ラテン音楽めぐり



































































矢吹浩一

1965年愛知県生
まれ。ブルースで音
楽にのめり込み、レ
ゲエ、アフリカ音楽
を経由し、ラテンと
カリブ海の音楽にた
どり着く。日々増殖
する様々な音楽への
興味とレコードの量
に悩みつつも楽しん
でいる。99年より
自己のコレクション
整理のためのサイト
をはじめるが、かえ
って収拾のつかない
ことになっている。
最近のはまりものは
SPレコード。

筆者・矢吹浩一の
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Photo&Illusturation by Takiko Ohba

     
ラテン音楽めぐり「カンタティ最新作」
ラテン音楽めぐり「ペルー音楽の魅力」
コラム【謎のアンデス人
ペルー紀行-1
ペルー紀行-2

            カンタティ最新作「風の旅路」
 日本のフォルクローレ・シーンをリードするエルネスト河本率いるグルーポ・カンタティの最新アルバム『風の旅路』(TKF-2914) が去る11月20日に発売となり好調なセールスをみせています。好評だった前作『風の語らい』(TKF-2909) から約2年ぶりにボリビアのサンタクルスでレコーディングされた、まさに待望の第4作目です。2001年12月16日、このCDの発売を記念して新宿のペアーレホールで開催されたコンサートには大勢のファンの方々がつめかけ、最新作収録の全13曲に前作のオリジナル曲を加えたレパートリーでおおいに盛り上がりました。
 さて、コンサートの終了後、感動さめやらぬ打ち上げ会場におじゃまして、カンタティの皆さんにインタビュー。
Q:最新作『風の旅路』の聴きどころは?
エルネスト河本さん:カンタティの音楽は大きく分けて、ボリビアの名曲、カンタティのオリジナル曲、中南米の名曲をボリビア風にアレンジしたものの3つから成り立っています。グループを結成して約18年。このアルバムはカンタティの歩みの集大成とも言えるもので、前作『風の語らい』、さらに遡って『新しい夜明け』(TKF-004) からの完結編です。アレンジに時間をかけて、ベースやパーカッションの音を加えたり、つねに新しい試みもしているので、楽しんでもらえるんじゃないかな。とくに『風の語らい』との2枚で、僕らの追求する音楽性が表現できていると思います。
菅沼ユタカさん:このアルバムではアルゼンチン・タンゴの「エル・チョクロ」をボリビアの楽器で演奏したり、パラグアイの名曲「牛乳列車」では二人のサンポーニャ奏者による一音交代のコンテスタード(交互に音色を出す奏法)を取り入れたり、技術面でもいろいろチャレンジしてますよ。
山下"TOPO"洋平さん:僕としては、やはりオリジナル曲が聴きどころですね。リーダーとの共作の「クジャワンデアンド」のほか、「忘れられた船」「チャカルタヤ」を作曲しました。これからもオリジナルの曲作りに取り組んでいきたいです。
