アクアリウム 2
親愛なるドクター

これまでたくさんの手紙を書いてきましたが、これが最後の手紙になります。
eメールと違って、手紙は手元に残らないので、細かな部分は忘れてしまいますね。きっと僕は恋愛にトチ狂った男がそうであるように、トムのことばかりを書いてきたのでしょう。
あなたが手紙を読みながら、いい加減にしろ、と呟いていたとしても、ちっとも不思議ではありません。

あなたがこれを読む頃には、僕は生きていないはずです。よほどに何か想定外のことが起こるか、臆病風にでも吹かれないかぎり。
もっとも、臆病風、というのも変な話ですが。なぜなら今、僕は死ぬことよりも独りで生き続けることのほうがずっと恐ろしいことに思えるからです。
トミーは昨日亡くなりました。長く痛みと闘っていたのを見てきたので、最後も苦しむのかも知れない、と心配していましたが、ちょっと眠い、とベッドに横になってそのままでした。
彼の呼吸がだんだんに細くなり、やがて完全に止まってしまうまで、僕は彼のことを見ていました。そうする、というのがトムとの約束だったのです。
今は彼の隣でこの手紙を書いていますが、あまりに穏やかな顔をしているので、今にも目を覚ましそうに見えます。
最後に聞いた彼の言葉は「ありがとな」でした。それは、子供にそうするように、僕が彼のふとんをたくし込んでいたことに対しての感謝かもしれないし(彼はそんなふうにかまわれるのが大好きでした)、半ば本能的に自分の死期を悟っていて、別れの挨拶のつもりだったのかもしれません。
別にどちらでもかまわない。僕たちは一緒にいた一年の間に、とてもたくさんの言葉をやりとりしました。そうしないで後悔するのは、二度とごめんでしたから。今思い返しても、彼に伝えそこなったことも、彼から聞きそこなったこともないと思っています。
……ああでも、そういえば、トミーは、最期まで側にいて欲しい、といつも言っていましたが、一緒に逝ってくれ、とは一度も言ってくれませんでした。彼はそういうつまらないところで男らしさにこだわるタイプだったので。
きっと今頃、意地を張らずに言っておけばよかったな、と思ってるに違いありません。トミーは独りぼっちが何より嫌いですから。
 そこまで書いて、クレイはふとペンを止めた。
 もし魂というものが本当にあるなら、きっとトムは、いつも彼がそうしていたように、クレイの背中ごしに手紙をのぞき込んで、ムッと口を尖らせているだろうと思ったからだ。
 男らしさにこだわる云々、ではなく、子供みたいにかまわれるのが好きだ、と書いたことについて。
 俺を甘ったれのガキみたいに言うな、何だかんだ手を出したいのはお前だろう、俺はお前につきあってやってるだけなんだぜ、と言うのがトム側の主張だ。よくもまあ大真面目にそんなことを言う。
 主要産業が炭坑という町で生まれ育ったからだろうか、彼は時折時代錯誤とも言える頑固さを発揮してクレイを苦笑させた。
 体調が悪いときはもちろん、ただ眠いだけのときでさえ、ソファからベッドまで、歩いて三歩の距離を抱いて運べ、とか言うくせに。クレイが話題のミステリ本についうっかり夢中になっていたら、拗ねて、ペーパーバッグを真ん中から引き裂いたくせに。風呂から上がってバスタオル一枚でうろうろするのは、恋人を誘惑するためじゃなくて──そうしてもトムは怒りはしないけれども──「風邪ひくよ!」と髪の毛を拭かれたいからだってことを、クレイはちゃんと知っているのに。
 甘えたがりの構われたがり。わざと悪戯して大人の気を引いてみる幼児のように、トムは、クレイが彼をちゃんと見ているか、気にかけているか、をそんな態度でいつも確認している。その行動ばかりに目を向ければ、大人になりきれてない温室育ちのお坊ちゃん(金があり、なおかつしつけをされないまま育った人間がどんなに見苦しい大人になるかをクレイは実例で知っている)でしかないけれども、彼の言動はすべて、抱えている不安の裏返しだ。
 トムはひどく孤独を嫌う。どんなに言葉で伝えても、どろどろになるまで抱き合っても、トムは常に、いつかクレイに置いていかれるんじゃないか、離れたが最後クレイは戻ってこないんじゃないか、という疑いを捨てきれずにいた。クレイに「そんなに僕って信用なさそう?」と冗談半分で訊いてみたことがある。そうじゃねえけど、とトムは自分でも不思議そうに首をかしげていた。クレイが、自分なりにトムの行動の原因を理解したのは、もっと後になってからのことだ。
