2002年1月17日「神々の書」は存在するのだろうか?!
 戦争に明け暮れた20世紀にやっと別れを告げて、いざ新しい世紀の幕開け!
 多少なりともそんな気分で2001年を迎えられたかたが多かったのではあるまいか。それから1年後、人びとはどんな気持ちで新しい年を迎えられたのだろうか?
 昨年9月11日の米国における同時多発テロに接して、ぼくがまず思ったのは、これは人類に対する挑戦だということだった。では誰からの挑戦なのか?少なくともエイリアンからの挑戦などではないことは確かで、あくまで人と人との対決である。だが、その相手の顔が見えない。にもかかわらず米国はビンラディンとやらが率いるイスラムの過激派組織アルカイダがその元凶とみなして報復攻撃をいまも続けている。炭疸菌事件にしても、誰がなんのためにやったのかは未だに解明されないままである。ハッキリしていることは数人の方がたが心ない犯人のためにかけがえのない命をなくされたということだけである。ぼくにはこれも目にみえない敵からの人類への挑戦に思えてならないのだ。
 ところで例年なら1年間のラテン音楽にまつわるトピックスと何曲かのクリスマス・ソングをかけて年の締め括りをするのが定石だろうが、12月25日の放送(再放送は12月26日)のポップス・グラフィティを、ぼくは「悪魔のタンゴ」でスタートさせ、「天使の死」「悪魔をやっつけろ」「天使の復活」などアストル・ピアソラ作品を冒頭でかけた上で、曲名に「神」という字が織り込まれている曲ばかりを特集した。
 だが、ぼくのいう神は特定の宗教の頂点にある「神仏」ではなく、地球もふくむ大いなる宇宙にはじまり、人類やあらゆる動植物を創造し、いまなお万物をコントロールしている宇宙エネルギーないしは創造エネルギーのようなものをイメージしている。
 なぜそうした曲を集めて放送する気になったかと言えば、もしかして人類は悪魔に魅入られたか、悪魔に魂を売り渡したか、さもなければ重ねてきた悪事ゆえに神に見捨てられたのではないか、といった思いが頭から離れなかったからである。それと、ぼくが担当しているポップス・グラフィティの中南米&カリブ編では同地の音楽を紹介し楽しんでいただくことに主眼をおいているが、同地の文化や風習なども折りにふれて紹介することも仕事だと思っていて、彼らが神にどういったイメージを抱いているかを知っていただくのも悪くないと考えたからである。
 歴史的にカトリック教の勢力が強い国ぐにや地域が多いだけに、神は唯一無二にして絶対の存在という考えに基づいた曲が多いのは当然として、アタウアルパ・ユパンキのように「この世には神さまよりももっと大切なものごとがある。他人の暮らしをよくするために血の唾を吐く人間を一人もいなくすることだ」とアピールして物議をかもした曲「神についてのささやかな問い」などはむしろ異色の部類にはいる。そんななかで1959年にメキシコのランチェロ作家ホセ・アンヘル・エスピノーサが作ったという「神々の書/El libro de los dioses」をミゲル・アセベス・メヒアの唄で聴いてぼくはショックを受けた。
「神々の書には、これから起こるよいことや悪いことが書かれ、名前のところにそれぞれの運命が置かれてある。それが天国の法律なのだ」と怖ろしい言葉が綴られている。本来はその男にひどい仕打ちをした罰を女は受けるだろうが、男は神々の書の記述を書き換えて彼が代わって罰を受けようという歌なのだが、必ずしも運命論者でないぼくはそんな書が存在すること自体が信じられないし、また信じたくもない。実存主義者たちがかって盛んにアピールしたように、人はみな自分の意志で生まれてくるわけではない。だが、ある時期からは、自分の意志や努力で運命の女神を味方につけ、自分で自分の運命を切り拓くということが可能でないならば生きている甲斐がないというものだろう。

2002年1月27日 解体と削減、そして雪印
 近頃さかんにマスコミで遣われる単語ながら、いずれも耳にしたくない言葉の極めつきである。「解体」は廃車にする車などに遣われていたのが、いつの間にか狂牛病に感染の疑いをもたれた牛に応用されるようになった。「牛殺し」や「屠殺」じゃ人聞きが悪いからだろうが、その本質は同じである。こんな言い替えはまやかし以外のなにものでもないことをその発案者は考えないのだろうか。そもそも草食動物である牛に自分たちの骨を粉にした「牛骨粉」を食わせること自体が不自然ではないのか。