Q:曲作りはどのようにされるのですか?
"TOPO"さん:いろいろですが...「クジャワンデアンド」の場合、あるボリビアの伝承曲をアレンジしていて、「こんな感じかな」って弾きはじめたメロディーがあまりに良くでき過ぎちゃったので (笑)、そこから1曲完成させました。アレンジの難しい曲なので、まだまだ変化していくと思いますが...。「忘れられた船」のほうは、浜辺に打ち寄せられた小舟を想わせる曲の出だしですが、ノアの方舟のように運命に立ち向かうイメージで自由に展開していきました。最初、「葦舟」という仮題がつけられたんですが、チチカカ湖に浮かぶ舟のイメージに限定されるのを避けて、「忘れられた船」とつけたんです。
Q:唄ものにも力を入れられてますね。レコーディングはいかがでしたか?
島田静江さん:ボリビアの親しいスタッフが協力してくれて順調に進みました。最近、オリジナルの歌詞で唄いたいという思いが強いので、現地に入ってから歌詞おこしをした曲もあって...「満月の夜」についても、サンタクルスの女王グラディス・モレーノの唄っていた歌詞をおこしてもらったんですが、早口で大変でした。この曲はチャスカス以来ケーナで演奏されることが多いけれど、ボーカルだとサンタクルスの気だるい夜の雰囲気がでて、思い入れのある歌です。おなじみの「クヌミシータ」もサンタクルスの名曲ですが、リーダーがフォルクローレを始めたばかりの頃、すでに「コンドルは飛んで行く」「花祭り」と並んでレパートリーに入っていたというから、この曲は彼のほうが思い入れあるでしょうね。80年代後半にボリビアでヒットした「シ・テ・バス」もオリジナルの歌詞で唄いたくて、作者のシェリコ自身の録音を探してもらったんですが、なんとクンビアのリズムで唄っているので一同ビックリ。もちろん私たちはアンデスの香り漂う曲にアレンジしてます(笑)。
Q:ほかにも、いろいろハプニングありましたか?
エルネストさん:最大のハプニングと言えば、テロ事件の影響でアメリカ経由の飛行機が飛ばず、9月11日からの1週間、ペルーのリマで足止めされて、成田行きの便を待ちつづけたことだよね。
これには、まいった。
菅沼さん:レコーディングのほうは困ったハプニングもなく順調でした。1日に3〜4曲もサンポーニャの曲をやった時は、さすがにくたくたになりましたが...。
"TOPO"さん:サンタクルスでのレコーディングも2度目なので慣れてきて、前回ほどつまずかずに対応できました。
島田さん:私たちがレコーディングしていることが地元新聞の記事になって、それを見た現チャスカスの"エル・チャスカ"バレンスエラがスタジオに突然現れるなんていう嬉しいハプニングもあったけど...。10代の頃チャスカスに憧れてこの道に入ったサンタクルスの音楽仲間たちも、これには感激!とにかく、いろいろありましたが11月20日ついにCDが発売となってホッとしています。
※新作『風の旅路』が一人でも多くの皆さまのお耳に届きますように... Salud! (乾杯)
                                    
