2007年9月27日
真の“主権在民”を実現する絶好のチャンス
 毎日これということもせず、暑い暑いと言っているうちに、8月も終わりである。今年は長梅雨で、どうやら冷夏かと思い始めていたら、一転して暑くなり埼玉の熊谷や岐阜の多治見では40.9にも達して最高気温の記録を塗り替える騒ぎ。ぼくが住んでいる辺の最高気温も連日38度前後となり、頭がオーバーヒートしてまるで機能しなかった。
 台風やカリブ海のハリケーンは明らかに強大化しており、北極の氷が予想以上に融けているとか、どこどこを熱波が襲っているとか、どこどこでは干ばつ被害だとか、世界のあちらこちらから伝えられる異常気象のニュースも気がかりである。地球の温暖化をなんとしても食い止めることが人類にとっての緊急課題である。
 その上ぺルーでは大地震、その少し前にはまたも新潟で大地震があり柏崎の原子力発電所が使い物にならなくなってしまった。1か月前の参議院選挙で安倍自民党が歴史的敗退を喫し、それを受けて本来は9月にやる予定だったという内閣改造を昨日やったが厚生労働大臣に就任した舛添要一氏以外まるで新味がない。8月28日にここまで書いて、暑さにやられてあえなく気力喪失。なにもしないまま夏が終わり、またまた「言いたい放題」も久しぶりとなってしまった。
 
 閑話休題。前回、7月7日付けの本欄のラストに、こんなことを書いた。「首相はコメントしても自画自賛ばかりで、内実の伴わないことおびただしい。こんな国民のことなど全く頭にない首相不適格人物を政権の座から引きずり下ろすことだ。どうすれば?...簡単な話である。まず来る参議院選挙には必ず投票に行くこと、そして自民党に投票しないことです」
 その後の展開はご存知のとおりである。安倍晋三首相率いる自民党が小沢一郎率いる民主党に歴史的惨敗。その選挙結果が刻々判明する途中に、首相は早々と辞職拒否し続投を表明。それも妙チキリンだったが、取り巻きにせき立てられてやっとおこなった内閣改造の直後にはまたもや農水大臣・遠藤氏の辞職。さらにシドニー・サミットではあれこれ公約して帰国し、臨時国会にのぞんだが、所信表明の翌日に辞任表明。その理由が、民主党の小澤さんに会談をお持ちかけたが断られたから、というのだから、呆れてものが言えなかった。こんな無責任で無能な欠陥人間がともあれ辞めてくれたからよかったが、アベシンは首相職だけでなく、国会議員も辞めて、政界から姿を消すべきだ。
 結局、体調不良ゆえのリタイアだったと最近になって病院で記者会見してコメント。その間、総理代理も置かず、国会を開店休業にし、国政に空白状態を作ってもおかまいなしというテイタラクではなにをかいわんやである。いまさら言ってもしょうがないが、いっそ代表質問を受け、その最中に突如崩れ落ちて倒れ入院でもしてれば、少なくともマシな引き際だと同情票を得られたかもしれない。なにをやるにも間が悪いことだけは一流という三流首相だった。
 その後、次期自民党総裁はその座を狙っていた麻生太郎氏と急浮上してきた福田康夫氏の一騎打ちとなり、福田氏が後継総裁となり、それに対して旧態依然の談合政治復活だ、いやそうじゃない、とかまびすしかった。だが福田内閣は所詮次期衆議院選挙までの選挙管理内閣とみるのが妥当だろう。だから、そんなことにかまっているより、いま心すべきは真の“主権在民”を実現する千載一遇のチャンスが巡ってきていることを自覚して行動することが大事だと思う。
 主権在民なんて言葉はいまや死語になっているかもしれないが、去る7月末の参議院選挙で安倍自民党が歴史的敗退を喫し、民主党が第一党になった日に、ぼくがまず思ったのはそのことだった。主権在民といっても実感が持てずにピンと来ないかたが多いかもしれないが、明治憲法(大日本帝国憲法)では天皇に主権がある“主権在君”だったのが、戦後の日本国憲法では国民のものとなっているのだ。そのことは1946年11月3日に公布された日本国憲法の前文にうたわれている。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも、国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」
 さる7月29日の参議院選挙で自民党が大敗を喫したのは、国民が選挙という正当な手段によりようやく主権を行使した結果と言えまいか。いつもはしらけて選挙をないがしろにしてきた国民が、年金問題などで政府にアタマに来て重い腰を上げ、ふだんより多少大勢の人が選挙権を行使しただけで、今回のような激変を招くことができるのだ。そのことが分っただけでも、ぼくは少なからず勇気づけられた。
 思えば、1960年5月の安保闘争で日米安全保障条約改定に対する反対運動が盛り上がっり、まだ学生だったぼくなんかもデモに参加したが、結局条約は改定され、ぼくたちには挫折感と徒労感だけが残った。その後密約があったことま分った。それだけに去る7月の参議院選挙で自民党を大敗に追い込んだことは、効率もよく、今後に希望が持てる。ここまでくれば、福田首相の自民選挙管理内閣を1日も早く打倒し、衆議院の総選挙に追い込み、2大政党時代に持ち込むことが肝要である。なぜなら、テロといった非合法の手段ではなくとも、本来われわれの手中にあるべき主権をわれわれが行使するには、それが最良の手段と思えるからである。 (2007.9.27.記)


