アクアリウム 5
僕は、僕が彼の正体に気づいていることを秘密にしたまま、トムと一緒にその町を出ました。
彼は僕の中古のトヨタを見て、しばらく黙ったあと、「まあ燃費はいいもんな」と慰めなのか蔑みなのかちょっと判断に迷うことを言いました。
そのことを僕は未だに根に持っています。大きなお世話だよ。バイクの二人乗りで七千マイル以上を旅行したチェ・ゲバラよりはマシだ。
僕自身の荷物もたいした量ではありませんが、トムはそれこそ身一つでした。プリペイドの携帯電話と財布、その程度です。それも、彼自身のものかどうかはわかりません。ハーモニーの町を出るとき、私物を持ち出す余裕があったとは思えませんし。
まるでロードムービーのように僕たちは行き先も決めずに走り出しました。エルネスト&アルベルトなのか、B&Cなのかはともかくとして。
どっちであるにせよ、僕たちは彼らと同じように一日のほとんどを顔をつき合わせていて、トムも怪我が治って元気になってくると色々と疑問や不審が出てきたのでしょう。
結局、僕の秘密は、それから四日後に暴かれました。
……それはいい。いずれ話し合う必要のあったことです。
ただ、もう少し穏便な方法は選べなかったものでしょうか。
トムは、こともあろうに、僕を後ろから殴って昏倒させて縛り上げたんですよ! 
ボニーだってクライドに対しては、そんな乱暴なことはしなかったでしょうにね。
 目が覚めたのは、誰かに強く頭を小突かれたからだ。
 最初に目に入ったのは、自分の膝。あれ、と思った途端、クレイは体勢の違和感に気がついた。何で座ってるんだ、僕。
「起きたかよ」
「……トム?」
 自分の膝の前には同じようにジーンズに包まれた足がある。ただし、向こうは立っているようだ。まだぼんやりしたまま、視線を上にずらせれば、両腕を組んで冷たい表情でこちらを見下ろすトムのヘイゼルグリーンと目が合った。いつもの彼の柔らかな色合いではなく、他人を見るような感情の読めない二つの瞳。初めて見るトムのそんな様子に一瞬ドキッとしたけれど、彼の驚くほど密な睫毛が繊細に震えていて、トムが動揺しているのを知った。
 もっとも、それはクレイのほうもおんなじだ。
「……何これ」
 室内の様子に見覚えがあるから、夕刻にチェックインしたモーテルなのは間違いないようだ。
 しかし今、クレイの両手はイスの背を抱くように背中で拘束されていた。
 ──そもそも「目が覚めた」ということは、それまで意識がなかったということで、平和にベッドに入った覚えがない上、左耳の後ろあたりがイヤな感じにズキズキしているのは、誰か──容疑者は今のところ一人だ──に殴られて気を失ったからだろう、と推測するにやぶさかではない。
「まさか二度も体験するとは思わなかった」
「……何?」
 ドラマや映画ではよく見るシーンだが、普通の人間が普通の人生を送る限り、殴られて昏倒するようなことは、まず一生に一回も経験しない。まあもしかすると若気の至りで、派手な殴り合いなんかすると、そういうこともあるかもしれないが、クレイは基本的にそういった気質ではなかった。体格には恵まれていたけれど暴力にはそれほど馴染みがない。父親を早くに亡くし、母と妹の間で育ったせいだろうか、同年代の友人たちに比べるとむしろ血の気は薄いほうだ。
 それなのに。
「僕、君に殴られるようなことしたかな。それともこれってプレイの一環?」
「お前、馬鹿じゃないのか」
「噛みあってないね」
「俺が誰だか知ってるんだろう」
 テーブルの上にあった物を、トムがバッとばらまいた。ひらひらと床に舞ったそれは、クレイが集めたハーモニー事件の切り抜きやプリントアウトだ。
 ブラッディ・ヴァレンタイン、という扇情的な見出しが踊っている。マスコミというのは、判りやすいタイトルをつけるのが好きなもので、「世間の善良な人々」はそうしたドラマティカルなものを歓迎するものだ。
 見つかったのか、とただ冷静に思った。ことさらに隠していたわけではないから、いつかはそういうこともあるかも知れないと思っていた。
「……いつ気づいた」
「一週間くらい経った頃かな」
