2005年3月6日 チューチョさんの目に涙
 チューチョさんとはチューチョ・デ・メヒコさんのことで、本名はヘスース・オロアルテ(1933.1.2.〜 )と言って、メキシコの名門トリオ・ロス・デルフィネスのリーダーとして長年活躍してきた人である。トリオの結成は1952年、初来日は64年。以後なんども来日してラテンやフォルクローレを演唱して多くの日本人の心をとらえた。トリオ・ロス・パンチョスなども日本の曲を録音したが、デルフィネスは『THE ENKA INLATIN』なるアルバムをキング・レコードから発売したことがある。このことをもってしても彼らの当時の日本における人気がハンパなものでなかったことが想像していただけるだろう。
 その頃は日本で人気のある外人アーティストやグループにこうした日本録音を作りたがる風潮があったのだが、これはいささかやりすぎではないか。だが、ぼくのそんな思いも杞憂に終わる。こんな企画でもチューチョさんは漫然と演歌を唄うのではなく、ちゃんとデルフィネスらしさを出しているのだ。たとえば、「ラ・クンパルシータ」を絡めた「奥飛騨慕情」がいい例で、最初に聴いたときは驚きのあまり椅子から落ちそうになった。
 当初から不動のメンバーだった兄のホセさんが病を得たことから、1987年にトリオは解散。当時まだ54歳だったチューチョさんは日本へ拠点を移し、演唱活動と平行して後進を育てるべくアカデミアを創設した。その頃のぼくは不覚にもチューチョさんが日本で活動していることは知らなかった。
 10年ほど前に、マネージャーの滝沢久美さんから連絡をいただいて、初めてお会いしたときに、1991年に日本で録音したアルバムをいただいて聴いたが、その素晴らしさに舌を巻いた。とりわけ心をうたれたのが「アドーロ」で、58歳のチューチョさんが切々と唄いかける「あなたを熱愛する...」というくだりの説得力がなんともすごいのだ。「熱愛はなにも若者の特権ではないのだ、としみじみ語りかけているかのようで素晴らしい」とぼくは拙著『ラテン音楽 名曲名演名唱ベスト100』の「アドーロ」の項に書いた。
 この10年は親しくお付きあいをさせていただいてきた。なかでもぼくの高校時代の同窓会に来てワンマン・ショーをやってくれたことと、2001年の3月にエル・サルバドールの地震被害者支援のためにぼくが開いたチャリティー・イベント「竹村 淳のトーク&ライブの会」にアルゼンチン人のルイス・サルトールともども参加して大熱演してくれたときのことは忘れがたい思い出となっている。つい最近もメキシコのチアパスの子供たちを支援するためにぼくが開いたチャリティー・イベントに出ていただいたばかりである。
 チューチョさんのアカデミアの生徒さんの発表会にもなんどか招かれて見に行ったが、レベルの高さに感心したものである。ちょうどその頃、若手アルパ奏者の上松美香がテレビなどのマスコミで話題になり始めていたが、「うちのアカデミアにもっとすごい才能をもった子がいるよ」という話をチューチョさんと滝沢さんから伺ったことがあった。
 その子が今村夏海ちゃんだった。2003年6月に、ぼくの本『ラテン音楽パラダイス』の文庫化を記念して銀座の十字屋ホールで開催したイベントでチューチョさんの伴奏で夏海ちゃんにも数曲弾いてもらったのだが、当時まだ13歳になる直前の彼女の熱演は集まった人たちを驚嘆させた。そんな夏海ちゃんのデビュー・アルバムを作りたいから、力を貸して欲しいという申し出が滝沢さんからあったのが昨年6月。それから数度お会いして結局9月に録音ということになった。それは9月半ばのことで、4日間のスケヂュールのうち、ぼくも2度スタジオに行ったが、03年6月とは比較にならないほど上達していた夏海ちゃんの演奏を目の当たりにして、ぼくは深い感動を覚えた。