 余談だが、ぼくは15年間ほど哺乳類(とくに牛豚羊鯨)の肉やその加工品をいっさい食べなかった時代がある。というのも屠殺に連れて行かれた豚は自分の運命を知って暴れるそうだが、牛は静かながら目に涙を浮かべるという話を聴いて心が痛んだからだ。それに1kgの牛肉を生産するには約4kgの穀物が要るという。ならば、みんながなるべく肉食をて、その穀物を食せば、地球上から飢えを追放できるのではないかという勝手な想像もその決心をうながした。ミルクやバターだけで満足していれば、人類は狂牛病と無縁でいられたのではなかったろうか。
 削減などという言葉は「予算」を減らす場合などに遣っていたはずなのに、それがいつの間にか「首切り」や「解雇」の代わりに転用されるようになった。これも「人減らし」では響きが悪いと思った人が考えついたのだろうが、単なる言葉の置き換えであって、やはり偽善の匂いが漂う。某銀行や某スーパーマーケットの経営建て直しのために削減される人たちのそれまでの努力はなんだったのだろうか。また削減された人たちやその家族が味わざるをえない苦難のことを思うと心が痛んでならない。
 それにつけても思うのだが、「会社」とはいったいなんなのだろう。例えばなかで働いている人たちが全員外に出てしまえば、デスクと椅子、ロッカー、パソコン、電話などの備品しか残らない。そんなものは会社というより、働く人の備品にしかすぎないのであって、会社とはあくまで人が構成している抽象的な概念にすぎないのではないか。 
 「ぼくはいいよ。でも、会社はどう言うかね」などというミエミエの言い訳をする中間管理職はやたらと多いが、この場合の会社も人であることは自明である。滅私奉公に近いことをして人生の大半を過ごしてきた人々を「削減する」しか能がない経営者を持つ人はなんて不幸だろうと思う。本来は人のための会社だったはずなのに、いつしか会社が主体になってしまい、人間がその犠牲になっている。まさに浅はかとしか言いようのないこんな矛盾を解決できる、そんな人物に経営者になってもらいたいものである。
 消費期限の過ぎた牛乳を再使用して、雪印乳業が大勢の食中毒者を出したのはまだ1年ほど前のことだ。なのに、その子会社の雪印食品がオーストラリア産の牛肉を和牛だと偽り、狂牛病嫌疑で国家予算、つまり税金によって焼却処分されることになったのを悪用して補償金をせしめた事件も、その底流にあるのは会社優先にして人間不在の無思慮にほかならない。センター長一人の犯罪のように伝えるマスコミが多いが、手伝わされた社員のなかに異を唱える人は一人も存在しなかったのも異常である。「これは完全犯罪や」などとうそぶいたというセンター長らと、作業無事終了を祝って「お疲れさん」などとみんなで言いながら乾杯でもしたのだろうか。それにしても高々1,500万円ほどの補償金をせしめ、狂牛病のために不振の売れ行きのタシにしようとした態度もせこいが、それがもとでグループ全体がいまや“解体”の方向に向かいつつある。ゆえに大勢いるであろうマトモな社員たちが“削減”される日も近いと思うと、これにも心が痛む。嗚呼。

2002年2月6日 雪印は「解散して出直せ」に共感
 1月31日のこと、お騒がせ企業の雪印食品の一連の不始末についてコメントを求められて、経団連の今井敬会長は「企業ではない」「抜本的に解散して出直すぐらいの気持ちでないと直らないのでは」と断じた。それを聴いてまずぼくが思ったのは日本もまだ捨てたものではないということだった。こういうまともな方がしかるべき団体のトップにおられる限り、日本もまだ活路を見出せることだろう。
 前回の「言いたい放題」でも少しふれたが、当初から今回の詐欺事件は関西ミートセンター長一人の犯罪ではないくらいの察しはついた。案の定、日が経つにつれ不始末不正の数々がイモづる的に暴かれ、もう雪印はグループ全体が「ユ」の要らない「キ印」企業だということが判明した。言葉を換えれば、企業というより虚業である。