2007年7月7日
日本の国会は米国が投下した2発の原爆で非業の死を遂げ、
また後遺症に苦しむ何十万の人たちに謝罪しろと決議すべきだ
 7月4日は言うまでもなく米国の独立記念日にあたる。いまから231年前の1776年7月2日に、米国議会は英国からの独立を決定。7月4日にトーマス・ジェファーソン(第3代大統領)が起草した独立宣言を採択したことによる。
 それはともかく、その米国議会でいま頃になって太平洋戦争中の、いわゆる従軍慰安婦問題を蒸し返して、日本政府に謝罪せよと迫っている。折しもそんな矢先、米軍が広島長崎に原爆を落としたのは「しょうがなかった」とまるで米国の残虐行為を容認し擁護するような発言を久間防衛相がやらかした。当の本人もなんと長崎出身だというから、どういう神経の持ち主なのかと思う。(あとで調べたら長崎でも被爆地とは離れた所の出身で、要するに他人事なのだろう) 当然被爆地の人びとが猛烈な抗議の声をあげ、久間氏は7月3日午後に辞任。しかし辞めればすむというようなものではない。首相の任命責任はもちろんあるが、案の定、前米国務次官で現在核不拡散問題特使のロバート・ジョゼフが米国の「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の数十万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」(7月5日付け朝日新聞朝刊)などと、原爆肯定論をすかさず展開し、波紋は広がっているからだ。
 従軍慰安婦問題なんかなかったと主張するヤカラもいるが、あったことは事実だろう。国内外の女性を強制的に日本兵の性のハケグチ要員にしたことは許されない非人間的行為である。だが人を人とも思わず、原爆で日本国民を大量虐殺した行為の残虐さはその比ではない。米国議会がお節介にも従軍慰安婦問題で日本政府に謝罪しろと言うなら、日本の国会は改めて米国が投下した2発のピカドーンで非業の死を遂げ、またその後遺症に苦しんできた何十万の人たちに謝罪しろと決議すべきだ。それでこそ独立国というものだ。
 それから久間氏は国会議員も辞めることだ。そして長崎県民は二度と再びこんな欠陥人間を議会に送り込まないことだ。架空の事務所を届け出ていたことを追求されて辞任した佐田行革担当相、「女は産む機械だ」とほざいて女性の怒りを買った柳原厚生労働相、疑惑の事務所経費問題で追求されても、適正に処理していると言い続け、結局首を吊って果てた松岡農林水産相だの、不適当な人材を大臣に任命してきた安倍総理の責任も重大である。加えてこうした問題ある人物を国会に送り込んで来た選挙民も反省して、今後はそうしたヤカラをみずからの代表には選ばないことだ。それにしても、今回の久間氏の問題が起きた時も、首相サイドは当初容認する姿勢をみせながら、国民の反発のすごさに驚いて態度を変えて辞任を認めるなど、ことが起こった時の認識の甘さと対処のまずさをまたまた露呈した。
 ここに来て消費税の増税をちらつかせ始めた首相だが、“ふるさと納税”などと口当たりのいい文言で住民税を増税したことも絶対忘れてはならない。確かに所得税は減少したが、住民税の増加を埋め合わせるには至ってない。これはつまり実質増税以外の何ものでもない。首相はコメントしても自画自賛ばかりで、内実の伴わないことおびただしい。こんな国民のことなど全く頭にない首相不適格人物を政権の座から引きずり下ろすことだ。どうすれば?...簡単な話である。まず来る参議院選挙には必ず投票に行くこと、そして自民党に投票しないことです。(2007.7.7.記)

2007年7月2日
2007年の前半が終わって...
 光陰矢の如し、とはよく言ったものである。あっという間に今年も7月に入り、半年が終わったことになる。
 この6か月にいわゆる年金問題が表面化し、社会保険庁の役人どもの超デタラメぶりが露呈した。なにしろ払われた年金がだれのものかさえ判別出来ないのがざっと5千万件あるというのだから、国民が驚き怒り心配するのは当然である。問題の案件数はそんなものじゃないという見方もあり、ことはますます重大化しそうだ。参議院選挙を前に、ここぞとばかりに騒ぎ立てるマスコミに、総理大臣は動転し、その場しのぎでテキトーなことを言うから、いまや収拾のつかない混乱状態に突入している。そんなさなかに社会保険庁を解体し、国会の追求が及ばなくなる民生機構に移行させる法律を無理矢理通過させてしまう安倍首相のごり押しを見ていると、安保問題で日本をグジャグジャにした妖怪じいさんの岸信介の血を引いていることをあらためて思い出した。
 あとひと月もしないうちにやって来る参議院選挙で、とりあえずいまの行政の長である安倍晋三に「てめえなんざ、総理総裁の器じゃねぇ」と引導を渡すということは、ヤツが率いる自民党には一票も入れないことだ。そしてヤツを総理総裁の椅子から引きずり下ろすことだ。今度の選挙で自民党が勝つようじゃ、もうこの国を救うすべはないだろう。
 社会保険庁の役人どももひどいが、NHKの職員にもひどいのが多い。採用基準は一体どうなっているのか。ろくなヤツしか採用していないのではないか。そんなことまで思いたくなる出来事があった。去る6月上旬に3人の職員が相次いで淫行で逮捕されたのだ。それに元集金人だった男が妻を殺すというオマケまで付いた。ふつうなら一件が発覚した時点で、自粛しそうなものだが、逆に破廉恥事件が伝染したなんて話は前代未聞だ。その直後にNHKの経営委員会が10日間に3職員の淫行による逮捕はいくらなんでも多すぎるとクレームをつけたという記事が新聞に載っていたが、経営上の重大な問題を討議するのが仕事のはずの経営委員会がそんなことまで言わなくてはならないこと自体が異常だ。
 なんでも今後そういうことがないように指導するという広報の談話ものっていたが、上司がいい大人の部下を一人ずつ呼びつけ、「きみ、淫行はいかんよ!」とかなんとか諭すつもりかね。自局の職員の不始末ニュースを視聴者に向かって読まなきゃならないアナウンサーもいい面の皮だが、逮捕された3職員の一人は同僚アナウンサーだったけ。もはや「みなさまのNHK」なんてチャンチャラおかしいよ。「大リーグ中継はNHK、淫行逮捕もNHK」とでも言ったらどうだ。
 連鎖反応と言えば、年が明けて間もなく泥酔して車を運転して追突し、子供3人を死なせた北九州市の市役所職員がいた。耳目を覆いたくなるほど淒惨な事故があると飲酒運転を自粛しそうなものだが、この国のドライバーたちはどうもそうはならず、逆に連鎖的に飲酒運転による事故が起きたことは記憶に新しい所だろう。運転する人は、酒を飲んで運転することは凶器を振りかざすのと同じことだと肝に銘じるべきだろう。あれだけ騒がれたニュースをテレビでも新聞でも見ていなかったはずはなく、結局自分とは別世界と話と思っているのだろうか。
 参議院選挙にしても他人事、ヨパッライ運転も他人事では、この国もこの国の人も地獄に堕ちる時がやってくることをゆめゆめ忘れることなかれ、である。(2007.7.2.記)

