうか。花森安治につくらせた「欲しがりません、勝つまでは」というキャッチ・コピーを喧伝し、貴金属からナベやカマまで「供出」させておいて、戦後しばらくして「大蔵省放出ダイヤ」などと銘打って民に売りつける官僚たちの感覚も庶民離れしているし、「国家百年の計」とはほど遠いノー・ヴィジョンの見本と言えまいか。
 このままではこの国が亡ぶのも時間の問題だろうが、新世紀に入って救世主が現れないとも限らない。そんな夢のまた夢のなかにしか明るい未来はないのか、はたまたあるのか。ぼくは21世紀のこの国の運命を命のある限り見届けてやるぞと元旦の朝風呂で自分に言い聞かせた。消費税30パーセント時代が来たり、老後の年金が削られたりと、いろいろと代償を払わせられるだろうが、それは見料と思うことにする。

2001年1月18日「素晴らしかった12年ぶりのシエラ・マエストラ日本公演」
 1月15日夜、キューバのグループ、シエラ・マエストラの12年ぶりの来日公演を観た。NHK近くのオリンピックプール前に新たにオープンした渋谷-AXが会場。出来たてのホールだけに気分がいいが、イスに座っていささかガッカリした。イスが小さい上に、居住性がすこぶる悪い。だが、そんなことも忘れるほど、ステージは期待どおり、いやそれ以上にすばらしく、久々にキューバ音楽を満喫した。
 音楽的かなめといえるフアン・デ・マルコス・ゴンサレスが、自身のグループ、アフロ・キューバン・オールスターズにかかりきりとなり、結局グループから抜けた格好になっているため、トレスの演奏とアレンジ面でいささか危惧がないではなかった。だが、そんな心配は杞憂に終わった。グアンタナモの出身だというトレス奏者エミリオ・ラモスの力量も大したもので、フアン・デ・マルコスが抜けたマイナスを全く感じさせなかった。その上トランペット奏者のオスレン・セバージョがものすごく達者な人で、かれのプレイにはわくわくした。ことに「Trompeta querida」(愛しのトランペット)などにフィーチュアされた彼のトランペット・プレイは見事で、いまさらながらにキューバ音楽シーンの層の厚さを思い知らされたような気がした。アルトゥーロ・サンドバルがキューバを去っても惜しくもなんともない。
 終演後、キューバ大使館のミゲル・バヨナ参事官に誘われて楽屋を訪ねたが、ぼくが敬愛する歌手のホセ・アントニオ“マセオ”ロドリゲスもベース奏者のエドゥアルド・イメリーもぼくのことをよく覚えてくれていたのは嬉しかった。思えば、ぼくがシエラ・マエストラの存在を知ったのは1983年11月に初めてキューバを訪ねたときのことで、アダルベルト・アルバレスに夢中だったぼくに友人で音楽学者のオラボ・アレン氏が「シエラ・マエストラもいいグループだよ」といって、彼らのデビュー・アルバム“Sierra Maestra llego con el guanajo relleno”(81年録音)を聴かせてくれたときに遡る。持ち帰ったそのアルバムを当時NHK-FMでDJを担当していた「世界のメロディ〜中南米の旅」で紹介したのがたぶん84年の1月か2月だったと思う。その反響は大きく、同年の11月に再訪したキューバで、ぼくは6枚のアルバムを選ぶ作業をおこない、そのうちの5枚が85年初夏にビクターから「モダン・キューバン・ミュージック・コレクション」として発売の運びとなった。シエラ・マエストラのセカンド・アルバム“SON ASI!”も『われらの時代』という邦題がつけられてそのシリーズの1枚としてリリースされた。
 その評判がよく、88年の9月〜10月半ばにかけてついに初来日が実現。来日記念盤として第3作『カリブの楽園』(原題:“SONERITO”)が発売されるなど、ここまではシエラ・マエストラの紹介プロジェクトは順調だった。ところが、その初来日のとき彼らは最新録音のマスターテープを持参し、日本側に発売を要請したが受け入れられず、それならばと経験も力もないぼくが自分でレーベルをつくり、その音源を『シエラ・マエストラ/新しい旅立ち』(テイクオフ/TKF-CD-1 廃盤)という邦題で89年4月に発売したのだ。
 そんなふうにいろいろな要素がからんでいて、シエラ・マエストラはぼくにとって特別の存在なのだが、彼らにとっても思いは同じだったらしく、ぼくが楽屋を訪れたとき心から再会を喜んでくれたのだった。さる10月のこと、アフロ・キューバン・オールスターズを率いて来日したフアン・デ・マルコスには事情があって会いにいかなかったが、その後何人かの人から「彼があなたに会いたがっていましたよ」と言われ、ちょっと後悔した後だけに、シエラとの再会はぼくにとって本当に素晴らしいことに思えたのだ。

2001年1月26日「ケ・リコ!カリビアン・ブリーズ!」
 1月24日の夜、六本木のスイート・ベイジルで大高実さん率いるカリビアン・ブリーズを観た。ずいぶん久しぶりのステージだったが、以前とはひと皮もふた皮もむけたごきげんな演唱の連発で、ぼくはとっても楽しんだ。ぼくが観た彼らのステージではこれまでのベストだった、と思う。「ケ・リコ!」と叫びたくなるほど、演奏がリッチだった。歌手の渡辺真知子さん、キューバ音楽研究では第一人者の高橋研二さん、昨年12月にラ・アバナでイグナシオ・セルバンテスの作品を中心にしてピアノ・リサイタルを開いてきたばかりの上原由記音さんたちと同じテーブルをかこんで観ていたが、みんなも異口同音に褒めていたから、ぼく一人の買いかぶりではなかったことは確かである。
 とりあげたレパートリーが新鮮。おなじみの曲でも、これまでと全くちがうアレンジがフレッシュかつインパクトがあって、ぐいぐいと彼らの世界にひっぱりこむパワーがあった。長年外国で活動してきた岸のりこが帰ってきて参加するようになったのも大きいが、声量ゆたかな川西 彌都古が陰影に富んだ表現力を身につけたことも大きいと思う。彼女はもう少ししたらインディアと張り合ってやっていけるだけの力を確実につけつつあると断言しよう。だが、それ以上にカリビアン・ブリーズのサウンドが大きく変身したのはアレンジャーが代わったことが最大の要因とみるが、どうだろうか。編曲が斬新になって、いまの息吹がサウンドに溢れるようになったことが、バンド全体を活気づかせているようだ。言葉を換えるなら、カリビアン・ブリーズはここに来てようやく東京キューバン・ボーイズの亡霊を振り払うことに成功したとも言える。
 ミュージシャン個人にしろ楽団にしろレッテルを貼られるくらいにならないと成功したとはいえない。だがレッテルを貼られると、それを求めてやってくる古くからのファンも多く、それだけに冒険がしにくくなり、つい“昔の名前で出ています”ということになってしまうものだ。「マンボNo.5」「セレソ・ローサ」などを定番にしてきた大高さんも、マエストロ見砂直照が確立したレッテルにこれまで惑わされてきたことは否めない。それが今回みごとに自分たちの楽団カラーをばっちり打ち出すことに成功したのは快挙である。マンボもやったが、これまではやらなかった「マンボ・イン」をやり、「シボネイ」にしても興味津々のアレンジと、それを鮮やかに唄い演奏するメンバーに恵まれてこそできる演唱を聴かせて魅了した。こんな演唱をこれからも聴かせてくれるなら、毎回必見である。マエストロ見砂のフォロワーからついに脱した大高さんにマエストロもあの世で目を細めていることだろう。新生カリビアン・ブリーズに拍手!そして、久々に誕生した日本最高のラテン・ビッグバンドに乾杯!

