アクアリウム 3
トムと出会ったのはその頃でした。
大きくもなければ小さくもない、といった規模の町のバーです。
ドクターにそのことを報告する前に、僕は彼の正体を知りました。なので、秘密にせざるを得ませんでした。
もっとも、「同い年くらいのすごく顔立ちのきれいな奴と知り合いました」なんて手紙を送っても、あなたを困惑させただけだったでしょうが。ドクターが僕の手紙を読みながら、困った顔でに頬髭を引っ張る姿が目に浮かぶようです。
僕たちの出会いはドラマのようにロマンティックではありませんでしたが、映画のように暴力的ではありました。といっても、出会い頭に彼を殴ったという意味ではありませんよ。
彼は今でも「お前が最初に言った言葉を覚えてる」と僕をからかいます。
あんな台詞を現実で聞くとは思わなかった、とも。
そんな大層なことを言ったわけではありません。嫌がるトムを二人の男が連れて行こうとしていて、僕は「離せよ」と言っただけです。
──念のため付け加えておきますが、その時点で僕に何か下心があっただなんて思わないで下さいね。いくらなんでも僕はそこまで最低な男ではないつもりです。
ドクターも知っているように、僕は、目的もないまま、いろいろな場所をフラフラしていました。
ちゃんとした仕事に就くべきだと思いましたが、一定期間ひとつところに留まると、必ず誰かが、僕を「13日の金曜日事件」(僕はこの呼び方は大嫌いです)の関係者だと気づきました。
僕は興味本位であれこれ質問されるのにはうんざりでしたし、したり顔で労わられるのはもっと苦痛でした。中には100%純粋に思いやりを込めて接してくれたひともいたのでしょうが、そのときの僕にはそれを受け取るだけの余裕がありませんでした。
幸か不幸か、僕の手記は未だに少しずつですが売れ続けているようで、そんなふうに気まぐれな働き方でも、別段食うには困らなかったのです。
 仮にまるきり仕事をしなかったとして、豪遊は無理にしても、つつましく暮らせば三年ほどなら一人で生きていけるだろう。ただ自堕落に引きこもっていたところで得るものはなく、だからそうして気づかれるたびに他の町へと引っ越しを繰り返し、繰り返し、ふらふら目的もなくアメリカ中をさまよっているような状態だった。家族は誰もいないし、古い友人たちとは縁が切れた。新しい友人を作るつもりもないし、恋人なんかなおさらだ。ジェンナの犠牲は思ったより深くクレイを傷つけていて、あれ以来、クレイは女性から好意や同情を寄せられると反射的に彼女たちを遠ざけるようになった。
 つまり、そのときのクレイは、時折事件の進展やウィットニーの新しい情報の有無を確かめる以外、自分の人生に何の義務も感じていなかった。
 クレイがトムと出会ったバーは、フィフティーズの雰囲気を作りこんだ新しい店だった。従業員も客層もどちらかと言えば若く、健全な感じのする場所で、高級スコッチよりライトビアや色とりどりのカクテルがよく売れる、そんなところだ。
 その空気が不穏になったのは、クレイがちびちびとビールを飲み始めて半時間ほど経ってからだった。どう見てもこの店には不似合いな、四十歳前後の男二人が乱暴に入って来るなり、クレイより先に店にいた一人の青年を連れ出そうとしたのだ。隅っこの二人がけのテーブルに座って、ライトビアのビンを煽っているのを、クレイは見るともなしに目に留めていた。
 けれど、その後の騒動がなければ、そんな客がいたことさえも思い出せなかったろう。
 二人の男は片方は見るからに頭の軽そうな、けれどその分鍛えた筋肉が自慢だ、と言わんばかりの金髪の男で、もう一人はもっとほっそりして肌の色も白く、ビジネススーツの似合いそうな嫌味ったらしい黒髪の男だった。しかし、まともなビジネスマンと言い張るにはちょっとばかり雰囲気が崩れている。その彼が腕を取り、連れ出そうとしたのは、ありふれたシャツとジーンズ姿の、けれど良く見れば、ちょっと驚くほどきれいな顔をした、クレイと同年代くらいの青年だった。細い銀縁のメガネが上品そうに見える。