 それにしても雪印はひどい。国の保証金をせしめるべく、オーストラリア産を国産の牛肉と偽ったのはほんの序の口。それも関西だけでなく、他所でも恒常的にやっていたことが判明。つまり安い外国産の牛を和牛に化けさせて不当な金を稼いでいたわけだ。かねてより表示の重量などもいい加減だったという。おまけに北海道で狂牛病がでると、道産の牛を熊本産と表示するというあくどさ。期限切れの製品の期限日延長など朝飯前だ。1年半前の期限切れ牛乳の再利用で1万人を超える食中毒者を出したが、あれもこれも手口はおなじだったことがよく判った。しかもそんなことを20年ほど前からやっていたというから、それはキ印虚業の伝統ということになる。怖ろしいことに、人間が口に入れるものを扱っているという責任などみじんも感じられない。もう雪印に人間はもちろんペット用の食品さえも作らせて販売させてはいけない、とぼくは声を大にして言いたい。これでは無差別殺人をやらかしたかつてのオウム真理教と本質的になんら変わらない利己的集団である。なんでも1万5千人もの社員がいるそうだが、廃業となれば多くの社員やその家族、さらに取引先の人たちが路頭に迷うといった議論も出てくるだろう。だが、ことはここまでハッキリしたのだから、そんな同情論は一切不要だ。それでもとやかく言いたい人は雪印製品をせっせと買ってみずから食し、奴らを助けるがいい。これまで日本を代表する食品メーカーの社員だと胸を張っていたのだろうが、こんなていたらくの会社で胸を張っていたとは笑止千万。下手な川柳を一句モノして、キ印虚業への決別の言葉としたい。
 雪印 溶けて流れて もう「ノー」へ
 少し前のことなので忘れていたが、パジェロの不具合を隠してリコール騒ぎにならないように画策していた三菱自動車の手口も雪印と同じである。人のために車を作っているという思想が全くない。パリ〜ダカールの自動車レースで好成績をおさめたことなどに惑わされずに、われわれはこの会社はお得意さんであるユーザーの危険など少しも考えずに、会社の利益のためにリコールを回避してきたことを絶対に忘れてはならない。そもそも三菱の社員は会社のためにそんな危険な車に自分たちも乗っていたのだろうか。いま三菱の車が売れていないというがあたりまえである。三菱の性質もオウム真理教と大同小異だ。やはり解散して出直すべき体質の虚業ではないかと思うのだが、どうだろう。

2002年2月21日 まともな日本になる兆しか?
 昨日(2002年2月22日)雪印食品の解散が決定した。経団連の今井会長の「雪印は解散して出直すべきだ」というコメントを受けて、本欄でもそのことにふれた。それからひと月たたずしての解散決定である。その理由は往時の15%以下に売上が落ちたからだ、と言う。国民を愚弄したむくいといえばそれまでだが、派手に不買運動をすることもなく不正な会社を潰れる状況に追い込む国民の冷徹さと静かなるパワーにぼくは敬服した。国民がこれだけしっかりしていれば日本はまだまだ大丈夫という気がする。それにしても失業し、重い十字架を背負ってこれからの人生に立ち向かわなければならない同社の社員やその家族は気の毒だが、それもこれもわれわれを騙し、金儲けに邁進してきたことの償いなのだから、ぼくは断じて同情しない。それなのに今日、親会社の雪印乳業が1年以上も賞味期限の切れた無塩バターを再利用して市場に出していたことが判明した。食品衛生的に問題はないとニュースでは言っていたが、だとしても事実を開示し1/4程度の値段で売るならまだしも、「資源の再利用のため」などとぬけぬけコメントしていた同社の広報官は自体の重大さがいまだに判っていない。おそらく近い内に同社も廃業に追い込まれることだろう。51年の歴史など、ちょっとしたことで吹っ飛んでしまう怖ろしさを、われわれも他山の石として学ぶべきだとつくづく思った。
 去年(2001年)1月末に、某銀行四谷支店の窓口で不快なことがあり、その怒りを本欄にもぶちまけた。あれから1年ちょっとたって、その支店がめでたく今月いっぱいで消滅することが決まったそうで、先日通知を受けた。一事が万事で、あんなダメな銀行は潰れた方がいい。そしてまともな銀行をつくればいいのだ。公的資金再注入だのなんだの、またまたかまびすしいが、銀行といえど所詮株式会社なのだから、ダメとなれば潰すのが筋だ。山一は潰し、ダイエーは潰さないのも納得がいかない。
 いかがわしい議員や官僚はさっさと辞職に追い込むのが筋。ダメな大臣はどんどん首をすげ替えるのが筋。機能麻痺状態に近い政党も、選挙でノーを突きつけて、廃党に追い込むのが筋である。雪印を教訓にして日本人が昔のようにまともな神経の持ち主になれば日本はまだまだ大丈夫と思うが、どうだろう。

2002年3月28日 ポップス・グラフィティのご愛聴に感謝!
