アクアリウム 4
トムは、面倒な同居人ではありませんでした。怪我のせいもあったでしょうが、どちらかと言えばおとなしく控えめで、生活のレベルは僕と同じくらいでしたから、そういう意味でも気を使う必要はありませんでした。
それから三日後(だったはずです)、トムは、そろそろ怪我もマシになったし、出て行くと言いました。僕はその頃には彼がいる生活に馴染んでいて、部屋の中に自分以外の誰かがいる、という状況を歓迎していました。
単身者用の狭いアパートに、僕たちみたいな大きな男が二人、わずか三日とは言え一緒に暮らして、息苦しくもなかったのは、僕が彼を気に入っていたからでしょう。
おそらく彼も、そうだったのだろうと思います。出て行く、と言った彼があまりに正直に寂しそうな顔をするので、深く考えもせずに、ここにいてもいいよ、と言いました。
どうせ彼に帰るところはないし、僕には行くところがありません。ろくでなしが二人、一緒に暮らしたところで、何か都合の悪いことがあるでしょうか。
何より、僕はトムを出て行かせて、彼がまた見知らぬ男たちに〈買われる〉ことを思うと、傷つくような苛つくような、落ち着かない気持ちになりました。
そのときには、僕はとっくに彼に恋をしていたのでしょう。
──思えば不思議なことですね。僕はそれまで一度だって同性を好きになったことはなかったのに、よりによってその相手があの「トム・ハニガー」だったなんて。
もし、ジェイソン・ボーヒーズが逃亡先でハーモニー事件の遺族と出会い、彼女(あるいは彼)と惹かれあったら、なんて皮肉だと僕はヒステリックに笑ったことでしょう。
僕がトムの正体に気づいたのは、一週間ほど経ってからでした。最初に気づいていれば、今みたいなことにはならなかったと思います。僕は警察に電話して、凶悪犯として彼を引き渡すことに何のためらいも感じなかったでしょうから。
もっともこれは、そうしたかった、という意味ではない、と言うことを書き添えておきます。
 クリスタル・レイクの事件以来、クレイは、連続殺人事件や大量殺人事件と言うと、興味を抱かずにはいられなかった。どこでどんな人間がどんな事件を起こしたのか。その中にジェイソンの痕跡を探したいという理由ももちろんあったが、それだけではなく、結局その根底にあるのは答えのない「どうして」という疑問だった。どうして人を殺すのか。どうして人が殺されねばならないのか。事件の原因がわかったところで、この先殺人事件がなくなるわけでもなく、ましてや死んだ人間が帰って来るわけでもないとわかっていても、考えずにはいられない。
 だから当然、ハーモニーでの事件も知ってた。事件そのものの残虐性と共に、その状況が十年前のものと同じだということがひどく因縁めいていて、マスコミはすわ一大スクープ、とばかりにそのニュースを派手派手しく書きたてた。いっとき、新聞・テレビ・雑誌は「ブラッディ・ヴァレンタイン事件」で持ちきりで、逃亡中の容疑者「トム・ハニガー」の顔写真は全米中に報道された。ハンサムな凶悪殺人犯と言えば、テッド・バンディが有名だが、ハニガーはさらにもっとずっと整った容貌をしており、彼の写真を見た人間は、一様に、とても殺人犯とは思えないと驚いた。彼が捕まればバンディ以上のプリズン・グルーピーが法廷に詰め掛けるだろう、とどこかの記者は書いており、その記事を読んだひとは、さもありなん、と納得した。
 クレイももちろん彼を見ていて、確かに俳優かモデルみたいな顔だな、と思ったのを覚えている。けれど、「トム・ハニガー」と目の前で頼りなくベッドに横たわっている「トム」が同一人物だなんて、まるで想像もしなかった。髪型やメガネといった小手先の違いではなく、雰囲気全体が別人だった。手配書の写真は、彼が通院していた病院で撮られたもので、真正面を向いて、どこか挑戦的にレンズをにらみつけていた。クレイの知り合ったトムは、目が合うとはにかんだみたいに視線をそらして、それからこっそり微笑むような、そんな人間だったから、二人の相似性に気づいたときには、まさか、と血の気が引く思いだった。
