2006年11月6日
ポール・モーリアの訃報にふれて
 「恋はみずいろ」「オリーブの首飾り「エーゲ海の真珠」などの大ヒットで知られた、イージーリスニングの巨匠ポール・モーリアが去る11月3日に亡くなった。1925年3月4日にマルセイユに生まれた人だったから、享年81ということになる。
 ぼくは格別彼のファンだったわけではないが、一度だけ聴いた彼の生演奏の迫力はいまだに忘れられないでいる。時は1970年1月のことで、所はパリのオアランピア劇場。だが彼ではなく、その頃ブレイクの真っ最中だったミレイユ・マチューのコンサートを聴きに行ったら、その伴奏がポール・モーリア楽団だったのだ。幕が上がって間もなく、おろされたままの紗幕の向こうから音が流れ始めたとたん、その音圧のすごさに思わずぼくの腰が浮いてしまったこと鮮明に思い出す。
 1969年のクリスマス前に日本を出発。南回りでまずエジプトに入り、カイロとアレクサンドリアを訪れ、クリスマスイブにストックホルムへ飛んで、そこからデンマーク、西ドイツ、オランダを経由して新年のパリに入り、最初に観たのがマチューのコンサートだった。その頃のぼくは32歳で、ヨーロッパへの旅は初めて。その上10代の頃からシャンソンが大好きだったから、そのメッカと言えるオランピア劇場をまず目指したのである。
 ポール・モーリアは一度1950年にパリに出て、フランク・プールセル楽団に参加したりしたものの、うだつがあがらないまま一旦マルセーユに帰郷。そして1959年に再度パリに出たが、そのときはエディー・バークレーに認められてリュシエンヌ・ドリールなどのアレンジの仕事を得る。なかでもシャルル/・アズナブールは彼を高く買ってくれ、1960年11月のコンサートの際には伴奏指揮をまかせてくれた。
 この辺りから順風満帆。のちにフレンチ・サウンドと呼ばれるようになる独自のサウンドを打ち出してめざましい活動をみせる。やがて「恋はみずいろ」が1968年にまず米国、ついで世界で大ヒットしてからはイージーリスニング界の寵児となって世界を股にかけて活動したことは周知のところである。日本には1969年に初来日し、98年までに日韓両国でなんと1200回のコンサートをこなしたという。
 いっぽうのマチューは1946年7月22日にアヴィニオンに生まれたが、父は稼ぎのよくない墓石の石工で、しかも13人もの兄弟がいて、家は極貧状態だったという。弟や妹の面倒を見るのはもっぱら長女の彼女の仕事。そんな辛い毎日で唯一の慰めは歌を唄うこと、とりわけエディット・ピアフの持ち歌を唄うことだったそうだ。生活のために16歳で女工になるも、歌手となる夢を捨てきれない。そんな彼女にチャンスがめぐってきたのは1965年のことだった。パリでピアフを追悼して開かれたテレビののど自慢番組に参加して「愛の讃歌」を唄い優勝。ピアフの再来と騒がれたが、そんな彼女にジョニー・スタアークという有名なマネージャが目を付ける。そのスタークがモーリアになんとか頼み込んで生まれたのが、モーリア曲/アンドレ・パスカル詞の“Mon credo/愛の信条”で、マチューはこれを唄って1966年春にデビューを果たし、一躍スターダムに昇ったのである。
 そんなことを知ったのは後になってからの話で、1970年1月のオランピア劇場ではなにも知らないままモーリア楽団の演奏にぶっ飛び、マチューのパワフルな唄にひたすら圧倒されっぱなしだった。それから36年の月日が流れたが、モーリアの訃報に接してまず思い出したのはあの日のモーリアの演奏とマチューの熱唱だった。合掌。(2006.11.6)

2006年5月29日
逝ってしまったギリェルミさんに、合掌....