            新番組ミュージック・プラザに乞うご期待。
  1996年4月から始まったNHK-FMの番組ポップス・グラフィティがこの3月末で終了となった。満6年の歳月が流れたわけだが、アッと言う間だった。そもそもぼくがNHK-FMと関わりを持つようになったのは1979年からで、そのときはDJとしてではなく、当時の人気番組クロスオーバー・イレブンにライターとして起用された。紹介者は同番組でライターとして好評を博していた西尾忠久さんである。氏は世界の一流品をテーマに健筆をふるった方だが、それ以前はコピーライターとして活躍。また世界の広告研究などでも知られた人なので、ご存知の方も多いと思う。
 そして1980年の年末のこと、現ラティーナ誌のオーナー編集長である本田健治氏の紹介でオーディションを受け、当時谷川越二氏がDJを担当しておられた世界の音楽〜中南米の旅の後続DJに迎えられることになった。それは81年4月のことだったから、この3月で満21年が経過したことになる。ただし85年4月〜87年3月の2年間はピアニストの松岡直也氏がNHK-FMのラテン音楽のレギュラーDJを担当し、ぼくはイレギュラーで年2回ほどの出演だったから、厳密に言えば満19年の間、NHK-FMラテン音楽番組の選曲・構成・トークを独りで担当してきたことになる。いずれにしても記録的な長丁場であることには変わりなく、よくぞ続けてこられたというのが偽りのない実感である。
 20世紀が終わる2000年度でおそらくぼくのDJ生活も終了することになるだろうという読みで、1999年5月から「竹村 淳のトークとお勧めライブ」という企画をスタートさせた。ラジオでは顔が見えないし、現役のうちにリスナーの方がたと直接お目にかかって長年ぼくをサポートしてきてくださった皆さんとお会いしておきたかったからである。
 東京恵比寿でメキシコ料理店をやっている歌手のサム・モレーノさんの協力を得て、ブラジル出身の女性歌手ヴィウマさんをゲストに迎えて第1回の集いを開催したのが99年5月だった。当初は2001年3月までに東京で6回開催して、それとは別に地方にも何回か出かけて行き、そして放送終了とともにその企画も終了させるつもりでいた。ところが、ポップス・グラフィティはこの3月まで続き、「竹村 淳のトークとお勧めライブ」のほうも東京で年2回、地方で3回開催した。そして大勢のリスナーとお目にかかり、いろいろとお話を聴けたのは本当に素晴らしい体験だった。
 ポップス・グラフィティが2002年3月末で終了すると聴いたとき、ぼくはもうお役ゴメンと思ったのに、続投を打診されたとき、内心ぼくは戸惑った。というのも、昨年末に坐骨神経痛にかかり、体力的に自信満々ではなかったからである。散々迷った末に、頑張るぞと自分に言い聞かせ、いよいよ4月2日(火)午後4時から新番組ミュージック・プラザにのぞむことになる。この6年間、励ましや感謝のお便りやメールをくださった大勢の方がたには心からお礼を申し上げます。またお叱りやご教示をくださった方がたにも感謝申し上げます。長年慣れ親しんできた服部克久さん作・演奏のテーマ曲ともお別れである。 新番組ではそれぞれのDJが自分の担当時間のテーマ曲を選ぶこととなり、ぼくは3曲選んだので、いち早く本欄の読者諸氏にご報告しておきたい。
*オープニング・テーマ:エンリケ・チア(p)の「カチータ」
*中間テーマ:ルス・マリア・ボバディージャ(g)の「ビジャンシーコ」
*エンド・テーマ:ルシア塩満(arpa)の「遠いあなたへ」 
 それでは、皆さん、4月からはNHK-FMの火曜日午後4時のミュージック・プラザ第2部ポップス〜中南米とカリブ編でお耳にかかります!