2001.12.16. 大場 多希子

            ペルー音楽の魅力
 ペルー音楽の幅広さと奥深さを紹介しよう。とくにいままで日本での紹介が遅れていたコスタ(海岸地方)の音楽をメインに、シエラ(山岳地方)の音楽もアンデス原住民系の音楽は「コンドルは飛んで行く」だけではなく多彩な表情を持っていることを知ってもらおう、ということではじまった「日本移民ペルー入植100年記念シリーズ」も全6作が完結する。そこで、シリーズの全体像を紹介してみよう。
 コスタの音楽の代表格が、都市部で発展したクリオージョ音楽のバルス・ペルアーノ(ペルー風ワルツ)。もとはダンス音楽のワルツが、聴くための歌謡音楽としてペルーで独自の発展をとげたものだ。女性では「ニッケの花」の作者であり歌手でもあったチャブーカ・グランダ(1920〜83)が日本でも知られているが、ルーチャ・レジェス(1933〜73)も”ペルーの黄金のモレーナ”として大衆から愛された歌手だ。『わたしの最後のうた』(TKF-2817)”は彼女の濃厚な魅力があふれている。とくにタイトル曲は観客との永遠の別れを題材にしたもので、自らの死を予期しているかのよう絶唱し、唄の最後では泣き出してしまう。実際に彼女は録音後ほどなく亡くなってしまうのだから、まさに入魂の一曲だ。『ルーチャ・レジェス・メモリアル』(TKF-2822)はペルー音楽史上驚異的な売り上げを記録した「レグレーサ」(戻っておいで)を含む没後25周年の追悼盤。教会から墓地までの沿道を埋め尽くした人々はこの曲を唄って彼女を見送ったという。今回のシリーズ6枚中2枚という破格のいも、聴いてもらえば納得のはずだ。
 『ペルー・クリオージョ音楽の精髄』(TKF-2819)はペルー大手レコード会社イエンサの音源を使った豪華なもの。フェリックス・ピングロ・アルバ、チャブーカ・グランダ、アウグスト・ポロ・カンポスといったほぼ3世代にわたる大作曲家たちの様な様ざまな名曲が、ロス・モロチューコス、そのグループのギタリストでもあったオスカル・アビレース、アフロ系歌手アルトゥロ”サンボ”カベーロなど最高の演唱者たちで録音されており、選曲も演唱もまさに極めつけである。一口にバルス・ペルアーノといっても、いかにも唄ものという感じのものから、歌謡として発展したといわれながらもダンス音楽色の濃いものまで様ざまだ。
 このシリーズ中、最も注目して欲しいのがアフロ系の音楽を集めた『アフロ・ペルー音楽の律動』(TKF-2821)だ。アフロ系の人口比率は1%程度と非常に少ないな
がらも、ペルー音楽の中に大きく影響を与えている。古くは18世紀に成立した舞曲サマクエッカにもアフロ系音楽の影響があるといわれる。また、そのサマクエッカがアルゼンチンやチリに伝わり、それぞれサンバ(ZAMBA)とクエッカとなり、チリのクエッカがペルーに逆輸入されたマリネーラ(現代ペルーの国民音楽舞踊)にもアフロ系音楽の血が流れている。このCDにはフェスティーホ、ランドー、アルカトラス、ソンなどのリズムが登場する。アフロ系の音楽と聞くとプリミティヴな感じを受けるが、実は1960年代頃の都市のクリオージョ音楽の行き詰まりとともにおこったアフロ系音楽復興の動きがはじまりだ。伝統音楽の継承ではなく、ペルー音楽の根底にひっそりと流れてきたアフロ系音楽を掘り起こし新たに構築された比較的新しいものといえる。アフロ系歌手、詩人、民俗研究家であったニコメデス・サンタ・クルスがクマナーナを結成しその先鞭を付け、コンフント・ヘンテ・モレーナ、コンフント・ペルー・ネグロ、そのペルー・ネグロから独立した歌手ルシーラ・カンポスらが後に続いた。『ペルー・クリオージョ音楽の精髄』でも登場したオスカル・アビレースとアルトゥロ”サンボ”カベーロもこの流れにとって重要な役割をはたしている。ギターとカホンと歌が主軸となり、様ざまなパーカッションが加わって織りなす腰にくるビートはやみつきになる。ここに収録の「ランドー」「オジータ・ノ・マ」は、メキシコを中心に活躍するタニア・リベルターが94年の意欲作『アフリカ・エン・アメリカ』で取り上げ、さらに現代的な味付けがなされているので聴き較べてみるのもおもしろい。
 コスタの音楽におけるギター奏者代表オスカル・アビレースならば、シエラの音楽の世界での代表はラウル・ガルシアだ。超絶のギター・テクニックを持つラウル・ガルシアの『郷愁のインカ』(TKF-2818)。なめらかで豊かな表現力は聴いていてギターのみの演奏だということを忘れてしまうほど歌心にもあふれている。彼の手による「コンドルは飛んで行く」はアレンジ、演奏ともに秀逸だ。是非生演奏で味わってみたい。
 メキシコのフォルクローレ・グループ、ロス・フォルクロリスタスのレネ・ビジャヌエバがまとめた『ペルー山岳地方のフォクローレ』(TKF-2820)では、ひとくちにウァイノと呼んでいる音楽の多彩さに驚かされる。ここにもラウル・ガルシアの録音があるが、彼とハイメ・グアルディア(ペルー最高のチャランゴ奏者)との共演や、ハイメのギター弾き語りといった貴重な音源を収録している。
 ざっと紹介しただけだが、まだペルー音楽の入り口をくぐったにすぎない。これからも魅力あふれるペルー音楽を紹介できれば、と思っているのでお楽しみに。           2000.1. 矢吹浩市