2001年2月1日「不愉快な銀行」
 先日、某銀行のキャッシュ・ディスペンサーで少々お金を引き出してから、カードをケースにしまおうとしたらパキッという音がしてカードにひびが入った。そこでその銀行に電話をして尋ねたら、カード更新のために登録してある印鑑を持って本人が来店することと言われたので、本日(1月30日)早めに家を出てその某銀行の四谷支店に出向いた。すると慇懃無礼な店内案内のオッサン行員が「どんなごようでしょうか?」当方「カクカクシカジカ...」オッサン行員「それなら書類を書いてください。あ、それからカードの再発行に1000円かかります」当方「なんで1000円もかかるの!? 納得いきません」するとオッサン行員は店内の他の男子行員に大声で「この人に説明してやって。カードの再発行に1000円かかるの、納得いかないんだって!」アッタリメーよ、納得行くわけねえじゃねーか。「そもそもオマエんとこで1000円の利子をもらうのに、どれだけ大変か知ってるのか」と叫びそうになったね。
 ここいらで当方の神経はほとんどプッツン状態。別のオッサン行員が説明し始めて間もなく、「いや、もういいです。つぎはあんたとこがヤバイと週刊誌にも出いていたし、ここらが潮時。預金全部だします。今日はハンコも持ってるし」といって、ヒビの入ったカードを力任せに引きちぎってから、預金を引き出してチョン。気分のすっきりしたこと!
 だいたい最寄の支店を閉鎖して利用者を不便にしたのもやつらの都合だ。おまけに、わが家の近所の主張所もなぜか閉鎖。最寄りの駅前にキャッシュ・ディスペンサーが1台だけで、それもコインは利用できないし、故障もしょっちゅう。そんなちゃちな銀行だからつぎはあそこがヤバイという週刊誌の言い分も真実味がおびてくる。そんなとこがつぶれようと公的資金という名の血税なんぞ投入する必要全くなし、というのがぼくの持論である。それに潰れそうでも、銀行員の給料は高嶺の花クラス、ボーナスもたんまりと聞く。おいらはボーナスなんぞ何十年もてにしたことがないぞ。どれだけ優秀な人材だかしらないが、エリート行員さんもいちど痛い目に遭っておいたほうが、世間知らずが治って本人の先行きのためにもいいのでは、とも思う。かねがね銀行員には“ネクタイをしめた強盗”みたいのが多いと聞いてはいたが、今日はつくづくその思いを深くした。
 ついでに言えば、しばらく前のことになるが、別の銀行に円を米ドルに換金に行って、やっぱり頭にきた。300$のパックを購入するに当たり、数10円の端数が出るので100円玉をいれようとするとネーチャン行員が飛んできて「硬貨はだめです!」
 仕方なく1000円札を追加して入れると、900余円の釣り銭が硬貨で出て来るではないか。自分の釣り銭は硬貨OKで、顧客の硬貨はNOでは話がとおらない。おしなべて銀行の印刷物や広告宣伝文には「みなさまの...」といった文面が多いが、そんなのは真っ赤なうそで口先だけだということがこんなことからもよく判る。美辞麗句を並べ立てていても銀行の本質はそんなもんじゃないことを小口の顧客は肝に銘じておく必要がある。その本性は拝金主義の極致。すきあらば稼ごうであって、頭の片隅にさえ顧客のことなんか毛ほどもないやつらだ。だが、そんな銀行はいずれ危なくなる、ならないとおかしいと思いたい。フィリピンのようにピープルズ・パワーが決起すべきときが刻々迫っていると思うが、みなさん、どう思いますか?

2001年3月11日「3/10トーク&チャリティー・ライブ」
 昨日 (3/10) 、エル・サルバドール大地震の被災者をサポートするトーク&チャリティー・ライブが無事成功裡に終了し、今朝はホッとした気分で、久しぶりに「言いたい放題」を書いてます。
 3月10日といえば、1945年のこの日をぼくは絶対に忘れることが出来ない。時計が零時を回った頃からいわゆる東京大空襲がはじまり、首都は一面の焼け野原と化した日だからです。ぼくの知人の母は隅田川に飛び込んで難を逃れようとしたものの、火はあの幅広い川面をなめるように渡って知人の母は帰らぬ人となり、彼はそのとき母を救えなかったというトラウマにいまなお苦しんでいます。
 それから56年の歳月が流れた昨日のこと、昨春の小淵首相急逝の直後、密室から森首相を担ぎ出したいわゆる5人組とよばれる腹黒い策士どもが、今度は事実上の森おろしを決定づけたと今朝の朝刊にあった。これではマッチ・ポンプのハラグロ5人組のやりたい放題ではないか。森氏では来る参院選挙を戦えないという焦りが森おろしの直接的な動機だろうが、参院選挙で自民党を完敗させる民衆パワーをフィリッピンに見習って今度こそ爆発させなくちゃ、と皆さん思いませんか?!
 いっぽう、ぼくは同じ3/10に六本木のサルサ・スポット、レストラン・ボデギータでエル・サルバドールの大地震被災者をサポートするためのトーク&ライブを主催。大勢の方がたの賛同を得て65人の定員をオーバーする盛況となり、胸が熱くなった。1月13日の地震直後から準備を進めてきたぼくとしては「やってよかった!」という気分を満喫。1人3500円でワンドリンク付のチャリティー・イベントだったので、24万円ほどのお金が集まり、そこから出演してくれたミュージシャンの交通費、レストランのドリンク代、その他の実費を差し引いた純益と、NHKの番組宛にお寄せくださった浄財とをあわせて15〜6万円はエル・サルバドール大使館に手渡せることになった。協力してくださった全ての方にこころからお礼申し上げます。ささやかな善行ですが、密室政治で奔走している奴らより有意義な一日が送れたことを神さまに感謝!
 それともう一つ嬉しかったのは、昨日の会に集まってくださった皆さんがチューチョ・デ・メヒコさんとルイス・サルトールさんの磨かれた芸とユーモアあふれる当意即妙な会話を存分に楽しんでくださったこと。チューチョさんが、ケネディ大統領、ジョンソン副大統領とジョンソン大統領の時代にホワイトハウスで御前演奏した話はぼくは初耳で驚いたが、ナット・キング・コールがスペイン語で唄ったアルバムでじつはチューチョさんが「カチート」など6曲の演奏やコーラスに参加していたという話にもビックリした。それからサルトールさんのコメントで、フォルクローレの名曲「花祭り」がいまでもアルゼンチンではほとんど無名の曲だという意外な事実を教えられた。それにしてもチューチョさんがいきなりギターの弾き語りで唄ってくれた「ラ・クンパルシータ」も素敵で、ぼく自身もすっかり楽しませてもらいました。
 この次ぎのトーク&ライブはいつかとおっしゃってくださった方も多く、2000年度に続いて機会を見て2度はやりたいと思っていますが、目下のところルシア塩満さんの会に招かれて、7月15日 (日) に仙台でトーク&ライブが実現することになっています。
 もう一つお知らせ。4月以降もポップス・グラフィティは続きます。ぼくとしては21世紀の新年度に21年目のDJ体験ができる幸せを噛みしめていますが、さらにラテン音楽を楽しんでいただけるよう頑張りますので、ご支援のほどよろしく!