 完成した音源を聴いて、ぼくは夏海ちゃんの偉才を再認識するとともに、改めてチューチョさんの名伯楽ぶりに感嘆した。聞けばひょんなことから、当時6歳だった夏海ちゃんとの出会いがあり、いち早くその才能を看破し、今日に至るまでアルパの指導を続けてきたというから、すでに9年の歳月をかけてきたことになる。
 その音源を聴いていただいた濱田滋郎先生が「たくさんの人を魅了していく器」と題して素晴らしい一文をお寄せくださった。それをご紹介しよう。
                ♪♪♪♪♪♪♪
 まだ15歳というアルパ奏者、今村夏海のデビューCDを、テスト盤の形で聴くことができた。お世辞ぬきで、これはすばらしい才能である。音楽家の家に生まれ、6歳からアルパに惹かれて弾き始めたとのことだから、足掛け10年の年季が入っているわけだが、それにしても、この若さでこれだけ聴かせるのは尋常ではない。
 日本に在住する元名流トリオ・デルフィネスのリーダー、チューチョ・デ・メヒコ(ヘスース・オロアルテ)氏のもとに入門し、手塩にかけられてきたとのことだが、おそらくその成果と、本人の生まれつき持っている資質とが、見事に呼応しあって、こんにちの開花を迎えたということなのだろう。
 まことに聴きがいのある音楽家の誕生と私が感ずるのは、けっしてテクニックの面だけではない。パラグアイの、アルパ本来のレパートリーはもとより、メキシコの曲を弾いても、この少女はつねに抜群の歌ごころ、天来のものであろう間 (ま)の味わいをもって、聴きての心を惹きつけるすべを知っている。いい例が「エストレジータ」である。この曲を編曲演奏するギタリストやヴァイオリニストの大部分は、旋律の初めの三つの音(階名唱法でソ・ラ・シまで)でフレーズをとぎらせてしまうが、原曲の歌詞はつぎの音まで(ソ・ラ・シ・ドまで)で〈Es-tre-lli-ta〉という呼びかけをしているのだから、当然フレージングは〈ド〉のあとに間をおかねばならない。
 夏海さんは、おそらく師の歌う「エストレジータ」を聴き、上のことをよく理解しているのだろう。ともかくも、私はこの“ 歌いくち”を耳にし、心から満足した。器楽奏者は、よく回る指と共に、「歌う心」を持たねばけっして人を魅了できない。今村夏海は、これからたくさんの人を魅了していく器である。私はそう太鼓判を押すことができる。
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 大変なお褒めの言葉であるが、夏海ちゃんはこの言葉を決して裏切ることはないとぼくは確信している。音楽活動は高校受験が終わってから、その前にアルバムだけを先行リリースして、プロモーションに力を入れようということで、『今村夏海/NATSUMI』(テイクオフ TKF-2922)は12月5日に発売となった。そして12月18日の夜に、マスコミ関係者や音楽評論家諸氏にお集まりいただいて、ぼくが司会して内々のコンサートを開催した。終わり近くになって、チューチョさんが集まった人たちに謝辞を述べたのだが、その目に涙が浮んでいるのを見て、ぼくは胸が熱くなった。1987年に日本を第2の故国と決めたとき、日本の誰かに自分が持てるすべてを伝授しようとチューチョさんは心に決めたのではなかったか。そして9年前に面前に現れた異能の才能の持ち主である少女に可能性を見出し、これまで指導に当たってきたのだろう。孫のような夏海ちゃんをここまで育て上げるには、いろんなことがあったろう。現にふだんは滅多に怒らないやさしい指導ぶりのチューチョさんが、1年間夏海ちゃんを出入り禁止にしたこともあったと聴くが、それは突き放す必要があったからだろう。そんな様ざまな思いが脳裡に去来し、あの涙となったのではないか。チューチョさんのあの涙は、誠心誠意つくして育て上げた夏海ちゃんがいま羽ばたこうとする晴れ姿に親として流した涙だったように思えてならない。(2005.3.6.)