2007年5月26日
けんけんカツオに舌鼓
 小中学校時代の友人M君が志摩半島に所有している別荘で久しぶりに数日を過ごし、命の洗濯をさせてもらった。ベランダの下は内海で、M君自慢のクルーザーやヨットが係留してある。数年前、誘われて初めて訪れたが、海好きのぼくはこれ以上ない環境にすっかり魅了され、再訪の機会を狙っていたのが、思いがけず実現したのだ。
 ともにぼくが運営しているテイクオフ社のアーティストなのだが、ボリビアからやってきた世界最高のサンポーニャ奏者フェルナンド・ヒメーネスとエルネスト河本が率いるグルーポ・カンタティの共演コンサートが5月23日の大阪でスタートするのに先立ち、その前に練習合宿をするというので、ぼくがM君に頼み込んで5月20日〜22日の3日間合宿させてもらったのだ。ぼくは友人のNさんと東京から先行隊として19日に現地に入り、京都から車で駆けつけてくれた放送作家の杉本佳男さんとTさん、別荘の主M君らと近鉄の鵜方駅で合流し、食材などを仕込んでから別荘に向かった。
 なんと言っても食材そのものが素晴らしい。3大漁場とされる付近の海から水揚げされる魚介類は新鮮かつ安価。なかでも旬のカツオを一本釣りした「けんけんカツオ」というのを初めて知り、さっそく買ってタタキにしたが、美味さの次元が違った。他にこの地方の名高いアサリでスパッゲティ・ボンゴレ、やはり名物のロイヤル・ポークで豚キャベツちゃんこなどをぼくが作リ好評だった。エルネストはメンバーの島田静江さんとともに本場の伊勢エビを初め、様々な魚介類を使って、十八番にしているぺルー名物のセビーチェ、そしてパエジャなどを調理。ぼくもエルネストもその昔NHKテレビの「男の食彩」に出演経験がある、知る人ぞ知る料理好きなのだが、今回は杉本さんがまさにダントツ、プロ級の腕前を披露してくれ、合宿の食卓はきわめて充実かつ多彩なものとなった。主のM君が「4日間もここにいて、一度もレストランに行かなかったのは過去35年で初めてだ!」と言ったくらいだから、3人が手がけた料理はいい線を行っていたのだろう。
 フェルナンドとグルーポ・カンタティの面々は練習にも励んだ。共演コンサートは一昨年の晩秋に初めて実現して各方面で賞賛され、再演をのぞむ声が多く、それに応えて再び各地でコンサートやライブを開催する運びとなったのだ。その後、カンタティのメンバーの一人が、山下“TOPO”洋平から、武田耕平に代わったこともあり、練習には熱が入った。随時その練習を見てはいたが、合宿最後の夜に隣人のご夫妻も招いて7人の観客のために急遽開いてくれたミニ・ライブで練習合宿の成果を披露したが、それは素晴らしいものだった。ぼくの大好きな「緑の大木」や「きみの影になりたい」、おなじみの「コンドルは飛んで行く」、それにタンゴの名曲「エル・チョクロ」など10数曲を聴かせてもらい、M君以下の観客は大満足。ぼくはフェルナンドとカンタティの総仕上げの演唱を聴きながら、今回のツアーの成功を確信した。
 一昨年の11月にはぼくは彼らの京都公演を主催したが、今回は佐野厄除大師で有名な栃木県佐野市のホテルサンルート佐野の宴会場で、6月3日午後2時半からコンサートを主催することにしている。この公演のみ、ぼく自身が司会進行を務めさせていただくので、お近くの方はこの機会にぜひパワルルで心爽やかなボリビア・フォルクローレを聴いていただきたいものだ。(2007.5.26記)