2001年5月2日「虫くだし」
 3月28日に成田を発って4月13日までメキシコとキューバを回ってきた。メキシコには日本人の友人がいて、彼のために日本酒や焼酎、そしてツマミを見つくろって持っていくのがここ何年かの習慣になっている。いっぽうキューバにも心を許せる友だちが何人かいて、彼らのためにもぼくはキューバに電話したりメールをいれてなにを所望するかを確かめ、それらの品々の運び屋さんをやるのが常である。で、今回も出発まえに電話を入れたところ、友人の一人は「虫くだしが欲しい」とのこと。そこで近所の薬局へ行ったところ店員さんに「虫くだし!!!?」と超怪訝(けげん)な顔をされた。
 日本人の腹から回虫が姿を消してしまったらしく、そんなものを買いに来る客は皆無だそうだ。都心に出たときに数軒の薬局に行って尋ねたが、どこにもなく結局諦めた。そしてメキシコ市で、通りがかりにあったファルマシアに入り、もしやと思って聴いたところありましたね、これが!
 それにしても、いつの頃から日本人は回虫を駆逐してしまったのだろうという疑問がつのるばかりである。そこで、機会あるごとに酒飲みばなしの話題にしたところ、痩せるためにわざわざ回虫を腹に飼っている女性がいるらしいとか、日本人がアトピーや花粉アレルギーに苦しむようになったのと、回虫が駆逐されたのがどうやら同時期らしいことが判った。ということは、人間は回虫と共生するほうがいいということになるのだろうか。
 ところで、キューバに入った晩、友人の一人と約1年ぶりに再会したが、かれの顔色がさえない。聴けば、最近再婚した彼の夫人の連れ子である12歳の娘が入院したのだという。数日前から胃痛をうったえていたらしいが、今日になって強い腹痛となり、入院したところ、医者の話ではどうやら腎臓に問題があるのではということだった。そして、次の日、彼に再び会ったところ、腎臓に支障はなく退院したが、いまひとつ娘は元気ではないとのこと。さらに、その翌日、彼の家に遊びにいったところ、彼も奥さんもにこにこ。精密検査の結果、痛みの原因はなんと回虫だったのだ! 
 それやこれやで、回虫に振り回されたキューバ旅行だったが、大して食べないのに体重が増え気味の小生、まじに回虫を腹に飼おうかと考えている今日この頃です。

2001年6月14日「オレー!グアーパ」
 コンティネンタル・タンゴに「オレ・グァッパ」なる有名曲があるが、これはオランダのマランドが1937年のこと、映画の主題歌として作ったという。と言って、ぼくはその映画を観たことはなく、曲についてのイメージなど持ちようもなかった。したがって日本盤の解説を見ると、この曲名は「よう、ネエちゃん!」という意味だとまことしやかに書いてあるから、ぼくはこの曲はてっきりオランダ語だと40年以上も信じていた。
 ところが、つい最近のこと、これはグァッパでも、オランダ語でもなく れっきとしたスペイン語のグアーパ (guapa) ではないかと気がついたのだ。
 オレー(!ole'!)もスペイン語で、これは観客が闘牛士やフラメンコ・ダンサーなどを讃えたり励ますためにかけるおなじみのかけ声である。辞書によると「いいぞ!」とか「お見事」「しっかりやれ!」とある。それはいいとして、問題はグアーパ(guapa)のほうである。これはグアーポの女性形で、形容詞だと「美男の」とか「しゃれた格好をした/気取った(男)」という意味になる。この単語には名詞形もあり、グアーポ (guapo) なら「美男子」、グアーパ (guapa)なら「美女」だと説明されている。だが、ぼくの実感だと「いかした男」「いい女」のほうが近い気がする。かってキューバの有名なミュージシャンで、いまは亡きホセイート・ゴンサレスと食事をしていた時「スープはどうします?」とぼくが尋ねたら、「グアーポはスープなんか飲まないものだよ」という答えが返ってきてビックリしたことがある。とにかくタンゴの世界でいうなら、永遠のアイドル歌手カルロス・ガルデルは絵に描いたようなグアーポだったし、メルセデス・シモーネも、ビルヒニア・ルーケもグアーパだった。
 さあ、みなさん。お手元にコンティネンタル・タンゴのアルバムがあり、そのなかに「オレ・グァッパ」が入っていたら、赤ペンで「オレー!グアーパ」と訂正しましょう。