 サンバ・カリオカの長老ギリェルミ・ジ・ブリートさんが去る4月26日にあの世へと旅立った。1922年1月3日にリオの下町ヴィラ・イザベルという所に生まれた人だから、享年84。早いと言えば早いが、「ま、しかたないか」と言えなくはない年齢ではある。
 近年はすっかりご無沙汰していたが、それでも訃報に接したときは通り一遍でない感慨を覚えた。というのも、いまはオフィス・サンビーニャを主宰している田中勝則さんがプロデュースした『枯れ葉のサンバ』を1990年春にテイクオフからリリースしたのがご縁で、一時はたいへん親しくしていただいたからだ。そのアルバムのプロモーションのために同年6月に日本にお招きして、大阪で開催されていた花博覧会と原宿にあるライブハウス、クロコダイルで三夜連続の公演を開催した。周囲からなんて無謀なことをと言われ、現に観客動員には苦労した。だが初日の噂をクチコミで聞きつけたブラジル音楽ファンが押し寄せて、2日目と3日目は立錐の余地もない超満員状態。初日にふと思い立ち、いまではブラジル音楽の第一人者として活躍している中原仁さんに某放送局からDATの録音機を調達してもらい、2日目と3日目(6月15〜16日)の公演を収録し、『ギリェルミ・ジ・ブリート・ライブ〜詩人の涙』(テイクオフ/廃盤)として限定発売なんてこともやった。いま思うと、ずいぶん無茶なことをやってたようだが、同時にそれをやってのける馬力があった自分に驚きもする。1990年と言えば、16年前だから当たり前か。ともあれ、ぼくの無謀な行為のおかげで何人かはサンバ・カリオカの魅力の一端にふれられたわけだし、今日至るまであのクロコダイル公演はサンバ・ファンの間で語りぐさになっていることを思えば、ギリェルミさんを招聘したことを僕は誇りにしていいだろう。
 勝則さんともども成田に迎えに行き、会場が近いという理由で決めていたNHK近くの東武ホテルにギリェルミ夫妻を案内。翌日からテイクオフの四谷の事務所に来てもらって、日本側のサポート陣の笹子重治(ギター)、秋岡欧(バンドリン)、梶川のりお&岡部洋一の両パーカショニストの4人とお手合わせをやってもらったが、狭い事務所に熱気があふれて息苦しいほどだった。
 事務所に入るなり、ギリェルミさんが花瓶のシャクヤクを見て感嘆の声をあげたことをぼくは忘れられない。ぼくはシャクヤクが大好きで、たまたま旬で出回っていたのを飾っていたのだが、サンバ詩人の目にはそれが東洋の神秘に映ったようだ。
 翌日京都へ向かい観光したが、新幹線では富士山の景観に大はしゃぎ。また京都ではいろんな所でシャクヤクとの出会いがあり、ギリェルミさんはご満悦だった。それから大阪の花博覧会公演のため会場にのりこんだが、会場入り口に張ってあった大きなポスターに自分の姿を見つけて、思わず泣きじゃくったギリェルミさん。その姿も未だにぼくの瞼に焼き付いている。カルトーラ、ネルソン・カウ゛ァキーニョとならび称される偉大なサンビスタのギリェルミさんでも、68歳のあのときが初の海外旅行、自分の公演ポスターも人生での初体験で、感動のあまり不覚にも泣いたと知って、ぼくは胸がが熱くなった。
 クロコダイル公演の三夜目の最後に「もう今日でみなさんとお別れだから、とても悲しい」と挨拶して「詩人の涙」唄いだしたが、ギリェルミさんはまたもや泣きじゃくって唄えなくなってしまう。すると会場から声が上がり、ポルトガル語で20分近くも歌声が続いたのだ。それを聞きながら、この超有名な曲をネルソンと共作したギリェルミさんはただ涙ぐむばかり。ぼくももらい泣きしてしまったが、あんなことも初めてだったろう。
 ギリェルミさんの訃報にふれて、ぼくがまず思い出したのはそんなことだった。この世との別れが迫ったとき、人生で強く心に残ったことどもが走馬灯のようにその人の脳裏をかすめると人は言う。深紅のシャクヤクや京都八坂神社の神殿の朱色、花博覧会会場のポスターなどはギリェルミさんの最期の走馬灯に登場したのだろうか。クロコダイルの会場で自分が作った代表作を唄えなくなったとき、極東のファンたちが思いがけずもポルトガル語で20分近くも合唱してくれたワンシーンはその走馬灯に出てきたのだろうか。
