「恋はみずいろ」「オリーブの首飾り「エーゲ海の真珠」などの大ヒットで知られた、イージーリスニングの巨匠ポール・モーリアが去る11月3日に亡くなった。1925年3月4日にマルセイユに生まれた人だったから、享年81ということになる。
ぼくは格別彼のファンだったわけではないが、一度だけ聴いた彼の生演奏の迫力はいまだに忘れられないでいる。時は1970年1月のことで、所はパリのオアランピア劇場。だが彼ではなく、その頃ブレイクの真っ最中だったミレイユ・マチューのコンサートを聴きに行ったら、その伴奏がポール・モーリア楽団だったのだ。幕が上がって間もなく、おろされたままの紗幕の向こうから音が流れ始めたとたん、その音圧のすごさに思わずぼくの腰が浮いてしまったこと鮮明に思い出す。
1969年のクリスマス前に日本を出発。南回りでまずエジプトに入り、カイロとアレクサンドリアを訪れ、クリスマスイブにストックホルムへ飛んで、そこからデンマーク、西ドイツ、オランダを経由して新年のパリに入り、最初に観たのがマチューのコンサートだった。その頃のぼくは32歳で、ヨーロッパへの旅は初めて。その上10代の頃からシャンソンが大好きだったから、そのメッカと言えるオランピア劇場をまず目指したのである。
ポール・モーリアは一度1950年にパリに出て、フランク・プールセル楽団に参加したりしたものの、うだつがあがらないまま一旦マルセーユに帰郷。そして1959年に再度パリに出たが、そのときはエディー・バークレーに認められてリュシエンヌ・ドリールなどのアレンジの仕事を得る。なかでもシャルル/・アズナブールは彼を高く買ってくれ、1960年11月のコンサートの際には伴奏指揮をまかせてくれた。
この辺りから順風満帆。のちにフレンチ・サウンドと呼ばれるようになる独自のサウンドを打ち出してめざましい活動をみせる。やがて「恋はみずいろ」が1968年にまず米国、ついで世界で大ヒットしてからはイージーリスニング界の寵児となって世界を股にかけて活動したことは周知のところである。日本には1969年に初来日し、98年までに日韓両国でなんと1200回のコンサートをこなしたという。
いっぽうのマチューは1946年7月22日にアヴィニオンに生まれたが、父は稼ぎのよくない墓石の石工で、しかも13人もの兄弟がいて、家は極貧状態だったという。弟や妹の面倒を見るのはもっぱら長女の彼女の仕事。そんな辛い毎日で唯一の慰めは歌を唄うこと、とりわけエディット・ピアフの持ち歌を唄うことだったそうだ。生活のために16歳で女工になるも、歌手となる夢を捨てきれない。そんな彼女にチャンスがめぐってきたのは1965年のことだった。パリでピアフを追悼して開かれたテレビののど自慢番組に参加して「愛の讃歌」を唄い優勝。ピアフの再来と騒がれたが、そんな彼女にジョニー・スタアークという有名なマネージャが目を付ける。そのスタークがモーリアになんとか頼み込んで生まれたのが、モーリア曲/アンドレ・パスカル詞の“Mon credo/愛の信条”で、マチューはこれを唄って1966年春にデビューを果たし、一躍スターダムに昇ったのである。
そんなことを知ったのは後になってからの話で、1970年1月のオランピア劇場ではなにも知らないままモーリア楽団の演奏にぶっ飛び、マチューのパワフルな唄にひたすら圧倒されっぱなしだった。それから36年の月日が流れたが、モーリアの訃報に接してまず思い出したのはあの日のモーリアの演奏とマチューの熱唱だった。合掌。(2006.11.6)
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