2008年8月27日
いまこそ国家百年の計をもってことにあたるとき!〜その2
産児制限のサンガー夫人を覚えていますか?
 少子高齢化社会にまつわる諸問題がいよいよ日本の社会に深刻な影を投げかけている昨今である。この話題になると、ぼくが必ず思いだすのは1954(昭和29)年に当時の占領軍に招かれて来日し、産児制限を説いたサンガー夫人のことである。
 彼女の名前を知っている人はいまや少ないだろうが、フルネームはマーガレット・サンガー(1880〜1966)で、米国人。1910年頃からニューヨークのスラム地区で看護婦として働いていたとき、避妊の知識がないばかりに、いわゆる「貧乏人の子沢山」状態で苦しんでいる女性たちをなんとかせねばと、バース・コントロール(産児調節/日本では産児制限と訳された)というコンセプトを打ちだし、その運動を推進した女性である。
 1945年8月15日の敗戦を境にして、夫や若い男たちが続ぞく復員して、深刻な食糧状態下にもかかわらず、子づくりに励み、第1次ベビー・ブームが到来した。1947年の出生率(人口千人に対する1年間に生まれた子供の数の割合/死産は含めない)はなんと4.32人。出生率の低下が始まる前の1971年が2.16で、2006年は約4割減の1.32まで落ちていることを思えば、ものすごい“増殖”ぶりである。これでは日本が餓死列島と化すと、狼狽した占領軍が米国から産児制限の提唱者サンガー夫人を招いたのである。
 ところで夫人はこのときが初来日ではなく、1922(大正11)年の3月上旬〜4月上旬にも来日していた。なんでも同年8月にロンドンで開催される万国産児制限会議に出席する途上、日本にも寄ったそうだ。しかし当時の大日本帝国は富国強兵路線で「産めよ殖やせよ」の時代だったから、持参した宣伝パンフレットなどは横浜港に上陸と同時に没収、講演会なども禁止されたという。結局、医者や薬剤師が対象の講演会だけが数回おこなわれただけだったが、マスコミが騒ぎ、人びとの関心がかえって高まったのは皮肉である。なお彼女の講演の通訳を務めたのが山宣(やません)という呼称で知られた山本宣治。彼は大学の名物教授から転身し労働農民党の衆議院議員になったが、1929年に右翼に刺殺された。
 1954年の再来日時には、バックに占領軍がついているから、女史の立場は強い。とはいえ当時のぼくは16〜7歳だったから、産児制限のなんたるかなど知る由もなかった。長じてその意図する
ところを知り、さらに日本は世界でも珍しい産児制限運動の成功国と知らされた。たしかに「貧乏人の子沢山」は悲惨である。だが、太平洋戦争直後という特殊事情ゆえの4,32という出生率に幻惑され、100年どころか5〜60年先のビジョンも持たずに産児制限を推進した役所やその先棒をかついだ識者とやらもアホなら、お上が中国のように一人っ子政策を義務化したわけでもないのに、子づくりに励まなくなった日本の民はもっとアホというか人間として怠慢だ、と言われても仕方がないだろう。
 産児制限なんて知ったことかと、それまでと同様に子孫を生み育ててきた中国やインドの昨今の繁栄を見るにつけ、日本人にどんな未来が待ち受けているか気がかりである。
 それともエイズ、鳥インフルエンザ、温暖化、公害、資源の枯渇などなど、明るい未来を描けない地球に嫌気をさして、わが子に辛い思いをさせないために、子供つくらないほうが賢明と日本人は潜在的に考えているからだろうか。東京の出生率は全国最低の1.02人で、最高の沖縄でさえ1.76人。2.1 人をキープしないと、人口は減るわけだから、遠からず日本は過疎列島になるしかななそうである

(2008.8.27記)