 ショーが終わり、サポートしてくれたミュージシャンたちが東武ホテルまでマエストロ夫妻を支えるようにして送ってくれたのだが、全員が別れがたくて夫妻の部屋まで乗り込み、明け方までお酒を飲みながら語り合って過ごした。遠い世界の人だと思っていたサンバ・カリオカの世界がぐっと近くなった瞬間だった。あのときもちょうどサッカーのワールドカップが開催中で、ギリェルミさんはホテルのテレビの画面を気にしながら、母国のチームにエールを送って観戦していたことも鮮やかに思い出す。
 ぼくが外国からアーティストを招いたのは、ギリェルミさんが最初で、その翌々年にはギリェルミさんだけでなく、モナルコさんやパーカッションのベト・カゼスやギターのパウロン他数名を招いて東京・名古屋・神戸などで興行した。そのときの模様は『ギリェルミ&モナルコライブ・イン・ジャパン'92』(テイクオフ TKFV-1)というVHSビデオに残っている。その後も、ペルーの至宝ギタリスト、ラウル・ガルシーア・サラテの初来日公演、日本キューバ友好協会と共同で招いたキューバのトリオ・テシスの公演、そして最近では去る4月にパラグアイから招いたギタリストのルス・マリーア・ボバディージャまで、一流のアーティストやグループを招いて公演を重ねて来たが、ギリェルミさんのことは最初だったせいか、とりわけぼくの心に焼き付いている。いずれぼくがこの世を去るとき、ぼくの走馬灯にギリェルミさんのやさしい笑顔とクロコダイルで号泣するすがたが映るに違いないと思えてならない。

  マンゲイラでは/詩人が亡くなったとき
  みんなが泣いてその死を悼んでくれる
  私がマンゲイラで幸せに暮らせるのも
  死んだときに泣いてくれることを知っているからだ

  でもマンゲイラの涙は普通のとずいぶん違う
  というのもその涙は人びとを陽気にさせるんだ
  なにしろ人によっては/パンデイロやタンボリンを演奏して
  サンバで涙を表現するものだから

 これは「詩人の涙」の一節である。ぼくもカシャーサでも飲みながら、陽気にギリェルミさんを偲ぼうと思う。合掌。(2006.5.29)

2006年5月13日
メキシコの様子がなんだか変です
 メキシコ在住の上西和美さんから緊急のお知らせをいただいたので、転載します。なにが起こっているのか、まだよくは把握できませんが、ともかく事実を知っていただきたく、上西さんからの緊急メールを転載しますので、読んでください。昨年2月に続いて、来る6月4日の午後2時から築地のキューバン・カフェで、メキシコの子供たちをサポートするためのチャリティー・ライブを開催するなど、メキシコへの思い入れが深いぼくだけに心を痛めています。(竹村 淳/2006.5.13.)

 みなさん元気ですか。今日は今現在メキシコで起こっていることを日本 の皆さんにお知らせします。これは新聞、ニュース、ラジオ他、大学の仲間から集めた情報を簡単にまとめたものです。
 先週の木曜、メキシコシティ、テスココのアテンコというところで警察機動隊と人民の衝突があった。事の始めはアテンコ自治体内で花を売っていた屋台のおじさん達が警察に暴力的に追い出されたらしい。その後市民が反対デモを行ったところ警察が再び暴力的にそれをおさえた。市民は怒り、暴力をふるった警察官8人程を取り押さえた。その警官達を取り返すことを理由とした政府の機動隊3000人程がアテンコを包囲、ヘリコプターや催涙ガスを使って強行突入をした。そして子供が1人死亡、一般市民、学生含め200人近く逮捕された。その中に5人外国人がいて即刻国外追放、一人はうちの学校の人だった。うちの学校の生徒も5人逮捕された。そして今日シティあちこちの大通りで学生が平和的デモ行進をしたところ機動隊が到着し、うちの大学では300人の機動隊に催涙ガスまでまかれ、学生は学校内に全員非難。入り口を封鎖した。けが人も多数発生。しかし、TVニュースには学生が武装してたとか、警察との交渉に応じなかったとか、まったく事実と異なったことが流れた。報道は<全て真実>ではないとは感づいていたが、今日のことで残念ながらそれが事実だとわかっってショックだった。