             謎のアンデス人
 今からおよそ25年前、わがふるさと蒲郡の "きふね幼稚園" にボリビアからお客さんがやって来た。
ポンチョを身にまとい見慣れぬいでたちのお兄さんたちは、ケーナという竹笛の作り方を教えてくれて、それから布の真ん中にハサミを入れた即席ポンチョで私たちを "にわかボリビア人" へと変身させたのだった。はっきりとは覚えていないが、お兄さんたちの演奏する「コンドルは飛んでいく」に合わせて、私たち園児はコンドルの舞いを踊ったらしい。
 あのボリビア人は誰だったのだろう?最近になってそんなことが気になり、同郷のフォルクロリスタ、木下尊惇さんあたりに尋ねてみようかと考えていた矢先、思わぬ展開となった。つい先日、ペルーのギタリスト、
ラウル・ガルシア・サラテさんの初来日コンサートを終えた直後のことである。お世話になったグルーポ・カンタティの皆さんと打ち上げでご一緒したのだが、その時かの謎のボリビア人の話をすると、リーダーのエルネスト河本さんが「それはひょっとしたらエルネスト・カブールだったかもしれない」と発言。カブールといえば、フォルクローレのメッカ、ペーニャ・ナイラを主宰したボリビア最高のチャランゴ奏者である。まさかそんな巨人が・・・とびっくりして、詳しく年代を言ってみると、今度は河本さんが驚いている様子。そしていわく。「そのボリビア人、じつは・・・。」そう、それは25年前
のエルネスト河本さんだったのです。しかも、仲間のひとりは、後に木下尊惇さんのお姉さんと結婚し、義兄にあたる福岡稔さんだったとのこと。はるばるボリビアからやって来たはずのお兄さんたちがみんな日本人だったなんて、私はしばし唖然としてしまった。
 河本さんとの驚くべき再会はもちろん嬉しかった。しかし、さわやかな国際交流の思い出を一夜にして崩された私は、なんだか納得いかない気持ちのまま宴会を終え、帰るとすぐ、当時幼稚園の役員だった母に「たしかにボリビア人だった?」と問いただした。すると、「ボリビア人かどうか知らないけど、たしかにアンデス人だった」との返事。そのアンデスのお客さんは、幼稚園で絵を教えていた木下先生 (尊惇さんのお父さん) 宅にホームシティー ("ホームステイ" のつもり) していたのだという母の思いで話に耳を傾けながら、大人でさえ勘違いするほどだったのだから、幼い私がすんなり "子供だまし" にひっかかったのも無理はない、とようやく納得。たしかに、あのお兄さんたちはボリビア人でなかったにしろ、私たちの心にフォルクローレの歌を刻んだアンデス人だったことには違いないのだ。
 それにしても、いまや日本を代表するフォルクロリスタであるエルネスト河本さんの原点を四半世紀も前に目撃していたとは、いやはや、ひとの巡りあわせは面白い。     2000.12. 8. 大場 多希子