2001年6月22日「アマポーラ」の謎
 ラテン音楽の名曲のひとつに「アマポーラ」がある。ラテン好きなら、耳にしたことは一度や二度にとどまらないはずで、それだけ知られている有名曲でもある。だが、かねてよりこの曲の作者についてはいろんな風説があって、どこの国の曲かと聴かれても、ぼくなども「ウーン」と唸ったきり絶句するしかなかった。つい最近も京都にお住まいのTSさんからこんなお便りをいただいたばかりである。竹村さんの『ラテン音楽 名曲名演名唱 ベスト100』(講談社刊)には同曲は入っていませんが『ラテンの饗宴〜ナイト・クラブ時代』の解説書には、「ホセ・M・ラカージェの作品で、彼はスペイン人ともアルゼンチン人とも、コロンビア人とも言われ云々」とありますが、竹村さんはご存知ですか、というお尋ねである。
 永田文夫先生の『ラテン フォルクローレ タンゴ』をひもとくと、「アマポーラ」はメキシコの章に載っていて、「メキシコのホセ・M・ラカージェが1922年に発表した。ラカージェはアルゼンチンの人であるとも言われているが、詳しい経歴はわからない」と逃げがうってある。これではなにも判らない。そこで上智大学のイベロアメリカ研究所に勤務している友人、西村秀人さんにSOSのメールを入れた。以下は彼からの返信である。
 「作者 JOSE M.LACALLEですが、従来スペイン人、メキシコ人、コロンビア人、アルゼンチン人、ウルグアイ人という説がありました。間違いないのは1910年代から1930年頃までアメリカ・コロンビアの南米向けレコードの担当ディレクターをしていたということだけです。アルゼンチン人説は彼名義の録音にタンゴが多いことと、アルゼンチンでレコードが出ていたことが根拠と思われますが、全てアメリカでレコーディングしたものだったことがわかっています。しかも1930年頃でレコード界から名前が消えているので(亡くなったか転職したのでしょう)、もとよりルンバなどその他のラテンものを録音するはずがないのです。また1930年頃の写真を見るとかなりの年齢に達しているように思われ、仮に1870年頃の生まれだとすると、この時代に中南米から北米に移動してきてなおかつコロンビアという大会社で立派な地位につくのは難しいような気もします。とすればスペイン人という線が私には一番妥当に思われます。」
 一読して、ぼくはその博識ぶりに驚くとともに、納得した。西村さんの報告はさらに続く。「Frank Figueroaの "Encyclpedia of Latin American Music in New York"でも、
Spanish Composerとあります(その文献によると「アマポーラ」は1924年作です。それにしては本人名義の録音がないのは不自然ですが...)」
 かくして「アマポーラ」の謎は解けたような解けないような結果になったが、これだけ有名な曲の作者の国籍さえ判らないというのは珍しいケースだろう。
 ところで「アマポーラ」を訳すと、英語ならポピー (poppy) 、日本語だと「ヒナゲシ」である。漢字にすると「雛罌粟」というすごい字ずらになってしまうが、日本語にはちゃんと「虞美人草」という別の名称もある。これは夏目漱石が1907 (明治40) 年に発表した彼初の新聞小説の題名ともなった。だが、気になるので「虞美人」の項をあたってみると中国の秦の時代末に楚王・項羽の寵姫だった女性とあった。なんでも項羽が戦いに敗れると自殺したという。その姫と虞美人草との関係は不明だが、いずれにしても姫が美人だったゆえに、花にも転用されたと見て間違いないだろう。いっぽうスペイン語圏でも、アマポーラは美人の象徴として使われているようである。ただし「アマポーラ」に限って言えば、この歌のヒロインの名前であることをお伝えしておきたい。

2001年7月29日「青首大根と桃太郎トマト」
 厳しい気候条件などにマッチさせるためだとは思うが、植物の遺伝子組み替えが一般人の知らない水面下で想像以上に進んでいるようだ。「この納豆には遺伝子組み替えの大豆は使用されていません」といった表示がどのパッケージにも当然のようにされている。豆腐の包装にも同じことが言える。かと思えば、某社のポテトチップスには遺伝子が組み替えられたジャガイモが使われていたので自主回収した、というニュースも流れた。だが、それらを食すとどうなるかということはよくは判らない。そのスジではばっちり把握しているのだろうが、民のパニックを招かないためになるべく秘められたままにしておこうという配慮があるような気がしてならない。
 いまから30年ほど昔のことになるが、知人の生物物理学者からいま日本でヤバイのは水と米なのだが、この事実は封印されているという話を聴かされたことがある。ぼくはそうした方面には疎いので話の真偽は判らなかったが、備えあれば憂いなし。さっそく水道水は浄水器で濾過して飲むようにした。それ以後、今日に至るまで、これを習慣としてきた。とは言え、それは安全問題うんぬんより、濾過水のほうがあきらかに美味しかったから続いてきたのだと思う。
 先日もタクシーでなんかの拍子に水が話題となり、「水をペットボトルで買って飲むなんて10年前には想像もしなかった」と運ちゃんが慨嘆したとき、「日本の水がヤバイ」ことを改めて実感し、ぼくは背筋が寒くなるような恐怖を覚えた。と同時に、この30年間浄水器で濾過した水を飲むか、それが無理なときは市販の水を買って飲むことを習慣としてきた身としては、そんな機会を作ってくれた知人に感謝しきりである。
 さて今回のテーマは大根とトマトである。
 じつは近年ますます盛んな健康雑誌のいかにも効果がありそうな広告につられてトマト・ダイエットに挑戦中なのだが、すでに2ヶ月近くなるというのに、宣伝文句の17キロ〜5キロどころか1キロとて減量に成功しない。それでも余分な脂肪が減っているらしく、ここ数年はウエストがきつくなって敬遠していたズボンがすんなりはけるようになったのは朗報である。なんでもトマトを焼いて食べると、リコピンという有効成分が吸収されやすくなり、便秘しなくなったり、活性酸素の発生が押さえられるとか、血液がサラサラになるとか、いいことずくめなのだ。だが同じトマトでも最近人気の桃太郎という品種は、リコピンにしろ、ビタミンにしろ、そうでない品種に遠く及ばないという記事を新聞で見かけて以来、なるべく非桃太郎種のトマトを手に入れようとするのだが、これがなかなか面倒なのだ。酸味がうすく甘味が強くて口当たりがいいためだろうか、いまや桃太郎種が市販トマトの主流になりつつあることは歴然である。
 1〜2日おきに非桃太郎種のトマトを捜し求めてスーパー・マーケットまわりを繰り返すうちに、ぼくの心に甦ってきたのは青首大根の悪夢である。おそらく辛みを嫌う連中に迎合して、やたらと甘ったるく首が緑がかった気味の悪い大根がアッという間に日本の市場を征服して、かれこれ20年になるだろうか。辛いだけでなく、作りやすいということもあって、これだけ蔓延ったのだろうが、オロシにしてもまるで旨くない大根など言語同断である。最初はずいぶん抵抗していたが、世間では少数意見ゆえにどうにもならない。それでも最近は幸いなことに少数家族のために半分にした大根を売っているので、比較的辛みのある下半分を買うことで、いやな青首を見ないで済むようになり、多少なりとも溜飲を下げている次第である。