 黒髪の男が青年に向かって何か言い、青年が言い返した。金髪の男を指差し、低い声で懸命に言い募っている。黒髪の男は冷たい表情で眉を上げたきり、指し示された男はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。
 何となく想像はつく。つまり、彼らがどういった関係か、というようなことは。友達や家族、恋人には見えない。おそらく、何がしかの金銭的取り決めでもって数時間(か、数日か数ヶ月かは知らないが)の快楽を分かち合うことで契約が結ばれていたのだろう。そう思って見れば、青年の整った顔立ちにも納得がいく。
 そうして、二分ほどお互いの意見を主張していたが、男たちのほうが焦れたように青年の腕を取った。
「嫌だ、離せよ!」
 怯えたような青年の声が響いた。
 放っておけばいい、と思ったのは事実だ。バーでのもめごとなんて、日常茶飯事、殴りあいでも始まらない限り、敬虔な牧師様でさえいちいち仲裁に入ったりはしないだろう。まあ、牧師がこんなところに酒を飲みに来るかどうかはともかくとして。実際、他の客たちは一瞬目を向けただけで、また自分アルコールのほうへ意識を戻した。バーテンは心配そうに彼らを見ていたが、それは青年をした案じたからではなく、騒ぎのついでに備品が壊れたりしないかどうかと、怪我人が出た場合の責任の所在についてを思いめぐらせていたからに違いない。
 青年はずいぶん抵抗していたが、元々二対一、しかも片方は筋骨隆々と来ては、そう簡単には逃げおおせない。自分の席から引きずり出されて、入り口の方へと引っ張られそうになった。
 瞬間、彼と目が合った。
 ありありと怯えを浮かべたその表情に見覚えがある。あの夜の自分たちと同じだ。殺されるとわかっていて、でもどこにも逃げられずに屠殺場へ引き立てられる動物と同じ。そこにあるのは、恐怖と諦観、そして「どうして」という尽きせぬ疑問だ。どうして私が、どうして彼が、ほんの半時間前まではいつも通りの平和な日常だったのに、どうしてこんなことに。
 ──後から思えば、それはトムの正体に気づかなかったがゆえの連想で、ひどくブラックな笑い話にも似ているけれど、まるきり的外れかと言えばそうでもなかった。『彼』でないトムは、どちらかと言えばおとなしい、傷つきやすい性質だったから。
 ともあれ、クレイは反射的に席を立ち上がっていた。目の前の青年を行かせれば後悔すると思ったし、行動せずに後悔するならしてから後悔する方が数百倍もマシだった。
「やめろよ、嫌がってる」
「はぁ?」
 何だ貴様、という態度もあからさまにそう言ったのは、金髪のほうだった。黒髪の男は黙ってクレイを見ただけだ。青年はびっくりしたように目を丸くしていた。その瞳はバーの心許ない照明の中で、金緑色に光って見えた。
 彼らの前に立ちはだかるクレイに何を思ったのか、黒髪の男が金髪の男に顎をしゃくって見せた。やってしまえ、という合図だったろう。けれど、クレイの拳が金髪の顎にヒットするほうが早かった。これまでの成り行き上、彼らがどういう態度に出るかくらいはわかっていて、だからクレイは先に手を出すと決めていた。あの夜のことを思い出したはずみで、戦闘的な気持ちになっていたのかもしれない。
 ふご……っ! とやや間抜けな声をあげて金髪がひっくり返ると、その方向にいた客たちがきゃあきゃあと悲鳴をあげた。巻き込んで申し訳ない、でも断末魔の悲鳴でないなら僥倖だと思ってもらわないと。
「お前……、」
 何か言いかけた黒髪のほうも、最後まで言わせずに殴り飛ばした。彼のほうが遠くまで飛んだのは、金髪に比べて体重が軽いからだろう。もはや酒場は大混乱でその隙にクレイは青年の手を取った。
「行こう!」
「え……、」
「早く!」