 そうしたトムの不安定さは、時折発作のようにひどくなることがあって、そんなときは、モーテルの外にあるベンダーマシンでの買物にすら、クレイにぴったりくっついて離れようとしなかった。たまたま目撃した人間には人目もはばからずにいちゃついている、熱愛中のゲイカップルに見えただろう。トムの立場上、あまり人目を引くのは得策ではないけれど、「すぐそこまでだから」「戻ってくるから」と言い聞かせたって、絶対に納得してはくれないし、挙句、ここでクレイをぶん殴って気絶させたほうがいいか、隣から苦情がくるほど大声で泣いたほうがいいか、と真剣に考えているような顔をするので、それなら最初から一緒に行動したほうがまだしも穏便だ。
 けれど、そうして振り回されることをクレイ自身が楽しんでいたのは事実で、だからクレイがかまいたがるから合わせてやってるんだ、というトムの主張もあながち根拠のないものではなかったが。
 人生なんて後悔ばかりだ、とか、無くしてから初めて大切だったものに気づく、とか、そんな言葉はたぶん有史以来、砂漠の砂粒に近いほどの回数繰り返されていて、ことにそれは年長者から年少者へ贈られる言葉の定番のひとつで、だから言われたほうは「何を今さら、そんなわかりきったことを」と聞き流してしまう。そうして、実際に自分が大切なものを失って初めて、ありふれた言葉の持つ重みに愕然とするのだ。
 クレイがそうであったように。
 それでも、母は仕方がない、と思えた。ろくに看病もしなかった自分が言うことでもないが、一年近くも前から、一応覚悟はしておくように、病院での治療はいかに「その日」が来るのを遅れさせられるか、というただそのことに尽きるのだから、と言われていたからだ。母も自分のことはわかっていた。何だかんだ言ってもあんたたちはしっかりしてるから大丈夫ね、助け合って生きて行くのよ、と時々思い出したように言っていた。しんみりと、ではなく、ねえちょっとドーナツ買って来てよ、とでも言うような明るい調子だったのは、彼女なりに子供たちを不安にさせまいという心遣いだったのだろうけれど、ウィットニーはたいがい、後からこっそりと泣いていた。クレイの妹は心の優しい子で、同年代の女の子たちがボーイフレンドや磨いた爪のかたちや新発売のグロスの色や、そうした自分のことで頭を一杯にしているのに、家を出た兄の分も病床の母親を案じ、嫌がることなく懸命に付き添っていた。
 そんな娘にたまには休暇を、と彼氏や友達とのキャンプを薦めたのは母だ。ほんの二〜三日だけでも母親のことを忘れて羽根を伸ばせばいい、という思いやりからだった。なのに、予定が過ぎても帰って来ない彼らを心配していた家族にもたらされたのは、全員が行方不明、という信じられないような悲劇だった。若者五人の集団で、メンバーの中には普段の生活態度が少々奔放な者たちも混じっていたものだから、警察はさして真剣に取り合ってはくれなかった。捜査の責任者だった殺人課の刑事は悪い人間ではなく、残された家族に同情的ではあったけれど、心の中ではよくある事件だと思っているのがありありと読み取れた。
 警察官たちの想像するような、家出だの駆け落ちだの、そんなことはありえないとクレイと母親は知っていて、家族である彼らには太陽が毎日東から昇るのと同じくらい明らかな事実であるのに、それを第三者に納得させることはひどく難しいことだった。
 何故わからないんだ、とクレイは苛つき、母親は私がキャンプなんか薦めたから、と自分自身を責め続けた。おそらくその精神的な負担のせいだろう、彼女急速に体調を崩してあっけなくこの世を去った。最後までウィットニーが帰って来るのを待ち続けていたが、葬儀にさえ妹は戻ってこなかった。
 ありえない。仮に一万歩ほどゆずって、彼女が突然にこれまでの生活を捨てたくなるような衝動を感じたのだとしても、最後の別れにすら姿を見せないなんてことは、絶対にない。クレイばかりでなく、ウィットニーを知る人たちはみんなそう言った。
 だから、探しに行った。行ったのに。
 悪夢のような一夜、いったい何人の人間が死んだ。クレイが知るだけでも九人。九人目がウィットニーだった。確かに殺したはずの『ジェイソン』に水中に連れ去られた。五年経つ今も彼女は見つかっていない。ジェイソンもだ。
 事件の後、警察とFBIの徹底的な捜査が行われ、彼の棲処から、驚くほど大量の遺品が見つかった。一体何人の人間が彼の犠牲になっていたのか、正確な人数は未だわからないままだ。中には死後二十年近く経っていると見られる骨も見つかって、それは、まだ当時は少年だったはずのジェイソンの犯罪の証拠なのか、どこかから盗んで来たものなのか、もし前者なら、ここにいた男はいつから殺人を始めたことになるのか、と犯罪に慣れたFBIの捜査官さえ戦慄させた。