 学校ではミーティングが続き、学校長を始め皆憤慨している。大学側では平和的なデモ活動をしていた生徒5人(1人はチリにもどされ、二人は今朝釈放)を早く私たちのところに戻して欲しいと心から願っている。民主主義の国でデモや発言の自由は、<建前的>に認められている。しかし私達のクラスメートを含め、今たくさんの若者が刑務所内で不当な暴力や性的暴行を受けている。私は外国人なので憲法33条によって、政治的活動はできない。でも無視することもしたくないので、影ながら状況を見守るしかない。そして皆にこの状況を知って欲しい。日本ではきっとこの情報は流れていないだろうから、友達達にこのメールを送ってください。なにもしなくていいから。ただニュースで流れる情報だけを信じないで 欲しい。どうやら世界中でこういう不正や権力による暴力や情報コンロールがされているようだ。<自由>ってなんなんだろう?明日も全国的なデモ行進が予定されている。私は参加しないが、皆が無事に帰ってくれることを、早く刑務所にいる若者達がこれ以上虐待されないことを、そしてこういう理不尽な暴力が繰り返されないことを祈っている。

PS
スペイン語が分かる方で興味がある方は次のホームページをチェックしてください。
www.cml.viento.info
もっと詳しい情報やこの後の状況が知りたい方は直接私にメールをください。
k_uenishi@hotmail.com

2006年5月10日
限りなく増殖し、祖先がだまし取られた領土を取り返すチカーノたち?!
 米国のイスパニック(ラテンアメリカ)系住民がこのところ盛り上がりを見せている。
 つい先日こと、米国国歌のスペイン語バージョンを発表した一派がいて、それを聞いたブッシュ大統領はあくまで英語で唄うべきだと不快感をあらわにした。それと前後して、イスパニック系の移民の規制強化や不法滞在者を厳格に閉め出そうとする動きに対して、去る5月1日には全米各地で反対する人たちによる空前のスケールのデモが起こったことは日本でも大きく報じられた。働き手を確保できなくなって、店は閉店したり、開店休業状態だったり、また工場操業を中止にせざるをえなかったりと、少なからず米国経済にも打撃を与えたようだ。いわゆる3Kとよばれる汚い仕事や割の合わない仕事をこれまで押し付けておきながら、彼らに感謝ではなく、あらためて締め付け直すという当局に対し、ならば「おいらの安い労働力がないと、どういうことになるかを知らしめてやろうじゃないか!」とばかりに、イスパニック系住民が立ち上がったのだ。
 不法であろうとなかろうと、貧困にあえぐ母国から出稼ぎにやって来て、自分の権利うんぬんなどチャンチャラおかしい、と反論するヤカラもいそうだから、少し説明しておこう。そもそもことの起こりは1836年3月2日に遡る。この日テキサス州はメキシコから独立宣言。その後、紆余曲折はあったが、テキサス共和国はともかく9年間続いた。だが1845年12月のこと、米国がテキサス共和国を統合。テキサスの奪回をめざすメキシコはその統合に反対して戦争をしかけ、結局1846年から48年にかけて戦った末にメキシコが敗北。この米墨(米国とメキシコ)戦争で、メキシコは国土の半分を失った。戦争と言えば聞こえがいいが、体よくだまし取られたようなものだ。いまの米国の南西州はもともとメキシコ領だった所で、ロス・アンジェルス(天使たち)であれ、サン・フランシスコ(聖フランシスコ)であれ、スペイン語の地名がついているのはもともとメキシコの領地だった証拠である。その敗戦の結果、両国間に新しい国境線が引かれたが、これはちょうど38度線で朝鮮半島が北朝鮮と韓国に分けられたようなもので、国境をはさんでメキシコ系米国人(チカーノ)とメキシコ人が住むことになったのだが、もとはと言えば同じメキシコ人同士である。
 最近とみにこの国境地帯のことやチカーノの文学や音楽への関心が高まっている。たとえば来る10月に早稲田大学のエクステンション・カレッジで「アートで読み解くアメリカ社会〜メキシコ系アメリカ人編」というリレー講義が5回にわたって開催され、ぼくもその一翼をになって10月15日の午後1時から「メキシコ系アメリカ人(チカーノ)の音楽」について講義することになっている。10月22日には越川芳明さん(明治大学教授)による「バリオ文学から見るメキシコ系アメリカ人」、11月5日には野谷文昭さん(早稲田大学教授)による「映画から見るメキシコ系アメリカ人の眼差し」など興味津々のテーマが列んでいる。