 先に手を出したのはクレイだから、警察が来ても面倒だ。どこかぼんやりとクレイを見上げてくる青年の手を引っ張って、クレイは夜の街へと飛び出した。
 手をつないだまま、十分も走り通しただろうか。ライトアップされた夜の公園で足を止めたのは、充分にあの店から離れたから、というよりは、クレイの後をついて走る青年の脚が、どんどんと重くなっていることに気づいたからだ。
「……大丈夫?」
 後ろを振り返ると、青年は思ったよりもずっと青い顔をしていて額に浮かんでいる汗も、急に走ったせいというよりは冷や汗の類に見えた。
「うわ、ごめん、急に走らせたからだね!? どうしよう、どこか……君の家は? そこまで送って行くよ」
「……家は、ない」
 ゆるゆると首を振りながら、彼はひどく寂しそうにそう言った。
「いいんだ、あんた、誰だか知らないけど、助けてくれてサンキュ。ここに置いてってくれ」
 半ばよろけながら、青年はベンチに座ると力なく笑った。行く場所なんかどこにもないから、ここでいいんだ、と。
 そんなことできるわけないだろ、と抗議しようとしたクレイの前で青年はずるずると身体を横倒しにし、そのまま気絶してしまった。

***

 気づくとベッドの上だった。またあいつらの部屋に連れ戻されたのかとぞっとしたが、良く見れば、奴らの趣味の悪い道具類はどこにもなく、どこかの安ホテルかモーテルみたいな、清潔なだけで個性がない感じの造りの部屋だった。
「あ、起きた?」
「…………?」
 知らない声にゆるゆると視線をめぐらせる。目に入ったのは人懐こい犬みたいな顔をした若い男だった。ちょうどトム自身と同年代くらいだろうか。
 あのバーで見かけた顔だ。奴らに連れて行かれそうになったところで割って入って来た。「やめろよ、嫌がってる」、とか何とか言いながら。
 驚いた。ドラマや映画以外でそんな台詞を口にしている奴、初めて見た。
 ドラマの登場人物みたいな男は、トムはもちろん、彼を捕まえに来た金髪よりも長身だった。しかし、見る限り温和そうな顔をしていて、面倒ごとに首を突っ込もうとしているのも、ただ彼の正義感とか騎士道精神(これも映画くらいでしか見たことがない)的な何かがそうさせたのだろうと思った。
 だったら、金髪野郎に殴られておしまい。トムはまた彼らの部屋に連れ戻され、意に添わない乱暴なセックスをさせられる。
 確かに、金と自分の身体を引き換えることを了承したのはトムだ。黒髪の男に誘われて、そろそろ手持ちの現金も少なくなっていたから、いいぜ、とうなずいた。
 自分の容姿が女性のみならず、そういった輩に好まれることを知ったのは十代の頃で、その気になれば金になることを知ったのは二十代の頃だった。たぶん、より価値があったのは十代の自分だろうけれど、その頃は金に困ることなどすこしもなかったし、彼の育った町はそうした男たちを「ホモ野郎」と見下げる傾向にあったから、そんなことはまるで想像もしてみなかった。今も男と女とどっちが好きかと言われれば女、と答えるけれど、男とのセックスでも充分快楽を感じるほどにはこうした行為にも馴れきった。何より、手っ取り早く稼ぐにはこれが一番手早い方法で、泥棒と売春が世界最古の職業だと言われるのも無理はない、と思う。
 驚いたことにもう三十になると言うのに、トムは未だに『客』に困ったことはない。プロではないから、そうそう年中相手を探しているわけではないが、そのつもりで外をうろつけば、たいがい誰かが声をかけてきた。あまりわかりやすく客を引くと、プロの娼婦(か男娼)に目をつけられて追い出されるから、人待ちのような顔で酒場に座っているだけだ。黒髪の男ともそうして知り合った。確か、ヒューゴーと言ったはずだ。金髪の男のほうはレジーだったと思う。それともそれは前の客だっただろうか。