2002年4月5日 この度は、ご心配かけました  
 6年間続いたNHK-FMのポップス・グラフィティが去る3月末で終了。それに続いて新番組ミュージック・プラザ〜ポップス(4:00PM〜6:00PM)の火曜日を担当させていただくことになっていましたが、ぼくにとってその初日にあたる4月2日の放送に出演できなくなり、月曜日担当の萩原健太さんに急遽ピンチ・ヒッターを務めていただきました。
 このことで大勢のかたからNHKをはじめ、自宅に問い合わせをいただくなど、ご心配をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
 なぜそうした事態になったかご報告しますと、4月1日早朝のこと自宅のリビング・ルームにてボヤが発生。119番通報する一方、なんとか自分たちで必死に消火作業を進め、隣家への類焼はもちろんのこと、自宅の2階への延焼もくい止め、商売道具のCD&LPも無事でした。消防車が到着した頃にはほぼ鎮火しましたが、ぼくが顔面に少々火傷していたため、後は消防の人に任せて待機していた救急車で隣接都市の立川市にある国立病院東京災害医療センターに運ばれました。そこで顔の火傷もさることながら気道熱傷のほうが心配だと強制入院させられたわけです。4月2日にはNHK-FMの新番組「ミュージック・プラザ」の初回の放送があるのでどうしても帰らせてほしいと主張しましたが、呼吸困難な状態が訪れる可能性があり、そうなるときわめて危険なため48時間は絶対安静が必要とのことで、泣く泣くNHKに連絡して、その結果萩原健太さんにピンチヒッターを務めていただいた次第です。
 ともあれ4月4日午前9時半に無事退院でき、来週4月9日から放送にも復帰しますが、そんなわけでご心配をかけましたことをお詫びします。   
 そして4月1日午後6時に自分の放送を終えた後とんで帰ってぼくのピンチ・ヒッターを務めるために急遽選曲して対応してくださったハギケンさんにはまさに感謝感謝です。
彼はいつも竹村さんがやっているような本格的なラテンではなくて、“なんちゃってラテン”などと謙遜していましたが、ぼくは病院のベッドで聴いていて充分楽しませてもらいました。火曜日は中南米とカリブ音楽が主体の日なので、ご自分の守備範囲からラテン・ロックを中心に、エルヴィス・プレスリーが唄うラテン音楽のナンバーを取り上げるというニクイ選曲にほとほと感心しました。
 それにしても消火していてビックリしたのは火の回りの速いこと。そして室温がぐんぐん上がって、部屋のあちこちにパッパッと飛び火してチロチロ燃え出すのも驚異でした。さらに冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、ビデオデッキ、ビデオテープといった合成樹脂で作られているものが目の前でグニャグニャになっていく図も初めて目にするもので状況も忘れて見とれそうになったほど。
 思えば火消しをやったのも初めてなら、救急車で運ばれたのも、入院して救命治療なるものを受けのも初めて。点滴も、酸素吸入器も初めて。2日間点滴だけで飲食一切なしというのも初めての体験で、あれよあれよのうちに過ぎた4日間でした。そうそう、入院時に頭髪を刈られ、高校2年生以来の丸坊主になりましたが、そのせいか退院許可をもらって精算をすませ、病院の門を出るときはなんだか出所者の気分でありました。
 それでは、4月9日火曜日午後4時〜同6時の、ぼくの1週遅れのミュージック・プラザ〜ポップスにご期待ください。

2002年7月25日 またまたご無沙汰しました
 月日の経つのはなんとも早いもので、もう夏休みシーズンである。春先に自宅でボヤが発生したこともあっていろんな雑事に追われ、なかなか書く時間がなく、このコラムもまたまたずいぶんと間があいてしまった。
 火災の際に気道熱傷の疑いで4日間入院したが、幸いたいしたことはなく命拾いした。その後、気管支も肺も別に異常はなく、以前と変わりなく生活しているが、困るのは顔の火傷の後遺症である。その火傷も比較的軽いもので、見た目にはなんともないのだが、新しく蘇生した皮膚が紫外線に弱いため、外に出るときは紫外線をカットする乳液かクリームを塗るようにとドクターに厳命されているのだ。ところが化粧する習慣などまったくなかったから、にわかに乳液を塗ろうとしてもなかなかうまくいかない。まだらに塗っていたらしく、「どうされました?」などと怪訝な顔をされて困ったこともある。もっと困っているのはいま泳げないこと。ぼくの住んでいる日野市では毎年いま頃から8月末まで低料金で屋外の市民プールを公開していて、夏場はそこに通って健康増進というのを過去20年以上ぼくは習慣としてきた。だが水に顔をつければ乳液がはがれるため、太陽を浴びながら屋外プールで泳ぐことが今年は出来ない。年寄りの冷や水は体にいいわけがないから止めるに越したことはないと思おうとするも、フラストレーションはたまる一方である。
