少子高齢化社会にまつわる諸問題がいよいよ日本の社会に深刻な影を投げかけている昨今である。この話題になると、ぼくが必ず思いだすのは1954(昭和29)年に当時の占領軍に招かれて来日し、産児制限を説いたサンガー夫人のことである。
彼女の名前を知っている人はいまや少ないだろうが、フルネームはマーガレット・サンガー(1880〜1966)で、米国人。1910年頃からニューヨークのスラム地区で看護婦として働いていたとき、避妊の知識がないばかりに、いわゆる「貧乏人の子沢山」状態で苦しんでいる女性たちをなんとかせねばと、バース・コントロール(産児調節/日本では産児制限と訳された)というコンセプトを打ちだし、その運動を推進した女性である。
1945年8月15日の敗戦を境にして、夫や若い男たちが続ぞく復員して、深刻な食糧状態下にもかかわらず、子づくりに励み、第1次ベビー・ブームが到来した。1947年の出生率(人口千人に対する1年間に生まれた子供の数の割合/死産は含めない)はなんと4.32人。出生率の低下が始まる前の1971年が2.16で、2006年は約4割減の1.32まで落ちていることを思えば、ものすごい“増殖”ぶりである。これでは日本が餓死列島と化すと、狼狽した占領軍が米国から産児制限の提唱者サンガー夫人を招いたのである。
ところで夫人はこのときが初来日ではなく、1922(大正11)年の3月上旬〜4月上旬にも来日していた。なんでも同年8月にロンドンで開催される万国産児制限会議に出席する途上、日本にも寄ったそうだ。しかし当時の大日本帝国は富国強兵路線で「産めよ殖やせよ」の時代だったから、持参した宣伝パンフレットなどは横浜港に上陸と同時に没収、講演会なども禁止されたという。結局、医者や薬剤師が対象の講演会だけが数回おこなわれただけだったが、マスコミが騒ぎ、人びとの関心がかえって高まったのは皮肉である。なお彼女の講演の通訳を務めたのが山宣(やません)という呼称で知られた山本宣治。彼は大学の名物教授から転身し労働農民党の衆議院議員になったが、1929年に右翼に刺殺された。
1954年の再来日時には、バックに占領軍がついているから、女史の立場は強い。とはいえ当時のぼくは16〜7歳だったから、産児制限のなんたるかなど知る由もなかった。長じてその意図する
ところを知り、さらに日本は世界でも珍しい産児制限運動の成功国と知らされた。たしかに「貧乏人の子沢山」は悲惨である。だが、太平洋戦争直後という特殊事情ゆえの4,32という出生率に幻惑され、100年どころか5〜60年先のビジョンも持たずに産児制限を推進した役所やその先棒をかついだ識者とやらもアホなら、お上が中国のように一人っ子政策を義務化したわけでもないのに、子づくりに励まなくなった日本の民はもっとアホというか人間として怠慢だ、と言われても仕方がないだろう。
産児制限なんて知ったことかと、それまでと同様に子孫を生み育ててきた中国やインドの昨今の繁栄を見るにつけ、日本人にどんな未来が待ち受けているか気がかりである。
それともエイズ、鳥インフルエンザ、温暖化、公害、資源の枯渇などなど、明るい未来を描けない地球に嫌気をさして、わが子に辛い思いをさせないために、子供つくらないほうが賢明と日本人は潜在的に考えているからだろうか。東京の出生率は全国最低の1.02人で、最高の沖縄でさえ1.76人。2.1 人をキープしないと、人口は減るわけだから、遠からず日本は過疎列島になるしかななそうである
(2008.8.27記)
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