 何にせよ、トムはヒューゴーと契約した。三日間、と言われて驚いたが、彼はこの町の人間ではなく、仕事で三日、ここにいるだけだと言った。私は君のことがとても気に入った、ここにいる間は側にいて欲しいんだ、と熱っぽくささやかれ、むしろその台詞が気持ち悪かったが、支払い額が破格だったから、まあいいか、とうっかり彼のホテルまでついて行った。ホテルはそれなりのランクで、ヒューゴーはトムのためにルームサービスまで用意してくれたから、これならそう悪い契約ではなかったな、と思っていたら、いざ「商売」を始める段になって見知らぬ金髪の男が寝室に入って来た。にやにやと下卑た笑い、服の上からでも鍛えているのがわかる身体、何より彼が手にした黒い革鞄が不穏で、トムはさっと血の気が引いた。
 顔色の変わったトムを楽しそうに見やり、ヒューゴーは済ました顔で「彼は私の友人で、レジーという」とその侵入者を紹介した。
「相手が二人なんて聞いてない」
「彼は『客』じゃないよ。君を抱くのは私だけだ。ただ、色々変わった特技を持っていてね、毎回目新しいセックスを演出してくれる。──ああ大丈夫、君さえ暴れなければそんなに痛い目に会うことはないよ」
 つまるところ、ヒューゴーはサドっ気たっぷりのゲイで、こうして他所の町に出かけるたびに、拾った男娼を相手に趣味満載のセックスを堪能するのが楽しみであるらしかった。逃げ出す間もなく押さえつけられ、それから二晩、ただ痛みを堪えるためだけの行為を強要された。ようやく今日になって逃げ出して来たものの、行くところもなければ、そもそもここを出て行くだけの体力もなくて、バーにうずくまっていたところを見つかったのだった。
「気分はどう? その、ずいぶん苦しそうだったけど」
 言いにくそうにしているので、トムは自分の格好を見下ろした。見たことのないTシャツを着ている。妙にサイズがぶかぶかしているところを見ると、目の前の男のものなのだろう。だったら、そのとき傷跡に気づいたはずだ。
「ごめん、見るつもりはなかったんだけど、ひどく汗をかいてて……それに、血が滲んでるみたいだったから」
 それも当然だ。ヒューゴーは、トムが彼を受け入れている最中、レジーにトムを打たせて喜んでいたからだ。あれは何だったのだろうか、よくしなる、細い棒のようなものだった。乗馬のときにつかう鞭に似ている。……というより、もしかするとそのものだったのかもしれない。
 打たれるたびにトムの身体は痛みにすくんで、そうすることでヒューゴーを締め付けた。けれど、彼が喜んだのは肉体的な快楽ではなく、トムが痛みに泣きながらやめてくれ、と懇願することのほうだった。その証拠に、ヒューゴーは繋がってなくても、鞭打たれるトムを見るだけで興奮してコックを堅くしていた。
 とんだ変態だ。
 トムはそっと自分の身体を押さえ、ことさら痛みのひどかった場所に、ガーゼか包帯が巻いてあるのを知った。どうやら手当てをしてくれたらしい。それとも、もしかして医者に見せたのだったらどうしよう。こんな不審な傷を見れば好奇心がうずくだろう。だとすれば、トムの手配書に気づく可能性もある。トムを助けた男は、トムの質問を察したように、病院には行ってないよ、と言った。
「その傷じゃ、警察に連絡されちゃうだろうし……そうしたほうがいいのかどうか、わからなかったから」
 その気遣いに、一瞬ひやりとした。しかし彼は「トム・ハニガー」の正体に気づいたわけではなく、彼をプロの男娼か何かだと思っているらしかった。それはそうだ。自分の部屋に寝ているのが大量殺人犯だと知ったら、のんきに目覚めを待っているはずがない。
 あの事件からすでに半年が経ったが、これまでのところ、誰にも疑われずにやって来た。ハーモニーを出て以来、発作も来ていない。