ペルー紀行-1
謎の空中都市、マチュ・ピチュ。TVで映像を目にした時からずっと惹かれていたこの地へ、2000年の9月ついに訪れた。
 鉄道駅のアグアス・カリエンテスからバスでくねくねと山道を登りつめること約30分。太陽の帝国マチュ・ピチュは、真っ青な空のなか異様な存在感をもって、けれど静かに、その壮大な姿を現した。背後には苔色のような緑をたたえてワイナ・ピチュ(若い峰の意、マチュ・ピチュは老いた峰)がそびえる。石積みの神殿、住居跡内には水路がはりめぐらされ、ちょろちょろと水が流れていく。今では草が生えるだけの段々畑にも、インカの時代にはジャガイモやトウモロコシ、コカの葉など200種以上の作物が育てられていたのだと考えると、こちらまで力強い気分になってくる。
 すっかりこの地に魅せられて、翌日はワイナ・ピチュに登ってみることにした。細くて急な山道がつづく。途中かなりきつくなって、下りてきた北米人らしき旅行者に「あとどのくらい?」と聞くと、「2時間かかる」とか「3日程度」と冗談ばかり。結局、登り始めて50分ほどで頂上にたどり着いた。眼下にはマチュ・ピチュと周りをとり囲む山々が見渡せる。でも岩が積まれているだけの狭い山頂なので、ちょっと危なっかしい。照りつけてくる強い日差しのわりに、吹き抜ける風は冷たく乾いていて心地よかった。
 ワイナ・ピチュを下りて遺跡内に戻り、汗びっしょりのシャツを乾かしながらしばし岩影で昼寝をしていると、遠くのほうからケーナの音が聞こえる。観光客をつれた現地のガイドが吹いているようだった。インカ以前に起源が遡るこの葦のたて笛は、祭りや種まきなど儀式の折々に神への祈りを込めてその音色をたなびかせてきたに違いない。どうしてこんな山深い孤立した地にインカの都市が築かれたのかとよく言われるけれど、インカの人びとの太陽信仰への絶対感、たくましい精神性、そして建築技術や潅漑技術のレベルの高さ(サイフォンの原理まで利用していたという)を考えてみると、マチュ・ピチュの地を選んだのも案外自然なことのように思えてきた。
 400年を超える長い眠りの後、1911年ハイラム・ビンガムによって発見されたマチュ・ピチュから173体のミイラが発掘された。そのうちの150体もが女性だったことから、インカ族がこの地を去る時に“太陽の処女”たちと歩けない老人を墓地に葬ったのだとされている。マチュ・ピチュにやどる太陽の乙女たちの魂 -- 私たちを惹きつける神秘の源なのかもしれない。                         
ペルー紀行-2
 クスコ。なにしろここは標高3,350mの都。リマから空路でいきなり入って滞在したら、きっと高山病に悩まされていたに違いない。そんなわけで、マチュ・ピチュ近くのアグアス・カリエンテス(「お湯」の意で、小さいながらも文字どおり温泉村)から鉄道でクスコに戻るというコースをたどった。ちなみに、高所のイメージが強いマチュ・ピチュのほうは標高2,300m程度で、空気の薄さも感じない。「クスコに着いたら運動は控え、入浴も控え、おまけに飲酒も控えるように」との忠告をうけていたので、美味と評判のビール "Cusquenana"(クスケーニャ)は行く前に味わっておいた。
 流れのはげしいウルバンバ川に沿って列車は進む。車窓からはベロニカ峰をはじめアンデス山脈の峰々が白くそびえるのが見える。そうかと思うと、密林特有の野生植物が線路沿いに生い茂っていたり、ペルーの多彩な自然を垣間見ることができて楽しい。多彩なのは景色ばかりではない。音楽においても、シエラ(山岳地帯)、セルバ(密林地帯)、コスタ(海岸部)のそれぞれが異なる文化を背景に独自の音楽性を発展させてきた。おなじみの「コンドルは飛んでいく」に象徴されるシエラ系音楽ひとつとってみても、山間各地にはそれぞれ個性的な郷土音楽が存在し、豊かなふくらみを持っている。
 ところで、私たちを乗せた列車は途中大きな汽笛を鳴らして急に止まった。しばらくたっても何の説明もないので車内がざわめく。でも、どうやら線路の切り換えをしていなかったために道を誤ったのだと気づくと、乗客たちから拍手がわきおこった。分岐点までバックして、気をとり直して再発進。広大な畑とアドベ(日干し煉瓦)の家がところどころにあるだけの素朴な村々。うとうとと眺めているうちに、明かりひとつ灯らない暗やみへと移ろっていった。およそ4時間ほどで終点のクスコに到着。高台を走る列車から見下ろした街の夜景は、まばゆいほど華やかだった。          2000.11. 大場 多希子

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