2005年3月14日
政府は米国産牛肉の輸入許可し、国民は断固不買というのがが至上の問題解決法?!
3月10日と言えば、1945年のその日、米国による東京大空襲があり、東京が焦土と化した日である。今年は数えて60周年にあたっていて、当日の朝刊はもっぱらそのことを報じていたが、よりによって同日のテレビはブッシュ大統領が小泉首相に電話で米国産牛肉の輸入再開を強力に迫ったことを伝えていた。経済制裁をも辞さないという。
 はっきり言って、これは恫喝である。主権国家の長が他の主権国家の長に言うべきことではない。この欄ではかねがね日本は米国の第51番目の州のようだとコメントしてきたが、おそらくブッシュは相手が“ブッシュのポチ”でなく、自国の州知事だったら、このような発言はしなかったのではないか。われらが小泉首相はそれだけ舐められているということである。しかもブッシュ=小泉両首脳の電話会談の10日ほど前にかなりの数の議員が同様の恫喝決議をしていたことをみても、やつらは日本を主権国家ではなく、植民地とみなしていることがよく分かる。
 米国産牛肉からBSE(牛海面状脳症)の懸念が完全に払拭されたわけではない。大体がごまんといる牛の全頭チェックなど不可能に近いことだろう。かといって最善をつくすというごく当然の態度すらみせず、てめえたちの経済論理を先行させて、日本に米国産牛肉を押しつける挙に出たということだろう。日本人が BSEになろうとなるまいと知ったことじゃない。そこで、「えい、面倒!」とばかりに、「おめーら、ぐだぐだ言っていると、ただじゃおかねーぞ!」と凄んできた、といったところだろう。
 ポチは頭が痛いだろうね。飼い主にはシッポを振りたいだろうし、国民に米国産牛肉は安全だから食べろなどと言ったら、内閣なんぞ吹っ飛んでしまいかねないし、さてどうするか、これはなかなかの見ものですね。
 でも、おいらが思うに、政府には米国産牛肉の輸入許可を出させておいて、入ってきた米国産牛肉を日本国民が完全無視し、誰も買わないというのが一番の妙案に思えるのだがどうだろう。売れなかったら、これは市場の論理でそのうち先方も売り込んでこなくなるというものだろう。現に日本のマーケットを当て込んで日本店をスタートさせたフランスのスーパーマーケットは当てがはずれて撤退を決めたばかりである。日米講和条約を締結していようと、1945年8月15日以降はしょせん日本人なんかは占領下の負け犬どもと思い続けているような不遜な米国人どもに、日本人の尊厳をみせつけやるためにもBSEの危険からわが身を護るためにも、政府には輸入させておいて、しかし国民は断じて米国産牛肉など口にしないという心意気を示そうではないですか。(2005.3.14.)

2005年3月28日 NHK-FMのDJ終了にあたって
 ぼくがNHK-FMの番組「世界のメロディ〜中南米の旅」に初登場したのは1981年4月のことで、途中85年4月から87年3月の2年間は特別番組などに出していただくだけだったが、87年4月からふたたび毎週1回のレギュラーに復帰。したがってざっと24年間、ほぼ4半世紀にわたってラテン音楽のDJをやってきたことになる。
 この3年間やってきた「ミュージック・プラザ第2部ポップス」の仕事が3月22日で終了し、ぼくの24年に及んだDJ生活も終わった。当初は3年も続けばと思っていたのだから、ぼくとしては「満願」である。かくも長い間ぼくに“場”を提供してくれたNHKにまず感謝したい。この仕事をしなかったら、全国規模で大勢の素晴らしいラテン音楽ファンと知り会うことはなかっただろう。長い間ぼくを必要としてくださったリスナーの方がたに心からの感謝を捧げたい。本当に長い間有難うございました。
 最終回の放送を終えた今、どうしても一言いっておきたいことがある。他でもない、この3月末で50万件とNHKサイドが想定していたらしい受信料不払いや保留がなんと70万件をこえる見通しとなり、100万件の不払いや保留も現実味をおびてきたことだ。受信料の不払いや支払いを保留してもNHKの放送が見られることを身をもって知り、いわば味をしめた視聴者が再び受信料を払うようになるとはまず思えない。
