アクアリウム 6
僕たちは、それなりに平和でした。つまり逃亡者としては、ということです。
僕らは常に移動し続けました。トムは髪を伸ばし、色を染めて、カラーコンタクトを入れたり、色んな種類のメガネをとっかえひっかえしたりしながら。
元嘱託医のあなたに言うのもこんなことを言うのもあれですが、犯罪を重ねず動き回っていれば、驚くほど見つからないものですね。やっぱりこの国は広い。
そのまま何もなければ、あなたをこんなことに巻き込んだりはしなかったでしょう。
もちろんいつまでも逃げ回ってはいられたはずはなく、いずれは気づかれるか、資金が尽きて動けなくなるか、さもなければ、別の犯罪を始めるか、ともかくロクな未来が待ってたはずもありませんが、あなたはそのニュースを聞いて、僕たちのことを怒るか哀しむかするだけですんだでしょう。
僕の予想では、その両方だと思いますけど。
とにかく、本当にドクターには感謝しています。たぶん、あのモーガン捜査官とケンカになったでしょうね? 申し訳なかったと、僕たちからの謝罪を伝えてもらえれば幸いです。
許してもらえるかどうかはともかくとして。
トムが、頭痛がする、と言い出したのは十一月初めの頃でした。いつまでも起きて来ない上に、ひどく青い顔をしていたので、また悪い夢でも見たのかと訊いてみると、頭が痛くて起き上がれない、と言います。
僕は、風邪かもしれない、と言いながら、頭痛薬を飲ませました。そのときはそれで治まったようでした。
でも、徐々に痛みはひどく、その間隔は短くなっていきました。
と同時に、彼の言動も不安定さが増しました。おおむねは普段通りの彼ですが、ごくたまに、一分でも僕の姿が見えないと不安でたまらなくなるときがあるようで、外出するときはもちろん、狭いモーテルやアパートの中でも僕を探し回ることがあります。ちょうど、一〜二歳の子供が保護者の後をどこまででも追って歩くように。
クリスマスを目前に迎えた頃、僕は、彼の病気について深刻に受け止めなくてはならないと気づいたのです。
 さんざん迷った挙句、クレイが、ドクター・ビーヴァーに連絡をとってみようか、と思ったのは、二つの病院でトムを診察してもらった後だった。バレる危険性を考慮して、ハーモニーの町からずっと離れた土地の病院を選んだ。幸い、トムの正体には気づかれなかったが、どちらもトムの病状について、精密検査をしてみなくては、と口を揃えた。二つ目の病院では、脳内に腫瘍が出来ている可能性を示唆された。良性か悪性かはわからないが、どちらにせよ、もっと施設の整った病院に行ったほうがいい、紹介状を書いてあげましょう、と。
 クレイと一緒に説明を受けるトムは、医者の言葉が良くわかっていないようにきょとんとしていて、クレイと医者との顔をきょろきょろと見回していた。
 元々、愛情に関してのトムの反応は、年齢不相応に純粋でひたむきだったけれど、その頃から時々、幼児返りを起こしているのではないかと思うほど幼い風情になることがあった。
 紹介状を手に、クレイはどうしたものかと考えた。大きな病院で、精密な検査を受けるとなれば、ある程度の時間がかる。時間がかかるということは、それだけ気づかれる危険も増えるわけだ。しかも、多くの人の目に触れるということでもある。こうした場所には間違いなく手配書が貼られているものだし、この場合、不幸なことにトムは目立つ。この病院でさえ、看護師たちがトムの容貌に見とれ、仲間同士で何事かをささやき合っているのを見た。……まあもしかすると彼女たちが注目していたのは、そのハンサムガイが、彼よりでっかい男にぴったりくっついていたことのほうかもしれないけれど。
 しかし、他人がいない時間に検査してください、と言えるほど親しい医者がいるわけでもなく、唯一、思いつく相手といえば、ドクター・ビーヴァーだけだった。
 彼自身は精神科医だが、その人脈は驚くほど広い。彼なら親しい脳外科医の一人や二人いるはずで、彼が頼んでくれれば、ひと気のない時間を見計らって検査する、くらいのことはしてくれるだろうと思われた。
 問題は彼が元・FBIの嘱託医だということだ。
 大病院で不特定多数のひとに見られるのと、彼に協力を願い出るのと、どちらがより危険か、その判断は難しい。普通に考えれば、FBIの嘱託医のほうが危険には違いない。間違いなく彼はトムに気づくだろう。ただ、それを捜査官に知らせるかどうか、ということになると、確率はフィフティフィフティだと思う。それはドクターの倫理観が低いからではなくて、むしろ、医者として職務に忠実であるがゆえだ。
 彼は、事件の後、どこか投げやりになっているクレイの態度を一度も諌めはしなかった。彼自身も家族を一度に失っていて、そうなる気持ちはよくわかる、と言った。私も、一度のみならず死のうと考えたこともある、結局実行しなかったのは、義務だの希望だの、そうした美しい理由ではなく、単にその勇気がなかったってだけさ、と苦笑していた。
 本当かどうかはわからない。彼は立派な医者で、FBIの捜査官たちからも信頼されていた。彼は自分の人生を投げ出すことは、彼を頼る患者たちをも投げ出すことだと気づいたから、自殺するのを思いとどまったのではないだろうか、とクレイは思う。