2007年4月26日
3月11日のボリビア・イベントのご報告
 しばらく忙しかった。とくに3月はボリビア関係のイベントがあり、そのあと奈良県王寺で伯母の法事に出席、京都で墓参りとKBS京都でラジオ出演。いったん帰京して再び松本へ義母のお見舞いと続いた。さらに定期検診で大腸がんの疑いありと指摘され、再検査で病院通い。結果はオーライでホッとしたが、あまり気分のいいものではなかった。
 ところでボリビア関係のイベントというのは、栃木県の招待留学生として昨年9月から県下の自治医大で学んでいたボリビアの医師ハイメ・ロペス・フローレスさんをスペシャル・ゲストにお招きして去る3月11日に東京築地のキューバン・カフェで開催した「ボリビア先住民の現状とフォルクローレの背景」のことである。その報告をしようと思いつつ、上記のような次第で、なかなか手がつかなかった。
 その会の内容は、2月25日と27日の本欄に「ボリビアは燃えているか」と題して書いたので、そちらを参照していただくとして、重いテーマのトークの会なので、なんとか7〜80人程度の方がたに来ていただければ成功と思っていたところ、ボリビア初の先住民アイマラ族出身のエボ・モラレス大統領がイベント直前の3月5日から8日まで来日した影響もあってか、110人を超える方がたが参加してくださって盛り上がった。
 ハイメさんは30歳の医師だが、ボリビアで働いて得られる収入は月に1万5千円ほどだという。来日にあたり、それまで務めていた病院を退職した関係で、帰国すると就職活動を始めなければならない。しかもすぐに就職先があるとは思えないから、ボリビアから持参してきたチャランゴを5万円也で売って帰りたいと言うので、事前にサイトで呼びかけたり当日も会場で希望者を募ったが、とうとう現れず、ハイメさんの顔を見るのが辛かった。ところが、それと平行して「テイクオフ社がボリビア3人娘ラス・マリーアスのCDを提供するので、1枚千円以上のご喜捨を」と皆さんに呼びかけたところ、あっという間にCDはなくなり、一金3万円也をハイメさんに進呈することが出来たのは望外の喜びだった。「これで2か月暮らせます!」と言って、微笑んだハイメさんの顔が忘れられない。
 それにしてもボリビアについて多少なりとも勉強してきたのに、2003年10月にその国で起きていた先住民虐殺のことをぼくは全く知らなかった。それだけにハイメさんの話は衝撃であり驚きだったが、玉村和子さんの通訳で彼の解説に耳を傾け、血を流して倒れている大勢の犠牲者の映像を観ていると、心が痛み怒りが込み上げてきた。
 それでも「コロンブスが来て以来、ずっとひどい目にあわされ続けてきた先住民の人たち」がついに立ち上がったことに感動した。ことに2003年10月8日夜ウアヌニから800人の鉱山労働者たちがお手のもののダイナマイトを携えて、何日も歩いてラ・パスに到着するなどし、前大統領のゴニにプレッシャーをかけ、ついには彼とその一派を亡命に追い込んでいったエピソードには胸が熱くなった。
 3月11日のイベントに先だつ6日午後、エボ・モラレス大統領の講演を聴く機会があったが、ボリビアの貧しい人達をなんとかしたいという大統領の決意が伝わってきてとても頼もしかった。自国の民は無視し、米国などの権益を優先させ、キックバックで懐を潤わせてきた歴代の大統領たちとは立っている地盤が違うなという印象を受けた。願わくは内外の不満分子に足元をすくわれないで、大統領にはこれまで誰もなし得なかったボリビアの真の改革を続けて欲しいものである。(2007.4.26記)

2007年2月27日
ボリビアは燃えているか〜2
 3月11日(日)の午後3時半から東京築地のキューバン・カフェで開催する『ボリビア先住民の現状とフォルクローレの背景』にゲスト出演してくれることになっているボリビア人医師のハイメ・ロペス・フローレスさんが、大竹財団発行のニュース・レター「地球号の危機」3月号(2月25日発行)に掲載するために書いた一文「ボリビアは燃えているか」の草稿を、玉村和子さんの訳で読んだときの衝撃はすごかった。
 前稿に書いたように、2003年10月にボリビアで先住民虐殺があったことを聞いたときもそうだったが、「ボリビアは燃えているか」をとおして読むと、その具体的な記述から体制側の弾圧も民衆側の抵抗も、ともにハンパでなかったことが分り、さらにそれが大昔のことではなく2003年というごく最近の出来事だったことに衝撃がつのった。
 以下はハイメさんの文からの抜粋である。