 建物、家具ともにしっかり保険が掛けてあったので、復旧工事の代金も保険でまかなえてホッとした。だが、お金が出ることが決まるまで神経が休まらず、かなり疲れた。おまけに柱一本でも残れば半焼と認定され、保険金はろくに出ないといったよく耳にする風聞などが思い出され、眠れない時期もあったが、それも杞憂に終わった。しかるべく保証していただいて、本当に保険に入っていてよかったというのが実感である。保険会社の方の話では、車の場合は事故にあうことを充分に想定して保険に入るのが普通だそうで、逆に火災の場合はまずあわないだろうが、気休めで加入しておこうという人がほとんどだという。なんでも一軒の家が火災にあう確率は700年に一度程度のものらしい。
 ところで、復旧工事の最中に、無性に腹が立ったのは税務署の態度。ぼくの場合、出演料や原稿料が源泉徴収されている関係で、いつも2月半ばから3月15日の間に確定申告をして還付金を受けるのが恒例となっている。2月も20日頃までに申告すれば、3月末までに還付金が振り込まれてくるのが通例である。ところが今年は4月末になってもなんの音沙汰もない。そこで税務署に問い合わせたら、某文化センターの講師料をぼくは出演料と考えて申告していたところ、それは給与とみなすので、還付金の額が増えるという。そのため修正申告の必要があるので、そのままになっているとぬかすではないか。これには頭にきた。前年度にはそんなことは言わず、今年になって言うのも変だ。還付金の額が減るのならいざ知らず、増えるのならとりあえずこちらが申請している金額をまず返還するという処置をとるのが筋だと思うが、役人の頭にはそんな考えはまるで浮かばないらしい。復旧にはなにかとお金がかかるし、なんとかしてくれと食い下がったが、最速でも5月16日に手続きをとって還付はその後となるという杓子定規な返答である。いやはや!
 公務員のことを公僕と言ったりもするが、彼らに民に仕えるなどという意識は皆無ではなかろうか。納税者側はことあるごとにアピールして、総理大臣から末端まで、公務員の給与は民の税金で賄われているのだから、彼らの雇い主は国民であることを知らしめる必要がありそうである。

2002年9月11日 9月11日が巡り来て、思うこと
  そのときぼくは六本木にあるキューバン・レストラン、ボデギータにいた。次女の友人がキューバに行くというので頼まれてブリーフィングしていたときだった。店内のテレビに映画のようなシーンが映し出され、それまでサルサを踊っていた人たちも画面の前に群がって息を呑んで見つめていた。そう、NYC の貿易センターのツインビルに相次いで民間航空機が突っ込んで始まった米国の同時多発テロが始まった瞬間だった。
 ほどなく起こった米国の報復攻撃をたしなめる声や反対運動も一時は盛り上がったが、いまでは静かなものである。その一方で、テロの元凶と名指しされたビンラディンらは捕まったり殺害されたという確証はなく、アフガニスタンの状況は膠着状態のままである。ベトナム戦争のときほど泥沼化していないためか、米軍を中心とする連合軍のアフガニスタン駐在への反対運動も米国内でさほど起こってこない。
 9月11日以前から地盤が脆弱になりつつあった世界経済は、その日を境に一段と不安定の度合いを増し、いまに至るまで一進一退を繰り返している。活動資金を資本主義経済のシステムを活用(悪用)して捻出してきたと言われるビンラディン一派は、このナーバスな一触即発の経済状況を、ほくそえみながら見守っているのだろうか。
 米国は目と鼻の先のキューバをはじめ、イラク、北朝鮮らを悪の枢軸国と居丈高に名指しし、その成りゆきを世界はかたずを呑んで見つめている昨今である。
 あの9月11日から満1年が経ったが、世界はほとんど変わらないように見える。一連のテロやそれに続いた爆撃で命を失った人たちの魂はいまも無念の思いをつのらせたままどこかをさまよっているのだろうか。昨日9月10日の放送で、ぼくはそうした多くの魂が安寧に包まれるようにと、祈りをこめて放送の最後にタンゴを1曲かけた。曲はよきコンビだったオメロ・マンシの死に際しアニバル・トロイロが友の魂の冥福を祈って作曲し自演して捧げた「RESPONZO/冥福の祈り」である。歯がゆいことだけど、無力なぼくにいま出来るのは「祈る」ことぐらいである。