 発作。抑制できない怒りの衝動だ。自分の中のスイッチが切り替わる瞬間がある。そうなったときの自分は、冷酷で残忍で、何をしでかすかわからない。トムのことを多重人格症だと報道している雑誌もあった。今では乖離性同一性なんとか障害、と言うらしい。そうなのだろうか。自分の中に、誰か別の人格が存在するのか。わからない。事件のことは覚えているが、詳細を思い出そうとするといつもひどい頭痛がして集中できなくなる。
「もし、警察に連絡した方がいいなら今すぐにでも……」
「いや、いいんだ。気を回してくれて助かった。それに、あいつらのこともぶん殴ってくれてすっきりした」
 まさかに、あの温厚そうな若い男が、有無を言わさずレジーたちをぶっ飛ばすとは思わなかった。お前って見かけよりケンカっぱやいのか? と訊ねると、あのときはそういう気分だったんだ、とはにかんだように笑った。えくぼのできる笑顔は少年のようで、こんな奴でも人を殴りたい気分になるんだな、とおかしくなった。
 あのとき、何が起こったのか、一瞬状況についていけずに呆然としたトムに、彼は手を差し出した。「行こう」と。
 何故だろう、ひどく驚いた。
 おそるおそる重ねた彼の手は大きくて力強く、トムをひっぱってぐんぐんと人の間を駆け抜けて行った。しかし、もともとが満身創痍で、皮膚表面の傷ばかりでなく、ペニス以外のものを突っ込まれた場所も傷ついていて本当は歩くのも辛いほどだったから、トムはすぐについていけなくなった。
 ペースが落ちたことに気づいて足を止めた男は、トムの顔色に驚き、まるで彼が悪いかのように「ごめん」と謝った。そうして、彼を家まで送って行こうとさえ言った。
 何だこいつ。本当にドラマの登場人物か。
 少なくともトムの人生で、こんなふうに労わりを見せてくれた相手はいなかった。──いなかったと思う。いたのかもしれないが、思い出せないから、いなかったのとおんなじだ。どうしてだか、彼の周りにいる人間は、みんな彼を嫌いだった。幼い頃死んだ母親はどうだか知らないが、仕事仕事で忙しい父親も、親がオーナーだからって生意気言うなよ、と言う従業員たちも、彼を臆病者だとからかう遊び仲間も、恋人でさえも、誰も彼も自分のことを嫌っていた。そのはずだ。そうでなかったら、あのとき自分を見捨てて逃げたりはしなかっただろう。もう少しでハリーに殺されるところだったのに、彼らはトムを見捨てて逃げた。
 ──あのときっていつだっただろう。十年前? いや、半年前? ああ違う、半年前の事件はトム自身が起こしたものだ。だからこうして逃げ回っている。金に困れば、窃盗をしたり、男娼の真似事をしたり、時々客を選ぶのに失敗するけど、それでも、帰れる場所などどこにもない。
 ああ体中の傷が痛い。座っていることさえできそうにない。
 もうこのままここで寝てしまおう、とトムは思った。ヒューゴーたちに見つかるだろうけれど、それでもいいと思った。今度同じ目にあったら、スイッチが入るのを止められそうにない。自分はあの二人を殺すだろう。彼らでさえ試したことのないような残酷な方法で。そうしたいわけではなかったが、発作を起こしている間の行動は、普段のトムにはコントロールできない。きっと部屋中を真っ赤にして無残なオブジェのような死体が転がる羽目になる。ここで証拠を残せば、今度こそ捕まるかもしれないが、それでも良かった。
 最後に親切な男に会って、一緒に行こうと言ってもらって、何だかとてもいい気分だったから。
 ここに置いていってくれ、と、そう言ったところでトムの記憶は途切れていた。
 次に目覚めた場所は奴らのホテルでもなければ、あの公園のベンチでもなかった。想像するに、この男の泊まっているどこかの部屋らしい。彼は言われたとおりにトムを放置することはせず、それどころか、自分の部屋に連れ帰って傷の手当てまでしてくれた、というわけだ。
「なあ、お前……ええと……」
「クレイだ」
「クレイ。──俺は、トム」
 トム、とクレイはうなずいて、それから「何?」と小首を傾げた。女の子がやるとかわいい仕草だが、目の前の男にも妙に似合っていて微笑ましい気がした。