 悪夢の予兆は2003年の年明け早々だった。ラパス市中心部にある広場のペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ像を落雷が直撃。このとき人びとは口ぐちに「何か悪いことが起こる前兆だ!」と言ったが、その予言は間もなく事実となる。まさにその広場で、無実の人びとが殺され、ボリビアは混乱と騒乱で覆われたカオスの状態に突入して行ったのだ。
 2003年1月、国民革命運動党党首ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサーダ(通称ゴニ)政権に対して大規模な抗議行動が行われるという噂が広まった。2月に所得税の引き上げを定めた法律を公布するに至り、全国規模での抗議行動が展開されるという。警官たちもこれに賛同し、これを見て政府は事態の沈静化を図るために武装した軍隊の派遣を命じた。国会議事堂前の広場では警官を狙う狙撃兵が一番高い建物の屋上に並び、ヘリコプターが警官の動きを見張り、ついに軍と警察の間で撃ち合いが始まった。
 このときの死者は13名。これを遠巻きに見ていた市民たちが起こした反政府の抗議行動はまたたく間に広がり、政府関係の建物は焼き打ちにされ、この動きをとめるべく軍隊が出動。市民に対して銃が向けられ、35人の死者と200人の負傷者が出た。しかもこの騒乱はその後に続く流血の社会変動のほんの始まりにすぎなかったとは、その時は誰も知る由もなかった。
 ボリビアで最近発見された天然資源の中で、天然ガスほど重要なものはない。発見後まもなく政府は様々な多国籍企業と秘密裡に交渉を行ない、最終的にはチリの港を経由してアメリカ合衆国に安価で輸出することを決定した。またもや政府は大事な天然資源を加工せず原料のままで売ることにしたのだ。しかもわが国から太平洋に通じる地域を100年前に不当に奪ったチリを通り、チリを利する結果となる条件で合意していた。
 この民意を逆なでする政府のやり方は反政府活動をさらに燃え上がらせ、9月になると全国各地で闘いの狼煙が上がることとなった。
 実質的首都であるラパス(法的にはスクレ)近郊バターリャスの農民およそ3,000人は、ラパス農民連盟の指揮のもと、「ガスを売るな!自国でガスの工業化を!」をと叫んで、ハンストに突入。9月15日には、やはり近郊のオマスユ村の農民がラパスに通じる3本の道路を封鎖。他の村の農民達も次々にラパスへと通じる道路を封鎖していく。
 都市住民も増税反対のストを敢行。全国的に、「ガスの米国への販売阻止、1985年以来導入されてきた新自由主義反対」を叫ぶデモが頻発する。
 大統領とその閣僚たち、そして軍隊が、 9月20日の明け方、反対運動の燃え盛るソラタとワリサータの2地域に向かい、寝込みを襲って鎮圧行動に出た。死者は市民5人と徴集兵1人の計6人。彼らは皆先住民で、その中には8歳の女の子も含まれていた。怒った民衆は州庁舎等の公の建物と高慢なドイツ人が経営する観光ホテルに火をつけた。
 アイマラ族は村々に呼びかけ、虐殺防衛隊を組織。この動きは都市に移住したアイマラの人々にも波及し、労働者、職工等々の組合も呼応していくこととなった。このうち、ラパス市の労働組合は25,000人を動員し、市内各地でストやデモを展開した。
 10月8日夜にはウアヌニから800人の鉱山労働者がダイナマイトを携え、何日も歩いてラパスに到着。市内の鉱山労働者連盟や労働組合も「ゴニ政権打倒」で連携していくことを決定。各地でデモ隊と軍隊との衝突が起こり、軍は大量のガス弾を住宅地でも発射させるに到った。
 10月10日には周辺道路の封鎖によりガソリンの供給を断たれたラパス市では、ガソリンを求める車であふれ返り、その周りを軍が一日中パトロールをして、目を光らせている状況となった。その翌10月11日、政府は「国家緊急事態法」に基づき、ラパス市へのガソリンと燃料の供給を命じ、全市を軍の管理下に置くことを宣言。市の北方から兵士を満載したトラック2台が、住民達が築いた道路のバリケードを切り崩し、市内への道を確保した。この道を通り、ガソリンや燃料を積んだトラックの隊列が軍隊に守られ、次々に市内に到着。市民達は、投石で迎え、バリケードを再築し、軍隊との衝突が繰り返された。トラックの隊列は分断されて進むことができなくなり、軍は間断なく人々に銃撃を浴びせた。人々は民間の電気会社エレクトロパス社に火の手を放った。
 10月13日、この日も夜明け方から軍隊による無差別の殺戮が繰り返された。副大統領カルロス・メサは、ゴニ大統領への不支持を表明。近郊に住むおよそ10万の人々が、「ガスを売るな!ゴニは辞めろ!」と叫びながら、ラパスを目指してデモ行進を始めた。民衆の激しい怒りはボリビア全土に広がり、各地でデモ行進、道路封鎖が行われた。10月17日になると、ラパスを守ろうとオマスーヨの農民達が始めた人間の盾は、続々と各地から到着する学生や労働者たちによって、より強固なものになっていった。軍による殺戮が始まって9日後のこの日の夕方、ラジオ・エルボルは「大統領サンチェス・デ・ロサーダが辞表を提出する見通しである」と報じ、多くの閣僚とその家族は国外脱出の準備を始めた。こうして近世史上最も憎まれた大統領は、かつて留学し、別荘もあるアメリカ合衆国へと逃亡することとなった。            

 このように、ボリビアの人たちがついに立ち上がり、まさにボリビアは燃えていたのだが、そのようなニュースは日本では報じられることはなかった。そのボリビアで、先住民アイマラ族出身のエボ・モラエスが南米では初めて先住民として大統領選を制して、2006年1月22日に大統領に就任。「先住民になにが出来るか。1年も持つまい」という、冷ややかな視線をものともせず、モラレス大統領は去る1月22日に就任1周年を迎えたのである。ボリビアではかねがね大統領の平均寿命が9か月と言われてきただけに、これは快挙である。そして彼が選ばれたのも、就任1年を見事にクリアーしたのも、燃えているボリビアの人々が大統領の支えになっているからにほかならないだろう。その大統領が3月5日から8日まで、初めて来日する。ぺルー大統領時代のフジモリ氏は厚遇で迎えた日本政府だったが、モラレス・ボリビア大統領にはどう対応するのか。アジア人蔑視、先住民蔑視の黄色い白人といわれる日本人が彼をどんな態度で迎えるのか、注視したいところである。(2007.2.27.記)