 このようにチカーノを中心とする米国のイスパニックに注目が集まるのにはそれなりの背景がある。久しく米国ではマイノリティといわれてきたイスパニックながら、すでに一昨年にアフロ・アメリカンの人口を凌駕し、2013年になるとは白人系をも凌いで、最多の人口、つまりマジョリティになると予測されているのだ。キューバからの亡命者、自治州プエルト・リコからの移住者、その他のラテンアメリカ諸国からの移民や不法入国者の数も増える一方だが、なかでもチカーノの数は先にふれたような歴史的な事情ゆえに群を抜いている。この勢いでチカーノを中心としたイスパニック系米国人が増えていくなら、国歌のスペイン語版もあって当然、米語とともにスペイン語をも米国の公用語に加えなければならなくなる日がくるだろう。現にブッシュ大統領ですら、2期目の当選を果たした後、テキサスに住むイスパニック系住民にスペイン語で感謝のスピーチをしたことがあるのだ。
 言葉は悪いが、貧乏人の子沢山という表現がある。ガンガン増殖し、数で白人や黒人人口を圧倒し、そのイスパニック・パワーを炸裂させるなら、チカーノたちは先祖の地だった米国を乗っ取り返し、チカーノ中心とする新合衆国を建立するまでになるかもしれない。(2006.5.10)

2006年3月2日
ウンザリ大国、日本はどうなってしまうのだろうか!
 たまに会った友人やメールをくださる方から、ぼくのサイト・コラム「言いたい放題」を楽しみにしているのに、なかなか更新されないとお叱りを受けることが多い。これはひとえにぼくの怠慢のせいなのだが、そろそろ変わっているかなとアクセスしてくださったのに、旧態依然でがっかりされる方の気持を思うと、つくづく申しわけなく思う。ちょっと気の利いたことを書こうなどと意気込まずに、日記でもつけるような感覚で、日々の思いを綴るようにするのがいいかもしれないなと思ったりもする。ともかく心を入れ替えて頑張ることにしますので、よろしくお願いします。
 ところで今日 3月1 日はぼくの誕生日である。決して平坦ではない苛酷な情況にもかかわらず、今日までなんとか生きて来られたことを神に感謝したい。とは言え、これから先に思いを馳せると、生きていくのが気が重く、誕生日を祝う気にさえなれない。近頃の日本はあまりにもうウンザリすることが多すぎると思いませんか。
 新聞やテレビをにぎわす話題にしてもウンザリすることだらけである。幼児や子供がわけもなく殺害されたり虐待死させられたり、まるでゲームのような感覚の殺人事件が相次いだり。かと思うと、マスコミを巧みに操縦して盛り上げた小泉劇場の人気とそれを背景に大勝利を収めた小泉チルドレンのハシャギぶりにもいい加減にウンザリである。
 かねがねキナ臭いと思っていたが、武部自民党幹事長が息子だ弟だと持ち上げたホリエモンが虚業の塊だったことが判明。さらにこの国では生涯最大の買い物である住宅をやっとの思いで買った人たちを平然と裏切るヒューザーの小嶋某以下の不埒な面々にもウンザリである。先日の冬期オリンピックにしても、結局はお祭り騒ぎのマスコミの皮算用といったテイタラクで、とれたメダルは荒川静香さんの金一個だけ。そもそもあんなにデブってしまった安藤美姫が宣言したからといって4回転ジャンプができるはずはなく、本番ではシリモチのお粗末。それなのに100人をこす選手の他に、127名だかの関係者がトリノに乗り込んでいたそうだが、彼らはなにをしに行っていたのか、知りたいものである。それ以外にも、道路公団や防衛庁の談合問題もある。
 先日なんとか青色申告をすませたが、昨年度に較べて税金のしめ付けが厳しくなっていることに改めて驚いた。この分だと、いま5%の消費税がやがて10%なり15%になるのも時間の問題だろうという気がして、これにもウンザリである。とにかくいまの国会議員は政治屋ばかりで、民の幸福や権利に思いを馳せる政治家はほとんどいないことは確かである。そして彼らが国民に回してくるのは気の遠くなるような借金のツケばかりである。といって、そもそもそんな輩を国会へ送り込んだのは他ならぬわれわれだし、国民だって人ごとのように選挙に行かない人が過半数なのだから、救いようがない。総理は総理で、靖国参拝にこだわり近隣諸国から総スカンを食らいながら、反省の色どころか、端からとやかく言われる筋合いではないの一本槍で、もはやつける薬もない。本当にもうこの国にウンザリだが、日本はいったいどうなってしまうのか気がかりでこの上ない。(2006.3.1.)

