チューチョさんとはチューチョ・デ・メヒコさんのことで、本名はヘスース・オロアルテ(1933.1.2.〜 )と言って、メキシコの名門トリオ・ロス・デルフィネスのリーダーとして長年活躍してきた人である。トリオの結成は1952年、初来日は64年。以後なんども来日してラテンやフォルクローレを演唱して多くの日本人の心をとらえた。トリオ・ロス・パンチョスなども日本の曲を録音したが、デルフィネスは『THE ENKA INLATIN』なるアルバムをキング・レコードから発売したことがある。このことをもってしても彼らの当時の日本における人気がハンパなものでなかったことが想像していただけるだろう。
その頃は日本で人気のある外人アーティストやグループにこうした日本録音を作りたがる風潮があったのだが、これはいささかやりすぎではないか。だが、ぼくのそんな思いも杞憂に終わる。こんな企画でもチューチョさんは漫然と演歌を唄うのではなく、ちゃんとデルフィネスらしさを出しているのだ。たとえば、「ラ・クンパルシータ」を絡めた「奥飛騨慕情」がいい例で、最初に聴いたときは驚きのあまり椅子から落ちそうになった。
当初から不動のメンバーだった兄のホセさんが病を得たことから、1987年にトリオは解散。当時まだ54歳だったチューチョさんは日本へ拠点を移し、演唱活動と平行して後進を育てるべくアカデミアを創設した。その頃のぼくは不覚にもチューチョさんが日本で活動していることは知らなかった。
10年ほど前に、マネージャーの滝沢久美さんから連絡をいただいて、初めてお会いしたときに、1991年に日本で録音したアルバムをいただいて聴いたが、その素晴らしさに舌を巻いた。とりわけ心をうたれたのが「アドーロ」で、58歳のチューチョさんが切々と唄いかける「あなたを熱愛する...」というくだりの説得力がなんともすごいのだ。「熱愛はなにも若者の特権ではないのだ、としみじみ語りかけているかのようで素晴らしい」とぼくは拙著『ラテン音楽 名曲名演名唱ベスト100』の「アドーロ」の項に書いた。
この10年は親しくお付きあいをさせていただいてきた。なかでもぼくの高校時代の同窓会に来てワンマン・ショーをやってくれたことと、2001年の3月にエル・サルバドールの地震被害者支援のためにぼくが開いたチャリティー・イベント「竹村 淳のトーク&ライブの会」にアルゼンチン人のルイス・サルトールともども参加して大熱演してくれたときのことは忘れがたい思い出となっている。つい最近もメキシコのチアパスの子供たちを支援するためにぼくが開いたチャリティー・イベントに出ていただいたばかりである。
チューチョさんのアカデミアの生徒さんの発表会にもなんどか招かれて見に行ったが、レベルの高さに感心したものである。ちょうどその頃、若手アルパ奏者の上松美香がテレビなどのマスコミで話題になり始めていたが、「うちのアカデミアにもっとすごい才能をもった子がいるよ」という話をチューチョさんと滝沢さんから伺ったことがあった。
その子が今村夏海ちゃんだった。2003年6月に、ぼくの本『ラテン音楽パラダイス』の文庫化を記念して銀座の十字屋ホールで開催したイベントでチューチョさんの伴奏で夏海ちゃんにも数曲弾いてもらったのだが、当時まだ13歳になる直前の彼女の熱演は集まった人たちを驚嘆させた。そんな夏海ちゃんのデビュー・アルバムを作りたいから、力を貸して欲しいという申し出が滝沢さんからあったのが昨年6月。それから数度お会いして結局9月に録音ということになった。それは9月半ばのことで、4日間のスケヂュールのうち、ぼくも2度スタジオに行ったが、03年6月とは比較にならないほど上達していた夏海ちゃんの演奏を目の当たりにして、ぼくは深い感動を覚えた。
完成した音源を聴いて、ぼくは夏海ちゃんの偉才を再認識するとともに、改めてチューチョさんの名伯楽ぶりに感嘆した。聞けばひょんなことから、当時6歳だった夏海ちゃんとの出会いがあり、いち早くその才能を看破し、今日に至るまでアルパの指導を続けてきたというから、すでに9年の歳月をかけてきたことになる。