2007年2月25日
ボリビアは燃えているか
 これはもう神様の采配としか思えない。
 なにを大袈裟な、と言われそうだが、そうとしか思えないから、他に言いようがない。話の発端は、畏友・岩本匡司さんからの連絡だった。彼は某商社の卒業生で、キューバとぺルーに長期の駐在歴のある人だが、そのペルー時代にはゲリラによる日本大使公邸占拠事件に巻き込まれ、126日間も人質だったという希有の体験をされたかたでもある。NHKテレビの人気番組「プロジェクトX」でその事件を扱ったときには出演されたことがあるので、ご存知のかたも多いだろう。
 岩本さんの話はこうだ。一昨年2月と去年6月の2度にわたって、 メキシコのストリート・チルドレンを支援するチャリティー・イベントをぼくたちと一緒にやった工藤律子さんをとおして、栃木県にお住まいの玉村和子さんからボリビアの先住民の現状を日本の皆さんに知っていただくようなイベントが開催できないかと打診があったというのだ。玉村さんの知人で、昨年9月から栃木県の招待留学生として自治医大で学んでいるボリビアの医師ハイメ・ロペス・フローレスさんが3月半ばの帰国を前に、ボリビアの先住民の現状を一人でも多くの人に知ってもらいたく、そんな機会をつくっていただけまいか、というのだ。だが工藤さんは夫君のカメラマン、篠田有史さんと2月半ばからフィリピンにしばらく行く関係で手伝えない。そこで岩本さんに話が行き、さらにぼくに連絡がきたというわけである。そんな申し出をぼくはほとんど二つ返事で受けた。というのもハイメさんがアピールしたがっているテーマに2003年のボリビアでの先住民逆殺事件があったからだ。
 ぼくは1984年からNHKーFMでDJを担当していた中南米音楽の番組をとおして、ロス・カルカスを初めとするボリビアのネオ・フォルクローレの紹介に力を入れて来た。その努力が実って、ロス・カルカスやサビア・アンディーナが来日したりし、ボリビア音楽への関心が飛躍的に高まることになった。そんなわけでぼくも少しはボリビアの音楽以外のことも勉強して来たつもりだったが、2003年の先住民逆殺事件については全くの無知だった。こんなことではいけない。自分の勉強のためにもハイメさんの願いを実現しよう!
 そう考えて、ぼくはまず会場を手配。つづいて1983年秋に出会って以来、音楽家と音楽ジャーナリストと、立場の違いこそあれ、ともにボリビア音楽のプロモートに励んで来たグルーポ・カンタティのリーダー、エルネスト河本さんと連絡を取って会い、協力してほしいと話を持ちかけて、了承してもらった。そんな一連の動きがあったのは去る1月末のことで、2月11日には栃木からハイメさんと玉村さんに来てもらって、ふだんからカンタティが根城にしている新大久保の「酒林房」に、工藤律子&篠田有史夫妻、岩本さん、カンタティのメンバー3人、 そしてぼくの7人が集まった。ハイメさんが地域医療を専門とする医師でいま30歳、 チャランゴもよくし、大学が休みの土日には人前で演奏することも多いといったことを知ったのはその席である。そのとき話し合った結果、次のようなイベントの開催が決まり、チラシをつくった。以下はチラシの文面である。

竹村淳プロデュース:スペシャル・トーク&ライブ
“ボリビア先住民の現状とフォルクローレの背景”
Grupo Khantati & Jaime Lopez Flores

2007年 3月11日 (日) 午後3時開場/午後3時30分開演
 ◆場所:築地 キューバン・カフェ 03-5148-5001
      中央区築地5-6-10 パークサイド浜離宮1F
      (地下鉄大江戸線A1出口より3分)
 ◆前売料金:1ドリンクつき 3,000円(税込/全席自由)
 ◆当日料金: 3,500円(税込/全席自由)
 ◆司 会:竹村 淳
 ◆トーク:ハイメ・ロペス・フローレス+エルネスト河本
 ◆演 奏:グルーポ・カンタティ+ ハイメ・ロペス・フローレス(チャランゴ)

 地域医療が専門のボリビア人医師で、現在栃木県の招待留学生として同県の自治医大で研修中のハイメ・ロペス・フローレス氏をお招きし、スペシャル・トーク&ライブの会を開催します。第1部では、貴重な映像をまじえて前政権下のボリビアで起きた虐殺事件や不当に虐げられている先住民の現状、さらに先頃南米初の先住民出身大統領となったエボ・モラレス現政権のことなどをテーマにホットなトークを展開していただきます。第2部では、アマチュアのチャランゴ奏者でもあるハイメさんも参加し、エルネスト河本さん率いるグルーポ・カンタティによるボリビア・フォルクローレの親睦演奏をたっぷりとお楽しみいただきます。この機会をお見逃しなく。