 不届きな職員の犯罪行為やそれに準ずる行為が次々に露見した。それは論外としても、前会長が国会に喚問されたときにNHKがテレビ中継しなかったとか、辞任したばかりのトップ3人を新会長が顧問にしたりとか、とにかく世間では通用しない“NHKの常識”がまかり通っているのだから、NHKに対する逆風が吹きまくって、収まる気配が全くないのも当然というものだろう。
 身近な例をひとつ挙げる。2月22日の放送でぼくのDJ番組が3月で終了することを話したところ、すかさずディレクター氏がアナウンスルームにすっ飛んできて、3月14日までは言ってもらいたくなかったと生放送中にわめきたてた。「それじゃ50円80円使ってリクエストしてくる人たちはどうなるんですか?!」と言い返したが、なおも「困った困った」と非難し続けるので、ぼくは「生放送中になにをぐじゃぐじゃ言ってるんですか!」と一喝し、そこは一応治まった。この一事からも、口では「皆さまのNHK...」だの、「NHKの放送は皆さまの受信料でまかなわれています」などと言っていても、リスナーのニーズを最優先にしているとは思いがたい。ぼくのリスナーで契約解除したしたと言ってきた人は11件にものぼる。その受信料にしても払うべきもの。それを貰ってこないオマエたちが悪いと集金係の人たちを責めたてる輩がいると朝日が報じていたが、これも“NHKの常識”だろう。NHKが受信料不払いや保留という大津波をまともに食らって転覆する可能性だって充分ある。それを防ぐには職員の一人一人が心を入れ替えて「皆さまのNHK」だと自覚するしかないだろう。“NHKの常識”が身にしみついている人はみずから局を去るべきだろう。
 といって、いまの民放のテレビやラジオしかなくなったら、どんなにつまらなくなるかは言うまでもない。有料放送のWOWWOWがやっているように放送にはスクランブルをかけて、解除しないと見られなくするというのが最上の解決法だと思う。その装置をつけるのに少々お金がかかるが、おそらく不払い騒動以前よりも受信契約数は伸びると思うのだが、どうだろう。ともかくNHKの皆さん、頑張ってください。(05.3.28.)

2005年5月17日 火曜日症候群から、束の間のミニ復活へ
 1981年4月からぼくがDJを担当してきたNHK-FMのラテン音楽番組が去る3月22日で終了した。放送終了の前後から、大勢の方々からNHK宛にラテンアメリカ音楽の番組がなくなったことに対して、受信料の不払いを含めて激しい抗議が殺到したそうである。ぼくも大勢の方がたからねぎらいのお便りやメールをいただいた。多くの方から近頃は火曜日の午後になってもラジオの前に座る気になれず、古い録音を聞いたりしているが、どうにも所在なく体調をくずしそうだという切実なお便りをいただくようになった。
 当初は日曜日の朝が放送日だったが、その後は木曜日の午後となり、さらに「ポップス・ステーション」となった1991年4月からは火曜日の午後となって、番組名が「ミュージック・プラザ〜ポップス」と変わってからも火曜日午後4時からの放送は変わらなかった。つまり14年間火曜日の午後にはNHKに行って生放送を担当するという生活が続いてきたわけで、当然のことながら心身ともにその日にベストの状態になるようにコンディショニングすることが長年の習慣となっていた。ところが放送が終了し、そうしたコンディショニングの必要性がなくなった途端の、3月末に風邪を引いて高熱に苦しみ、さらに咳をした拍子に腰痛を発症し、それはいまだに治りきってない。長年の仕事が終わって気が抜けたということもあるのだろうが、やはり生活習慣が変わると体が変調を来すということだろう。定年退職された方に体調をくずすケースが多いのと共通するものがあるような気がしてならない。ぼくも、リスナーだった皆さんも、体調不全となると、これはもう火曜日症候群ということだろうか。