 一方、わが国でもこの1年いろんなことが起こった。彼らの製品を口に入れる消費者のことはまるで考えずに、会社の利益のために経営者も社員も悪あがきして、結局会社を消滅させてしまった雪印の連中。それに続くかのように日ハムをはじめ、数えるのもうんざりするほど食品関係の不祥事が続いた。商社の中枢も怪しげな金の授受の責任をとって次々に辞任していき、まだまだ後続がありそうな気配である。だが彼らの犯罪はまだしも小悪だったとここにきて思い知らされた。東京電力の福島原発の施設に生じた一連のキズ隠しは人類への反逆としかいいようのない巨悪だと言わざるを得ない。このニュースを最初に耳にしたとき、チェルノブイリの地獄絵図が思わず脳裏をかすめて、ぼくは背筋が凍り付いた。そしていわゆるリーディング・カンパニーである同社の女子社員が怪しげな売春行為に関連して渋谷の一角で殺害された事件のこともなぜか思い出した。
 ともあれ、そのことでいろんな不自由が生じるだろうが、とりあえず福島の原子炉をストップさせるべきではないか。なんでも東京都内のコンピュータ関連の消費電力だけで原子炉一基分の電力を一夜に消費するという話である。ならば政府は非常事態宣言を発令してでも全部休止させるがいい。パソコンやエアコンの電源も切り、夜ともなればローソクやランプを灯し、テレビよりラジオをつけ、新幹線も止め、節電に協力して原子炉の安全確認をすることが先決である。北朝鮮の核開発疑惑もさりながら、まずは国内の原子炉の安全が確認されなければおちおち眠ることもままならないではないか。

2002年11月4日 オマーラの絶唱「ベサメ・ムーチョ」を聴いて
 「ベサメ・ムーチョ」という歌が名曲であることに誰も異存はないと思う。ぼく自身も拙著『ラテン音楽 名曲名演名唱ベスト100』(講談社刊)の冒頭に挙げたぐらいで、数ある名曲のなかでもとびきりの名曲だと思っている。ただその解釈となると異論があり、そのことは同書にも書いた。放送でもそんなエピソードを紹介してかなりの話題にもなった。
 とはいえ、その辺の経緯をご存知ないかたのために簡単にご紹介すると、下品なキャバレーで男女が抱き合って踊るのにぴったりのべたべたしたラヴ・ソングの代表と思われがちだが、じつはいまわの際にあった夫から妻への告別の歌だったというのがぼくが紹介した説である。ぼくはかねがね「ベサメ・ムーチョ」の歌詞に違和感を覚えていたのだが、10数年前にメキシコであの歌詞は永久の別れを惜しむ歌だという説があると知って、長年の疑問が氷解した。いくら“情熱のラテン”だとしても、風俗営業の店ならともかく、人前であそこまでいちゃつくはずがない。だが、告別の歌なら歌詞はまさにそのままで、なんの矛盾もないと思ったからである。
 その説の正しさを立証すべく、いまわの際版「ベサメ...」を唄ってくれる歌手探しを始め、行き着いたのがユパンキ唄いのレイ・アルフォンソ正田だった。親しい仲間から“ポンチョ”という愛称でよばれる彼に出会い、紆余曲折はあったが結局まずはNHKのラジオ第1放送のニュース番組でむりやり唄ってもらったところ、心をかきむしられるような陰々滅々の「ベサメ...」には大きな反響があり、しまいにはアルバムまで録音することになってしまった。
 この夏、調布にある東京スタジアムで開催された「東京JAZZ2002」というイベントでキューバのオマーラ・ポルトゥオンドがその「ベサメ...」を唄って評判になった。彼女は自身の楽団を率いて来日していたが、この曲だけは単身で参加していたやはりキューバの若手ロベルト・フォンセーカのピアノだけの伴奏で唄ったのだが、あまりの絶唱にぼくは背筋が寒くなったほどだ。じつを言うと当日は別のコンサートに行ってライブは見ていなかったのだが、ぼくの代わりに駆けつけたカリビアン・ブリーズのリーダー、大高實さんから携帯に電話が入り、オマーラの「ベサメ...」に涙がとまらなかったと聞いた。またオーバーなと思ったが、NHKを通して入手した当日の同時録音テープとハイビジョン放送のエアー・チェック・ビデオを見て、ぼくは大高さんの話が少しもオーバーでないことを思い知らされた。
 そして去る10月29日のこと、ぼくがDJを担当しているNHK-FMの「ミュージック・プラザ〜ポップス編」でそのオマーラの約9分間にわたる「ベサメ...」を放送したところ、大きな反響があった。その日はたまたまオマーラさんの72歳の誕生日だったので、この歳にしてこの大迫力の唄いっぷりを紹介したかったし、それに11月1日〜3日の3日間深夜に「東京JAZZ2002」のハイライト・シーンがNHKのBS2チャンネルで放送されることになっていたので、その案内もかねての放送だった。そして当夜、テレビを観ながら「ベサメ・ムーチョ」には目頭がうるうるして困った。9月に購入したDVDデッキのチェックを慎重に重ね、オマーラさん登場の日だけばっちり収録したが、そのDVD-Rはどうやらぼくの新しいお宝になりそうである。