2008年8月13日
いまこそ国家百年の計をもってことにあたるとき!〜その1
 40年ほど前、初めてイタリアに行ったときのことだが、第2次世界大戦の一翼をになったファシズムの創始者で同国のファシスト独裁体制のリーダーだったということで、世界的にはまだまだ悪名高かったベニート・ムッソリーニ(1833.7.29〜1945.4.28)の評価がイタリアでは意外に高いことを知って驚いた。わが知人が強いて文句をつけるならと前置きして「ムッソリーニは道路幅を100mにすべきところ、75mにしたことくらいかな」とコメントするのを聴いて、ぼくは信じられない気分だった。そもそも日本では1964年の東京オリンピック開催を機に拡張された青山通りですら道路幅は精々50mほどで、100mはおろか75mの道路も見たこ ともなかったからだ。
 詳しいことは忘れてしまったが、ムッソリーニ政権は第2次世界大戦中も国家百年の計にもとづいて、住宅や道路の建設にあたり、国民のこともしかるべく考えていたそうだ。ドイツに較べてイタリアは軍事費より公共事業費が多かったという事実がそのことを物語ってもいる。その最たるものは彼の政権下にローマ郊外にイタリア初の大規模な映画撮影所として1930年代に建設されたチネチッタだろう。大規模な屋外セットやスタジオ、フィルム編集設備なども備えられ、1950年代から60年代にかけて多くのイタリア映画の傑作が生まれた。フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』やルキーノ・ヴィスコンティの『白夜』などはその一例である。
 いっぽう東条英機政権下の日本では「欲しがりません、勝つまでは」とか「鬼畜米英」といった花森安治(のちに「暮らしの手帳」編集長)が作ったとされる文案で国民をアジり、貴金属や鍋釜などの金属類までも供出させたわけで、イタリアとは大違いである。さらに腹立たしいのは国民に供出させたダイヤなどを戦後大蔵省は“放出”と言って国民に売りさばくというあこぎさだ。それなのに人の良い日本国民は怒りもせず、安くて手頃などと言って買うのだからお笑い種である。役人どもが税金を乱用して“居酒屋タクシー”で帰宅するといったことが横行するのも大体奴らが国民をなめきっているからだ。
 冒頭に書いたイタリア初旅行時に、牛肉の値段が日本の1/10ほどなのに気づき、知人に言ったところ、返事は「もし牛肉が今の10倍になったらイタリアでは革命が起きるだろう」だった。たしかに日本人は羊のようにおとなしすぎる。お上に言われりゃ、結局、長いものに巻かれてしまう。なんとも歯がゆいではないか。
 石油が上がる、食糧が上がる、とテレビも新聞もあおり立てる。だが主権在民なのだから、われわれは嘆息するだけでなく、積極的に政治家に「なんとかしろ!」と迫るべきである。それも対処療法とかでなく、石油や食糧高の原因を突き止め、百年の計にもとづいてそれを解決するぐらいの気概を政治家に求めたい。さしずめガソリンが高いなら、ガソリンを使う機会を減らすことだ。そうすれば地球環境にもいい。食糧が高いならダイエットだと思い、食べる量を減らせば、太っ腹も多少はへこむというものだ。電気が高けりゃ早寝早起き、これも地球にいいことだ。
 頭もシッポも放送しない野球のテレビ中継などナンセンス。そもそもナイターなどやめて試合は週末の昼間にやればいい。コンビニの24時間営業をとやかく言うより、テレビこそ深夜から未明まで放送を休止するがいい。それに空気は汚す、ガソリンは浪費する、大騒音は立てる、そんなF1カーレースなど即刻やめることだ。(続く/2008.8.13.)

2008年8月11日
サンデー・ジャポンに“顔出し”騒動記
 いつものことだが、またまた前回の「言いたい放題」から随分間があいてしまった。言いたいことがなかったわけではない。むしろ山ほどあるのだが、途中まで書いてはやめたり、目先のことに追われたりだった。じつは4月20日放送の「サンデー・ジャポン」にぼくが路上で受けたインタビューが流れ、それにいろいろと反響があったりして、一度は途中まで書いたのだが、それっきりになってしまった。今回はそのサンジャポの話。
 4月19日(土)の昼下がり。高校の同窓生たちとの昼食会が丸の内のホテルであり、ぼくも出席した。2年ぶりに出たぼくとしては初めて昼間の同窓会だった。これだと安上がりにすむし、ダラダラと続かないのもいい。だが昼酒は妙にきくのが難点である。夕方友人と会う約束があったので、酔いざましとウォーキングをかねて丸の内から銀座の山野楽器をめざして歩いた。その途中、歩行者天国の銀座でTBSのクルーから、いまの政治についてコメントして欲しいといわれてOKした。15分ほどいろいろと訊かれ、ぼくはそれこそ言いたい放題にコメントした。かなり過激なことを言ったので、よもや放送されることはなかろうと高をくくっていたら、どうやら後期高齢者医療制度についてのコメントだけが放送されたらしいのだ。「らしい」というのは、本人が見てないから分からないのだ。
 75歳で線引きして“後期高齢者”と言ったら不評のあらし。あわてて“長寿高齢者”と言い換えるのはせこい、いっそ本音で“末期高齢者”と言うほうがイサギよい。小泉前首相時代から顕著になった米国式新自由主義への追随姿勢を改めるべきだ。ことに金科玉条のように民営化を進める態度はやめなければならない。なぜなら民営化するとどうしても利潤の追究につながり、万事に効率化が進められたり、不採算部門の切り捨てといったことを招くことになるからだ。郵政の民営化からすでに半年以上経つが、それで良くなったという話はあまり聞かない。高齢者のそれに限らず、人びとの医療問題しかり、年金問題、福祉問題、教育問題などは、税金を徴収している以上たとえ赤字になろうと、国が国民のために取り組まなければならない重要問題である。たとえば「知ってますか、キューバでは医療も教育も無料だって。それなのに日本では何軒の病院に断られて救急車のなかであの世行きの人が続出なんて、どう考えてもおかしい。公営の病院をもっと機能させるしかないでしょう」等々とまくしたてた。辟易としたインタビュアーに「一言でいえば、いまなにをしなければならないでしょうか」と訊かれ、「それは主権在民、つまり国民が持っている主権を行使することに尽きますよ。だって戦前は主権在君、つまり天皇に主権があったばかりに国民はひどい目にあったんですから」とわが持論を展開した。
 さて、翌4月20日にグルーポ・カンタティのコンサートに行ったところ、大勢の友人から「サンデー・ジャポンに出てましたね」と声をかけられ、びっくりした。登場シーンは20〜30秒程度だったらしいが、「ぼく、どんなことを言ってました?」と訊くと、相手は怪訝な顔をして取り合ってくれない。となると気になるものである。その後アルパ奏者の今村夏海らと京都/姫路/福岡などを訪れたが、行く先々で「サンジャポに出てましたね」と言われ、おまけに旧知の人からは「あれはヤラセですか?」と質問される始末。「そうじゃない」と釈明に追われ、いささか閉口した。
 24年間ラジオでラテン音楽のDJをやった。だがそのインパクトよりつかの間のテレビでの露出のほうが大きいという現実に複雑な気持になったことである。(2008.8.11記)