 ある方は、長年続いてきたラテン音楽番組が消滅させたことに対しNHKに苦情の電話をかけたところ、「ジャンルの壁を低くして云々...」と言われたそうだ。まるで言い訳にもならない言い訳である。そんなことを言うなら、クラシック/演歌/ポップスといった枠なんかとっぱらって放送するがいい。苦情が殺到したからだと思うが、その一方であらゆる機会をとらえてラテン音楽を小出しに放送しているようだ。と言って、そんなことをしてもたれ流し状態で聞いていない限り、ラテン音楽がかかっても聞きのがすしかない。
 それにしても米国内のイスパニック人口はついにアフロ系人口を越え、ブッシュ大統領もスペイン語でスピーチをせざるを得ないご時世である。今後の政局運営にもラテンアメリカ系の人びとの意向やニーズが大きく反映していくことは必至である。音楽はもちろんのこと、ラテンアメリカ系の文化が米国のアングロサクソンをはじめとする白人系の文化に代わって大きな流れになっていくことは間違いない。そんな時流も顧みず、ラテン音楽の番組を消滅させてしまったのはNHKの大チョンボというべきだろう。
 ところで、この4月からスタートした新番組「私の名盤コレクション」の6/14~6/18の0:20AM~1:00AM(再放送6/20~6/24は9:20AM~10:00AM)に出演依頼がきて、5月9日にその録音も終えたので、ぜひご一聴いただきたくご案内します。自分のレギュラー番組では努めて自分の生活感がにじみでないようにしていたけれど、この放送は進行役の島田律子さんとの対談形式だったので、ぼくとラテン音楽との出会いをはじめとしてかなり自分のことを喋ったので、長い間ぼくのDJを聞いてきてくださった方がたにも興味を持って聞いていただけるかもしれない。どうぞよろしく!
 ちなみにペレス・プラード楽団の『ハバナ午前3時』に始まって、アタウアルパ・ユパンキ、エリゼッチ・カルドーゾとカルトーラ、ジョニー・アルビノとクリスティーナ三田、タニア・リベルターの演唱がたっぷりとかかります。(2005.5.17)

2005年6月19日 どうやら巨人軍は破滅でしょうか?!
 現役引退のセレモニーで、「巨人軍は永遠に不滅です」とのたもうたのは言わずと知れた長嶋茂雄サンだった。この言葉を聞いて胸を熱くした人は多かったろうが、ぼくは思わず失笑してしまった。というのも、経営母体が不明朗で、いわば虚像の上に成り立っている虚人軍に明るい未来などあるわけがないと思っていたからである。
 古いところでは南海からの別所のトレード、広岡達朗と川上哲治の確執、江川との珍妙な契約事件等々、挙げるとキリがないのでやめるが、虚人軍にはとかく不明朗なことがつきまとう。球場の入場者数にしても長年デタラメな数を発表し続けていたことが判明し、それが是正されたのはつい最近のことである。親会社の新聞発行部数だっていかがわしいことこの上ない。そこのドンで虚人軍のオーナーが不用意に思わず本音をもらした「たかが選手が...」という発言が引き金となって、球界は蜂の巣をつついたような騒ぎとなったことは記憶に新しいところだろう。そんな矢先、そのドンは自分の球団のスカウトが球界の禁をやぶって当時明治大学の一場靖弘投手に“栄養費”などという吹き出したくなるような名目で約200万円を渡していた責任をとって辞任したのは昨2004年の8月13日のことだった。その後も球界は大混乱に陥り、ストライキやら球団消滅やら合併やらでごった返し、結局新球団・楽天が誕生して一件落着したことはよくご存知だろう。
 その楽天は大方の予想通り100敗ペースでパシフィック・リーグの最下位を独走しているが、どうしたことか“常勝・巨人軍”が最近までセントラル・リーグの最下位にあまんじるという珍事がおこった。するとくだんのドンは「巨人・楽天・はるうらら」としゃれのめす。その無神経な感覚に呆れていたら、こんどはドンがまた虚人軍の会長に就任するのだという。いやはや。