 クレイが会ったあの老女のように、古い住人の中には、薄々事件を察していたものもいるようだった。むろん、警察の取調べでそんなことを言うはずもない。彼女も、署で尋問されたときには、それはクレイの聞き間違いで、自分は事件のことなど何も知らなかった、と頑固に言い張ったらしい。
 そもそも、彼は彼の母親に関連した事件で、二十年前、当時の警察の人間が行方を捜していたのだ、と聞いてクレイは驚いた。彼の母もまた大量殺人犯であり、同時に殺人事件の被害者でもあった。殺そうと追い詰めた相手に逆襲され、殺されたのだと言う。警察は、その事件の目撃者であり遺族でもある少年ジェイソンを保護しようとしたが、結局は見つからなかったのだそうだ。母親が殺されたショックで一時的に錯乱し、湖にでも落ちたのではないか、というのが彼を探していた警察官たちの意見だったらしい。
 けれど彼は死んでいなかった。とある職業に従事する技術者がひたすらに自分の技量を磨き、その仕事に熟達していくように、彼は殺人という行為に必要な技術を身につけ、次々と人を襲っていた。
 クリスタル・レイクに棲んでいたのは、あれは本当に人間だったのだろうか、とクレイは半ば本気で考えている。彼はひとの形をした妄執そのものだ。クレイは、超常現象の類を信じたことはないが、あれは人間の限界を越えているとしか思えない。
 だって、確かに殺したはずだ。自分とウィットニーの二人で。
 不気味なマスクを外して、おそるおそる瞳孔まで確認した。死体はロープでしばって水中に投棄した。その行為について、捜査官からもマスコミからもカウンセラーからも、正当防衛なのに、何故そのとき警察に知らせなかったのか、と訊かれた。
「……怖かったから」
 そうだ、怖かった。警察が来る前にジェイソンがまた起き上がって来そうな気がして、とても到着を待つことなどできなかった。一晩中、人間の血肉にまみれて逃げ惑えば、まともな判断などできるはずもない。彼に六週間も監禁されていたウィットニーの恐怖はなおさらで、だから手っ取り早く湖に捨てることにしたのだ。
 今は後悔している。警察を待たなかったことではなく、あんな方法でジェイソンを処理しようとしたことを。あの機械に通し細かく砕くか、火をつけて骨まで焼いておくべきだった。
 クレイのそうした訴えは、事件で受けたショックがあまりに大きいからだろう、と聞き流された。彼の妹が、死んだはずのジェイソンに水中に引きずり込まれた、という話と同様に。実際にウィットニーがいなくなっているという事実は、立て続けの殺人を目撃したクレイが記憶を混乱させたか、元々ジェイソンは気絶していたか仮死状態だったのだろう、ということになっている。
 もうそれでいい、とクレイは思った。ジェイソンが人間なのか 不死者 ノスフェラトゥ なのか判明したところで、ウィットニーが戻ってくるわけではない。離れて暮らしてはいても、二人きりの兄妹だった。家族の間では、物理的な距離はあまり意味を持たない。少なくともクレイはそう思っていた。会いに来て、と言う妹の電話を断ったのも、その気になればいつでも会えると思っていたからだ。まさかこんなかたちで別離が訪れるとは思わなかった。もう少しで助け出してやれたのに、どうしてこんなことに。
 クリスタル・レイクの事件の後(マスコミは「13日の金曜日の恐怖!」と好き勝手に書きたてた)、クレイが考えるのはそのことばかりだった。
 事件が公表されると、唯一の生存者であり証人であるクレイは、大騒動の中に巻き込まれた。この国には、凶悪な連続殺人犯も大量殺人犯も珍しくはなかったが、そんなアメリカ犯罪史においてすら、この事件は未曾有のニュースだった。
 記者やテレビクルーの呆れるしかないほどの無節操な取材ぶりや、識者と称する人々のもったいぶったコメント、現実世界・仮想世界を問わず、無数にいるかと思われるほどの野次馬の好き勝手な意見に心底うんざりし、それと同時に、まだひとの間に残っている善良なる思いやりに触れもした。
 被害者の遺族が話を聞かせて欲しい、と言ってきたこともある。あいにくとクレイはジェンナ以外のメンバーについては詳しい話をすることができなかった。ロレンスの姉は、弟が友達を救おうとしてジェイソンに殺された、という話に涙ぐんでいた。軽率なところもあったが、友達思いだったのだ、と弟の思い出話を問わず語りに話して聞かせた。彼を助けられなかったことを詫びるクレイに、その状況では無理もない、それはあなたの責任ではないから気にしないように、と逆に慰めを口にした。