2001年8月2日「宝とも子さん、お疲れさま、そしてサヨナラ...」
 2001年8月1日朝5時40分、歌手の宝とも子(本名:追風八代子)さんが肺炎のために他界された。1921年 (大正10) 9月23日生まれだったので、80歳の誕生日を前にしての死ということになる。
 じつは今年の元旦に娘さんの家で軽い脳梗塞のために倒れられ、その後手術を受けられたりして快方に向かっておられることは耳にしていた。ならば80歳の誕生日の頃にラジオで宝さんの唄を特集してエールを送ろうと思い、数日前から選曲をやっている最中の訃報だったので、ちょっとショックを受けた。番組はそのまま追悼番組に切り換えて放送するつもりなので、ぜひ聴いてみてください。
 1934年 (昭和9) 宝塚に入り、44年に退団するまで在籍し、オルガ・カラスロワ女史についてみっちりクラシック音楽を学んだそうだが、太平洋戦争中はもっぱら中国や満州への慰問のような仕事だったという。宝塚退団後は、NHK大阪のラジオ歌謡の歌い手として活躍し、セミ・クラシックを中心に唄ういっぽう、夜ともなればジャズやシャンソン、そしてやがて演目の中心となるラテン音楽を劇場やナイトクラブで唄ったそうである。
 1948年に結婚して出産も体験するが、唄をやめることはなく、1954年に初録音「白樺の雨/星屑のタンゴ」でビクターからレコード・デビュー。これによりかねてより念願だった東京進出の基盤を築いた。そして同年4月発売の「セ・シ・ボン」のセクシーな歌唱が話題となって2ヶ月で約2万枚を売る大ヒットとなり、人気を不動のものとした。
 「セ・シ・ボン」がヒットした頃、ぼくは高校生だったが、その頃大阪の梅田にあったOSミュージックの人気ダンサー、アンヂェラ浅丘に憧れたりしていた。宝さんの「セ・シ・ボン」を聴くと、不思議に双方の思い出がまざりあってぼくの脳裏を駆けめぐるのだが、それはオイロケがキーワードになっているからだろう。
 宝さんは1957年頃からラテン音楽への傾斜を深めていったが、58年から59年にかけて約半年間ブラジル、チリ、メキシコの演奏旅行を敢行。これは本場でラテン音楽を本格的に勉強したいという一心からだったという。その際ブラジルで残した4曲の録音はいま聴いても宝さんの唄の巧さとセンスのよさが感じられてじつに素晴らしい。
 宝さんに初めてお会いしたのは、やはりいまはなき見砂直照さんの紹介だったと記憶する。見砂さんはずいぶん口の悪い人で、宝さんをつかまえて「オババ」よばわり。しかし宝さんはさして嫌な顔もせず、聞き流しておられたのを思い出す。おそらく今頃、あちらで「オババ、おまえもようやく来たか」とかなんとか言って、マエストロは宝さんを歓迎しているに違いない。
 いちど世田谷のご自宅にレコードを拝借しにお邪魔したことがある。ばっちり化粧し派手な服装で最寄りの駅まで自転車で迎えに来てくださったのだが、なんとも言いようのないミスマッチぶりにすれ違う人たちが唖然として見ていたことも今となっては懐かしい思い出である。近年はAMLAN (日本ラテン歌手協会) の新人歌手コンテストでご一緒させていただくことが多かったが、お会いすると「あんたの放送いつも聴いてるよ」と言ってくださって、ぼくはどんなに励まされたか判らない。いつのことだかどうしても思い出せないのだが、話題が宝塚出身の歌い手に及んだとき、宝さんは「宝塚は唄下手や」と一刀両断されたが、これも忘れがたい思い出である。
 13歳で宝塚の門をくぐり、79歳の誕生日をすぎるまで現役の歌手として活動された宝さんに心から申し上げたい。「お疲れさまでした。そしてサヨナラ...」と。合掌。

2001年8月15日「父の御霊は靖国神社などに鎮座していない!」
 小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題を契機にまたまた参拝が是か否かの議論がかまびすしい。お参りする人に、「公人としてか、私人としてか」などと毎年オウムのように訊くマスコミの連中もアホだが、国のために命を落とした先人たちの御霊よ安らかなれと心から祈りたいのなら、詣るほうも毎年8月15日だけでなく、少なくとも毎月1日と15日には欠かさずお参りするぐらいの誠意を示すべきだろう。
 ともあれ今日は56回目の終戦記念日である。この機会に、遺族の一人として言いたいことを言っておきたい。ちなみに我が父は1944年8月11日に中国中部で地雷にふれて負傷、数日後に野戦病院で戦死した、との通知を当時受けた。すでにフィリピンで三男が戦死、続いて次男だった我が父の訃報にふれて、亡き祖母が号泣していた姿がいまもあざやかに思い浮かぶ。
 英霊とは元もと死者の霊の尊称であるという。それがいつの頃からか戦死者の霊を指すことが多くなったと辞書にある。英霊か霊か、どちらであっても構わないが、少なくともわが父の御霊は靖国神社に鎮座したりはしない、とぼくは信じている。だいたい死者は追善供養する子孫の心にしか存在しないものだ。国のために尽くした戦死者全員にまとめて冥福を祈る行為は決して悪いことではないが、政治家にしろ一般人にしろいまなお感謝の念を抱いている人がいったいどれだけいるだろうか。
 ぼくは7歳で遺児となったので、若干の遺族年金が交付されていた、とかつて親類筋に聞いたことがある。それは二十歳で打ち切りとなったらしいが、それは理解できる。ところが30年ほど前だったろうか、当時住んでいた新宿の区役所から連絡があり、ぼくが申告しないので特別遺族年金を受ける権利が消滅するという。訊けば、官報に公示してあるのに、それを知らない方が悪いとでも言いたげな小役人の横柄な口ぶりに腹が立った。そもそも、たった1枚の赤い紙で人の親を召集し、彼が命を落とす環境に追いやっておきながら、電話一本で期限が切れるぞはないだろう。そんな連絡をしてくるぐらいなら、「この度わずかながら特別遺族年金がでることになりました。近いうちにお手続きに来てください」とでも言ってくるために同じ電話代をつかうのがスジだろう。その上、その手続きがめっぽう面倒でヘキエキとした。それでもやっとの思いで受領にこぎ着けたら、なんと2万円の国債の10枚綴りだったのには呆れた。
 それから10年ほどして、また同じ趣旨の連絡。今度はいま住んでいる日野の市役所の年金課からだった。今度は30万円、3万円の国債100枚綴り。これを受領するために前回同様の面倒な手続きをまたまた余儀なくされる。年金を受領できる資格がありながら死亡などで資格喪失したことを改めて立証しなくてはならないのだ。やっとのことで手続きが終わると、2年後ぐらいに受領できるでしょうという、まさに他人事の説明をする事務の女性に毒づいたが、馬耳東風の風情。この一事を持ってしても、公務員のチンタラ勤務ぶりが見えるではないか。
 数年前に3回目の特別遺族年金の交付申告期限が切れるという、同じ電話。またいつものように年金課の窓口で喧嘩。けったくそ悪いので、今回の交付金40万円を妹の家族ともども99年暮れに韓国を訪れて3泊4日で使いきったが、これでいささか胸のつかえがおりることとなった。それにしても日本の政府は特別遺族年金であれODAであれ、「呉れてやる」という姿勢が目立つばかりに受給者に感謝されないケースが多すぎはしないか?そんなことを改めて思った8月15日でした。