その音源を聴いていただいた濱田滋郎先生が「たくさんの人を魅了していく器」と題して素晴らしい一文をお寄せくださった。それをご紹介しよう。
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まだ15歳というアルパ奏者、今村夏海のデビューCDを、テスト盤の形で聴くことができた。お世辞ぬきで、これはすばらしい才能である。音楽家の家に生まれ、6歳からアルパに惹かれて弾き始めたとのことだから、足掛け10年の年季が入っているわけだが、それにしても、この若さでこれだけ聴かせるのは尋常ではない。
日本に在住する元名流トリオ・デルフィネスのリーダー、チューチョ・デ・メヒコ(ヘスース・オロアルテ)氏のもとに入門し、手塩にかけられてきたとのことだが、おそらくその成果と、本人の生まれつき持っている資質とが、見事に呼応しあって、こんにちの開花を迎えたということなのだろう。
まことに聴きがいのある音楽家の誕生と私が感ずるのは、けっしてテクニックの面だけではない。パラグアイの、アルパ本来のレパートリーはもとより、メキシコの曲を弾いても、この少女はつねに抜群の歌ごころ、天来のものであろう間 (ま)の味わいをもって、聴きての心を惹きつけるすべを知っている。いい例が「エストレジータ」である。この曲を編曲演奏するギタリストやヴァイオリニストの大部分は、旋律の初めの三つの音(階名唱法でソ・ラ・シまで)でフレーズをとぎらせてしまうが、原曲の歌詞はつぎの音まで(ソ・ラ・シ・ドまで)で〈Es-tre-lli-ta〉という呼びかけをしているのだから、当然フレージングは〈ド〉のあとに間をおかねばならない。
夏海さんは、おそらく師の歌う「エストレジータ」を聴き、上のことをよく理解しているのだろう。ともかくも、私はこの“ 歌いくち”を耳にし、心から満足した。器楽奏者は、よく回る指と共に、「歌う心」を持たねばけっして人を魅了できない。今村夏海は、これからたくさんの人を魅了していく器である。私はそう太鼓判を押すことができる。
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大変なお褒めの言葉であるが、夏海ちゃんはこの言葉を決して裏切ることはないとぼくは確信している。音楽活動は高校受験が終わってから、その前にアルバムだけを先行リリースして、プロモーションに力を入れようということで、『今村夏海/NATSUMI』(テイクオフ TKF-2922)は12月5日に発売となった。そして12月18日の夜に、マスコミ関係者や音楽評論家諸氏にお集まりいただいて、ぼくが司会して内々のコンサートを開催した。終わり近くになって、チューチョさんが集まった人たちに謝辞を述べたのだが、その目に涙が浮んでいるのを見て、ぼくは胸が熱くなった。1987年に日本を第2の故国と決めたとき、日本の誰かに自分が持てるすべてを伝授しようとチューチョさんは心に決めたのではなかったか。そして9年前に面前に現れた異能の才能の持ち主である少女に可能性を見出し、これまで指導に当たってきたのだろう。孫のような夏海ちゃんをここまで育て上げるには、いろんなことがあったろう。現にふだんは滅多に怒らないやさしい指導ぶりのチューチョさんが、1年間夏海ちゃんを出入り禁止にしたこともあったと聴くが、それは突き放す必要があったからだろう。そんな様ざまな思いが脳裡に去来し、あの涙となったのではないか。チューチョさんのあの涙は、誠心誠意つくして育て上げた夏海ちゃんがいま羽ばたこうとする晴れ姿に親として流した涙だったように思えてならない。(2005.3.6.)
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