 オーナーに「たかが選手」などといわれて、選手に気合いが入るわけはない。今日の巨人の低迷の最大の原因はナベツネのあの一言から始まったとみるべきではないのか。おまけに目が節穴としか思えないスカウトが獲得した外人助っ人2人ははや帰国。やつらを二軍に落として再調整させようにも、それが出来ない契約になっていたというのではなにをかいわんやである。そんなこんなを端で見ていて、やっぱり俺でないとと再登場するのだろうが、ナベツネの老害で、どうやら巨人軍は破滅するしかないだろう。ミスターがドームに来て観衆に挨拶するという噂もあるが、病気療養中の男の手を借りても、もう巨人人気は回復するはずもないことは、近年の巨人戦のテレビ中継番組の視聴率の低迷ぶりをみれば火を見るより明らかである。先日のサッカーの日本代表とバーレーンの対決時など、たしか6%強の視聴率だったと記憶する。もう巨人戦など中継しない方向で検討した方が身のためですよ、スポンサー各位さん。
 そのサッカーの日本代表とて、なんとか予選は突破して2006年6月のドイツ行きの切符は手にしたが、いまの力じゃワールドカップでは1勝もできないなんてことが充分ありそうである。それでも巨人戦なんかをみているより、ずっとスリリングだし、来年のいま頃まではサッカー熱がますます高まりそうである。(2005.6.19.)

2005年10月03日 三菱ふそうは
おもちゃの自動車しか作ってはいけない!
 去る9月27日付けの朝日新聞朝刊の記事によれば、三菱ふそうトラック・バスは26日に中・小型トラックなど約12万台を対象に5件のリコールを国土交通省に届け出たという。これで昨年3月に起こった大型車フロントハブのリコール届け出に始まった一連の欠陥隠しは、98件の届け出が終わって一段落ということらしい。リコールの対象になるのは、1974年以降に製造されたトラックとバスのうち、延べ264万台。いまも走っている三菱のトラックやバスのなんと7割に欠陥がありながら、それを隠したり放ったらかしにしてきたというのだから、空恐ろしいことである。町を歩いていて走行中の車からタイヤが飛んできて命を落とした主婦がいたことは周知のところだが、大金を払って欠陥車をつかまされ、車両火災に巻き込まれて「あわや!」だった人も大勢いる。同紙によると、人身事故35件(うち2件は死亡事故)、火災事故が96件あったそうだ。
 これらの一連のリコール問題を見て見ぬふりをしてきた三菱ふそうの歴代経営陣は、人間としての最低限のモラルさえ欠如している連中ばかりと言うしかない。経営者の資格どころか、人間の資格もない。まさに言語道断。人を馬鹿にするのもいい加減にしろ、である。それにしても会社に損を与えないためには、人命など屁とも思わないという不遜傲慢な態度はどこからくるのだろう。そもそも車と呼びがたいような欠陥車を作っておいて、金がかかるという理由で、リコールにかけないという神経はどこからくるのだろう。
 朝日の記事が出てから3日たった9月30日に、新聞一面をつかった三菱ふそうの「新しい約束」と題したでかいお詫び広告が載った。それによれば、過去30年にもおよぶリコール関連の書類を徹底的に調査し、去る6月までに品質問題の総括という意味で、過去のリコールすべき不具合情報のすべてを公表したそうである。ほかにもゴジャゴジャ書いてあって、最後に「新しく生まれ変わる三菱ふそうからのお約束。それは、もう一度皆様より信頼・信用していただけるよう、全身全霊を注いで自らの仕事に取り組むことからはじまります」ので、こんな三菱ふそうをよろしくというわけだが、何十年も改められることがなかった企業体質がこんな誓いひとつで改まるとも思えない。
 そんなことより、いっそ「あなたがたはこれから先、おもちゃのトラックとバスしか作ってはいけない!」と声を大にして全関係者に申し上げたい。(2005.10.3.)

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