2006年3月30日
 1年経って...
 5ヶ月ぶりに京都と奈良へ行ってきた。今回は昨春3月19日に92歳で他界した伯母の一周忌への参列がメインの目的だった。1年前のその頃は、長年続いたNHK のDJの仕事のちょうど最終回直前だったりで、なにかと雑事があって葬儀に参列できなかったのがとても心残りだった。夏に一度お仏壇にお参りさせていただいたが、やはり葬儀に参列できなかったという負い目のようなものが久しく心にわだかまっていた。それだけに今回の法事に参列できたことは有難く、ようやく救われた気持になった。
 伯母はぼくの父の姉にあたる人だった。ぼくの父は早くに中国で戦死。叔父もフィリッピンでやはり戦死。もう一人、ぼくを育ててくれた京田辺の伯父はそこそこ生きたが、その伯父もかなり昔に他界。そんなふうに7人の兄弟姉妹の男たちが短命だったのに対し、姉妹はそれぞれ長生きした人が多かったが、ミツ伯母はなかでも長寿で、一番最後にあの世へと旅だたれたことになる。編み物が得意だった伯母は、父母を早くに亡くしたぼくを不憫に思ってくれていたようで、死の少し前までセーターや靴下などを編んでは何度もプレゼントしてくれたこともあり、ぼくも伯母を慕っていたから、葬儀に加わって見送れなかったのことがひっかかっていたのだ。ともあれ今回、ぼくにとっては従兄弟にあたる人たちだが、3人の息子とその家族や親戚が集まった法事は盛会で、さぞかし伯母も嬉しかったことだろう。あらためてミツ伯母のご冥福をお祈りする。
 法要が営まれたのは、奈良・王寺町の蓮祥寺という浄土真宗本願寺派のお寺だったのだが、ここの住職・亀井探隆師がラテン音楽が好きだと今回の施主を務めた従兄弟の隆史さんがあらかじめ教えてくれていた。そこでぼくは少し早めにお寺に着き、住職としばし話し込む機会を得たのだが、和尚はラテン音楽だけでなく、じつに様ざまな音楽に興味を持っている方で、しかもご自身も界隈のミニFMで1時間番組DJをもやっておられることを知って、思わず話がはずんだ。いわく、お寺は劇場だ、お経をラップ仕立てでやってみたい...エトセトラ。もう一度ゆっくりとお目にかかっていろいろとお話をうかがいたいと思うことしきりである。
 葬儀と違って、法事はあらかじめ日程が組まれるため、参列する側にしてもなにかとスケジュールが組みやすい。今回はかねがね一度と言われていたKBS京都の人気ラジオ番組「山崎弘士の人めぐり・音めぐり」にあらかじめ交渉して3月13日に出演させていただいた。これも法事があってのことである。ちょうど1年ぶりのラジオ出演だったが、山崎さんの好サポートでじつに楽しい55分だった。いまはやりのグローバル化は音楽にとっては大敵とかねがねぼくは思っているので、それぞれの風土から生まれ育まれたフォルクローレこそが素晴らしく、無国籍音楽や単なる商品でしかないような音楽を生みがちな“グローバル化”など音楽にとってナンセンスというキャンペーンをはりたいといった切り口で話し、ラウル・ガルシーア・サラテのギター・ソロで「コンドルは飛んでいく」、アタウアルパ・ユパンキの弾き語りで「牛追い」、そしてタニア・リベルターの唄で「人生よ有難う」などをかけながら山崎さんといろいろ話した。ぼく自身にも充実感があったが、その後数人のリスナーの方がたからさっそく自宅宛にお便りをいただき、よかったと言っていただき、わが意
をえたりと嬉しくなった。
 今度7月3日(月)に関西外語大のお招きでラテン音楽についての講義をやることなっているのでまた京都に来ます、と山崎さん言ったら、その時にまたぜひと言ってくださったので、いまから楽しみにしているところである。
(2006.3.30)

2006年4月6日
世界のギター・シーンを照らす、
パラグアイの“魔法の手”がいよいよ初来日
 いよいよルス・マリーア・ボバディージャが来たる4月10日に成田にやってくる!