2001年11月21日「未曾有の米国同時多発テロ事件に思う」
 9月11日夜のこと。キューバに行くという娘の友人にブリーフィングを頼まれ、六本木の“ボデギータ”で娘ともども3人で会食していたときだった。店内のテレビのぼやけた画面にビルに突っ込む航空機の映像が映し出され、それまでサルサを踊っていたお客たちが急に真顔で画面を見つめているので、お店の人にわけを尋ねて、ぼくは初めて事件の発生を知った。しかしその時はまだ詳細はわからず、後になってほぼ同時にハイジャックされた数機の旅客機がニューヨークの世界貿易センターのツインビルとワシントンのペンタゴンの巨大なビルの一角に突っ込んだことを知って唖然とした。
 ビルに相次いでぶつかって炎上する旅客機。やがて崩落するビル。まるで映画のワン・シーンのような生なましい映像を繰り返し見せつけられて、「これはテロというより人類に対する挑戦だ」とぼくは思った。
 ぼくのコラム「言いたい放題」を結構見てくださっている方が多いらしく、今回の事件に際してどんなことを言っているか知りたくてチェックしているが、なにもコメントしてませんねといったメールもいただいたりした。だが、あまりの衝撃の大きさに、ぼくはコメントする気になれなかった、というよりTVや新聞でとりあえずまことしやかにコメントする人たちと違い、ぼくはコメントする術を知らなかったと言うべきだろう。ただひたすら犠牲になられた旅客機の乗客乗員の方がた、世界貿易センターやペンタゴンにいて惨事に巻き込まれた方がた、救助活動に当たっていて殉職された警察官や消防士の方がたの冥福を心からお祈りしたい。ぼくの心に去来したのはそんな気持ちだけだった。
 さきに人類に対する挑戦だと書いたが、やがて炭疸菌郵便が米国の要所に送りつけられる事態が発生し、今回の事件はそんな様相をますます強めている。犯人たちは自分たちだけは助かるつもりでやっているのだろうが、ことはそれほど単純ではないだろう。化学者たちが死にものぐるいの努力の果てにどうにか退治することに成功した炭疸菌を培養し、ばらまくなどという行為は人類に対する挑戦以外のなにものでもない。だとすれば、人類は人類を滅亡に追い込もうとする邪悪な力と戦わなければならないのは事実だ。しかし一連のハイジャック機による自爆テロ事件では実行犯たちが爆死してしまっているため、その黒幕や根源を特定することは困難であろう。そこで結果的にはいい加減な類推でしかるべき人物が主犯だと断定し、その人物をかくまう組織や国の壊滅に米国が乗り出す方向でことは進行している。そうでもしなければ、米国民の気持ちがおさまるまい。
 だが、その一方で、そうした行為はいわゆる報復であり、結局タチの悪いイタチゴッコが始まることになり、本質的な問題解決にはならないという指摘も声高に起きて、反対運動もさかんである。さらに全面的に米国を支援すると発言している日本国総理大臣に対しても「冷静に対処すべきだ」というイチャモンがつけられているのは周知のところだ。かの安全保障条約がある以上、支援しなければなるまい。だがそうすれば一派と見なされ、攻撃の対象とされるのは自明の理である。
 今回の事件では日本がやった真珠湾攻撃がさかんに引き合いにだされ、挙げ句の果て、いま頃になってその最終的な報復が広島と長崎だったとコメントしていた米人もいたのには驚いた。そんな考えだからテロの対象にされるのだ、と日本人として言ってやりたくもなる。真珠湾攻撃の犠牲者は2,043人だったが、今回はそれ以上だからもっとやれということにもなりかねないが、慎重に対処してもらいたい。要は人類と悪魔の対決という永遠の命題の2001年版であり、そのことを重々肝に銘じて対処すべきということだろう。

2001年11月23日「ラテン音楽のディーバ、クリスティーナ三田の唄に魅せられて」
 さる10月29日のこと、ジョニー・アルビノ率いるロス・パンチョスを観に大宮まで痛む足を引きずっていった。9月末から持病の腰痛がまた発症し、痛みがいっこうに引かない。そのためいま一つ気乗りうすだったが、どうしてもジョニー・アルビノに会って確かめたいことがあり、遠路はるばる駆けつけたのだ。というのも、10月9日の放送でジョニー・アルビノの珍しいタンゴ・アルバムを友人のHさんから拝借して放送したところ大きな反響があった。その内容の素晴らしさといったら、アルビノの数多いアルバムのなかでも間違いなくベスト3にランクされる内容である。かってパンチョスを離脱した後アルビノが設立したSTABRIGHTというレコード会社からリリースしたLPがごく少し輸入されただけで、日本でのリリースはなく、またCD化もいまだに実現していない。それだけにその存在すら知らなかった人たちが多く、放送を聴いてレコード店に駆けつけた人が相当いたらしい。結局要領を得ないままNHKに問い合わせが殺到という事態になったのだ。で、その発売権を持っているのはだれか、いったいいつどこで録音したのか、といったことを知りたくてコンサート開始前に楽屋にジョニーを訪ねて話を聞いた。
 仕事でアルゼンチンへ行ったところ、ペロン大統領の死に遭遇し、公演はキャンセルの連続でひどい目にあったという。そのどさくさに録音したアルバムだというので、歴史年表をひもといたら、ペロンは74年7月1日に他界しているので、どうやら74年の7月か8月頃の録音らしいことが判った。
 談笑後、少々時間があったので劇場近くの居酒屋で軽く一杯やって、開演間際にすべり込んだ。心地よい演唱とほろ酔い気分が巧い具合に作用し、ウトウトしながら夢と現実の間をさまようことしばし。これぞ至福のときである。余談だが演唱が素晴らしすぎても、逆に下手でもそうはいかないから不思議である。
 ともあれ、ぼくなりに今のパンチョスを楽しんでいたわけだが、そんなぼくが居住まいをただして聞き入ったのは、ゲストで登場したクリスティーナ三田が唄い始めたときだった。「エル・パストール」、そして「麗しのハリスコ」の2曲だけだったが、彼女の唄は完膚無きまでにぼくの魂を震わせた。足かけ21年もラテン音楽のDJをやっていながら、これまで彼女の素晴らしさを知らなかったことが悔しかった。とはいえ、この人の存在を全く知らなかったわけではない。98年4月末まで10年余ぼくが事務所をかまえていた四谷の坂町の近くに彼女が一時開いていたライブハウスがあり、そこの掲示窓に「クリスティーナ三田」と大書してあったので名前は覚えていた。それに一昨年7月、新宿厚生年金会館でロス・パンチョスの公演を観たときに彼女の唄も聴いてはいた。そのときはヤマトというデュエットでゲスト参加して唄ったのだが、なぜかその印象は希薄で、唄った曲すら思い出せない。なのに1年ちょっと経ってソロで唄ったクリスティーナ三田の唄に衝撃的ともいえるほどの感銘を受けたのはいったいなぜなのだろうか。いや、当夜彼女の唄にしびれたのはぼくだけでなく、音楽評論活動をしているHさんや彼の友人で在メヒコながらたまたま帰省中だったT氏も称賛。そのT氏にいたってはクリスティーナは絶対メキシコ人の血をひいているとまで言い出す始末。NHK宛にも当夜のショーを観た数人のかたからパンチョスよりも彼女のほうがよかったという感想をいただいた。もっと彼女の唄を聴きたいと書いてこられたかたもいた。その思いはぼくも同じだった。そこでトリオ・ペペスの菊池明さんに連絡して三田さんから電話をもらえるように計らってもらい、その結果11月14日に銀座にあるシグナスというジャズ・クラブで聴けることになったのだが、その夜を境にぼくのクリスティーナ中毒症状はさらに深まることになった。
 腐ってもタイと言っては失礼かも知れないが、ジョニー・アルビノ率いるパンチョスとてやはりパンチョスである。そのバルガス兄弟の伴奏で唄うにあたって、かなりのプレッシャーがあったと思うが、それをはねのけて臆することなく唄った彼女の歌手魂にぼくには舌を巻いた。古くはミゲル・アセベス・メヒアの名唱があり、ロス・トレス・カバジェーロス、マリーア・デ・ルールデス、最近でもアイダ・クエバスらが心に残る名唱を残している名曲だが、あの夜大宮のステージで彼女が披露してみせた「エル・パストール」はそれらの列に加えられるべき一世一代の名唱だったとぼくは確信する。ペペスの菊池さんによれば彼女が十八番にしている曲だそうだ。シグナスのステージでも唄ったが、大宮で感じられた気迫こそなかったものの、歌唱そのものは素晴らしく、そのことはシグナスでご本人からいただいた92年録音のアルバムに入っている同じ曲についても言える。
 クリスティーナ三田の魅力はなんといってもその落ち着きのある天性の美声にあると思う。透明感があり、よく伸びてよく通るハリのある声そのものが聴く者の心を惹きつけずにはおかない強烈な魔力を秘めている。裏声を巧みにまじえるというより、おそらく自然にファルセットになってしまうあの声は彼女の最高の武器になっているのではないか。
 ブラジルでは歌手をカントーラ(歌い手)とイテルプレタ(表現する人)にわけることが多いが、クリスティーナ三田はあきらかに後者。その歌があるべき理想の姿を自分のなかで飽くことなく追求し、歌に命を吹き込むのだ。きっと計算しつくされたであろうに、それを全く感じさせない。むしろひたむきで、けなげな感じすらする情感の表出がまた素晴らしい。自分を甘やかさず聴き手にも媚びることのない、凛として気品のある歌唱はほとんど完璧といってもいい。レパートリーの豊富なことも彼女の強みである。シグナスでは3ステージを聴いたが、お客からリクエストをもらいながら、「できるかしら?もう長いことやってないから...」などと言いつつ、「青い月影」や「エル・チョクロ」をあざやかに唄いこなしてしまうのを目の当たりにした。それでいて歌詞も正確なら、つぼを心得た唄いっぷりも見事だった。
 そんなラテン音楽のディーバとの邂逅にぼくの心はときめいている。これまでキューバで3枚のアルバムをプロデュースしてきたが、できればクリスティーナ三田をメキシコに誘ってその類稀な魅力を十二分にとらえたアルバムをプロデュースしてみたいとも思う。マリアッチ〜トリオ〜ギターだけの伴奏(本人の弾き語りかアントニオ・ブリビエスカのような達人のギター伴奏)といった様ざまなフォーマットで録音すれば、いま最上の状態にある彼女の唄をアルバムに収録できるような気がしている昨今である。
写真は「注目のアーティスト」ページをご覧ください。