 知り合って五日たった頃から、二人は狭いアパートを出てモーテルに移っていた。どちらもこの町に残る理由はなかったから、トムの傷が良くなったら、別の町へ移動しようか、とまるで一緒にいることが当然みたいに、そんな話をしていたところだ。
 クレイもトムも自分たちのバックボーンを話さなかった。生まれはどこで、どこの学校に通い、家族はどうしていて、これまで何をしてきたか、というようなことは何一つ言わなかったし訊かなかった。それどころか、ファミリーネームさえも知らないでいる。どちらも自分が訊かれたくないから、相手にも訊かなかった。質問をしないことで、お互いに軽々しく語れない事情を抱えているんだな、と薄々察してはいた。
 しかし、まさか殺人事件の容疑者だとは。
 彼がアパートやモーテルの外に出たがらないのは怪我が痛むせいかと思っていたが、なるべく顔を見られたくない、という事情もあったらしい。
 四六時中一緒にいる状態では情報集めも難しかったが、まだ傷の癒えないトムは、眠る前に鎮痛剤を飲む夜が多く、その間にクレイはネットでハーモニー事件の詳しい情報を得ようとした。事件の詳細や、後日報道、公開された容疑者の精神病歴、それに関する医師やFBIプロファイラーの意見。
 ──そして、クレイ自身が見た「犯人像」とは異なるトムの姿。
 男たちに連れて行かれそうになって怯えていた目や、帰るところはないんだ、と呟いた声、哀しいほど自分自身に価値を認めないその姿勢、クレイがここにいてもいいよ、と言ったときに浮かべた、驚きと喜びの混じったような笑顔。
 それから、そう、最近知ったが、彼には、薬や食料品、日用品を買いに出るクレイに「いつ帰って来る? 何時ごろ?」とくどいくらい確認をとる癖がある。「すぐだよ」と言えば「すぐって何分?」と子供のようなことを言う。何度か不可思議なやりとりを繰り返してクレイは気づいた。彼は孤独を恐れている。正確に言えば、置いていかれることを、だ。原因はわからない。ただ、彼の自己評価の低さを考えれば、そういう危惧を抱いていてもなんらおかしくはなかった。
 パソコンで見た手配写真と、眠るトムを見比べる。十人いれば九人が同一人物だと自信を持って確定するだろう。
 彼は間違いなくトム・ハニガーだ。生まれ故郷の小さな炭鉱町で、罪もない人を何人も殺した殺人犯だ。
 その事実は受け入れるとして。
 ──どうしよう。
 クレイは深々とため息をついた。どうしよう、と迷う自体がもうおかしい。彼は凶悪犯だ。それも、重篤な精神疾患を患っている恐れがある。今すぐ警察に連絡をとって彼を逮捕してもらう以外、どんな選択肢がある?
 家族だとか、長年付き合った友人だとか、恋人だと言うならともかく、ほんの数日前に出会ったばかりの相手じゃないか。法律違反を犯すほどに情を移すには早すぎる。
 しかしクレイは、自分たちの間には奇妙な親密さと、微妙な甘ったるさが存在しているのを知っていた。表向きは真っ当な友達のような距離感を保っていて、未だにキスの一つも交わしたことはなく、それなのに何故かこの町を出て行く未来を一緒に予定している。
 マークシートの試験問題みたいだ。どういう証明式を経るのかはさっぱりわからないけど、答えはこれです。正解、合格、おめでとう、みたいな。
 結論はわかっている。これは恋だ。出会ってたった数日の相手に。女の子とならそれもあり得るかも知れないけど、トムはれっきとした男だというのに。
 マークシートなら普通、選べる答えはせいぜい五つ、あてずっぽうでも正解にたどり着く確率は20%。なら恋をした相手が殺人事件の容疑者である確率と、彼を警察に引き渡さない、という答えを選ぶ確率は? そんなもの、リーマン予想を解決できる学者にだってわかるまい。
 ひとつだけはっきりしているのは、例えばジェイソンに対して彼の存在を知りながら意図的に情報を隠した誰かがいれば、自分はその人間に怒りを抱き、なんて愚かなことをと感じるだろうように、ハーモニー事件の被害者やその遺族たちは自分を憎み、呆れかえるだろう、ということだ。
 本当に申し訳ないと思う。でも、母親にすがる幼児みたいに一心にクレイを必要としているトムを、彼はどうしても見放すことはできそうになかった。
   
2012.4.13