 ここまで話はトントン拍子で運んだが、そうこうするうちにエボ・モラレス現ボリビア大統領が来る3月5日から8日までの4日間、初来日することが決まり、さらに3月5日の大統領歓迎レセプションではなんとグルーポ・カンタティが御前演奏をすることになった。
 なんというタイミング!これはもう神様の采配と紙しか言いようがないでしょう?!あまりのタイミングの良さに、多くの人からボリビア大統領の来日が決定してから、この企画を立てたと思う人が多いのだが、話は逆なのだ。とはいえ、大統領の来日が決まった辺から、このイベントに対する関心も一段と高まり、当初の予定定員80名をすでに超え、そろそろソルドアウト宣言をしなくてはと思っているところである。
 ところで、ハイメさんによると、30歳の彼がボリビアで1か月働いて医師として得る収入は邦貨にして15,000円たらずだという。そんなわけで生活費の足しにするため、彼は去る9月の来日の際に携えて来て、こんどのイベントまで日本で苦楽をともにしてきたチャランゴをご希望者に譲っていきたいと話している。いっそ当日の会場でオークションにかけてみようかとも思ったりもするのだが、どなたかご希望の方がおられたら、ご一報いただけませんか?
 ちょっと長くなったので、この続きは近日中に、ということで。(2007.2.25.記)

2007年1月31日
お詫び広告ラッシュは、日本のタガが緩んでいる証拠か!?
 さる1月27日の朝日新聞朝刊の社会面を見てあきれ果てた。お詫び広告のオンパレードである。下4段では収まり切らず、第2社会面の下4段の大半、さらに第3社会面にも1点。これはもう異常な光景で、ひとつの現象とでもよぶべきものである。
 その昔、広告会社に10年ちょっと勤めた経験があるので多少わかるのだが、このような広告はいわゆる“臨時広告”とよばれる類いのもので、掲載料金は通常広告と比べ物ものにならないほど高い。“黒枠”とよばれる葬儀関係の広告や火事見舞いの御礼広告などがその代表的なものである。広告の必要性は突発的に生じるから、予定していたコンサート広告などを飛ばして掲載するので“臨時”であり、また臨時だからふだんの段数契約料金とは関係なく高額になる。通常15%のマージンを得る広告会社にとって、臨時広告はとてもおいしいわけで、獲得した営業マンには報奨金がでたりした。広告代理店でさえそうだから、その手の広告を載せる新聞社はもうウハウハのはずである。
 これまでも毎日のように、温風暖房機、エレベーター、湯沸かし器などのお詫び広告が大々的に掲出されてきたから、「ああ、あれか!」とピンとくる方が多いと思う。最近では救いようのない劣悪な衛生環境で期限切れの材料で細菌うようよの製品を作って堂々と売っていた破廉恥な不二家の例がある。それと前後して改心したはずの三菱ふそうがまたぞろ不具合でリコールをかけたという広告もつい先日載っていた。今回は洗濯機から火が出て家まで燃えたという三洋の広告、ガラスの破片が混入していた米国産ワインを売っていたサントリーとその関連会社の広告、 あろうことか賞味期限を2年3ヶ月も過ぎたチョコレートを使って平然とクッキーを作っていたレーマンやそれを売っていた東京デズニーランドの広告、賞味期限表示のないブル−ベリージャムを自主回収するという新宿高野の広告、賞味期限を1月27日とすべきところを2月27日とシールに表示してしまった「末広饅頭」のたねやの広告etc...そして今朝は今朝で、“過去にリコールした石油燃焼機器”の情報再特集広告やらパロマの屋内設置型湯沸器のお願い広告、さらにハロゲンヒーターの商品回収広告、アルゼンチンのアンチョビに不認可の酸化防止剤が使われていたので回収といった広告が満載である。全く、いやはや、である。
 その一方では、柳沢厚生労働大臣が女性は「子供を産む機械」などと、たわけたことを言いはなち、ヒンシュクを買っている。いっそ「男は働く機械、女は産む機械。いや、冗談冗談!」とでもシャレのめしていれば、辞任云々の騒ぎにはいたらなかったのにとも思うが、そこまで頭が回るようなら、全女性を敵に回すような失言をするわけないわな。そもそも思っていることがつい口をついて出たわけだから、こんな品格のないヤカラを大臣にするほうが悪い。それにしても安倍内閣にはアンべエ悪い御仁が多すぎる。おまけに学校給食の金を払えるのに払おうとしない親が多いというのも不可解で不愉快な話だ。
 とにかくメーカーも大臣も、フツーの人も、人間としてのタガがゆるんでいるとしか言いようがない。事態は益ます悪化の一途をたどるだろうが、もっと未来をみすえて早急に幼稚園児からモラル教育を徹底させるべきだろう。生きているのは自分独りだけではないことをまず教えることがモラル教育の根幹であり、法律とは最低限のモラルであることも叩き込むべきだろう。これだけヒトが繁殖してしまうと、モラル遵守の精神を持てないヤカラはヒトであっても人間とはよべないことを周知徹底すべきだろう。(2007.1.31記)