「何で黙ってた」
「それはトムにってこと、警察にってこと?」
「どっちも」
「君に対してはいつまでも秘密にしてるつもりはなかった。機会があったら話し合おうと思ってたんだ。──今日がその機会かな? でも、こういう体勢は僕の予定には入ってなかったけどね」
 もうちょっと普通に向かい合って、何ならアルコールかコーヒーでも飲みながら、そういう話をしたかった。後ろ手に縛られるというのは、これでなかなかバランスを取るのが難しい。
「警察は」
「このロープほどいてはくれないの?」
「話は出来るだろ」
「そうだけど」
 クレイは、どう言ったものかとしばし考えるように首をひねり、それから何がおかしかったのか、ふ、と小さな笑い声をこぼした。
「……何だよ」
「いや、こんな斬新なシチュエーションで告白するのは初めてだと思って」
 略奪された一人の花婿? ……いやあれこんな話じゃないけど。
「クレイ、俺は真面目に話してる」
「僕も真面目だ。でなきゃとっくに警察に連絡してる。そうせずに、今君とここにいる理由を考えてみてよ。──言っとくけど、僕も迷わなかったわけじゃないんだよ」
 それどころか。自分の判断が正しかったか過ちだったかと訊かれれば、完全に過ちだと自信を持って言える。なのに、911、たった三つの番号が押せない。
「もしこの先、トムが誰か一人でも傷つけるようなことがあれば、僕はその人に対してどれだけ詫びても許されないことになる。本音を言えば、君を信じていいのかどうかも確信はない。だけど僕はトムを信じたいんだ。君と離れたくないと思ってる。──トムは違う?」
 あの町を出るとき、トムはクレイの車を貶しながらも、見るからに楽しそうな明るい顔をしていた。誰かと一緒に旅をするなんてこれまでしたことがない、と。彼の見せるそうしたあどけなさは、計算でもなんでもなく、ただ純粋に心からの言葉だとわかる。決してウィットニーを思い出すと言うわけではなくて、でもたぶん、自分はトムに出会ったことで、持て余した愛情の行く先を見つけてしまったのだと、薄々気づいた。
 かまって欲しい彼と、かまいたい自分。愛されたいトムと愛したいクレイ。お互いの足りない部分が、ロゴブロックのようにぴたりとはまりこんでいる。
「……俺は、」
「僕はまだファミリーネームは言ってなかったよね。もしかして、もう調べたかもしれないけど」
「──免許証見た。クレイ・ミラー、だろ?」
「うん。僕の名前に聞き覚えはない?」
「何、お前有名人?」
「まあ、ある意味有名かもね。〈クリスタル・レイク〉あるいは〈ジェイソン・ボーヒーズ〉は?」
 トムはしばらく考えていたが、ふるりと首を振って否定した。
「そっか。二〇〇四年の事件だから、もうだいぶ忘れられてるのかな」
「……その頃は、病院にいた」
 入院治療を受けていた頃だと思う。来る日も来る日も病室の壁を見つめていた。廃坑の中、オレンジ色の灯りを受けて茶色に見える血の痕、引きちぎられた人形みたいに転がった死体、血染めのツルハシを振りかざしながら、のしのしと歩く黒い人影。そして生暖かいシャワーのように降り注ぐハリーの血。鉄錆と同じ臭い。そんな夢に繰り返し震えていて、でも医者に言っても薬を投与されるばかり、処方された薬品は体質に合わなかったのか、たいがいトムは後から吐いた。
 そんな毎日では、地軸が九十度回転するくらいのニュースじゃないと、患者の耳までは入らない。
「ああ……そうか、それは……。じゃあ、ネットで検索してみて。すぐに見つかるはずだ」
 ラップトップを顎で指す。クレイとパソコンの間で視線を一往復させた後、トムは素直に検索画面を立ち上げた。クリスタル・レイク、と入力するだけで、ずらりと検索結果がディスプレイを埋める。一番上のリンクをクリックすると、黒字に赤で「13金の殺人鬼」と言うタイトルが点滅していた。現実にあった事件のまとめサイトで、事件の経緯と何枚もの写真が載っている。この事件での被害者らしい。全部で十五枚。その一番下に貼られているのは、今よりいくらか若い、けれど間違いなくクレイの写真だった。