 ジェンナの両親は、明確に口にはしないながらも、クレイが妹を優先するあまり、自分たちの娘を見捨てたのではないか、と疑っているようだった。あの状態ではどちらにせよジェイソンの手を逃れられはしなかったろうが、そんな仮定はすこしも救いにはならない。妹を探す自分に彼女だけが親切にしてくれた、と言うクレイの言葉にうなずきながらも、最後まで納得しかねる、という表情を浮かべていた。真摯にクレイの話を聞いてくれた、思いやり深いジェンナの顔を思い出して少しばかり寂しい気持ちになったが、仕方のないことだと諦めた。
 一番騒いだのは、案の定、というか、トレントの父親だった。彼はクレイがジェイソンをあの別荘までおびき寄せた、そのせいで自分の息子は死ぬ羽目になった、とまくしたてた。クレイたちがジェイソンの棲処付近に辿りつくより前に、トレントの友人が二人、湖で殺されている、という事実は彼の目には入らなかったようだ。そもそもジェイソンという人間は本当に存在するのか、全部クレイの仕業ではないのか、とまで言い出して警察関係者やクレイの弁護士を呆れさせた。知り合いの議員を通して警察に口出ししたり、被害者遺族の中でも自分だけは格が違う、と言いたげなトレントの父親は、警察や遺族の間でも評判は悪かった。
 おかしかったのが、ブリーのビデオの中にトレントと彼女のセックスシーンが録画されていたことについて、二人の父親がケンカしたことだ。こんなポルノまがいの映像を撮ろうと言い出したのはどっちだ、ということで責任の押し付け合いをしたらしい。元々、パニックになったトレントがブリーの遺体に銃弾を撃ち込んだことが判明して以来、二人の仲は険悪だったせいもある。どっちが言い出したにせよ、合意の上の行為なのは間違いないのに、つまらないことで意地になるものだ。この一件は週刊誌にすっぱぬかれ、しばらくネット上で「ブリーとトレント」というタイトルのポルノ動画が噂になった。もっとも、遺族がその画像を公開するとは思えないから、間違いなく偽物だろうけれど。
 この事件がことさらにニュースバリューを持っていたのは、容疑者のジェイソン・ボーヒーズが未だ逮捕されていないせいだった。報道の後、クリスタル・レイクの近辺はパニックに陥った。被害者の一人が警察官だったこともあり、プライドにかけて徹底的に捜索がなされたが、ジェイソンは自由の身のままだ。
 トレントの父親をはじめ、資産に余裕のある家では、警察とは別に、重要な情報に対して懸賞金をかけることにしたらしい。集まってくるものは玉石混交──どころか玉は一つも混じってないような状態だったが、わらをもすがりたい状況では、何がしかの情報が手に入るというだけで羨ましいことだ。ことにウィットニーのように被害者が行方不明のままの家族ならなおさらだ。
 クレイが二つの新聞社のインタビューを受け、大手出版社の依頼で事件での体験を綴った本を出したのは、だから、有り体に言えば金のためだった。ひとの目に立つようなことをしたくはなかったが、他に思いつく収入の道がなかったからだ。ウィットニーが行方不明になったと母親から連絡が来たとき、それまでの仕事は辞めてしまったし、むろん実家は資産家でもなんでもない。早くに亡くなった父親が残してくれたのは家建物だけだったが、それも母親の治療費のために抵当に入っていた。クリスタル・レイク事件の後、そこは物見高い人間にとって名所のようになってしまって、どちらにせよ住み続けることはできないから売却し、借金を返した。手元に残ったのはすこしばかりの現金だけで、わかってはいたがこの国の医療費の高さにため息が出た。
 それと同時に、一部の人間の間で流行っている、ジェイソンに監禁されていたウィットニーを「殺人犯をたらしこんだヴァンプ」と言う風説を正したいという理由もあった。
 狂気の一夜を生き延びた人間の手記としては、クレイの文章は理路整然としてわかりやすく、感情的でもなかった。ところどころにはさまれる子供時代の妹や、闘病中の母親の様子も、格別に感動を強制するものではなく、だからこそかえって読む者は彼の孤独が身に染みた。
 話題の事件の最渦中の人間による事件録は、興味本位の者も含め、人々の関心を引くには充分で、クレイが希望していた金額──トレントの父親が提示したのと同じだけの懸賞金──の何倍もの収入を彼にもたらした。それはそれで、彼を拝金主義だと非難する原因にもなったが、クレイは自分自身について何を言われようとも、気にもならなかった。そんなことはどうでもいい。本音を言えば、ジェイソンが捕まろうがどうしようがさえ関係なかった。ウィットニーが返って来ないなら犯人が逮捕されたところで嬉しくもない。けれど、懸賞額の大きさに関わらず有益な情報は何もないまま、いつの間にか五年の歳月が経とうとしていた。
   
2012.4.13