 と言っても彼女のなんたるかをご存知ない方には「なんのこっちゃ?」だろうが、7年このかた彼女のファンを自認してきたぼくとしてはすでに熱烈歓迎モードに突入である。
 そもそもぼくがルス・マリーアというパラグアイのギタリストの存在を知ったのは、1999年か、2000年のことだった。日本を代表するパラグアイ・アルパの奏者ルシーア塩満さんがおみやげに持ち帰ってくれたアルバム「アグスティン・バリオスに捧ぐ」と「ギターの光彩〜ラテンアメリカ&スペイン名曲集」を聴いたときだった。
 女性らしく繊細で優美な表現もいいが、演奏そのものは男性にもひけをとらないほど思い切りがよくてダイナミック。しかも彼女ならではの豊かでしなやかな感性と民族性が一音一音に息づいていてなんとも素晴らしかった。ぜひともルス・マリーアをラテン音楽のフアンやギター・ファンに紹介したい一心で、「ギターの光彩」をぼくの解説つきでテイクオフ社からリリース。またラジオ番組でも折りにふれて紹介したが、春先のサクラのシーズンに数度かけた「サクラ変奏曲」には驚くほどの反響があった。
 そんな彼女から来日したいという連絡が入ったのは2005年の11月半ばだった。ルス・マリーアが最初にアクセスした在日パラグアイ大使館では、そうはいっても無理だろうと断ろうとしたらしいが、たまたま館員の長谷川幸子さんがぼくのことを覚えていて話をぼくにふってこられたのだ。ふたつ返事でぼくは引き受け、その後なんどかルス・マリーアとメールを交信して4月来日ということが決まった。4月と決めたのはほかでもない。彼女に本物のサクラを見せながら、日本人がサクラに抱く独特の思いを話した上で、彼女の十八番となっている「サクラ変奏曲」をナマで聴きたいと思ったからである。
 もう10年ほど昔のことになるが、ギターの巨匠ジョン・ウイリアムスが“バリオス没後50年記念レコーディング”と銘打って、アグスティン・バリオス(1885〜1944)の作品17曲を録音した「バリオス作品集」を聴いたことがある。それまで寡聞にしてバリオスのことは知らなかったが、そのアルバムを聴いて、遅ればせながらぼくはバリオスの音楽に惹かれた。しかし彼がクラシック畑の音楽家ということもあって、それ以上深追いすることはなかった。そんなぼくに再び、というより決定的にバリオスの作品にのめり込む契機を与えてくれたのが、上記のルス・マリーアの2枚のアルバムだった。
 スペインの巨人セゴビアは生涯バリオスを認めることがなかったというが、かつてはセゴビアに傾倒していたジョン・ウイリアムスがバリオスの真価を世界にあまねく知らしめたというのも興味深い話である。そしてルス・マリーアが奏でるバリオス作品はいまや世界で最高と言える素晴らしさだとぼくは確信している。ブラジルやウルグアイ、ベネズエラなどで暮らした果てに、エル・サルバドールで生涯を閉じたバリオスの足跡をたどり、未発表の楽譜や資料の発掘にも力を入れているルス・マリーアは、敬愛するバリオスの研究所の所長でもある。そんな彼女のコンサートを日本で開催できることをぼくは誇りに思っている。今回は仙台/佐野/東京の3カ所だけだが、ギター・ファンなら逃すと後悔必至のコンサートになると断言します。ぜひともお見逃 しなく。(2006.4.6)

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