「クレイ、ここはどこだ?」
「僕の借りてるウィークリーアパートだよ。あのバーから歩いて十分くらいだけど、大丈夫、あいつらには見つかってないよ」
「今何時?」
「朝の八時。ちょうど朝メシでも買いに行こうかなと思ってたとこ。トム、お腹空いてない?」
「いや、今は空いてない……そうか、もう朝か」
 だったらあいつらはこの町にはいないだろう。いや、この時間ならまだいるかもしれないが、どちらにせよ、今日中にいなくなるはずだ。三日、というヒューゴーの言葉を嘘だとは思わなかった。馴染みのない町、しかもそんな短期間だからこそ、奴らは好き勝手に振舞うことができたのだ。あれで地元に戻れば、温厚で有名な紳士だったりしても驚くには当たらない。ちょっとばかり極端ではあるが、その程度の二面性は正気の範囲内だ。
 彼らにつけられた傷は未だにじくじくと痛んでいて、トムはそれを許したわけではない。もし今度出会ったら、問答無用で奴らをぶっ飛ばすのはトムのほうだろう。しかし今は、ヒューゴーたちへの復讐よりも、通りすがりの他人をバーで助け、その人間にベッドをゆずって清々と笑っているでかい男のほうが気になった。一体彼はどうして自分なんかにこんなにも親切にしてくれるんだろう。普通は最大限親切にしても、あの公園に行き倒れてる男娼がいます、と警察に電話するのが関の山ではないか。
 トムはトムなりにその理由を考えてみて、しばらく後に、トムなりの結論に落ち着いた。ひょっとすると。
「なあクレイ、あのさ、俺、今はちょっとこんな状態だし……ほんとはあそこも痛いんだ。だから、今夜とかは無理なんだけど、二〜三日待ってくれたら、傷もマシになるだろうから、そしたらお前の好きにしていいからさ」
「……トム、」
「それとも、もし待てないなら、手か口でしてやろうか? 俺、上手いぜ」
 他の男娼と比べてみたことはないし、具体的な基準があるわけではないから、本当のところはわからないが、遊び慣れた客たちにもよく誉められるから、ヘタではないのだろう。客が高齢だったり、病気を怖がっていたりすると口だけで満足して解放してくれることもある。もちろん、その場合でも料金は一緒だから楽でいい……というようなことまでつい話してしまったら、クレイは何故かひどく悲しそうな顔をしていた。
「あ、いや、違うんだ、お前から金とったりはしねえよ、何てったって恩人なんだし、」
「トム、違うよ。僕はそんなことをして欲しくて君を助けたわけじゃない。そりゃあ、自分を聖人君子だなんて言わないよ。そんなことは思ったこともないし、何も目に付くひとを助けて回ってるわけじゃない。でも、あの時君は困ってるみたいに見えた。僕は、たまたま助ける手伝いが出来た。よく見たら君は怪我をしていて、帰る場所もないって言う。ここでも僕は、たまたま気絶した君を運ぶだけの腕力があったし、アパートまでも歩ける距離だった。だから君を連れて帰って、簡単に手当てもした。それだけだ」
「……でも、お前のベッド占領してる」
「君は怪我人で、僕は健康だ。数日くらいソファで眠ったところで風邪もひかないよ」
 両手を広げた青年は確かに頑健そうで、そうそう簡単に病気や怪我を拾ってくるようには見えなかった。
 けれど。
「じゃあ、お前のメリットは?」
 金──ではないだろう。帰る場所もない、ということは当然金もない、ということだし、クレイはそれを承知でトムを助けたのだ。
 もっとも、ヒューゴーたちにもらった金があるから(あんな目にあった以上、返金する必要性は認めなかった。奴らだって返せとは言ってこないだろう)今ちょっと潤ってはいる。でもこの身体ではすぐに次の客、というわけにもいかないから手持ちの分で食いつなぐしかない。そう考えるとさして余裕があるとは言えない。
 セックス──は本人に否定された。それ以外、と考えてみても他人に比べて高尚な知識を持ち合わせているわけでもないし、特殊な技能を持っているわけでもない。どう考えてもクレイは手間と時間と金を無駄遣いしているだけに思える。
