アクアリウム 7
「……それで、同情心あふるるドクター・ビーヴァーは、脳外科医を紹介してやった挙句、逃亡犯を見逃してやったわけだ」
 クレイの手紙を読みながら、ジェフリーは相変わらずの仏頂面でそう言った。けれど口調には電話で話した時ほど棘はない。出会いから終焉まで、一年にも満たない彼らの道のりを知って、彼なりに感じるところがあったようだ。
 たった十ヶ月だ。その間に二人はどこまでも二人だけの世界を作り上げて、その中で暮らし、それで幸せだったのだろう。小さな箱庭は定員二名、増えても欠けても崩れ去る。それを不憫だと思うなら、それはその人間の傲慢だ。欲しいものだけで満たされているなら、そこはソロモン王の宝物殿にも匹敵する。
「ハニガーに紹介した医者の名前も言う気はないんだろうな?」
 彼の手土産のビールを飲みながら、ジムはゆらゆらとイスの背を揺らし、そっと微笑んだだけだった。ジェフリーは、そうだろうと思ったよ、と苦い顔で新しい壜に手を伸ばした。彼は彼なりにその医者が誰かと見当はつけているはずで、必要とあれば直接そちらに証拠提出を迫りにゆくだろう。でも、彼が逃亡幇助の罪に問われることはないはずだった。
「検死結果はもう出たか?」
「一般人に捜査内容をもらすわけにはいかんね」
「ほう、そうか。しかし、『自発的な協力者』をむげにするのは感心せんな」
 クレイからの手紙は、いわば私文書だ。公開の義務はない。だが、資料として第三者の目に触れるだろうとクレイにはわかっていたはずだ。彼の手紙はそうしたことを心得た上で書かれたものだった。でなければ、ビーヴァー医師は、断固提供を拒んだことだろう。
 ジェフリーは、こっちの質問には答えないくせに、とわざとらしくブツブツ言ってから、手持ちのカードを開いて見せた。
「──詳細な報告はまだ届いてない。だが、そう、トム・ハニガーの脳内に腫瘍ができていたのは確認されている。……あんたは知ってたのか?」
「知ってたよ。クレイが診断結果を知らせてくれたからな。腫瘍自体は良性だったそうだ。だが、位置が悪かったんだな。手術では取り除けない場所だったらしい」
 仮に入院したところで痛みを薬で散らす以外の治療法はなく、腫瘍は時間と共に肥大して脳を圧迫し、遅かれ早かれ、患者を死に至らしめるだろう、というのが医師の診断だった。
「検死官の所見と同じだな。──なあ、ハニガーの犯行はその病気のせいだと思うか?」
「さあな、わからんよ。連続殺人犯や大量殺人犯と脳障害の関連性が高いのは事実だが、俺は専門じゃないし……。チャールズ・ホイットマンの事件でさえ、結論は出ないままじゃないか」
 一九六六年の夏、テキサス・タワーから胎児を含め十二人の人間を射殺したホイットマンの脳にも胡桃大の腫瘍があった。しかし、それが彼の犯行の要因だったかどうかは、今もって証明されてはいない。
 余命三ヶ月。それがあの時点でトムに言い渡された時間だった。
 けれど、彼はそれからさらに三ヶ月を生きた。それはトム自身の生きる気力だったかもしれないし、クレイの看病が良かったのかもしれない。どちらも関係なくて、単に生き延びようとする人体の持つ力だったかもしれないし、医者が短く宣告しただけだった、ということもある。
 後悔はない、とクレイは書いた。ならばその半年間は満ち足りていたのだろう。どうせ真相はわからないのだから、そういうことにしておけばいい。
「ジェフ、二人の遺体はどうなる? 引き取り手はいないんだろう」
「いないだろうな。二人とも身寄りがない。共同墓地に葬ることになるんじゃないか」
「俺が引き取ろう」
「あんたが?」
「並べて埋葬してやりたい。せめてな。──無理か?」
「いや……検死さえ終われば問題ないだろう。あんた、本当に二人が気に入ってたんだな」
「年下の人間に先に死なれると堪えるよ」
「……ああ、わかるよ」
 その気持ちはジェフリーにも良くわかった。彼も、毎日毎日、そうした事件に走り回っているのだ。ジェフは、そうした気持ちを何とか割り切ることで日々の仕事をこなしている。割り切りそこねたジムは、早々に引退することで事件から距離を置いた。
 二人はそれきり何も言わず、ただ手の中の壜を、チン、と軽く触れ合わせた。

***

「……い、しょ、……っと」
 クレイはトムの遺体をシーツで包むと、軽々と抱き上げ助手席に乗せた。やつれた身体は細く小さくなって、出会った頃の面影が嘘のようだ。けれど頬がこけても、指が骨ばっても、唇がひびわれても、彼は最期まで美しかった。感情を豊かに映し出す金緑の瞳も、深みのあるテノールの声も、子供のように無防備な笑顔も、何もかもがなくなってしまったけれど、それでもやっぱり変わらず美しいと思う。
 その美しい恋人を乗せて、クレイは車のエンジンをかけた。燃費の良さだけを誉められたトヨタだけれど、二人の旅はずっとこの車と一緒だったから、しまいにはトムもそれなりの愛着を持っていた。
 どこへ行くという目的はなく、それほど遠くへ行くつもりもない。ただ、モーテルの部屋に死体が二つ転がってる、というのは申し訳ないから出て行くだけだ。ここの管理人は六十年配の夫婦者で、トムの病気をずいぶん心配してくれたから。
 途中でドクター・ビーヴァーに荷物を送る。
 それが終わったら、どこかひと気のない、景色の良さそうなところで車を止めよう。グローブボックスには38口径の銃が一つ。弾も一つでよかったのだが、怪しまれるのでひと箱買った。
 六月の陽射しは眩しく、キラキラと乱反射して視界を焼く。あまりに眩しいのでトムのサングラスを借りてみた。黒だと思ったレンズは実は深い深い青色だったらしく、とたんに辺りが青一色に染まる。遠い南の海の底みたいに。──まあテレビで見ただけだけど。
 自分たちはようやく水槽の中を抜け出した魚のようだった。ただし、どちらもとうに死んでいて、今さら海に放たれても、ただゆっくりと沈んでいくだけ。その代わり、二人の身体は融け崩れてかたちを無くし、やがて海水の中で分かちがたいほどに同化する。
 それはなかなかご機嫌な未来に思えたから、クレイはひと声笑ってアクセルを踏むと、南の海色の風景の中を燃費のいいトヨタで走り始めた。

終わり
   
2012.4.13