シャドーロールの三冠馬・ナリタブライアン
1999年9月11日から10月3日まで、 ”JRA90’s Memorial Fair” と称して90年代の馬を振り返るフェアが開催されていたが、 そのとき、中山競馬場のパドック前に、鼻に白いシャドーロールを乗せた、 等身大の黒鹿毛の馬のマネキン(とでも言うべきだろうか)が展示されていた。 そう、彼こそが1994年の三冠馬にして年度代表馬・ナリタブライアンである。 1991年5月3日、父ブライアンズタイム・母パシフィカスの子として生まれたが、 早くからG1で善戦し、菊花賞を制していたビワハヤヒデ(父シャルード)の 弟として早くから期待されていたものの、自分の影にすらおびえるほどの気の弱さが 災いして、デビュー当初は「賢兄愚弟」とも言われるほどであった。 注) 競馬の世界では母を同じくする馬だけを「兄弟」といいます。なぜなら、同じ父を持つ馬となるととんでもない数に及びますから。 それに対して陣営が考えた手段、それがシャドーロールの装着であった。 これを鼻の上に装着すると自分の足元の視界ははさえぎられて、それにより 自分の影におびえることはなくなり、気性が安定するという仕掛けだ。 これを最初に着けたのは京都三歳ステークスであったが、それが彼の快進撃の 始まりであるとともに、一般の競馬ファンにも広くシャドーロールというものが 知られるきっかけとなったとも言えよう。 ポスターにもあるとおり、皐月賞は3馬身1/2、ダービーは5馬身、 京都新聞杯でまさかの2着を挟んだ最後の1冠・菊花賞においてはなんと7馬身差という、 なかば暴力的とも言うべき差をつけまくった彼もまた、それまでの競馬界の 常識を覆した馬の1頭であるといえよう。 ちなみに、近年ダービーで5馬身差をつけた馬には1998年のスペシャルウィークもいるのだが、 天皇賞・春の勝利から先行馬のようにも思えるスペシャルウィークの場合は 最後の200mから差をじりじり広げ、そのリードを守りきったのに対して、 差し馬であるナリタブライアンの場合は、それよりもゴールに近い100mあたりで、並ぶ間もなく一気に他馬を 引き離したあたりに、同じ5馬身差、タイムもわずか0.1秒差とはいえちょっと異質の強さを感じる。 そしてその年のしめくくり・有馬記念をも制して、文句なしに1994年度の代表馬に選ばれたのである。 しかし、彼のその強さも翌年の阪神大賞典までであった。 その後股関節炎を患い、秋に復活するも振るわず散々な結果に終わってしまった。 怪我も癒えた6歳、再び阪神大賞典から始動したが、そのときは前年の年度代表馬・マヤノトップガン と、他馬を置き去りにしての壮絶な叩き合いを演じ、頭差でねじふせている。 ナリタブライアンとしては明らかに異質のレースだが、このレースを96年の ベストレースに推すファンは多い。 彼の最後のレースは意外な舞台というべきであった。 夏のグランプリ・宝塚記念を目標にしてステップレースに選ばれたのは、 それまで主に2000m以上の距離で走ってきた彼にとって、明らかに適距離より 短い1200mの電撃戦・高松宮杯(現・高松宮記念)。 この年からG1に昇格したこともあって、話題を集めるレースとなった。 結果こそ4着ではあったものの、最後の直線で最後方から魅せた猛烈な追い上げは 彼の強さを示す何よりの証であると言えよう。 残念なことに、この後競走馬の現役生活の大敵である屈腱炎を右前脚に発症、復帰はならなかった。 現役時代の戦績 21戦12勝、2着3回 収得賞金 10億2691万6000円 (約¥23,000/m) 重賞レースでの勝利 (カッコ内はグレード:距離) 朝日杯三歳ステークス (G1:1600m) この輝かしい戦績が認められ、1997年にはJRA史上24頭目の顕彰馬として殿堂入りを果たしている。 そして、引退後は内国産種牡馬の期待の星として、彼の産駒に期待が高まったが、 1998年9月27日12時過ぎ、胃の破裂により、わずか2世代の産駒を残して帰らぬ馬となってしまった。享年、わずか8歳(馬の年齢は現在日本では数え年です)。 オグリキャップ旋風により、競馬が「オヤジのギャンブル」から「大衆的エンターテイメント」になってから 初めての三冠馬であった彼の死は、一般のニュースでも大きく取り上げられるほどであったことは記憶に新しい。 今はただ彼の冥福と、2000年と2001年にだけデビューする、数少ない産駒から彼を彷彿とさせるような馬が現れることを祈って、キーを打つ手を止めたい。 参考文献 競馬の殿堂パンフレット (JRA競馬博物館) ナリタブライアン 1991-1998 (アスペクト・1998年) |