 これまで「ベサメ・ムーチョ」の決定盤として、ぼく自身がプロデュースしたレイ・アルフォンソ正田の「いまわの際」版を挙げてきたが、今後はオマーラさんの「ベサメ..」も合わせて推挙しなくてはと思っている今日この頃である。

2002年12月31日 安らかに眠りたまえ〜セサル・サニョーリの死によせて
 キューバのエレーナ・ブルケ、アルゼンチンのアルベルト・カスティージョ、そして日本ではトリオ・ロス・チカノスで活躍した飯田卓三の各氏ぐらいで、今年他界したアーティストはジャズなどに較べると比較的少なかった。そんな話をミュージック・プラザ〜ポップス火曜日の2002年最終放送(12月24日)で話したところ、そのクリスマス・イブに草分け的な女性タンゴ歌手ティタ・メレージョが亡くなったという知らせを受けた。1904年10月11日生まれだったから享年98。それに追い打ちをかけるように西村秀人さんから「セサル・サニョーリが26日夜、訪問先のブエノス・アイレスの息子宅で亡くなったそうです」というメールが来てショックを受けた 
 テイクオフが西村さんのコーディネートでサニョーリのCDを発売したのが1995年の末で、以後彼がウルグアイへ行く度に些少ながら原盤使用料をお預けして手渡してもらっていた。じつは今年9月にも西村さんはそのために首都モンテビデオでサニョーリ氏と会ったばかりで、とても元気そうだったと聞いていた。それだけに彼の訃報には本当に驚いたのだ。1911年4月24日生まれだったから、91歳と8ヶ月の生涯だったことになる。
 ウルグアイのアーティストというだけで日本ではハンデを背負ってしまいがちだが、同国出身のすぐれた演唱家は多い。なんといっても“タンゴの王様”フランシス・カナロとその兄弟、「淡き光に」の作者で楽団リーダーとしても活躍したエドガルド・ドナートやその兄弟、ガルデルとデュオを組んで唄っていたホセ・ラサーノ、若くして死んだフリオ・ソーサ、数度の来日で日本でもファンの多かったドナート・ラチアッティもしかりで、挙げだすときりがない。そしてアルゼンチン人があまり口にしたがらないことだが、絶対に忘れられないのはタンゴの名曲のなかでもとびきり有名な「ラ・クンパルシータ」を作ったエルナン・マトス・ロドリゲスだって正真正銘のウルグアイ人だということだ。そんななかではサニョーリの存在はいかにも地味だが、演奏の密度の濃さと絶妙なレパートリーゆえに高い評価を受けてきた。いわば玄人好みのアーティストの典型だった。
 13歳のときに故郷ドゥラスノ地区のカフェでプロのピアニストとしてデビューし、無声映画の伴奏なんかもやったという。1935年頃というから、サニョーリは24〜5歳だったことになるが、フアン・ダリエンソにスカウトされてブエノス・アイレスに出て彼の楽団で38年頃まで演奏した。その後いったんウルグアイに戻ったが、41年にまた舞い戻り、54年まで様ざまな楽団で働いた。なかでも44年〜50年は歌手アルベルト・カスティージョの伴奏楽団でアレンジとピアノを担当したことは知る人ぞ知るところで、奇しくもそのカスティージョも今年7月23日に88歳で他界したばかりである。さらに50年〜52年にかけてはダリエンソ楽団から独立したばかりのエクトル・バレーラの楽団に参加して活躍した。54年に母国に帰ってからはピアノ〜バンドネオン〜ベースというトリオを結成して活躍した。しかも彼は80代半ばになってもニューヨークやマイアミまで出かけていくほど元気で、日本に呼べまいかと考えたこともあったほどである。
 最晩年まで現役として活躍して、91歳で天に召されたサニョーリの死を悲しむべきではないかも知れない。とはいえ知る人の死は寂しいものである。訃報にふれてから、ぼくは毎日のように『セサル・サニョーリ・トリオ/古典タンゴ名演集』(テイクオフ TKF-CD-27)を聴き、いまもそれを聴きながらこの追悼文を書いている。このアルバムでは西村さんとぼくがエドゥアルド・アローラスの作品を中心に選んでいるのだが、あらためてその素晴らしさに酔いしれた。セニョール・サニョーリ、安らかに眠られよ!

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