「……クレイ、これ……」
「うん、そういうこと。──ねえ、とりあえずロープほどいてくれると嬉しいんだけど……。これって何か地味に痛い」
 情けない顔で笑って見せると、トムはふらりとした足取りでクレイに近づき、後ろ手のロープをほどきにかかった。これもドラマや映画ではよくあるシーンだけれど、ただ縛られてるだけでも結構痛いし、何より動けないというストレスはすごいものだと知った。
 六週間も手錠をかけられていたウィットニーはどんなに痛かったろう。辛くて恐ろしくて泣き続けていたはずだ。
「僕は妹を助けられなかった。そのことをずっと後悔してる。今も」
「……だったら、なおさら俺なんか顔も見たくないだろ」
「そうだね、正直に言うけど、最初の夜に気づいてたら、きっとトムのこと、警察に知らせてたと思う」
 ようやっと自由になった両手首を撫でて、冷たくなった指先を温めるように擦りあわせた。そうしながら見上げたトムは、寄る辺ない子供が泣き出したいのを必死で我慢しているような頼りない様子で立ちすくんでいた。
「トム、」
「──けど、俺……俺はこんな事件、知らない……、お前の妹も、知らない……、俺は人殺しだけど、でも……!」
「トム、トミー、落ち着いて、わかってる。君はジェイソンじゃない」
「わかんねえ、あの、町のことも、……お、覚えてることもある、けど、俺はずっとハリーがやったって……ああそうじゃなくて、あいつの仕業だと、思ってて、……でも、そうじゃないって言われて、アクセルは関係ないって、それで、俺……」
「トム!」
 瘧にかかったようにガタガタ震え出した身体を急いで抱きしめた。大きな目を人形のように見開いたまま、ぼろぼろと涙を流し続ける。言葉にならない細い声がひゅうひゅうとトムの咽喉から漏れ聞こえた。血の色、一面の赤、チョコレート箱に入った心臓、人形のような死体。モーテルで、炭鉱で、スーパーで、元保安官のバークや、パーマーの家でも、人、を。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、だけど、でも、俺、そんなつもりじゃなくて、ハリーが、違う、俺なんだけど、だって皆俺を置いていくし、でもハリーが、俺、お前の妹のことは知らなくて、でもクレイ、俺…………っ」
「──トム、なあ、トム、落ち着いて。僕の事件は君とは関係ない。ウィットニーたちを殺したのは君じゃない。僕はちゃんと知ってるから、わかってるから、……だから、なあトム、聞いて」
 ひっくひっくとしゃくりあげながら、ごめんなさい、と呟いているトムの頬を両手に収めて、クレイは彼の滑らかな額に口づけた。
 まだ本当に幼かった頃、母が彼にそうしてくれたように、彼が妹にそうしてやったように、なるべく純粋な愛情だけを込めたキスを。
「君は病気で、僕は間違っている。僕たちは一緒にいるべきじゃないし、君はちゃんと治療を受けなくちゃならない。きっと世間はそう言うだろう。でもトム、僕はどうしようもない。君と離れたくないんだ」
 どうしてかな。出会ってまだ一ヶ月にもならないのに。女の子とだってこんなふうに恋に落ちたことはないのに。
「お、……俺、……俺、も……っ」
 まだぐしゃぐしゃの泣き顔のまま、トムは精一杯クレイを見上げて、離れたくないと繰り返した。

***

 いい年をして恥ずかしい、純愛なんか気取る柄じゃないのに、実は今日までキスさえもしなかった。
 もっとも逆に、お互いに抱えた事情の重さを考えれば、勢いでことに至るほどの無鉄砲さはない年になった、とも言える。
 トムがしきりに目をこすっているのは、泣いてしまった気恥ずかしさだろう。こすったら余計に腫れるよ、と注意してやりたいが、却ってトムの羞恥心をあおる気がして黙っていた。
 要するにそのときの自分たちは、それこそいい年をしてまるで初めて〈お泊り〉するティーンみたいに期待や緊張やためらいを感じていて、けれどコミュニケーション手段としてのセックスがどれくらい有効かつ至福であるかを知るほどには大人で、あとついでに言うなら、クレイのほうは同性との経験はまるでなく、そんなこんなで三十代のやる気になった男二人、しかも舞台装置も完璧、というシチュエーションにしては、今ひとつ積極性には欠けていた。