2001年12月7日「リアスの海辺で絶品の牡蛎(カキ)に出会って...」
 去る11月17日から19日にかけて初めて気仙沼を訪れた。ここ数年、懇意にしていただいているNY在住のフォルクロリスタ、シロ・エル・アリエロ(大竹シロ)さんが誘ってくれて、彼のステージでお喋りをさせてもらうことになったからだ。
 シロ君はなぜか東北、ことに岩手や宮城の人たちや風土と相性がいいらしく、この10年ほど頻繁に訪れている。ぼくも亡母が山形県米沢市の出なので、小さい頃から東北とは縁が深く、いまでもたまに行く。とは言っても、山形、仙台を中心にした宮城、ラテン音楽の愛好会の方がたが呼んでくださって行った秋田の3県ぐらいで、同じ宮城県でも気仙沼にはまだ行ったことがない。その上、この数年よき飲み仲間としてお付き合いいただいているラテン音楽好きの加藤忠さんが同地の出身で、彼から海の幸のうまさをさんざん聞かされていたので、行く日が近づくにつれ、期待はつのるいっぽうだった。そして11月6日のポップス・グラフィティ(再放送は同7日)で、近く気仙沼に行って大好物のカキを食べるのを楽しみにしていると思わずもらしてしまった。
 その翌日にシロ君から連絡があった。「竹村さんがカキ好きだと知って、気仙沼で最高の企画を考えてくれてるみたいですよ」と聞かされたが、シロ君もそれ以上は言わないから「ん???」である。そんな経緯があって、気仙沼のコンサートの主催者である松井敏郎さんたちが11月18日のお昼前に唐桑に案内してくれたのだが、そこは思いがけないことに著名なカキ養殖漁民の畠山重篤さんの水産養殖場だった。畠山さんは「森は海の恋人」運動を展開して高い評価を受け“平成の宮沢賢治”などといわれている人で、『森は海の恋人』(北斗出版)など著作も多い。そんなかたにお目にかかれたばかりか、船着き場の一角にある休憩所で、みずからナイフを慣れた手つきで操り殻をはずして勧めてくださったカキの美味しさといったら、ちょっと言葉に表せないほどだった。じっさい10日ほど経って松井夫人の恵美子さんから送られてきたスナップ写真のなかに、畠山さんから勧められて最初の1個をまさに口に入れた瞬間のぼくの表情をとらえた1枚があったのだが、「なんだ、これは!?」と、とてつもなく旨いカキに仰天しているのがよく判る。それにしても初めての気仙沼訪問で、いきなり核心に迫れたというのはなんという幸運だろう。これはなんとしても東京の仲間にもふるまわなければと、殻付きのカキとホタテ、むき身のカキ、干した貝柱のつくだ煮などを買って宅配便で送ってもらう手続きをした。
 名刺代わりにと持参した拙著『ラテン音楽 名曲名演名唱ベスト100』に、まず氏の名前、つづいて“Vaya con Dios ! ”(バジャ・コン・ディオス/直訳すると“神とともに行きなさい”という意味だが、さしづめ“神のご加護がありますように”といったところ/有名な歌のタイトルでもある)、さらに日付とぼくの名前を書き入れて贈呈したところ、嬉しいことに畠山さんから近著『リアスの海辺から』(文芸春秋刊)にサインを入れて頂戴した。それを読んで、彼がまだ二十歳そこそこの時に北海道から種貝を苦労して三陸の海に運び、いまでは名物にもなっているホタテの養殖に初めて成功したパイオニアその人だったことを知ったり、気仙沼湾をかってのような豊かな海にもどすために湾にそそぎ込む大川源流の室根山に広葉樹の植林運動を10年このかた展開してこられたことを知って
ぼくは深い感銘をうけた。出版社の人に、農民が書いた本はあるが、漁民のはないと言われて、ムッとして書く気になられたときのエピソードも面白いし、三陸リアスのリアスとはスペイン語で“潮入り川”のことだと知って、ガリシアのリアス地帯を家族で訪れられたときの紀行文も秀逸である。そのことは稿を改めてご紹介したい。