2007年1月22日
超お勧めの美味、豚キャベツちゃんこ
 冬はなんと言っても鍋のシーズン。そこでこの2か月ほどハマっている、ごく旨・ごく安の鍋をご紹介したい。
 キャベツが取れすぎて、生産調整とやらで、立派なキャベツをトラクターとかで踏みつぶしているという新聞記事を読んだ。これがそもそもの発端だった。戦中戦後の物のない時代に育ったぼくは典型的なモッタイナイ世代だから、せっかく収穫した農産物を廃棄処分にするなんてこと自体が信じられないし、許せない。なにか使い道はないのか。そんなことを思っていた矢先、本屋で鍋特集をした雑誌『dancyu』をみつけて購入したところ、そこに高砂部屋の人気鍋として“豚キャベツちゃんこ”が紹介されていたのだ。
 さっそくレシピをご紹介しよう。
 まず土鍋に水を2/3ほど入れ、そこにコンソメスープのキューブ2個を入れて、濃いめのスープを作る。そこへ豚肉100gほどとザク切りにしたキャベツ1/4個を入れ、引きたての黒こしょうをたっぷりめに入れてふたをする。煮えたらもう食べられる。すこぶる簡単である。下ごしらえの時間もほとんど不必要というのも、夕暮れどきの時間がないときは有難い。豚肉はとくに指定はないけれど、ぼくは脂が多いのはイヤなので、豚ロースをしゃぶしゃぶ用にスライスしたものを使う。量は2人前で300gもあれば充分である。
 さて、最初のひと鍋を平らげたら、もう一度同じことを繰り返す。おなかと相談して、最後は豚肉とキャベツに、こんどは麺も入れて煮込む。高砂部屋では九州場所のときはのびにくい福岡チャンポンを使うそうだが、ふだんはラーメンを使うという。ラーメンなら最近スーパーに出回るようになった鍋用のラーメンがお勧めである。しかし煮くずれしにくい麺ならいいわけで、讃岐うどんを使うこともある。また食べるときには麺に好みでゴマ油かポン酢をちょっとかけてもいい。
 ま、こんな、簡単にして素朴な鍋なのだが、お勧めした方がたには大好評である。それと、食べ終わった後に残るスープを利用して、翌朝リゾットを作るのもわるくない。この場合はそのままではスープが濃いので少し水で薄め、冷や飯を入れて一煮立ちさせれば食べられる。好みでチーズを入れても美味い。いまが1年でいちばん寒いとき。高砂部屋式ラーメン感覚の“豚キャベツちゃんこ”で、体を芯から温めて、この冬を元気に乗切ってください。(2007.1.22.)

2007年1月15日
“美しい日本”より、殺伐とした“病める日本”の改善を!
 2006年は親殺しに、子殺しや幼児虐待などがやたらと多く、ニュースを見るのもおぞましかった。そんな1年がやっと終わって一区切り、少しは明るい話題が聞けるかと期待していたら、のっけから歯医者の次男が妹を殺害して切り刻むという残忍きわまりない事件が正月早々に発覚。さらに暮れに新宿と渋谷の路上で見つかった切断死体の犯人はその被害者の妻と判明、彼女の供述通り町田の公園で頭部が見つかったという。これ以外にも殺人事件のニュースが続出。おまけに宮崎では鳥インフルエンザガ発生し、1万2千羽ほどのニワトリを処分。要するに殺したわけで、その図を頭に思い浮かべたら、食べ物が喉を通らなくなってしまった。
 全くうんざりである。これじゃ、安倍首相の唱える抽象的なお題目“美しい日本”どころか、益々ひどいことになっている“病める日本”の現状をまずなんとかすべきだろう。なにか手を打たないといけない。だがどんな手があるのか。そもそも精神の荒廃が底流にあるのだから、即効の手だてなどあるわけがないのだろうが、そうも言ってられない。
 そんなことを思いながら、『Ripers』(ライパーズ)という熟年向きのコミュニティマガジンの2006年冬号を眺めていたら、食育基本法で知られる服部幸應氏のインタビュー記事が目に留まった。氏はテレビの料理番組などで有名だが、服部学園と服部栄養専門学校の理事長と校長を務めているかたである。服部さんは15年前に自分の学校の新入生に「1週間食べたものを日記に書くように」と宿題を出したそうだ。そしてその結果を見て、呆然。栄養バランスの悪い食事、朝食抜き、それにダイエットが主体で、ひどい結果だったそうだ。さらに彼らの卒業時に再調査したところ、わずか6%しか改善されていなかったという。先行きなんらかの形で“食と関わる”若者たちがこのテイタラクでは、と先生は愕然としたという。15年前でそうだとしたら、状況はもっと悪化していることだろう。
 その記事を読み進むうちにぼくがショックを受けたのは、10代の子供たちで凶暴な事件をおこした連中の80%が朝食抜きで、ジャンクフード中心の生活だったというクダリである。しかも18歳になってしまうと、 頭では理解できても幼い頃からの生活習慣は変えられないとも書かれている。また2006年初めの新聞記事によると、なんと小6の21.4%、中1の37.8%が1人で朝食をとっているそうだ。これでは独居老人と変らない。それにコンビニや終日営業のレストランの発達で、いつでも食べたいときに食べられ、好きなときに好きなものしか食べない。これでは自分勝手な子になってしまう、他人への心配りや協調性も育たない。それが服部先生のいい分である。
 まったく同感である。教育の崩壊が青少年に様ざまな悪影響をおよぼしているといった主張が一時代もてはやされたが、そんなことより服部先生が指摘されるように家庭における“食の崩壊”こそが、いわゆる“キレる若者たち”を生み出し助長する決定的な素地となっているのではないか。氏のインタビュー記事を拝見して、そんな思いにかられた。
 戦後の高度成長期に、豊かな栄養を吸収した子供たちの肉体的条件は多いに改善されはした。だが物だけあたえ、親子間のコミュニケーションをとる努力を怠り、受験勉強に子供たちを追いやり、心を錬磨することをあまりしなかった親たちへのツケが、いまになって国に、社会に、そして我々に回ってきたということだろうか。このままでは益ます嫌な方向へ猪突猛進といった感じが濃厚で、いろいろと懸念される今年である。(07.1.15.記)

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