 優しい、というか、同情心の豊かなひとだ。どこか牧師のように思うのは、彼が慈愛心に満ちていて、他人の行動をまずは善意に解釈するよう務めているからだろう。けれど怒ると恐い、らしい。クレイは彼が怒ったところを見たことがないが、捜査官たちが捜査を優先させるあまりに、彼の患者をおびやかすようなことがあれば、頭から湯気を立てて怒るそうだ。血気にはやった若手捜査員は、たいがい一度や二度はやられるという。俺もそうだった、とモーガン捜査官が苦笑いしながら教えてくれた。
 クレイは照会状から目を上げると、起き上がれないほどの痛みに、青い顔でベッドに横たわるトムを見た。眠ってはいない。昨日もよく眠れなかったようだ。そばかすの浮いた肌に濃い隈ができていて、やつれた様子が痛々しい。
「……クレイ?」
「何、トミー」
 伸ばされた手を取って、クレイは半ば条件反射で微笑んだ。クレイが難しい顔をしているとトムがひどく不安がるからだ。頭痛の発作は、今のところ長時間は続かない。けれど断続的に襲ってきてトムを苦しめている。一日迷うごとに病状が進行する可能性がある以上、クレイは何らかの決断を早急に下さねばならなかった。
 ──最悪の場合、トムの逮捕と治療のどちらかを選ばねばならないかもしれない。たとえば自由と引き替えに彼の苦痛が軽減されるなら、そして彼がそれを望んでいるとしたら、クレイはトムを引き止めてはならないだろう。
 もしそうなったら、僕は。
 そんなクレイの迷いを察知したのか、トムはつかまれた指先をもそもそ動かしてから「俺、病院行きたくない」と呟くように小さく言った。
「トム」
「医者がさ、もっと別の病院で検査しろって言ってただろ。でも、行きたくない。行ったら、お前と離される」
 ぎゅう、と手を握って、トムは離れたくない、と繰り返した。
「僕も離れたくないよ。でもトミー、頭痛いだろ? 医者に見てもらったら楽になるかもしれないよ。──君だってことには気づかれないよう、出来るだけのことはするから」
「気づかれなくても、……入院しろとか言われたら……」
 消え入るような声で言われて、クレイは笑顔を消さないように苦労した。それは、裏返せば彼の感じている痛みがそれだけ深刻だということだ。部屋のごみ箱には、頭痛薬の大きな空箱がどんどんと放り込まれている。すでに規程の量・規程の飲み方では彼の痛みを軽減させることはできていない。痛み止めの飲みすぎで、トムが胃まで荒らしているのを知っていた。
「全然痛くない。お前と離れるより痛いほうがいい。痛くて死んだって構わない」
 プリーズ、とトムは金緑の瞳を潤ませた。
「クレイが最後まで一緒にいてくれたらそれでいいんだ。……なあ、お前は違うだろ? 俺のこと、置いてかないだろ?」
 ……結局のところ、彼が恐れているのは、頭の痛みでもなければ逮捕されることでもなく、それどころか死ぬことでさえもなく、最後までクレイが傍にいるかどうか、の一点に尽きるのだった。
 彼の言う「最後」は、文字通りどちらかの死を指している。そして彼は取り残されることを恐れている。
 一緒にいたいと泣きながら、幼いような風情でクレイを見上げる恋人は、彼の病が深刻であることに、むしろ安堵を感じているようですらあった。
 クレイはその瞬間、ドクター・ビーヴァーの同情心に訴えてみようと決意した。
 トムの病気のこともあるけれど、彼をどうすれば支えられるのか、それを教えて欲しかった。こんなにも一途にただクレイだけを欲している相手を、剥き出しで差し出された思いを、できるだけ丁寧に包みこんで返してやりたい。どんなかたちであれ、いずれ別れが来るというなら何一つ後悔のないくらいに。
 クレイはベッドの脇に膝をついて、もう本格的にしゃくりあげ始めた恋人の額にキスをした。
「──トム、トミー、大丈夫、僕は君の傍にいる。でも、一度ちゃんと診てもらったほうがいいと思う。……違うよ、離れようなんて思って言ってるんじゃない。あのさ、僕の知りあいのお医者さんがいるんだ。そのひとに頼んでみよう? その人の専門は精神科だけど、誰か紹介してもらえると思う。──だって、君のそれが治る病気なら、そのほうがいいだろ? それだけ長く一緒にいられるだろ?」
「な……、治らない病気、だったら……?」
「そのときは、僕が君を看取るよ。最後まで傍にいる。一人になんてさせない」
 今度こそ誰にも奪わせたりしない。残された道がそれしかないなら、せめて、静かな死を迎えられるように。最後の呼吸がこぼれて、彼の身体の機能がひとつずつ順番に活動止めてゆき、美しいヘイゼルグリーンの瞳が光の調節を必要としなくなって開いた後、やがて体温が完全になくなってしまうまで。
 ──ずっと君を見ているよ。
 額同士をくっつけて、クレイが、まるでどうしようもなく甘ったるい愛の告白をするみたいにそう言うと、トムもやっぱり、まるでどうしようもなく甘ったるい愛の告白をされたみたいにはにかみ、それから、とてもとても幸せそうに笑った。
   
2012.4.13