 でもまあ始まりとしては、それほど悪くもないと思う。行儀良く触れ合わせるだけのキスから始まる大人の恋愛だってあってもいい。少なくとも、まるきり異なる重大事件の犯人と被害者、という関係よりは世間にありふれているはずだ。
 しかし当然ながら、いつまでもそんな品のいい態度でいられるはずもなく、二十秒としないうちにどちらからともなく唇を開いて舌を差し出し、それから十秒後には、二人してスプリングの効いたベッドの上に倒れこんでいた。
「……前から思ってたけど、」
「何?」
「お前、何かやってたの? スポーツとか格闘技とか」
「……いや別に。でも、いい稼ぎになるからバイトしてた。えっと、肉体労働系の」
「ふうん」
 トムが感心したようにうなずきながら、ぺたぺたとTシャツの上からクレイの腕や首、胸に触れる。セクシャルな触れ方というより、何だか食肉の質を確かめてる料理人のほうに近い気がした。──と思ったら、案の定、ちらりと唇を舐めて「旨そう」などとのたまった。ただし、その顔は料理人どころでなく色っぽい。ゆったりと細めた眼がキラキラ光って、猫科の大型肉食獣みたいだ。
 クレイとしては、彼のふっくらとした唇のほうがよほど旨そうに見える。舌が出入りするたびにつやつやして、何か上質な果物に似ていると思う。誘われるままに吸い付いて、唇の柔らかさや口内の滑らかさを確かめる。トムは蹂躙されるまま、クレイの舌に反応を返しながら、相手の邪魔なTシャツを奪い去ろうとした。けれどキスをしながらでは思うように脱がせられない。イラついて、力任せに引っ張ったら、待って、とその手を止められた。
「そんな引っ張らないで……脱ぐよ、脱ぐから」
 苦笑しながらいったん離れると、クレイはTシャツもスウェットのパンツも下着も全部をベッドの下に脱ぎ捨てた。その完璧に近い体のフォルムにトムは、知らずそっとため息をついた。脱ぎかけていた手が止まる。
 しまった、と思ったのは、自分の身体の状態を忘れていたからだ。先に明かりを消しておくべきだった。ヒューゴーたちにつけられた傷は、裂傷の多くは見えなくなっているけれど、殴打されたときの鬱血と、深く傷ついた場所のかさぶたがまだ残っていて、トムの皮膚は青紫と赤紫の奇妙なまだら模様になっていた。あまり目にして気持ちのいいものではないと思う。
「トム?」
 止まってしまったトムに、クレイが不思議そうな目を向けた。──が、すぐに理由に気づいたらしい。
「痛むんだったら、今日でなくても……」
「あー、その、痛いんじゃなくて……傷は治ったんだが、痕が残ってる。お前が気持ち悪いんじゃないかと思って……」
「痕?」
「うん」
 こんな、と脇腹の辺りをめくってみせた。──まじまじ見ると、やっぱり気持ち悪い。自分でも。
「悪い、こんなん萎えるよな? 灯り、消してくれたら……うわ!」
 つい大きな声が出たのは、クレイがトムのTシャツを引きむしるように脱がせたからだ。自分のTシャツは引っ張るなと言ったくせに、何だこの扱い。
「クレイ、お前……!」
「──ひどい」
 トムの身体に残る暴行の痕跡に、クレイは眉をひそめた。むろん、この傷については知っていたけれど、いざ自分が彼を性的な対象として見たとき、彼に与えられた暴力の無意味さに改めて腹が立つ。トム自身がそうした嗜好に合意していたなら別だけれども。
 厳しい表情で傷跡を見下ろすクレイに、トムが困ったように首をかしげた。
「……クレイ、なあ、悪かったよ、俺、忘れてて……」
「何でトムが謝るんだよ」
「え……っと、何でっていうか」
「僕が怒ってるのは、この傷をつけたあいつらにだ。──こんな、きれいな身体なのに」
 白い肌は滑らかで、近くで見ると頬のあたりにはうっすらそばかすが浮いているのが妙に可愛らしい。今は変な色に染まって見える背中や腹のあたりだって、本当は同じようにきれいなミルク色なんだろうに。どうしてこんな美しいものを傷つけようなんて思うんだろう?