2008年1月12日
因果は巡る
 新しい年の幕は、開くには開いたが、2008年はいったいどんな年になることやらと、懸念材料ばかりが頭に浮かぶ年頭である。昨年来の原油の暴騰によるガソリンと灯油高、食品などの値上げラッシュ。それに追い討ちをかけるように、年明けのNYでは原油の先物価格がついに1バレルあたり米$100を突破。そればかりか、なおもくすぶり続けるサブプライム問題にも嫌気をさして株は全面安となり、それは即わが国に飛び火し、東京証券取引所の発会式は暗いムードに包まれてしまった。
 そして昨年11月1日で期限が切れたテロ特措法に代わる補給支援特措法はまず衆議院で可決されたが、参議院で否決され、直ちに衆議院に戻されて再議決。その結果11日に2/3以上にあたる340議員の賛成で再可決されたことで成立と相成った。これにより自衛隊によるインド洋での多国籍軍艦船などへの給油給水活動が近く再開することになる。
 だが産油国でもないのに高い石油を買って無償提供し、6年間で220億もの巨費(もちろん税金)を使ったものの、“洋上の無料ガソリンスタンド”などとヤユされ、さほど感謝されてないことはマスコミで識者が指摘しているとおりである。そんな支援よりアフガニスタンの産業や農業再生などに力を貸すほうが有効ではないのかと思ったりするのだが、そんな議論が起きることもなく、ごり押しの末にまたまた給油再開とは情けない。
 そもそも国際社会の一員としてテロ撲滅のために国際貢献は欠かせないなどと、もっともらしく言い張る代議士どもが少なくないが、彼らはまず世界最大最悪のテロ国家は他ならぬ米国だということを認識すべきである。ブッシュが「ならず者国家」と呼んだ北朝鮮と較べて、米国のならずものぶりは較べものにならないほど悪質である。このことは、結局大量兵器など見つからなかったイラクにいちゃもんをつけて攻撃し、都市や町や村を破壊し、大勢の罪もない民間人を殺し、フセイン大統領を処刑したという事実からも明白である。なにもイラクに始ったことではない。米国が「わが裏庭だ」と豪語する中南米に対する介入の歴史を見れば、米国の素性はよくわかる。
 たとえば1979年のこと、中米のニカラグアでは首都マナグアの市民が蜂起。それが契機となって長年続いたソモサ独裁政権が倒れ、オルテガ大統領率いる左翼サンディニスタ政権が誕生した。それが気に入らない米国は隣国ホンジュラスで反政府ゲリラ、コントラを組織して対抗させるが、ラチがあかないとなると時の大統領レーガンはCIAを使って直接攻撃に出たばかりか、経済封鎖も仕掛けて、サンディニスタ政権を潰した。
 それ以前にも南米のチリで忘れがたい事件があった。1973年9月11日の昼前だったが、米国は、のちに悪名高い独裁者となるピノチェト将軍率いる軍部にクーデターを起こさせて、アジェンデ政権を崩壊させた。アジェンデ大統領は大統領警備隊とともに機関銃を手にして闘ったが、力つきて自害したといわれている。その数日後、“新しい歌の運動”の旗手的な存在で、カリスマ的な人気を誇っていたビクトル・ハラは、この騒ぎに巻き込まれ、ギターを弾けないように指を切り取られ、銃弾を撃ち込まれた惨殺死体でモルグに置かれていたのを夫人によって発見された。
 それにしても1973年9月11日(火)の昼前にチリにテロを仕掛けた米国に対し、28年後の2001年9月11日(火)の朝に同時多発テロが仕掛けられたのは偶然だろうか。因果は巡る、とぼくには思えてならない。  
(2008.1.12.)

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