2001年12月8日「駆け足で秋の中尊寺を訪れて」
 気仙沼に行く日が近づき、とるべきルートを同地出身の加藤忠さんに相談したところ、一関まで東北新幹線、そこから大船渡線でもいいが、高速バスに乗り換えて気仙沼に入るのが速くて楽と教えられた。それならと早めに東京を出て、一関(岩手県)に入り、かねがね行ってみたいと思っていた中尊寺に寄ることにした。
 東京駅を出て2時間ちょっとでもう到着だ。速いのは有難いが、この狭い日本をそんなに急いでどうするんだ、という気もしてくる。一関駅を出てバスの時間を調べたが、効率がわるい。雨も降りそうだし、足腰は相変わらず痛む。「ままよ」とタクシーを雇うことにして交渉した。時間だと1時間4,800円也。それともメーター払いにするか。この二者択一である。4時間チャーターすると約2万、3時間でも1万5千はちょっと痛い。2〜3人で乗るなら納得だが、一人だともったいない気がするのは染みついた貧乏性のせいである。だが、限られた時間で中尊寺を見るにはやむをえまいと自分を慰めて、メーター払いで頼むことにした。この不景気のさなか久々の上客ゲットに運ちゃんは上機嫌である。
 車が走り出して間もなくハラがすいていることに気づいて、そばやに案内してもらったが、一軒目のなんとか屋はウエイティング約30分と判明。止めておくだけでもメーターは進むのだから、ここはギブ・アップ。二軒目の直利庵で運ちゃんにもふるまってやって彼氏推薦のキノコそばを食べた。キノコの旨いのは当然として、嫌みのないだしがよく、汁も濃すぎず、新そばの香りも高く、なかなかの味わいで960円也には納得だった。
 ハラがくちたところで、厳美渓へ向かう。ところが、ここは小沢一郎の地盤だ。この前の選挙で小泉首相が最終日にやってきて応援演説したのはここだったが、その候補は落選した云々。 聞きもしないのに喋りまくる運ちゃんにいささか閉口した。
 厳美渓と聞いてなにか思い出しませんかと彼氏に言われたが、なにも思いあたることなどない。巨大な岩の上に佇んであざやかな紅葉をぼんやり眺めていると、川の上に張られた一本の綱をつたって向こう岸の小屋からかごが飛んでくるのが目の端に入った。それでやっと呑み込めた。要するにカラのかごにお金を入れて合図をすると、そのかごは手繰り寄せられ、やがてその分の団子が送られてくるという厳美渓名物である。たわいないが、大勢の団体客が競って買っていたから、このアイディア商売は当たりのようだ。
 つづいて県道だろうか、山間の道を走ることしばしで、平泉の毛越寺に到着。ここの平安浄土庭園は特別名勝として知られるだけに、見応えがあった。大泉ヶ池を中心に広がる大きな庭園はじつにみごとにレイアウトされている。ただ晩秋だったこともあってか、極楽浄土を連想するには寒々とした風情である。それとも花咲き乱れるかの地を連想するのはまだ訪れたことがないものの勝手であって、案外真の極楽浄土は地味というか、沈んだ雰囲気が売りもので、ゆえに訪れる魂が癒されるのだと考えられなくもない。
 毛越寺をほどほどに切り上げて、中尊寺へ。車だと10分とかからない距離である。ここでお待ちしてますという運ちゃんに、「メーターは切っておいてね」とたたみかけると「はい!」といういいお返事。一応そこまでの金額を確かめると、7千円強である。それから秋色に彩られた金色堂をはじめ、大したものは皆無だった宝物殿など境内をほぼくまなく見て回って待ち受けるタクシーにもどり、今度は国道を通って一路一関駅へ。その間3時間強。そして2枚になったレシートの合計は一金一万六百円也。思わず「やったぜ」と叫びそうになりましたね。運ちゃんは釣り銭の四百円也を進呈されて大喜び。旅はやっぱりこうでなくちゃと思います。

2001年12月13日「いまこそ音楽の翼にのって...」
 9月11日の米国における同時多発テロ、それに続く炭疸菌事件。さらに米国を中心とした多国籍軍による報復攻撃。はたまた日本では、狂牛病パニック。それに加えて倒産、リストラ、それに伴う失業が日常茶飯事となり、金銭目当ての強盗事件が激増。また親殺し・子殺しも珍しいものではなくなってしまった。輝かしい新世紀の開幕となるはずが、まさに世紀末のような出来事がつづく激動の時代にはまりこんでしまった観がある。
 飛行機が怖いから旅行しない。新幹線も狙われそうだし、地震もあるかも知れないからなるべく乗らない。牛肉が怖いから焼き肉屋にもステーキハウスにも行かない。先行きが不安だからお金を遣わない。判らないではないが、じっと我慢の子でいようというのだろうか。でも、そんなマイナス思考、消極的な生きかたは、つねに創造的にプラス思考で生きてこそ人間は人間をまっとうできるという真理に著しく反していると思えてならない。
 つい先頃まで時代の寵児、救世主のようにいわれたIT産業も足場が怪しくなっているのは周知の事実である。でも考えてみれば、そもそもIT 関連の機器などいちど買えば当分は間に合うわけで、ソフトならいざ知らず、毎年のように出るハードの新機種に人が飛びつくなどと思うこと自体がどうにかしてかしている。それに加えて、昨今の迷惑千万なウィルス感染メールの横行はどういうことだろう。他人を困らせて愉快がる下劣で邪悪な人間の増殖は目にあまるものがあるが、これとて炭疸菌を他者に送りつける行為と本質的にはなんら変わらない。そのことを当の本人は理解しているのだろうか。そうした病める人間、というより人間の仮面をかぶった悪魔が途方もなく増殖していることを充分に認知してかからないといけないというのも寂しい話である。
 人が消費に消極的になっているために音楽CDの売上もご多分に漏れず落ち込んでいるが、そうでなくともCD-RやMDなどのコピー機器の発達で、音楽CD販売の先行きには暗いものがある。といって人びとの音楽を求めるエネルギーも低下したかというと、けっしてそんなことはない、と思う。ぼくがDJを担当しているNHK-FMのポップス・グラフィティに寄せられるリクエスト・カードにしても少しも減ってはいない。
 ひとつ提案をしたい。こんな時代だからこそ、もっと積極的に音楽に耳を傾けて心の翼を羽ばたかせてはどうだろう。人間は“考える葦”だと言ったのはパスカルだったが、イマジネーションこそ人間の最高の特権であり武器である。ただそれを間違った方向に作動させないこと。あくまでもポジティブに、宇宙の営みの原動力となっている宇宙パワーの法則に則って絶対的にポジティブに作動させることである。なぜなら、それが自己の活性化の最上の手段であり、あらゆる危機からの最上の回避策なのだから...逆に言うなら、ネガティブなイマジネーションは人の心を萎えさせ、悪霊にとりつくすきを与えることになるから要注意である。
 テロが怖い、飛行機が怖い、不況が怖いといじけていても、明るい未来は拓けない。なにか1枚、消耗品ではない本当の音楽が聴けるCDを手にとってプレーヤーに入れてみることだ。そしてBGMとしてではなく、耳をそばだててその世界にトリップすることだ。縮かんだ心がたちまちリラックスするのが判るだろう。音楽の翼に乗れば、たちまち世界のどこにでも行ける。イマジネーションの世界に心ゆくまで遊べば、カタルシス、魂の浄化だって得られるはずだ。そうすれば、苛酷な状況に立ち向かっていく気力が自分の心に満ちてくることが判るだろう。

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