 労わるつもりでその肌に手を当てる。そっと腹筋のあたりを撫で上げたら、トムが、ひくりと身をすくませた。
「あ、……っ」
「…………」
 それは痛みをこらえるため、とかではなく、あからさまに感じているとわかる声で、手のひらから感じるトムの体温と相まって、クレイの官能を一気に呼び起こした。今自分の前にいる相手と抱き合いたい、という欲求。彼の身体の隅々にまで触れて、舌を滑らせ、唇を這わせ、傷の上をなぞって彼の記憶を上書きしてしまいたい。そうして彼の身体の一番奥まった部分に自身を埋め込んで、深く、隙間もないほどにつながりたいという動物的な衝動に、クレイは熱いため息をついた。
 こうした場面でよくある現象として、クレイの感じている興奮は、触れ合った皮膚や耳で聞く音、上昇する体温を通じて、言葉を使うよりもよほどダイレクトにトムのほうにまで感染する。
「トム、……トミー」
「クレイ、あ……クレイ……!」
 慌しく服を脱いで、脱がせて、さえぎるものもなくシーツの上で抱き合うころには、もうクレイもトムも、彼の身体に残る傷跡のことなどまるで意識もしなかった。隙間なく体温を重ねて、口づけを交わしながらお互いの身体を探り合う。トムの指先がクレイの癖毛をかき回して、その広い背中を抱き寄せれば、クレイは彼の柔らかな耳たぶを舌先でくすぐり、反らした咽喉元に歯を立てた。開いた脚の間にクレイの身体が入り込むと、昂ぶったお互いの自身が触れて、トムが「ふあ、」と甘ったるい声をたてた。
「あ………ッ、…はぁ、」
「……う、……」
 刺激を求めて、素直に腰を押し付けあう。先走りの体液がお互いの下腹を濡らし、くちゅくちゅといやらしい音をたてた。
「クレ……、クレイ、あ、……お、ねが……っ……」
「何、トム? 何をすればいい?」
「あ、───ん、う」
 短い息をこぼして、せわしなく胸を喘がせながら、トムは震える指でクレイのたくましい二の腕を握り締めた。
「……ね、が………さ、触って……、クレイ、……後ろ、後ろ、に……ッ!」
「──トム、」
 頼むから、と切ないほどに眉をひそめて、トムは恥も何もなく懇願した。
 たったこれだけのことで。
 キスをして、ほんのわずか触れ合っただけで、どうしてこんなにも身体が熱いのだろう。クレイの腕の中でドロドロに融け崩れて消えてしまいそうだ。
 準備のための小道具もなく、あそこだって全然馴らしてなくて、だのに、どうしてもクレイを感じたかった。見なくてもわかる、クレイのモノがどんなに堅く勃ちあがっているか。熱した鉄の塊みたいなそれをあの狭い場所に入れて欲しかった。トムの身体の一番深いところに彼を受け入れて、彼のすべてを覚えておきたい。
 プリーズ、ともう一度繰り返すと、クレイの手がまだほとんど閉じたままの入り口に触れた。彼がほんの少し力を入れただけで、そこは待ちかねたようにくぷりと緩んで侵入者を受け入れる。トムがクレイを望んでいるからだ。こんなこと、これまで一度もなかったのに。
「あ──あ、……クレ、イ……っ」
 やめないで、もっと、とうわごとめいた熱っぽい声でトムが続きを促した。彼の中に差し込んだ指は柔らかく締め付けられて、奥へ奥へと導かれる。この場所に、指の代わりにクレイ自身を収めたら、どんなに気持ちがいいだろう。想像するだけでだけで頭の中がショートしそうだ。