 もう他に思いつく可能性と言えば。
「あ、もしかして俺が死んだ家族か、別れた恋人に似てるとか?」
「トム、……トミー、君、どうしてそんな……」
 ベッドに横たわった青年は、え、何、みたいに目を丸くしてクレイを見つめている。クレイが悲しんでいることはわかっても、その理由がわからないのだろう。
 何だろう、このひと。一体どうしてこんなに自己評価が低いのだろう。性的対象として以外の自分自身の価値を全然認めていない。こんなに綺麗な外見をしていて、普通ならそれだけでもう高慢の鼻が高くなってもおかしくないだろうに。
「トム、君は誰にも似てないよ。君は君だ。僕は君を助けたかった。何かと引き換えじゃなくね。──さあ、もうすこし眠った方がいいよ。まだ少し熱がある。鎮痛剤はあるけど、他に欲しい薬はある? ……つまりその……、君の言う『あそこ』のことだけど」
 言い辛かったのだろう、口早にそう言い添えたクレイが照れ隠しにおどけた顔をしたから、トムは丸三日ぶりくらいに笑うことができた。
「言えば買って来てくれんのか? ドラッグストアの店員に、お前が使うんだって誤解されるぜ」
「いいよ、それくらいは。昨夜のトムはほんとに苦しそうだったから」
 傷が痛むのだろう、ごろごろと寝返りをうちながら、痛い、とか、嫌だ、とか、あいつが来る、とか、その他意味不明のことを繰り返し呟いていた。それは聞いているほうが哀しくなるような哀切の声だった。あの声をもう一度聞くくらいなら、薬屋であらぬ誤解をされるくらいはどうってことない。全然。
 トムはクレイが本気だとわかると、しばらく考えた後で、軽い鎮痛作用のある軟膏の名前を上げた。普通の傷薬だけれど、市販薬の割にはよく効く、というのでそうした職業の人間にもよく使われる。
 わかった、すぐに買ってくるから、と張り切って立ち上がったクレイは、本当にすぐに出かけて行った。財布は持って行ったにせよ、初対面の人間一人を部屋の中に残して行くなんて、無防備にもほどがあると思う。
 もっとも、部屋の中はひどく簡素で、持ち逃げして価値のありそうなものと言えば、ラップトップのパソコンとモバイルオーディオくらいだ。後は馬鹿でかいサイズの洋服が少しと、本、雑誌類。もしかして探してみればデジカメくらいはあるのかもしれないけれど、今はとてもそんな体力はない。
 ウィークリーのアパート住まいということは、彼もこの町にとっては通りすがりの人間だということだ。微熱でぼんやりした頭のまま、トムはクレイについて考えた。
 大きな男──背も、手も、たぶん、足も。背中も広い。子供のような顔で笑う。親切、なのだろう。優しい人間であることは間違いない。自分みたいな奴にも優しいんだから、きっと誰にでも優しいのだ。そのくせ、ケンカ慣れしているところもある。少なくとも、ヒューゴーたちを殴ったときには微塵のためらいも感じなかった。そういえばあいつら、歯の一本くらいは欠けたんじゃなかろうか。もちろん、同情する気なんかない。だったらいいな、ざまあみろ、と思うだけだ。
 それから、ひどく哀しそうな目をする。最初に目覚めたときも思ったが、全体的に犬っぽい感じがする奴だから、そんな表情をすると幻の犬耳が垂れているのが見えそうだ。
 どうしてクレイはあんな顔でトムを見るのだろう。憎まれたり嫌われたり恐れられたりすることはあっても、同情するような目で見られたのは初めてで、でもそうした感情を向けられるのは悪い気のするものではなかった。
 ずっと後になって、このとき考えたことを話して聞かせた時に、「俺、小さすぎて覚えてねえけど、マムってあんな感じかと思ったよ」と言ったら、クレイはがっくりと両肩を落とし、それから、他にどんな顔したらいいかわかりません、みたいな感じで苦笑したのだった。
   
2012.4.13