 けれどまさか準備もせずにそんなことをすれば、トムの身体にどれほど負担がかかるかくらいはわかっていて、クレイは今にも切れそうな理性をかき寄せかき寄せ、可能な限りゆっくりと、トムを緩めたわめることに集中した。トムの身体に残された暴力の痕が、クレイの冷静さをとどめ置いてくれる。痛みではない、分かち合いたいのは快楽だ。
 差し入れる指の数が増えるたびに、トムがすすり泣くような声を上げて身をよじった。のぞきこんだ顔には苦痛の色は少しも見えず、頬を伝う涙も痛みによるものではない。その証拠に彼の目尻は匂い立つような紅色に染まり、彼の証は萎えもせずに天を向いている。
「……気持ちいい……? トム、ねえ、他に何をして欲しい? どうしたら君は気持ちよくなれる?」
 甘やかすような囁きに、トムが二度三度と目をしばたいた。涙を落としてすこしはっきりした視界に、クレイの青灰色の瞳が見える。彼はいたわりを込めた表情でトムを見下ろし、何をして欲しいかと訊いて来た。そのくせ頬は赤く、唇からこぼれる吐息はせわしなくて、彼が自分自身の暴走を必死にコントロールしようとしているのが手に取るようにはっきりと見て取れる。
 誰かに抱かれるとき、そんなふうな思いやりを示されたことはなくて、金銭と快楽以外の何ものかを分け与えようとするクレイにトムはしばしとまどい、そうして──
「……挿れ、て……」
 答えた声は変に上ずっていて、明らかに餓え乾いていて、トムは自分が押さえつけられた凶暴な獣のような気がしていた。クレイがベッドの中で見せた優しさは逆にトムの激情を煽り立てている。どうしてもこの男が欲しいとぐずぐずに蕩けた脳髄の中心がうるさく自己主張した。もう今すぐ昂ぶったクレイ自身を押し込んで、トムを満たしてくれなければ、目の前の男を頭からかじってしまいそうだ。
「え、でも、だ……だいじょう、」
「いいから!」
 ぎりっ、と広い肩に爪を立てる。
 その、これまでつきあってきた女の子とは比べ物にならない力にクレイは一瞬顔を歪め、それから、引き抜いた指の代わりに、彼の雄をトムの入口へと押し当てた。
「………ク………」
 あぁ、とこぼれた声は満足のため息だった。胸をあえがせて、トムはくたりと力を抜く。苦しいほどに開かれて、けれど繋がっているというその充足感にあられもなく悦びの声が出た。
「クレイ、ああ、深……! ………ア、ア、ッ!」
「トミー、トム、───」
 侵入されるまま、最奥までを許した身体はいつの間にか、その主導権さえをもクレイに譲り渡し、初めは遠慮がちだった律動が、やがて、際限もない突き上げになり、ぎりぎりに浅い場所から、一番深いところまでをひと息に行き来され、その経験したこともない激しさと快感の波に、トムはもう欠片も正気を保ってはいられなかった。
「あ───はぁ、ッあ、───ん、……ク、レ……ッ!」
 軽々と抱えられた足が熱に浮かされた視界の端で揺れる。汗に滑る指先が必死にクレイの肩にしがみつく。
 そうして、二人の間で高まった波はやがて嵐の激しさでどちらをも飲み込み、高みへと押し上げて、溢れさせ、感じたこともない鋭い悦びに一瞬神経を振りきらせた後で、引き潮のように穏やかな収束へと導いていった。
 指一本動かすのも億劫なほどの心地良い疲れに、二人はぜいぜいと息を乱しながら重なったままの体勢で横たわり、そしてどちらからともなく顔を見合わせると、そっと笑ってキスをした。

 ──何もかもが間違った関係だと知りながらも、そのとき彼らが感じていたのはまぎれもなく幸福だった。

   
2012.4.13